409年にローマ帝国がブリタニアを放棄した後、現在のデンマーク、北部ドイツ周辺より、グレートブリテン島に渡ってきたゲルマン人は、先住のケルト系ブリトン人を支配し、ケルト文化を駆逐した。また、彼らの言葉が英語の基礎となった。彼らは、イングランドの各地に小王国を築いていったが、7世紀ごろには、7つの王国(七王国)にまとまっていった。9世紀初め、エグバートの時代にサクソン人のウェセックス王国が強大となり、イングランド全域を支配した。それ以降、一時期デーン人の支配を許したが、1066年にノルマンディー公ギヨームの率いるノルマン人(ノルマン朝)の侵攻を受けるまで、サクソン人がイングランドを支配していた。アングロ・サクソンとは、「アングリアのサクソン人」という意味。アングリア(イングランド)は、元々は「アングル人の国」という意味であったが、カトリック教会がこの地域を表す言葉として使用したため、後にサクソン人もこれを自称するようになり、地域名として定着した。現代のアングロサクソン諸国は、イギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドである。しばしばアイルランドも含まれることがある(ただし、アイルランドの国民の大半はケルト民族系)。これらの国々では現代においても、政治、経済、社会において、アングロ・サクソンとして以下の5つの共通点が見られる。
. . . 本文を読む
大化改新の立役者は、その後皇位についた「孝徳帝」といわれる。日本書紀では中大兄皇子(なかのおおえおうじ)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)ということになっているが、最近の歴史学では、皇極天皇の弟の孝徳天皇が首謀者との見方が強い。大化改新は最近では「乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)」と言われる。蘇我馬子や孫の入鹿は律令制度の導入に生涯をささげてきた。最後の仕上げが「公地公民制」の導入だった。これは豪族たちの領土が朝廷に取上げられるということでもある。時の天皇は女帝の皇極天皇であり、実際の政治は蘇我入鹿がおこなっていた。豪族たちから見れば「蘇我氏に領土を奪われる」と思った。日本書紀では聖徳太子が隋にならって律令制度の導入を考えていたと記述されているが、当時の執政者である蘇我馬子による発案と考えるのが自然だ。実際の発案者は馬子のブレインであった高句麗出身僧の「慧慈」と考えられる。慧慈は推古天皇3年(595年)に渡来し、推古天皇23年(615年)に高句麗へ帰国した。その結果、孝徳帝を首謀者として大化改新というクーデターがおき、蘇我宗家は滅びた。 . . . 本文を読む
なぜ極東のたった1つの神社を巡り、諸外国も巻き込んでこれほどの騒動が起きるのか。報道では日本と中国・韓国との間に横たわる歴史認識問題や、東アジア情勢の安定を求める米国の懸念などが、その要因としてクローズアップされている。靖国神社とはどんな神社なのか。首相がそれを参拝することは、何故ダメなのか。その歴史は明治時代に遡る。同神社はもともと「東京招魂社」という名称で、1869年(明治2年)に明治天皇の命により創設された。10年後の1879年(明治12年)に靖国神社と改称された。当初は戊辰戦争による戦死者を合祀することなどから始まり、明治維新の志士をはじめ、米国東インド艦隊司令官・ペリーが来航した1853年(嘉永6年)以降の国内戦乱に殉じた人たちを、合わせて祀る場所として機能した。没者は「英霊」と称され、その数は246万6000余柱に上る。
. . . 本文を読む
唐が滅亡してからの約50年間の分裂時代、五代十国時代。華北、黄河流域には開封を首都として5つの王朝が交代、後梁(こうりょう)、後唐(こうとう)、後晋(こうしん)、後漢(こうかん)、後周(こうしゅう)の5つ。それ以外の地域に合計10ほどの独立政権が成立、この時代のほとんどの政権は節度使の自立したものだ。各政権の皇帝や王はみな軍人出身。均田制が崩壊したあとの社会の仕組みに釣り合う政治の仕組みが作り出される過渡期だった。新しい時代の担い手は新興地主層、形勢戸(けいせいこ)といわれる。後漢以来の豪族は南北朝から隋唐まで続き、貴族階級になってゆくが、形勢戸は同じ家がずっと地主として続かなかった。自作農から地主に成長する家もあれば、没落する家もあって同じ家が存続しない。故に形勢戸は貴族階級にはならない。形勢戸とは「成り上がり」という意味だ。また、形勢戸の大土地所有は一円的所有ではない。一円的というのは一つの地域を丸ごと持っていることをいう。豪族は一円的土地所有だから、そこで働く農民は豪族に隷属する。豪族は貴族化していったが、形勢戸はたくさんの土地を持っていても各地に分散していた。各土地は小さい。小作農の立場からすると、何人もの形勢戸から土地を借りていた。一人の形勢戸に隷属する関係にはならない。形勢戸は身分的にも貴族化しなかった。黄巣の乱で南北朝以来の貴族階級が全滅させられて以降、ずっと中国では貴族階級は登場していない。人民は全て同じ身分だった。日本で貴族が無くなったのが第二次世界大戦後、20世紀の出来事だった。中国では10世紀には貴族が消滅している。 . . . 本文を読む
中国は共産党一党独裁、他党の存在は許されていない。国会にあたる全人代(全国人民代表大会)の代表も国民選挙で選ばれていない。国民が代表を直接選挙するのではない。一般国民が直接選挙できるのは県級以下の人民代表のみだ。武力で勝ち取った共産党政権の継続である。中国の長い歴史を見ると、権力者が常に反乱を抑えるのに苦心してきている。今の中国首脳も、反乱をいかに押さえるかで悩んでいる。また、官僚の汚職が今も無くならず続いている。これに対する反乱でもある。そこで、再び中国の歴史を振り返ってみることにした。 . . . 本文を読む