murota 雑記ブログ

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「乙巳の変」(いっしのへん)の裏側に迫る。

2012年05月22日 | 歴史メモ
「大化の改新」は単に「蘇我氏(そがし)」を滅ぼしただけの事件ではなく、蘇我氏滅亡後の政治改革を含めた全体を指す。蘇我氏を滅ぼしたという事件だけなら、「乙巳の変(いっしのへん)」といわれる事件になる。
 飛鳥地方(奈良県)に疫病が流行、有力な豪族であった「物部守屋(もののべのもりや)」は「疫病の原因は『蘇我馬子(そがのうまこ)』が仏教を崇拝したがために日本の神がお怒りになったからだ」と言って豪族の「中臣氏(なかとみし)」と共に仏教を排斥し、仏教を信仰している蘇我氏との対立を深める。587年、物部守屋は蘇我馬子に殺され、物部氏は滅び、政治の権力は蘇我氏に集中する。蘇我氏の勢力は大王をも凌ぐほどに成長する。622年、推古天皇の摂政であり皇太子でもあった聖徳太子が49歳の若さで亡くなる。

 628年、権力者「蘇我馬子」の後押しで初の女帝となった推古天皇は次の皇太子を決めぬまま亡くなる。次の天皇がまだ決まらないという緊急事態になる。推古天皇は事前に候補者を2人に絞っていた。1人は聖徳太子の息子「山背大兄王(やましろのおおえのおう)」、もう1人は敏達天皇(びたつてんのう)の孫「田村皇子(たむらのおうじ)」。
  山背大兄王には蘇我馬子の弟「蘇我摩理勢(そがのまりせ)」が、田村皇子には蘇我馬子の息子「蘇我蝦夷(そがのえみし・『蘇我毛人』とも書く)」が後押ししており、周りの人達も意見が真二つに分かれていた。先手を打って、蘇我蝦夷は、叔父である蘇我摩理勢を攻撃し殺害する(628年)。
 629年、田村皇子が「舒明天皇(じょめいてんのう)」として即位。舒明天皇は蘇我氏の血縁者ではないので、蘇我蝦夷は蘇我氏の血を引く「宝皇女(たからのみこ)」を皇后に迎え入れる。 641年の舒明天皇の死後、次こそは自分が天皇になる番だと思っていた山背大兄王に対し、蘇我氏(蘇我蝦夷の息子『蘇我入鹿(そがのいるか)』)の邪魔が入る。舒明天皇の次の天皇には皇后である「宝皇女」が選ばれ、「皇極天皇(こうぎょくてんのう)」として即位する。(皇極天皇と蘇我入鹿は恋人同士だったとの説もある)
 これにより「蘇我入鹿」と「山背大兄王」との溝はさらに深まる。先手を打ったのは「蘇我入鹿」だった。 643年、蘇我入鹿の軍は山背大兄王の邸宅を急襲し、山背大兄王を始めとする一族を皆殺しにする。皇極天皇の皇太子に「古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ・中大兄皇子の兄)」を考えていた蘇我入鹿にとって山背大兄王が邪魔だった。

山背大兄王の殺害事件をきっかけに、かねてより蘇我氏打倒と天皇中心の政治の確立に燃える一人の青年が現れる。「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」である。中臣鎌足は理想とする国家を目指すため、蘇我氏打倒に向けてその中心となるべき皇族を探す。飛鳥の法興寺(飛鳥寺)で行われた蹴鞠の会で脱げた革靴を中臣鎌足が拾ったことがきっかけで「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」と知り合いになったといわれる。2人の仲は急速に接近、共に蘇我氏打倒に向けて手を結ぶ。更に蘇我氏打倒には蘇我氏側の人間の協力も必要だとして、蘇我入鹿の従兄弟にあたる「蘇我石川麻呂(そがのいしかわのまろ)」を仲間に入れる。

「中大兄皇子」は日本史ではかなりの有名人だ。彼の名前は、本当の名前ではない。「中大兄皇子」の本名は「葛城皇子(かずらきのみこ)」。「中大兄皇子」は人の名前ではなく、天皇の長男と末男(一番下の息子)以外の息子達を指す言葉だ。それが「葛城皇子」自身を指す言葉になっていった。蘇我入鹿を暗殺する準備はできた。決行は皇極4 年6月12日、朝鮮半島にある3つの国、三韓(新羅・高句麗・百済)の使者が天皇に謁見する行事が行われる日、宮中では三韓の使者達を歓迎するために芸人達が華やかに芸を披露して皆を楽しませている。そこへ蘇我入鹿がやって来る。入鹿は、これらの芸人達に持っていた剣を取られてしまうが、彼は笑って剣を渡し、丸腰のまま席につき、式の始まりを待つ。これは中大兄皇子らが芸人達に指示しておいた作戦。三韓からやって来たという使者達も全て中大兄皇子らの手先にすり替えられており、しかも三韓の使者に代わって上表文(天皇に読み上げる文)を読み上げるのは蘇我石川麻呂。そして蘇我石川麻呂が上表文を読み上げている時に、蘇我入鹿に斬りかかるという作戦だ。 ところが蘇我石川麻呂が上表文を読み上げているのに、斬りかかる役の人達は蘇我入鹿の威勢に恐れをなして行動しない。そこで中大兄皇子は自ら飛び出して蘇我入鹿を斬りつける。蘇我入鹿は皇極天皇のもとに転げながら助けを求める。皇極天皇は中大兄皇子に理由を問いただす。「この者は天皇をないがしろにし、皇子たちを次々と殺そうとしております。天皇家よりもこの者のほうが大事なのですか。」と厳しい返事を返す。皇極天皇はその場を無言で立ち去り、見放された蘇我入鹿はその場で殺される。中大兄皇子らは法興寺(飛鳥寺)にたてこもり、蘇我入鹿の父である蘇我蝦夷の反撃に備える。皇族や豪族の多くは中大兄皇子らに味方する。孤立してしまった蘇我蝦夷は覚悟を決め、翌日(13日)自宅に火を放って自殺する。かくして長年にわたり権力の頂点に居続けた蘇我氏の本家は滅亡する。蘇我蝦夷が焼身自殺した翌日の14日、皇極天皇は中大兄皇子に天皇の位を譲ろうとするが、中大兄皇子(後の天智天皇)はこれを断り、代わりに皇極天皇の弟「軽皇子」を推薦し、軽皇子は「孝徳天皇(こうとくてんのう)」として即位、皇太子には中大兄皇子(後の天智天皇)が選ばれる。中臣鎌足は「内臣(うちつおみ)」になる。(内臣という役職名は後にも先にもこの人にしか与えられてない)蘇我石川麻呂は「右大臣」に任命される。 天皇中心の国家建設に向けた改革がこのメンバーで進められてゆく。
このメンバーの内、蘇我石川麻呂は邪魔者として自殺に追い込まれ(649年)、代わって中大兄皇子の弟「大海人皇子」(後の天武天皇)が加わる。中臣鎌足の死後(669年)このバランスが崩れ「壬申の乱」(672年)へと進む。
(「壬申の乱」の経過)
 「大化の改新」から20年以上の間、権力の座にあった天智天皇は病に倒れ、後継の有力候補は2人いた。天智天皇の弟「大海人皇子(おおあまのおうじ)」と天智天皇の息子「大友皇子(おおとものおうじ)」である。既に大海人皇子は皇太子の地位にあった。しかし、息子の大友皇子が成長してくると大友皇子が天智天皇の後継者になるのではと噂されていた。彼と共に新政府を動かしてきた天智天皇からの信頼が厚い「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」は大海人皇子こそが天智天皇の後継者であると思ってきた。  
しかし、中臣鎌足も669年に亡くなり、(中臣鎌足は死ぬ間際に天智天皇から『藤原』の姓をもらい『藤原鎌足』と名前が変わる。平安時代に栄えた『藤原氏』はここから始まる。) 大海人皇子の悪い予感が的中する。大友皇子が「太政大臣(だじょうだいじん)」に任命される。(当時、太政大臣は皇太子が任命されていた。)「やはり天皇は息子の大友皇子を次の天皇にするつもりだ。」と誰もが思う。そんな時、大海人皇子は病気の天智天皇から「天皇の位をお前に譲りたいので自分の部屋に来て欲しい。」との伝言を受ける。天智天皇のやりかたは分かっていた。殺される時がきたと大海人皇子は考える。天智天皇は自分の邪魔になる人間は誰であろうとことごとく抹殺する人で、実際に天智天皇の兄・義理の父親・おじさんや甥っ子も殺されている。そこで大海人皇子は「いや、次の天皇には大友皇子をお願いします。私は天皇のご病気の回復を祈るため、僧となります。」といって吉野(奈良県の山奥)に向かう。大海人皇子を慕う大勢の部下や豪族達も彼について行く。大海人皇子について来た者の中には、天智天皇の極秘の命令を受けて自分を暗殺するかも知れない人間も含まれていると考えた大海人皇子は「私にはもう野心がないから、このまま私について来れば地位も名誉も無くなってしまうぞ。」と言って絶対に信頼できる者だけを残し、その他大勢を当時の都であった「近江大津宮(おうみのおおつのみや・現在の滋賀県大津市)」に帰す。間もなく天智天皇は亡くなる。(671年)
息子である大友皇子(即位して『弘文天皇(こうぶんてんのう)』となったと伝えられてはいる)は父の墓を作るという目的で多くの者を集めるが、その者たちに武器を持たせて大海人皇子との決戦の準備を始める。大海人皇子は先手を打って東国へ行き、地方の豪族などに協力を求め、関ヶ原(岐阜県)で合流し、ここに陣を張って大友皇子を迎え撃つ作戦にでる。大友皇子の方も都の有力な豪族達の力を借り、関ヶ原へと進軍する。大海人皇子が先に手を出 してしまうと下手すれば天皇に逆らう『逆賊』とされてしまう。『逆賊』と思われれば、戦いに勝っても誰も大海人皇子について来なくなる。相手から先に仕掛けてくれれば正当防衛になり、戦いに勝てば大海人皇子が天皇となれる。大友皇子・大海人皇子の双方の兵力は約3万人ずつだった。(当時の日本の人口は約600万人と推定されているので、かなりの人数だ。)
大海人皇子が優勢になり、戦場は西へ移動する。最終的に瀬田川(滋賀県)での戦いで大友皇子の軍を壊滅させる。この戦いに負けた大友皇子はわずか数人の部下と共に自殺する。勝った方の大海人皇子は都を大津から「飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや・奈良県)」に移し、「天武天皇(てんむてんのう)」として即位(673年)。 この戦いで有力な豪族の勢力が弱まり、天皇中心の中央主権国家の基礎が出来上がる。


 参考(日本の国名について)

 日本という国名は、蘇我馬子と聖徳太子によって提案された国名なのか。それとも、4世紀に今の大阪から奈良あたりにあった純粋に倭人の国であった「ひのもと国」から取って「日本」と命名したのか。今の大阪あたりは、4世紀ごろは、クサカ(草香)と呼ばれた。ひのもと(日下)の国であるから、他の草香と区別するため、「日下(ひのもと)の草香(くさか)」と呼ばれた。現在でも「日下」と書いて「くさか」と読むが。
 蘇我馬子と聖徳太子は、日本独立のため、国記や帝記をつくり、隋にまで使節を送った。彼らは、第2回目の使節に持たせた国書の中で「日出るところの天子、日没するところの天子に申す。恙無きや」と書いている。また、第3回目以降の国書では、「東の皇帝、西の皇帝に申す」と。つまり、日本の国王を「天子」や「皇帝」と呼んだ。中国の最高権力者は、神に対しては自分のことを「天子」といい、国民に対しては「皇帝」といい、外国に対しても自分のことを「皇帝」と称した。日本では、聖徳太子から100年後に作られた延喜式の中で、日本の最高権力者は神に対しては「天子」、国民に対しては「天皇」といい、外国に対しては「皇帝」と称するとしている。

 任那日本府(6世紀まで朝鮮にあった倭人の出先機関)や日本書紀(720年完成)で、それぞれ「日本」という言葉が使われている。しかし、国名を決めた経緯はどこにもない。中国では、王朝ができると必ず国名を変える習慣がある。鮮卑系民族が作った北魏、北周、隋、唐といった一連の国は、民族は同じであるが王朝が違うので国名が違う。この国を「日本」と命名しておきながら、制定した人と制定した時期を伏せた。この考えは、日本特有のものではない。当時、中国では唐が王朝の基盤を築きつつあったが、唐の初代皇帝(李世民)は、自分の兄・弟を殺し、父を幽閉して皇帝までにのし上がったが、皇帝になってから、王朝は(自分は)鮮卑人でありながら、漢風の文化や制度を取り入れ、自分の出自やこれまでの行いを美化するのに懸命になっている。

 日本の歴史教育では、隋を今の中国を代表する超大国であるかのように教えているが、当時の隋は、周辺に多くの国が残っていて、必ずしも超大国ではなかった。実際、高句麗との戦いでも3回戦って、3回とも隋は破れた。聖徳太子はこうした隋の脆弱さを知っていたと思われる。簡単に滅びるとも思っていなかった。蘇我馬子が、ここまで独立国として取り決めていながら、国名を決めないとは考えられない。蘇我馬子や聖徳太子が作った帝記や国記は現存していないが、日本の国名、どのような経緯で決めたかが書かれていたはずだ。なぜ帝記や国記は現存しないのか。日本書紀によると、帝記や国記は、蘇我馬子の後継者、蘇我蝦夷が自害した時、家と一緒に焼失したとなっている。帝記や国記なら、天皇家にも保存してあったはずだ。現に、聖徳太子が書いたとされている経典は3点ばかり残っている。法隆寺には、聖徳太子が書いたといわれる書類が残っている。古くからの言い伝えで文箱に入っていて開けてはいけないといわれてきた。これを、レントゲンで透視したところ、中には手紙のようなものが入っていることが判った。聖徳太子関連の書類や経典は残っているのに、国家的事業で作成した帝記や国記が現存しないというのも不思議だ。故意に破棄したと考えられる。帝記や国記の内容が、後に作られた古事記や日本書紀の内容と大きく違うためだろう。

 特に日本書紀は天武天皇によって発案されたが、その内容については、天武天皇の皇后であった持統天皇の意思が強く働いているといわれる。日本書紀は持統天皇の都合のよいように作られた。古事記は太安万侶、日本書紀は舎人親王によって作られたとされるが、天武天皇や持統天皇の下で、これらの構想を練り、指揮したのは藤原鎌足の子、藤原不比等である。帝記や国記の破棄を命じたのは持統天皇、実際に破棄した人は藤原不比等かもしれない。太安万侶は、古事記の上巻を変更しただけで実際に執筆したのは柿本人麻呂ともいわれる。現存する資料で、「日本」という国名は、702年に遣唐使が帰国するときに呼んだ和歌の中に「うるわし日本(ヤマト)の国」という言葉で、万葉集の中に出てくる。698年に遣唐使が、唐に行ったときには「倭国」と呼んでいるので、この時は「日本」という言葉は無かった。この間に「日本」という呼び名が正式に決められた。

 日本の歴史学者は、従来から「日本」と書いて「ヤマト」と読ませたり、「倭国」と書いても「ヤマト」と読ませてきた。つまり、これまでの歴史研究では、「日本」という呼び名の重要性については無視されてきた。「日本」という呼び名を決めたのは、独立国としたかったからであり、中国に対しては、天武王朝が、聖徳太子以来続いている王朝であると主張したかったのである。昔の「ひのもと」の国が中国に朝貢していたなら、ひのもとの国(4世紀)から続いている王朝であるとしたかったのだ。だから、天武王朝のときに倭国を「日本(ニホン)」と呼ぶように決めたと考えられる。


2 コメント

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国名の由来、そうなの? (T.K)
2012-05-22 14:47:20
学校で学ぶ歴史ではない話だね。だけど興味深いものがある。世界の歴史の中でも、日本の古代は、はっきりしない。天武天皇が、それまでの歴史で、都合の悪いものを全て破棄し、天武朝から正式に正統な歴史を「日本書紀」として作らせた。しかし、歴史学会では信頼されていない歴史書になっている。正確な記録が残されていないのが残念だ。
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乙巳の変は残虐な事件だね。 (M.H)
2012-05-26 09:20:15
「大化の改新」というと、かっこ良いが、中身は残虐な乙巳の変から始まっている。日本の古代歴史も恐ろしいね。だが、これが真相なんだ。
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