409年にローマ帝国がブリタニアを放棄した後、現在のデンマーク、北部ドイツ周辺より、グレートブリテン島に渡ってきたゲルマン人は、先住のケルト系ブリトン人を支配し、ケルト文化を駆逐した。また、彼らの言葉が英語の基礎となった。彼らは、イングランドの各地に小王国を築いていったが、7世紀ごろには、7つの王国(七王国)にまとまっていった。9世紀初め、エグバートの時代にサクソン人のウェセックス王国が強大となり、イングランド全域を支配した。それ以降、一時期デーン人の支配を許したが、1066年にノルマンディー公ギヨームの率いるノルマン人(ノルマン朝)の侵攻を受けるまで、サクソン人がイングランドを支配していた。アングロ・サクソンとは、「アングリアのサクソン人」という意味。アングリア(イングランド)は、元々は「アングル人の国」という意味であったが、カトリック教会がこの地域を表す言葉として使用したため、後にサクソン人もこれを自称するようになり、地域名として定着した。現代のアングロサクソン諸国は、イギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドである。しばしばアイルランドも含まれることがある(ただし、アイルランドの国民の大半はケルト民族系)。これらの国々では現代においても、政治、経済、社会において、アングロ・サクソンとして以下の5つの共通点が見られる。
1、コモン・ロー(common law)。広義の英米法。イギリス領、またはイギリスの植民地であった歴史を持つ国々(アングロ・サクソン系諸国)において主に採用されている法体系。現代においては、一般に大陸法との対概念として用いられ、ローマ法などとの区別にも用いられる。コモン・ローは、不文法を広く含む概念。不文法は、幾多の判決(判例)が積み上げた合意を基盤として成り立っている。
2、政党の考え方。政党制を一党制、二党制、多党制に三分し、その中で二党制を称揚。デュヴェルジェは、政治対立は必ず二者の対立になるものであって、中間的な立場は不自然であるから、二党が対立することが良いと考えた。また、小選挙区制が二党制を生み、比例代表制が多党制を生むという「デュヴェルジェの法則」を提唱した。
3、哲学的な意味における民主主義制度。デモクラシー(democracy)の日本語訳で、君主に対応する概念(対概念)として「民衆」という概念を設け、人民ないしは国民が、支配の正統性および実際の政治権力の双方の意味を含む主権を有するものとして、為政者たる「民主」と、被治者たる人民が同じ(治者と被治者の自同性)であるとする政治的な原則や制度。哲人政治などの治者に何らかの条件を求めるものと違い、治者と被治者の自同性のため、失政による被治者への損害は確実に治者によって補償される。「民主主義」ならば、デモクラティズムdemocratismの訳語という意見もある。わが国においては、幕末、democracy(民主主義)とrepublic(共和制)の概念が混同され、どちらも「共和」と邦訳された。単純な多数決と混同されることが多いが、単純な多数決では、単に多数であることをもって、その結論が正当であるとの根拠とするものになるが、民主主義として把握する場合には、最終的には多数決によるとしても、その意思決定の前提として多様な意見を持つ者同士の互譲をも含む理性的対話が存在することをもって正当とする考え方。
4、市場ベース型資本主義。19世紀中ごろからイギリスで言葉が用いられ始め、経済学者のカール・マルクスは著書『資本論』の中で「生産手段が少数の資本家に集中し、一方で自分の労働力を売るしか生活手段がない多数の労働者が存在する生産様式」として「資本主義」と定義。資本主義といっても時代や国によって体制には差があるが、特徴として、私有財産制、私企業による生産、労働市場を通じた雇用、労働市場における競争を通じた需要と供給、取り引き価格の調整等になる。
5、自由主義型福祉国家。国家の機能を安全保障や治安維持などだけでなく、経済的格差の是正のための社会保障制度の整備や財政政策、雇用政策も推進して、福祉国家を目指すべきとする考え方。
現代世界の民主主義、その政治姿勢の底流には、アングロサクソンの文化も見える。
歴史を探ってみると、サクソン人(Saxon)はドイツ語ではザクセン人(Sachsen)とも呼ばれ、現在のイングランド人の民族形成の基盤を成し、ドイツのニーダーザクセン地方を形成する主体となったゲルマン系の部族であった。紀元前1世紀に記されたカエサルの「ガリア戦記」や1世紀に記されたタキトゥスの「ゲルマニア」には記録されていない。2世紀中頃に初めて記録に登場し、7世紀末には多くの小部族を吸収して大部族としての成長を遂げ、その間の4世紀後半から5世紀にかけてその一部がアングル人やジュート人とともにブリテン島に渡ってアングロサクソン人となった。
ゲルマン諸族のうち、サクソン人やフランク人、アレマン人、バイエルン人のように異なる小部族や異分子を多く吸収して成長したこうした新しい集団では、部族集団の形成期に共通の髪型や武装を共通の帰属概念の指標とした。サクソン人の場合には男性が前頭部を高く剃りあげた。部族名の語源になっている片刃の直刀サクスも、共通の帰属概念の指標として機能した共通武装と考えられる。母体となった小部族はホルシュタイン地方南西部に居住していたと考えられるが、大部族に成長したサクソン人はその西隣のエルベ川からエムス川にかけての北ドイツ一帯に広がってフランク王国の東側で勢力を誇った。
北ドイツの大部族のサクソン人、即ちザクセン人はブリテン島に移住した同族やフランク人のように王国は形成せず、エルベ川以北、ヴェーザー川流域、ヴェーザー川東方、西方の4つの支族の連合体をとっていた。しかし、6世紀後半以降、フランク族との戦いが激しくなると政治的な統合が進み、部族全体に関わる問題を決定する集会を開催するようになり、また部族公の成立もみられた。宗教面では、フランク人やゴート人と異なり、後にフランク王国に征服されるまでキリスト教を受容せず、伝統的な神々の祭祀を守り続けた。サクソン人社会は貴族、自由民、解放奴隷から構成されたが、他のゲルマン系諸族と異なり、貴族が他身分と通婚を禁じられており、封鎖身分を形成していたが、カール大帝が772年から802年にかけてザクセン人征服戦争を起こし、大量殺戮や強制移住によって反抗勢力を壊滅させ、キリスト教を受容させたという歴史もあった。
(ブリタニアとケルトの補足説明)
ブリタニア (Britannia) は、イギリスまたはグレートブリテン島の古称、特に、古代ローマ帝国の属州「ブリタンニア」があったグレートブリテン島南部のラテン語名でもある。フランスのブルターニュ(小ブリテン)を含むこともある。ブルターニュには4世紀から8世紀にグレートブリテン島から移民が訪れ、10~11世紀には、英仏海峡を挟んだ両地域がブリタニアと呼ばれた。ブリタニアがフランス語化された語がブルターニュ (Bretagne) だ。
ケルト人(ケルトじん、Celt、Kelt)は、中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族で、古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていた。「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」とも考えられる。ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォール、コーンウォールから移住したブルターニュのブルトン人などにその民族と言語が現存している。
ケルト人がいつブリテン諸島に渡来したかははっきりせず、通説では鉄製武器をもつケルト戦士集団によって征服されたとされるが、遺伝子などの研究から新石器時代の先住民が大陸ケルトの文化的影響によって変質したとする説もある。ローマ帝国に征服される以前のブリテン島には戦車に乗り、鉄製武器をもつケルト部族社会が展開していた。
西暦1世紀にイングランドとウェールズはローマ帝国の支配を受け、この地方のケルト人はローマ化するが、5世紀にゲルマン人がガリア(現在のフランス・ベルギー・スイスおよびオランダとドイツの一部)に侵入すると、ローマ帝国はブリタンニアの支配を放棄し、ローマ軍団を大陸に引き上げた。この間隙を突いてアングロ・サクソン人が海を渡ってイングランドに侵入し、アングロサクソンの支配の下でローマ文明は忘れ去られた。同じブリテン島でも西部のウェールズはアングロサクソンの征服が及ばず、ケルトの言語が残存した。スコットランドやアイルランドはもともとローマの支配すら受けなかった地域だ。
(参考メモ)
ブルターニュ(フランス語: Bretagne、ブルトン語: Breizh)は、フランス北西部の大西洋に大きく突き出した半島。北は英国海峡、南はビスケー湾に面する。同地域の4県を管轄するフランスの地域圏の名称でもある。ここは、ケルト系ブルトン人の言語、風俗が強く残存した地域。日本の近畿地方ほどの面積に茨城県と同程度の人口が集まっている。もともとはケルト系アルモリカ人の住地だったが、紀元前58年古代ローマのガイウス・ユリウス・カエサルによって征服され、ローマ領ガリアのアルモリカ地方となった。4,5世紀になってブリテン島やガリアにおけるローマ帝国の支配が大きく後退すると、ゲルマン系アングロ・サクソン人に襲われたブリテン島西南部からケルト人が海峡を越えて大量にこの半島に来住してきた。ブリテン島から来たケルト人をフランスではブルトン人と呼び、彼らが住む地域をブルターニュと呼ぶようになった。
中世初期には三王国が分立したが、やがてブルターニュ公国に統一された。ブルターニュ公国はフランク王国に形式上臣従したが、実質的には独立的な地域であり、フランス主要部とは異なり、ブルターニュではケルト系の風俗・風習が強く残存する。地理的にイングランドに近い(実際にイングランド王室であるアンジュー家が領有していた時期がある)ため、しばしばイングランド王の介入を招き、英仏百年戦争ではブルターニュ公国の支配権をめぐってブルターニュ継承戦争(1341年 - 1364年)が起こっている。
1、コモン・ロー(common law)。広義の英米法。イギリス領、またはイギリスの植民地であった歴史を持つ国々(アングロ・サクソン系諸国)において主に採用されている法体系。現代においては、一般に大陸法との対概念として用いられ、ローマ法などとの区別にも用いられる。コモン・ローは、不文法を広く含む概念。不文法は、幾多の判決(判例)が積み上げた合意を基盤として成り立っている。
2、政党の考え方。政党制を一党制、二党制、多党制に三分し、その中で二党制を称揚。デュヴェルジェは、政治対立は必ず二者の対立になるものであって、中間的な立場は不自然であるから、二党が対立することが良いと考えた。また、小選挙区制が二党制を生み、比例代表制が多党制を生むという「デュヴェルジェの法則」を提唱した。
3、哲学的な意味における民主主義制度。デモクラシー(democracy)の日本語訳で、君主に対応する概念(対概念)として「民衆」という概念を設け、人民ないしは国民が、支配の正統性および実際の政治権力の双方の意味を含む主権を有するものとして、為政者たる「民主」と、被治者たる人民が同じ(治者と被治者の自同性)であるとする政治的な原則や制度。哲人政治などの治者に何らかの条件を求めるものと違い、治者と被治者の自同性のため、失政による被治者への損害は確実に治者によって補償される。「民主主義」ならば、デモクラティズムdemocratismの訳語という意見もある。わが国においては、幕末、democracy(民主主義)とrepublic(共和制)の概念が混同され、どちらも「共和」と邦訳された。単純な多数決と混同されることが多いが、単純な多数決では、単に多数であることをもって、その結論が正当であるとの根拠とするものになるが、民主主義として把握する場合には、最終的には多数決によるとしても、その意思決定の前提として多様な意見を持つ者同士の互譲をも含む理性的対話が存在することをもって正当とする考え方。
4、市場ベース型資本主義。19世紀中ごろからイギリスで言葉が用いられ始め、経済学者のカール・マルクスは著書『資本論』の中で「生産手段が少数の資本家に集中し、一方で自分の労働力を売るしか生活手段がない多数の労働者が存在する生産様式」として「資本主義」と定義。資本主義といっても時代や国によって体制には差があるが、特徴として、私有財産制、私企業による生産、労働市場を通じた雇用、労働市場における競争を通じた需要と供給、取り引き価格の調整等になる。
5、自由主義型福祉国家。国家の機能を安全保障や治安維持などだけでなく、経済的格差の是正のための社会保障制度の整備や財政政策、雇用政策も推進して、福祉国家を目指すべきとする考え方。
現代世界の民主主義、その政治姿勢の底流には、アングロサクソンの文化も見える。
歴史を探ってみると、サクソン人(Saxon)はドイツ語ではザクセン人(Sachsen)とも呼ばれ、現在のイングランド人の民族形成の基盤を成し、ドイツのニーダーザクセン地方を形成する主体となったゲルマン系の部族であった。紀元前1世紀に記されたカエサルの「ガリア戦記」や1世紀に記されたタキトゥスの「ゲルマニア」には記録されていない。2世紀中頃に初めて記録に登場し、7世紀末には多くの小部族を吸収して大部族としての成長を遂げ、その間の4世紀後半から5世紀にかけてその一部がアングル人やジュート人とともにブリテン島に渡ってアングロサクソン人となった。
ゲルマン諸族のうち、サクソン人やフランク人、アレマン人、バイエルン人のように異なる小部族や異分子を多く吸収して成長したこうした新しい集団では、部族集団の形成期に共通の髪型や武装を共通の帰属概念の指標とした。サクソン人の場合には男性が前頭部を高く剃りあげた。部族名の語源になっている片刃の直刀サクスも、共通の帰属概念の指標として機能した共通武装と考えられる。母体となった小部族はホルシュタイン地方南西部に居住していたと考えられるが、大部族に成長したサクソン人はその西隣のエルベ川からエムス川にかけての北ドイツ一帯に広がってフランク王国の東側で勢力を誇った。
北ドイツの大部族のサクソン人、即ちザクセン人はブリテン島に移住した同族やフランク人のように王国は形成せず、エルベ川以北、ヴェーザー川流域、ヴェーザー川東方、西方の4つの支族の連合体をとっていた。しかし、6世紀後半以降、フランク族との戦いが激しくなると政治的な統合が進み、部族全体に関わる問題を決定する集会を開催するようになり、また部族公の成立もみられた。宗教面では、フランク人やゴート人と異なり、後にフランク王国に征服されるまでキリスト教を受容せず、伝統的な神々の祭祀を守り続けた。サクソン人社会は貴族、自由民、解放奴隷から構成されたが、他のゲルマン系諸族と異なり、貴族が他身分と通婚を禁じられており、封鎖身分を形成していたが、カール大帝が772年から802年にかけてザクセン人征服戦争を起こし、大量殺戮や強制移住によって反抗勢力を壊滅させ、キリスト教を受容させたという歴史もあった。
(ブリタニアとケルトの補足説明)
ブリタニア (Britannia) は、イギリスまたはグレートブリテン島の古称、特に、古代ローマ帝国の属州「ブリタンニア」があったグレートブリテン島南部のラテン語名でもある。フランスのブルターニュ(小ブリテン)を含むこともある。ブルターニュには4世紀から8世紀にグレートブリテン島から移民が訪れ、10~11世紀には、英仏海峡を挟んだ両地域がブリタニアと呼ばれた。ブリタニアがフランス語化された語がブルターニュ (Bretagne) だ。
ケルト人(ケルトじん、Celt、Kelt)は、中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族で、古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていた。「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」とも考えられる。ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォール、コーンウォールから移住したブルターニュのブルトン人などにその民族と言語が現存している。
ケルト人がいつブリテン諸島に渡来したかははっきりせず、通説では鉄製武器をもつケルト戦士集団によって征服されたとされるが、遺伝子などの研究から新石器時代の先住民が大陸ケルトの文化的影響によって変質したとする説もある。ローマ帝国に征服される以前のブリテン島には戦車に乗り、鉄製武器をもつケルト部族社会が展開していた。
西暦1世紀にイングランドとウェールズはローマ帝国の支配を受け、この地方のケルト人はローマ化するが、5世紀にゲルマン人がガリア(現在のフランス・ベルギー・スイスおよびオランダとドイツの一部)に侵入すると、ローマ帝国はブリタンニアの支配を放棄し、ローマ軍団を大陸に引き上げた。この間隙を突いてアングロ・サクソン人が海を渡ってイングランドに侵入し、アングロサクソンの支配の下でローマ文明は忘れ去られた。同じブリテン島でも西部のウェールズはアングロサクソンの征服が及ばず、ケルトの言語が残存した。スコットランドやアイルランドはもともとローマの支配すら受けなかった地域だ。
(参考メモ)
ブルターニュ(フランス語: Bretagne、ブルトン語: Breizh)は、フランス北西部の大西洋に大きく突き出した半島。北は英国海峡、南はビスケー湾に面する。同地域の4県を管轄するフランスの地域圏の名称でもある。ここは、ケルト系ブルトン人の言語、風俗が強く残存した地域。日本の近畿地方ほどの面積に茨城県と同程度の人口が集まっている。もともとはケルト系アルモリカ人の住地だったが、紀元前58年古代ローマのガイウス・ユリウス・カエサルによって征服され、ローマ領ガリアのアルモリカ地方となった。4,5世紀になってブリテン島やガリアにおけるローマ帝国の支配が大きく後退すると、ゲルマン系アングロ・サクソン人に襲われたブリテン島西南部からケルト人が海峡を越えて大量にこの半島に来住してきた。ブリテン島から来たケルト人をフランスではブルトン人と呼び、彼らが住む地域をブルターニュと呼ぶようになった。
中世初期には三王国が分立したが、やがてブルターニュ公国に統一された。ブルターニュ公国はフランク王国に形式上臣従したが、実質的には独立的な地域であり、フランス主要部とは異なり、ブルターニュではケルト系の風俗・風習が強く残存する。地理的にイングランドに近い(実際にイングランド王室であるアンジュー家が領有していた時期がある)ため、しばしばイングランド王の介入を招き、英仏百年戦争ではブルターニュ公国の支配権をめぐってブルターニュ継承戦争(1341年 - 1364年)が起こっている。