イタリアに魅せられ、ローマに在住してイタリアを舞台とした小説を書き続けている小説家、塩野七生さんのライフワークともいうべき大作が「ローマ人の物語」だ。ローマ帝国の誕生から滅亡までの千年間が書き綴られている。塩野さんは、「海の都の物語」『ルネサンスの女たち』『ロードス島攻防記』などの作品群で知られ、現代のイタリア史に関する第一人者として誰もが認めている作家でもある。事実の羅列である歴史書を読むより、生き生きと躍動感のある歴史小説を読む方が面白い。この『ローマ人の物語』も、そうした範疇に分類される文学の一つ。塩野さんは現地に在住し、豊富な資料を集め、壮大なローマ帝国の歴史絵巻を展開してくれる。この作品を読めばローマが歩んできた歴史がどういうものか良く分かる。
『三国志』についていえば、作者は『蜀』に思い入れがある。劉備、孔明、関羽、張飛といった、蜀には素晴らしいヒーローが登場する。『三国志演戯』を読む人には、蜀こそが漢の正当な後継王朝であり正義」と思えてくる。正義は『魏』や『呉』にもあるかもしれない。 中国の史書は、前王朝を滅ぼした王朝が編纂しており、史実のみを淡々と叙述していく。必要以上に前王朝を貶めて自分たちの行為を正当化するということは、中国にはない、これは他の国にはない。従って、魏の後を継いで天下を統一した晋もまた、呉や蜀のことを『悪』と決めつけることはしていない。これが他の国の史書になると全く様相が異なる。 例えば、日本の『古事記』や『日本書紀』はどうか。出雲のオオクニヌシの命の国譲りや川上タケルとヤマトタケルの健命の物語は明らかに歴史を改竄している。改竄する技術が拙劣なために、『古事記』『日本書紀』は史書としての価値が低いと言われる。世に『史書』と言われるものの多くは大なり小なり歪められたものがあり、それを鵜呑みにすることはできない。ローマ史もまた、その例外ではない。むしろ、ローマ帝国による歴史の改竄は、日本ほどではなくても、かなり分かりやすい。
塩野さんの描くローマは、まさに理想的な政治形態を備え、敵にさえ慈悲深く、優れた人々がきら星のように揃い、不退転の決意をもって襲い来る敵と戦う国家として描かれている。やむを得ない時以外は戦わず、戦争は全て自衛のために行われ、敗北を喫した国々はローマの寛大な処置に打たれて同盟国となる。そして市民は、祖国防衛のために、自発的に志願し、被征服者から編成された軍団よりも雄々しく戦う。 ケルト人(ガリア人)に始まってマケドニアもシリアもペルガモンもカルタゴも、ローマを征服しようと攻めてくる『悪』であり、ローマの前には、だらしなく敗退し講和を願ってくる。ローマはそれに対して、『適度な』条件で講和を結び、勢力範囲に組み入れる。当時、地中海世界で覇権を競ったこれらの国々は、いずれも広大な勢力範囲を持ち、周囲に勢力を拡張していた。一方で無理難題を押し付けてカルタゴを挑発し、第三次ポエニ戦役を起こさせたローマは、カルタゴ全土に火を放ち、それでも飽き足らずに塩を撒いて、あたり一帯を不毛の土地にしてしまった。現在でもカルタゴの遺跡は、荒涼たる荒地になっている。
塩野七生は『猛き者(ローマ)も遂には滅びぬ』という諸行無常の感慨を、ポエニ戦役でハンニバルを打倒したスキピオ・エミリアヌス(スキピオ・アフリカヌス)の心情を語ったギリシャの歴史家ポリビウスの言葉を引いて次のように美しく表現している。
「スキピオ・エミリアヌスは、眼の下に広がるカルタゴの都市から、長い間眼を離さなかった。建国から七百年もの歳月を経て、その間長く繁栄を極めてきた都市が、落城し、瓦礫の山と化しつつあるのを眺めていた。七百年もの歳月、カルタゴは、広大な土地を、多くの島々を、そして海を支配下に置いてきたのだった。それによってカルタゴは、これまでに人類がつくりあげた強大な国のいずれにも遜色のない、膨大な量の武器と軍船と象と富を所有するまでになっていた。しかし、カルタゴは、これらの過去の国のいずれよりも、勇気と気概で優れていた。なぜなら、いったんはローマの要求に屈し、すべての武器とすべての軍船を供出させられていながら、三年もの間、ローマ軍の攻撃に耐え抜いたからである。それが今、落城し、完全に破壊され、地上から姿を消そうとしている。スキピオ・エミリアヌスは、敵の運命を想って涙を流した。
勝者であるにもかかわらず、彼は思いを馳せずにはいられなかった。人間にかぎらず、都市も、国家も、そして帝国も、いずれは滅亡を運命づけられていることに、思いを馳せずにはいられなかったのである。トロイ、アッシリア、ペルシア、マケドニアと、盛者は常に必衰であることを、歴史は人間に示してきた。意識してか、それとも無意識にか、ローマの勝将スキピオは、ホメロスの叙事詩の一句、トロイ側の総司令官であったヘクトルの言葉とされている一句を口にしていた。『いずれはトロイも、王プリアモスと彼につづく戦士たちとともに滅びるであろう』。背後に立っていたポリビウスが、なぜ今その一句を、とローマの勝将にたずねた。スキピオ・エミリアヌスは、そのポリビウスを振り返り、ギリシア人だが親友でもある彼の手をとって答えた。『ポリビウス、われわれは今、かつては栄華を誇った帝国の滅亡という、偉大なる瞬間に立ち合っている。だが、この今、わたしの胸を占めているのは勝者の喜びではない。いつかはわがローマも、これと同じときを迎えるであろうという哀感なのだ』。しかし、ローマは、カルタゴよりは二倍も長い歳月にわたって、そこに生きた数かぎりない多くの人々に、深大なる影響を与えてきたが、『偉大なる瞬間』を持つことはできなかった。燃え尽きはしたが、それは火炎によってではなかった。滅びはしたが、阿鼻叫喚とともにではなかった。誰一人気づかないうちに、滅びたのであった。」と。
誰一人気付かない間に、苦痛や屈辱を伴う闘争も抵抗もなくローマ帝国が滅亡したこと自体は、ローマ市民ひとりひとりにとっては幸福な終焉だったのかもしれない。ローマ帝国は、人類の文化文明や周辺世界の歴史に絶大な影響を与えたその存在感とは裏腹に、余りにもあっけなくただ静かに歴史の彼方へと沈んでいった。『盛者必衰の理』は国家であれ人間であれ文明であれ「衰微する対象」を全く選ばない。天空の楽園での永遠の安楽を夢想させるキリスト教やイスラム教の登場によって、古典的なギリシア・ローマ文化は衰退することになるが、『世俗(現実)と神聖(観念)を巡る葛藤』 は人類がこの世に存続する限り終わりそうにない。古代ローマのような運命共同体(familia)として現代のシステマティックな国家を見ることは難しく、私たちは『生き抜かなければならない根拠』を求めて未来に期待が持てた成長期のローマ人以上にさ迷い悩むことになるかもしれない。ローマ滅亡後1,500年以上が経過した現代からローマ帝国の歴史過程を眺める時、ただ『虚無な感慨』だけでなく、1,000年以上の長大で重厚なローマの歴史文化とローマ市民のアイデンティティの強固さに『摩滅しない価値の痕跡』を見るようだ。
塩野七生の『ローマ人の物語 全15巻』を通読する意義は、古代世界を全力で生き抜いたローマ人やカルタゴ人、蛮族と呼ばれた先進ヨーロッパ諸国の祖先たちの思いや状況に共感し、そのエネルギーを自分の糧とするところにある。1,500年~2,000年以上もの時間軸を隔てているユリウス・カエサルやスキピオ・アフリカヌス、ディオクレティアヌス、コンスタンティヌスなどの希望や絶望に感情移入できることの奇跡的な感動を緩やかに思い起こしてくれる。都市国家ローマは伝説的な双子の兄弟ロムルスとレムスに始まり、都市国家ローマのアイデンティティを継承した西ローマ帝国は、建国者と同じ名前を持つ少年皇帝のロムルス・アウグストゥスによってその幕を閉じた。運命を共にする大いなる家族としてのローマは地上から姿を消し、それ以降現代に至るまで、ローマ帝国のように広大な領域を持つ帝国で、宗主国と植民地の対立を長期間にわたって緩和できる国や文化は今日まで現れていない。ローマ滅亡後にヨーロッパ大陸は非常に細かく分割され、現在のヨーロッパは宗教・民族・歴史・言語・文化が異なる国民国家が入り乱れる複雑な地域となった。第二次世界大戦後には、ヨーロッパの経済的・文化的一体感を促進しようとするEU(ヨーロッパ共同体)の構築が進められてきたのだが、その未来は未だ良く見えないようだ。
『三国志』についていえば、作者は『蜀』に思い入れがある。劉備、孔明、関羽、張飛といった、蜀には素晴らしいヒーローが登場する。『三国志演戯』を読む人には、蜀こそが漢の正当な後継王朝であり正義」と思えてくる。正義は『魏』や『呉』にもあるかもしれない。 中国の史書は、前王朝を滅ぼした王朝が編纂しており、史実のみを淡々と叙述していく。必要以上に前王朝を貶めて自分たちの行為を正当化するということは、中国にはない、これは他の国にはない。従って、魏の後を継いで天下を統一した晋もまた、呉や蜀のことを『悪』と決めつけることはしていない。これが他の国の史書になると全く様相が異なる。 例えば、日本の『古事記』や『日本書紀』はどうか。出雲のオオクニヌシの命の国譲りや川上タケルとヤマトタケルの健命の物語は明らかに歴史を改竄している。改竄する技術が拙劣なために、『古事記』『日本書紀』は史書としての価値が低いと言われる。世に『史書』と言われるものの多くは大なり小なり歪められたものがあり、それを鵜呑みにすることはできない。ローマ史もまた、その例外ではない。むしろ、ローマ帝国による歴史の改竄は、日本ほどではなくても、かなり分かりやすい。
塩野さんの描くローマは、まさに理想的な政治形態を備え、敵にさえ慈悲深く、優れた人々がきら星のように揃い、不退転の決意をもって襲い来る敵と戦う国家として描かれている。やむを得ない時以外は戦わず、戦争は全て自衛のために行われ、敗北を喫した国々はローマの寛大な処置に打たれて同盟国となる。そして市民は、祖国防衛のために、自発的に志願し、被征服者から編成された軍団よりも雄々しく戦う。 ケルト人(ガリア人)に始まってマケドニアもシリアもペルガモンもカルタゴも、ローマを征服しようと攻めてくる『悪』であり、ローマの前には、だらしなく敗退し講和を願ってくる。ローマはそれに対して、『適度な』条件で講和を結び、勢力範囲に組み入れる。当時、地中海世界で覇権を競ったこれらの国々は、いずれも広大な勢力範囲を持ち、周囲に勢力を拡張していた。一方で無理難題を押し付けてカルタゴを挑発し、第三次ポエニ戦役を起こさせたローマは、カルタゴ全土に火を放ち、それでも飽き足らずに塩を撒いて、あたり一帯を不毛の土地にしてしまった。現在でもカルタゴの遺跡は、荒涼たる荒地になっている。
塩野七生は『猛き者(ローマ)も遂には滅びぬ』という諸行無常の感慨を、ポエニ戦役でハンニバルを打倒したスキピオ・エミリアヌス(スキピオ・アフリカヌス)の心情を語ったギリシャの歴史家ポリビウスの言葉を引いて次のように美しく表現している。
「スキピオ・エミリアヌスは、眼の下に広がるカルタゴの都市から、長い間眼を離さなかった。建国から七百年もの歳月を経て、その間長く繁栄を極めてきた都市が、落城し、瓦礫の山と化しつつあるのを眺めていた。七百年もの歳月、カルタゴは、広大な土地を、多くの島々を、そして海を支配下に置いてきたのだった。それによってカルタゴは、これまでに人類がつくりあげた強大な国のいずれにも遜色のない、膨大な量の武器と軍船と象と富を所有するまでになっていた。しかし、カルタゴは、これらの過去の国のいずれよりも、勇気と気概で優れていた。なぜなら、いったんはローマの要求に屈し、すべての武器とすべての軍船を供出させられていながら、三年もの間、ローマ軍の攻撃に耐え抜いたからである。それが今、落城し、完全に破壊され、地上から姿を消そうとしている。スキピオ・エミリアヌスは、敵の運命を想って涙を流した。
勝者であるにもかかわらず、彼は思いを馳せずにはいられなかった。人間にかぎらず、都市も、国家も、そして帝国も、いずれは滅亡を運命づけられていることに、思いを馳せずにはいられなかったのである。トロイ、アッシリア、ペルシア、マケドニアと、盛者は常に必衰であることを、歴史は人間に示してきた。意識してか、それとも無意識にか、ローマの勝将スキピオは、ホメロスの叙事詩の一句、トロイ側の総司令官であったヘクトルの言葉とされている一句を口にしていた。『いずれはトロイも、王プリアモスと彼につづく戦士たちとともに滅びるであろう』。背後に立っていたポリビウスが、なぜ今その一句を、とローマの勝将にたずねた。スキピオ・エミリアヌスは、そのポリビウスを振り返り、ギリシア人だが親友でもある彼の手をとって答えた。『ポリビウス、われわれは今、かつては栄華を誇った帝国の滅亡という、偉大なる瞬間に立ち合っている。だが、この今、わたしの胸を占めているのは勝者の喜びではない。いつかはわがローマも、これと同じときを迎えるであろうという哀感なのだ』。しかし、ローマは、カルタゴよりは二倍も長い歳月にわたって、そこに生きた数かぎりない多くの人々に、深大なる影響を与えてきたが、『偉大なる瞬間』を持つことはできなかった。燃え尽きはしたが、それは火炎によってではなかった。滅びはしたが、阿鼻叫喚とともにではなかった。誰一人気づかないうちに、滅びたのであった。」と。
誰一人気付かない間に、苦痛や屈辱を伴う闘争も抵抗もなくローマ帝国が滅亡したこと自体は、ローマ市民ひとりひとりにとっては幸福な終焉だったのかもしれない。ローマ帝国は、人類の文化文明や周辺世界の歴史に絶大な影響を与えたその存在感とは裏腹に、余りにもあっけなくただ静かに歴史の彼方へと沈んでいった。『盛者必衰の理』は国家であれ人間であれ文明であれ「衰微する対象」を全く選ばない。天空の楽園での永遠の安楽を夢想させるキリスト教やイスラム教の登場によって、古典的なギリシア・ローマ文化は衰退することになるが、『世俗(現実)と神聖(観念)を巡る葛藤』 は人類がこの世に存続する限り終わりそうにない。古代ローマのような運命共同体(familia)として現代のシステマティックな国家を見ることは難しく、私たちは『生き抜かなければならない根拠』を求めて未来に期待が持てた成長期のローマ人以上にさ迷い悩むことになるかもしれない。ローマ滅亡後1,500年以上が経過した現代からローマ帝国の歴史過程を眺める時、ただ『虚無な感慨』だけでなく、1,000年以上の長大で重厚なローマの歴史文化とローマ市民のアイデンティティの強固さに『摩滅しない価値の痕跡』を見るようだ。
塩野七生の『ローマ人の物語 全15巻』を通読する意義は、古代世界を全力で生き抜いたローマ人やカルタゴ人、蛮族と呼ばれた先進ヨーロッパ諸国の祖先たちの思いや状況に共感し、そのエネルギーを自分の糧とするところにある。1,500年~2,000年以上もの時間軸を隔てているユリウス・カエサルやスキピオ・アフリカヌス、ディオクレティアヌス、コンスタンティヌスなどの希望や絶望に感情移入できることの奇跡的な感動を緩やかに思い起こしてくれる。都市国家ローマは伝説的な双子の兄弟ロムルスとレムスに始まり、都市国家ローマのアイデンティティを継承した西ローマ帝国は、建国者と同じ名前を持つ少年皇帝のロムルス・アウグストゥスによってその幕を閉じた。運命を共にする大いなる家族としてのローマは地上から姿を消し、それ以降現代に至るまで、ローマ帝国のように広大な領域を持つ帝国で、宗主国と植民地の対立を長期間にわたって緩和できる国や文化は今日まで現れていない。ローマ滅亡後にヨーロッパ大陸は非常に細かく分割され、現在のヨーロッパは宗教・民族・歴史・言語・文化が異なる国民国家が入り乱れる複雑な地域となった。第二次世界大戦後には、ヨーロッパの経済的・文化的一体感を促進しようとするEU(ヨーロッパ共同体)の構築が進められてきたのだが、その未来は未だ良く見えないようだ。