本郷和人氏(東大史料編纂所教授)と井沢元彦氏(作家、「逆説の日本史」シリーズ等の著者でもある)、この御両人の共著「日本史の定説を疑う」、興味深い内容が書かれている。その中で、14世紀に朝廷が南北に分かれ、再び統一されるまでの南北朝の内乱について二人の見解が語られる。1331年の後醍醐天皇のクーデターともいうべき元弘の乱から鎌倉幕府の滅亡、建武の新政の成立と崩壊、楠木正成や名和長年ら南朝有力武将の相次ぐ戦死を経て、両朝分裂に至る時期も含め、その後も北朝方の足利幕府の内乱に乗じて南朝が京を奪還するなどの争乱が続いた時期について述べられている。実際、足利幕府第三代将軍足利義満によって南北朝の合一が実現するまでこの内乱は60年にわたって続いた。
厳密にいえば、南北朝の講和に当たって決められた条件が履行されず、不満を持つ後南朝による散発的な蜂起が数十年にわたって続き、この内乱で室町幕府の守護体制が成立したともいえるが、天皇の政治的実権が失われるなど、日本史上の大きな転換点となった。南北朝が統一された後もどちらが正統かという「南北朝正閏(せいじゅん)論」が戦わされ、江戸時代には朱子学の影響も加わり、論争が激化、近代の歴史教育にも大きな影響を与えている。
朝廷が京都の北朝と奈良の南朝とに分かれてしまい、二つの権威が同時に存在するという異常事態が生じ、室町幕府開幕の初期には争いが絶えなかった。ところが、室町幕府三代将軍・足利義満の登場で沈静化してゆく。義満自身の努力で幕府の権威と権力が高まったからだ。足利義満が正式に南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に位を譲らせ、北朝に正統性が移った。系図もそうなっている。要するに、正式な天皇であった後醍醐天皇が南朝に移り、その子孫が北朝を認めるという経路をたどり、北朝が正統となった。今日の天皇家も北朝の流れを汲んでいる。三種の神器の所在を根拠に南朝の正統性を謳う、北畠親房が著した「神皇正統記」や、徳川光圀が編纂した「大日本史」などもある。三種の神器は今も宮中にあるが、同時にヤマトタケルが持っていたといわれる草薙の剣は熱田神宮に祀られている。おそらく神器といわれるものは何セットかあったと思われる。正式に南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に譲国の儀式が実施されて三種の神器が譲られたことも事実だ。こうした対立を見事にまとめ上げたのが室町幕府三代将軍・足利義満だった。
さて、楠木正成は北朝を滅ぼそうとしていた天才的な軍略家であり、後醍醐天皇に付き従ってきた人物だ。彼の評価は時代によって分かれる。室町時代には武士の身分でありながら、天皇側についた裏切り者として武士世界から酷評された。ところが江戸時代になると、忠義の厚い武士として尊敬の対象となっている。また、戦前は日本最大の英雄であり、尊敬すべき人物として持ち上げられたが、戦後になると一変して軍国主義の象徴として批判されることになる。彼の銅像は今、皇居前広場に「忠臣」として建っている。現在の天皇家が北朝の子孫である以上、南朝の陣営側で粉骨砕身してきた楠木正成が英雄視されているのは不思議な現象でもある。どちらの陣営で戦っていたにせよ、楠木正成が正統な天皇の後醍醐天皇を守ってきた事実に変わりはない。その意味では、皇居前広場の楠木正成の像は、彼の霊魂が善神と化して北朝の天皇家を守っていると考えても良いのかもしれない。
中世にあっては、南朝と北朝のどちらが正統であるかなどと朝廷や天皇も考えることはなかった。それゆえ、南朝こそ正統であると考える人はほとんどいなかった。その数少ない一人が水戸光圀だった。光圀は勤王家の印象が強い。息子に対して、「もしも徳川家と天皇が争うことがあれば、わが水戸徳川家は親戚といえども将軍に従ってはならない。天王の臣下であるから天皇のお味方をするように」と言ったとも伝わっている。
歴史上、南北朝の両立に至る経過を見ると、鎌倉時代末期、後醍醐天皇が正中元年(1324年)と元弘元年(1331年)の2回にわたって討幕を試みた。討幕計画が未然に発覚し、隠岐島へと流された後醍醐天皇は不屈の闘志を持ち続け、元弘三年(1333年)に隠岐島から脱出し、船上山で挙兵。鎌倉幕府は足利高氏(後の尊氏)に後醍醐天皇の捕縛を命ずるが、高氏は後醍醐天皇に味方し、さらに全国の武士も呼応して鎌倉幕府が滅びることになる。その翌月には後醍醐天皇による建武政権が樹立し、土地の所有権を白紙に戻し、綸旨(天皇の意思を伝える文書)によって安堵するといった、武士を無視した政治を行い始めた。全国の武士はこれに反発し、足利尊氏がこれに呼応し建武政権を倒す。その後、尊氏は光明天皇(持明院統)を擁して北朝を立て、後醍醐天皇(大覚寺統)は吉野に移り、南朝を立てる。それぞれが正統を主張し、二つの朝廷が並立、対立することになった。
ところで、南北朝時代、楠木正成は「太平記」によれば、千早城の戦いにおいて、幕府軍100万に包囲されながらも、1000人足らずの軍勢で城を守ったとされる。幕府軍の100万は誇張し過ぎの数字ともいえる。西暦600年頃には日本列島には600万人ほど、1000年後の1600年、関ケ原の戦いの年には1200万ほどの人口といわれている。
さて、楠木正成は悪党と呼ばれている武士だ。これは中世における言葉であり、現代のような悪人という意味ではない。中世における悪党とは何なのか。それまで自分の土地を守り、農作業を主体に暮らしていた武士たちは、鎌倉時代が進んでゆくと、農作業だけでは満足できず、生活を豊かにしたいと考え始めていた。そのころ、貨幣経済、商品経済も導入され、商取引が行われるようになっていた。土地という不動産に重きを置いていた生活から、武士たちは商品に対する欲望が芽生えだすようになり、不動産主体の鎌倉幕府の政治では不十分になってきた。それゆえ、商品流通の拠点であった京都を中心とする近畿地方あたりには、農作業に立脚しない武士たちが出てきた。それが商取引に立脚した新しい形の武士たちの登場となった。そして、鎌倉幕府は、彼等を幕府とは関係のない武士とし、「悪党」と呼ぶようになり、その代表的な人物が楠木正成だった。やがて悪党の力が次第に高まり、鎌倉幕府は倒されてしまうようになる。そこで、足利尊氏は違う形の武士をも取り込み、動産、不動産の両方を活用した上での幕府を築こうとしたのであろう。そうなると、地域的にも鎌倉では困難であり、商取引の中心である京都に幕府を開こうとした。これが室町幕府誕生の流れになったといわれる。
厳密にいえば、南北朝の講和に当たって決められた条件が履行されず、不満を持つ後南朝による散発的な蜂起が数十年にわたって続き、この内乱で室町幕府の守護体制が成立したともいえるが、天皇の政治的実権が失われるなど、日本史上の大きな転換点となった。南北朝が統一された後もどちらが正統かという「南北朝正閏(せいじゅん)論」が戦わされ、江戸時代には朱子学の影響も加わり、論争が激化、近代の歴史教育にも大きな影響を与えている。
朝廷が京都の北朝と奈良の南朝とに分かれてしまい、二つの権威が同時に存在するという異常事態が生じ、室町幕府開幕の初期には争いが絶えなかった。ところが、室町幕府三代将軍・足利義満の登場で沈静化してゆく。義満自身の努力で幕府の権威と権力が高まったからだ。足利義満が正式に南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に位を譲らせ、北朝に正統性が移った。系図もそうなっている。要するに、正式な天皇であった後醍醐天皇が南朝に移り、その子孫が北朝を認めるという経路をたどり、北朝が正統となった。今日の天皇家も北朝の流れを汲んでいる。三種の神器の所在を根拠に南朝の正統性を謳う、北畠親房が著した「神皇正統記」や、徳川光圀が編纂した「大日本史」などもある。三種の神器は今も宮中にあるが、同時にヤマトタケルが持っていたといわれる草薙の剣は熱田神宮に祀られている。おそらく神器といわれるものは何セットかあったと思われる。正式に南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に譲国の儀式が実施されて三種の神器が譲られたことも事実だ。こうした対立を見事にまとめ上げたのが室町幕府三代将軍・足利義満だった。
さて、楠木正成は北朝を滅ぼそうとしていた天才的な軍略家であり、後醍醐天皇に付き従ってきた人物だ。彼の評価は時代によって分かれる。室町時代には武士の身分でありながら、天皇側についた裏切り者として武士世界から酷評された。ところが江戸時代になると、忠義の厚い武士として尊敬の対象となっている。また、戦前は日本最大の英雄であり、尊敬すべき人物として持ち上げられたが、戦後になると一変して軍国主義の象徴として批判されることになる。彼の銅像は今、皇居前広場に「忠臣」として建っている。現在の天皇家が北朝の子孫である以上、南朝の陣営側で粉骨砕身してきた楠木正成が英雄視されているのは不思議な現象でもある。どちらの陣営で戦っていたにせよ、楠木正成が正統な天皇の後醍醐天皇を守ってきた事実に変わりはない。その意味では、皇居前広場の楠木正成の像は、彼の霊魂が善神と化して北朝の天皇家を守っていると考えても良いのかもしれない。
中世にあっては、南朝と北朝のどちらが正統であるかなどと朝廷や天皇も考えることはなかった。それゆえ、南朝こそ正統であると考える人はほとんどいなかった。その数少ない一人が水戸光圀だった。光圀は勤王家の印象が強い。息子に対して、「もしも徳川家と天皇が争うことがあれば、わが水戸徳川家は親戚といえども将軍に従ってはならない。天王の臣下であるから天皇のお味方をするように」と言ったとも伝わっている。
歴史上、南北朝の両立に至る経過を見ると、鎌倉時代末期、後醍醐天皇が正中元年(1324年)と元弘元年(1331年)の2回にわたって討幕を試みた。討幕計画が未然に発覚し、隠岐島へと流された後醍醐天皇は不屈の闘志を持ち続け、元弘三年(1333年)に隠岐島から脱出し、船上山で挙兵。鎌倉幕府は足利高氏(後の尊氏)に後醍醐天皇の捕縛を命ずるが、高氏は後醍醐天皇に味方し、さらに全国の武士も呼応して鎌倉幕府が滅びることになる。その翌月には後醍醐天皇による建武政権が樹立し、土地の所有権を白紙に戻し、綸旨(天皇の意思を伝える文書)によって安堵するといった、武士を無視した政治を行い始めた。全国の武士はこれに反発し、足利尊氏がこれに呼応し建武政権を倒す。その後、尊氏は光明天皇(持明院統)を擁して北朝を立て、後醍醐天皇(大覚寺統)は吉野に移り、南朝を立てる。それぞれが正統を主張し、二つの朝廷が並立、対立することになった。
ところで、南北朝時代、楠木正成は「太平記」によれば、千早城の戦いにおいて、幕府軍100万に包囲されながらも、1000人足らずの軍勢で城を守ったとされる。幕府軍の100万は誇張し過ぎの数字ともいえる。西暦600年頃には日本列島には600万人ほど、1000年後の1600年、関ケ原の戦いの年には1200万ほどの人口といわれている。
さて、楠木正成は悪党と呼ばれている武士だ。これは中世における言葉であり、現代のような悪人という意味ではない。中世における悪党とは何なのか。それまで自分の土地を守り、農作業を主体に暮らしていた武士たちは、鎌倉時代が進んでゆくと、農作業だけでは満足できず、生活を豊かにしたいと考え始めていた。そのころ、貨幣経済、商品経済も導入され、商取引が行われるようになっていた。土地という不動産に重きを置いていた生活から、武士たちは商品に対する欲望が芽生えだすようになり、不動産主体の鎌倉幕府の政治では不十分になってきた。それゆえ、商品流通の拠点であった京都を中心とする近畿地方あたりには、農作業に立脚しない武士たちが出てきた。それが商取引に立脚した新しい形の武士たちの登場となった。そして、鎌倉幕府は、彼等を幕府とは関係のない武士とし、「悪党」と呼ぶようになり、その代表的な人物が楠木正成だった。やがて悪党の力が次第に高まり、鎌倉幕府は倒されてしまうようになる。そこで、足利尊氏は違う形の武士をも取り込み、動産、不動産の両方を活用した上での幕府を築こうとしたのであろう。そうなると、地域的にも鎌倉では困難であり、商取引の中心である京都に幕府を開こうとした。これが室町幕府誕生の流れになったといわれる。