加瀬英明とヘンリー・S・ストークスの著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」によれば、この500年の世界史は白人の欧米キリスト教諸国が、有色民族の国を植民地支配した壮大なドラマだったといっている。第一次大戦に勝った連合国が1919年1月からパリに集い、ドイツにどのような条件を課するか討議したのがパリ講和会議、その当時は日本も連合国の一員だった。この会議では、各国首脳が講和だけでなく、国際連盟の創設を含めた新たな国際体制づくりについても協議、日本は内容的に人種差別撤廃提案ともいうべき案を提出したが、議長だった米国のウイルソン大統領が強く反発、当時、米国では黒人を「ニガー」と呼んで、法的にも社会的にも差別していた。白豪主義のオーストラリアのヒューズ首相も退席するほどの強硬な反対だった。英国、米国、ポーランド、ブラジル、ルーマニアなどが反対したが、出席16か国中セルビアをはじめとする11か国の小国が賛成し、可決された。だが、議長のウイルソン大統領は重大な案件は全会一致と言って受け入れなかった。今日の文明世界ではあり得ないことだった。
白人キリスト教徒のアジア侵略に対して当時のアジア諸国はどうだったのか。フィリピンは19世紀末から米国に支配されたが、それ以前はスペインの植民地だった。コロンブスがアメリカ大陸を発見したのが1492年、この頃スペインはポルトガルと世界征服を競い合っていた。マゼランはポルトガルで生まれ、25歳の頃、東回りの遠征に参加してマレー半島まで到達。その後、国籍をスペインに変えて、旗艦トリニダッド号と5隻で構成される艦隊と237人の隊員を率いて、西回りの遠征に出発し、フィリピンに到達した。マゼランはその日の夕方、海を見下ろす丘の上に十字架を立てた。マゼランは武力で威圧した上で、一気にキリスト教の布教を開始した。数日のうちに2200人以上の洗礼が行われた。その後もマゼランは銃兵を従えて他の島にも向かい、現地のラプラプ軍の攻撃も激化し、一本の毒矢がマゼランの右足を貫いた。これが致命傷となってマゼランは最期を遂げた。フィリピンはスペインによって、三百数十年にわたって植民地支配を受けるが、1898年、米軍に降伏し、1899年フィリピンは米国の領土となった。その後四十数年、米国はフィリピンを植民地支配しているが、当時の米軍司令官は、日本を占領したダグラス・マッカーサー元帥の父親だった。植民地支配に対する多くの反乱もあったが、フィリピン独立の決定的なターニングポイントは、日本軍が1941年(昭和16年)にフィリピンに上陸して軍政を施いた時に訪れた。当時、父親の後を継いでフィリピンにいたダグラス・マッカーサーは、有名な「アイ・シャル・リターン」という言葉を残してオーストラリアに脱出している。日本は1943年(昭和18年)にフィリピンを独立させている。1945年(昭和20年)8月15日に日本は終戦で戦闘行為を停止。フィリピン共和国が独立したのは翌年の1946年であった。
インドネシアの植民地支配は1596年にオランダがジャワに艦隊を派遣したことに始まる。インドネシア人は抵抗する術を持たなかった。オランダは1602年に東インド会社を設立し、7年後にジャワにオランダ総督府を開設。その後の350年あまりにわたるインドネシア支配に終止符が打たれたのは、1942年(昭和17年)の日本軍の侵攻によるものだった。オランダ軍はわずか7日で降伏した。日本軍は現地青年に軍事訓練を施し、忍耐心を教え、勇猛心を植え付けた。オランダ人を一掃し、インドネシア人に高い地位を与え、能力と責任感を身につけさせた。日本人による大きな国際貢献だったともいえる。太平洋戦争での日本の降伏後、オランダが軍を立て直して、植民地支配をしようとインドネシアに侵攻したが、日本の手によって建軍されたPETAが中心となって独立戦争に立ち上がり勝利、その時には、太平洋戦争で日本が降伏した後にも2000人ともいわれる日本兵がインドネシアに残って、共に戦い、半数が戦死している。ジャカルタ郊外のカリバタ英雄墓地には、独立戦争を戦った多くの日本兵が眠っている。
インドでは、英国が1600年に東インド会社を設立してインドの植民地化に着手した。1857年から、反イギリス民族闘争の有名なセポイの反乱が起こる。日本の明治維新は1867年だった。インドでは、1869年に、マハトマ・ガンジーが生まれた。1877年に英国がインド全土を統治するインド帝国が成立、ビクトリア女王がインド皇帝として即位、1897年にチャンドラ・ボースが生まれた。植民地支配に対して無抵抗主義を貫いたのが、マハトマ・ガンジーだった。ボースはガンジーとは対照的な武闘派だった。ビクトリア女王がインド皇帝として即位してから66年目にあたる1943年10月、ボースを首班とする自由インド仮政府が樹立された。ボースは大戦中に日本に援けられてインド国民軍(INA)を結成し、司令官として戦った。今でもネタージ(偉大な指導者)と呼ばれ、生誕地のベンガル地方で英雄とされている。ボースはシンガポールにおける大会で仮政府首班に推挙された。祖国インドへ向けた歴史的な進撃開始を宣言、日本軍と共にインド・ビルマ国境を超えて、インパールを目指した。自由インド仮政府は日本とともに英国、米国に対して宣戦を布告している。日本を取り巻く戦況は一変していた。インド国内に攻め込んだインパール作戦は、食糧弾薬の補給が続かず、総崩れになって退却している。
1947年、インドは200年にわたったイギリスの植民地支配に終止符が打たれ、ついに独立を達成した。独立後、レッド・フォードにおける報復裁判について、インド側のデサイ弁護団長は、「日本軍がインド国民軍を編成して、武器をとって進軍させてくれた。この進軍が、インド全土で国民運動となって、イギリスに独立を認めさせる契機となった。インド独立をもたらしたのは日本軍であった」と述べている。
かつての太平洋戦争後の東京裁判で連合軍が当時の日本の指導者たちを「侵略戦争」を計画して実行した罪によって裁いていた間、イギリス軍、フランス軍、オランダ軍が、大戦中に日本が解放したインドネシアやベトナム、ビルマ(今のミャンマー)、マレーを再び植民地化しようとして侵略を進めていた。東京裁判の判事11人のなかで、インドのラダビノド・パル判事、オランダのバート・V・A・レーリンク判事と、フランスのアンリ・ベルナール判事の3人が、判決に反対する意見を提出した。占領下にあった中では、この反対意見の公表は禁じられたが、ラダビノド・パル博士は「連合国は極東軍事裁判で、日本が侵略戦争を行ったことを歴史にとどめることによって、欧米列強による侵略を正当化し、日本に過去の罪悪の烙印を押すことが目的だった」と断じている。レーリンク判事も、後に著作の中で、日本がアメリカによって追い詰められて開戦を強いられた経緯を詳しく説明している。人種差別が太平洋戦争の主因の一つだったという。当時アメリカにおける日系人に対する差別はひどかった。日米戦争が始まると、12万人以上の米国籍を持つ日系人が全財産を没収された上で、有刺鉄線で囲まれた強制収用所に入れられた。
世界的に著名な歴史家アーノルド・トインビーは、イギリスの新聞に寄稿し、「日本は第二次大戦において、自国ではなく、大東亜共栄圏の他の国々に思いがけない恵みをもたらした。それまで、アジア・アフリカを200年の長きにわたって支配してきた西洋人は、無敵で、あたかも神のような存在だと信じられてきたが、日本人はそうではなかったことを人類の面前で証明した。これはまさに歴史的な偉業だった。」、また、「日本は白人のアジア侵略を止めるどころか、帝国主義、植民地主義、人種差別に終止符を打つことをなしとげた。」とも述べている。
さて、加瀬英明とヘンリー・S・ストークスの著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」によれば、マッカーサー元帥の情報担当部長だったチャールズ・ウイロビー少将は、戦争が1946年いっぱいまで続いたら、アメリカ軍の戦死者は100万人を超えると計算していた。実際には日本への原爆投下で戦争を早く終了させた結果、第2次世界大戦におけるアメリカ軍の戦死者は約30万人だったという。つまり、戦争があと1年4か月延びていれば更に70万人も戦死者が増えたというのだ。太平洋戦争での米軍の戦死者が約10万人なので、その7倍になる。日本ではどうか、広島と長崎の原爆で亡くなった人は約21万人、その後遺症に苦しんだ人は25万人もいる。もし、そのまま戦争が続いていたら「一億総玉砕」と煽られていた日本人の死者はもっと膨大な数になっていた。米軍が上陸した沖縄戦で亡くなった一般人は9万4000人。1940年の沖縄の人口は57万人、当時の日本の人口は約7200万人。そのまま戦争が続いていたら1千数百万人が亡くなっていたことになる。実際に東京の空襲だけでも約10万人が亡くなっている。しかもその当時、日本の食糧は尽きていた。戦う戦力などもなくなっていた。8月に昭和天皇の戦争終結宣言がなかったら、冬の間に10万人単位で国民が餓死していたともいえる。敗戦後の日本に、マッカーサーが来て、本当に食糧がないことに驚き、米国から緊急に食糧物資を輸送した。
広島と長崎、そして、小倉と新潟は焼夷弾による空襲を受けていない。京都もそうだ。なぜか、そのままの形で都市を残し、原爆の破壊力を試す必要があったからだという。京都が第一候補だったようだが、京都を訪問したことがあるスチムソン陸軍長官が強硬に反対したといわれる。トルーマン大統領も人口が100万人もいる京都は避けたいと思っていた。最終候補に選ばれた広島、小倉、長崎、新潟は、片方が海で、他方が山だ。原爆の効果を多角的に判断したかったようだ。優先順位は広島、小倉、長崎であり、2発目は小倉の予定だったが、小倉が曇りだったので引き返すつもりが、長崎が晴れだったのでプルトニウム型の原爆を落としたという。広島はウラン型の原爆だった。種類の違う原爆で効果を試したことになる。当時、ソ連も核兵器を作っていた。もし、ソ連が先に完成させていたら、ドイツのベルリンに落としていたであろう。ドイツも作っていた。ドイツが先に完成させたら、イギリスのロンドンに落としていたであろうという。日本では核開発に必要不可欠な遠心分離機を完成させていた。結局、アメリカが最初に原爆を完成させた。米国の科学者や政治家は反対していたのだが、すでに亡くなっていた前大統領ルーズベルトが当時の副大統領だったトルーマンに一切知らせずに多額の研究開発費と人材を注ぎ込んで完成させた世界初の核兵器であり、使わないで廃棄するのは容易なことではなかったようだ。その後の世界の覇権に影響するからだ。今や、人類は日本が犠牲になった核の恐ろしさを知っている。米中ロ間には、お互いに核の抑止力があり、核兵器保有国は、これを使うことはできなくなっている。
米国の原爆投下には、もう一つの理由があった。当時、ドイツと日本の核開発施設は米国によって破壊されたが、ソ連には残っていた。ソ連に対するメッセージの意味があった。来るべき戦後の世界で、米国が最上位の立場に立つという意思表示であった。ソ連の侵略は北方領土までで止まった。原爆投下がなければ、日本の降伏が遅れたことは確実なので、ソ連は間違いなく北海道に上陸していた。水間誠憲氏によってソ連の北海道占領の意図が暴かれている。ヤルタ会談では、ルーズベルトとの間で、北方領土はソ連のものにするという密約があった。だが、スターリンはヤルタ会談の合意内容を無視してポーランドを社会主義化したりしているので、ソ連の攻撃は北海道で止まらず、東北地方まで侵略したと考えられる。当時沖縄を占領した米国は日本国内を北上し、福島あたりでソ連軍と出会い、日本はドイツのように分断統治された可能性もある。実際、当初はドイツは東西二つではなく、米英仏ソの4つの領域に分断統治された。ルーズベルトとスターリンの間には、日本を分割して支配するという暗黙の了解があった。しかし、ルーズベルトは1945年4月に死亡し、副大統領のトルーマンが大統領になった。トルーマンは日本の統治を米国だけでやろうと考えた。ソ連も合意を裏切っていたのでお互い様で、結果的に日本は、朝鮮半島のように南北分断されなかったともいえる。
話は変わるが、2015年の8月に日本で集団的自衛権の行使容認が法制化された。憲法を文言通りに解釈することが立憲主義なのであれば、自衛隊が存在する限り、日本は立憲主義国ではないことになる。さて、米国との同盟国としての日本と韓国には大きな違いがある。日本には憲法9条があって、戦力の保持が禁止されている。実際には自衛隊という立派な軍事力がある。だが、建前上は軍隊ではない。韓国には正式な軍隊があり、日本にはない徴兵制もある。日本の憲法では徴兵制は認められていない。だからこそ、韓国軍はベトナム戦争に派遣されてもいる。韓国軍は1978年まで、国連軍に作戦統制権を移譲し、軍事行動をとった。当時国連軍の主力部隊は米国であり、米軍が指揮をとっていた。実質的な朝鮮戦争は1953年に終わっているが、今も法的には停戦状態のままだ。現在は、戦時の作戦統制権は国連軍から米韓連合司令部に移され、平時の作戦統制権は韓国が持っている。本当のところ、戦時の作戦統制権も米国は韓国に返したいのだが、韓国が応じない。2012年に戦時の作戦統制権の韓国移管がなされる予定だったが、2015年に延び、さらに2020年までに延びている。韓国は自分たちが指揮権をとってしまうと、在韓米軍が米国に帰ってしまうかもしれないと思っている。だから移管の時期を延ばしている。結局は米国に依存しているのだ。現在、日米韓は軍事的繋がりを強化している。一方で、米国は中国の南シナ海での策動を警戒している。それが東シナ海に及ぶことを恐れている。また、北朝鮮による挑発的な核実験とミサイル発射が続いている。北朝鮮からいうと、停戦状態にある朝鮮戦争は未だ終わっていないのだ。
米国では、共和党も民主党も日米安保維持の立場だ。米国だけで東アジアを全部守るというのは不可能だ。中国が軍事大国化し、15年前とは国際情勢が全く違う。今の日本に足りないのは、国民の認識と法制度といえる。米国はいつまでも沖縄の基地全部を米国だけで維持したいとは思っていない。必要のないものは整理して、自衛隊にできることは自衛隊にやってほしい。普天間基地は返還し、一部は辺野古にあるキャンプシュワブを拡張して移動する計画だ。辺野古は既存の基地の拡張工事だ。2016年12月、北部訓練場の半分を返還した。1996年に7800ヘクタールの訓練場のうち4000ヘクタールを返還すると合意してから20年かかった。その土地を返すためにはヘリパッドを移転しなければならなかった。だが、移転先の工事現場の入口を、基地反対運動の人達が塞いだ。だから新しいヘリパッドが建設できず、北部訓練場の土地も返せない。実をいうと、基地反対派の人々は、基地が本当に返されると困るのだ。口で言うことと実際にやることが矛盾しているのだ。北部訓練場には私有地があり、その地代だけで年間4億円かかっていた。この地代は日本政府が払っていた。米軍基地が返還されるということは、地主たちは安定的な収入源を失うことになるからだ。米軍が返還する北部訓練場は水源地なので、普通の土地開発はできない、ジャングル訓練に使用してきたが、そんな広いところは必要がなくなっている。返還するには代替施設が必要であり、訓練ができないと、極東地域の防衛力が低下する。代替施設の建設は基地返還の大前提だ。北部訓練場の返還に必要なのはヘリパッドだけなのだが、基地反対派の人達が、その建設を許してくれない。反対派の実態は「オール沖縄」ではなく、一部の過激派、反社会勢力、外国籍の工作員が混じっている。在日米軍の費用は6000億円、そのうち日本が負担する「思いやり予算」といわれるのが1900億円だ。仮に日本だけで極東における米軍に匹敵する軍事力を維持しようとしたら、日本の防衛費は現在の5兆円の3倍以上になるといわれている。
白人キリスト教徒のアジア侵略に対して当時のアジア諸国はどうだったのか。フィリピンは19世紀末から米国に支配されたが、それ以前はスペインの植民地だった。コロンブスがアメリカ大陸を発見したのが1492年、この頃スペインはポルトガルと世界征服を競い合っていた。マゼランはポルトガルで生まれ、25歳の頃、東回りの遠征に参加してマレー半島まで到達。その後、国籍をスペインに変えて、旗艦トリニダッド号と5隻で構成される艦隊と237人の隊員を率いて、西回りの遠征に出発し、フィリピンに到達した。マゼランはその日の夕方、海を見下ろす丘の上に十字架を立てた。マゼランは武力で威圧した上で、一気にキリスト教の布教を開始した。数日のうちに2200人以上の洗礼が行われた。その後もマゼランは銃兵を従えて他の島にも向かい、現地のラプラプ軍の攻撃も激化し、一本の毒矢がマゼランの右足を貫いた。これが致命傷となってマゼランは最期を遂げた。フィリピンはスペインによって、三百数十年にわたって植民地支配を受けるが、1898年、米軍に降伏し、1899年フィリピンは米国の領土となった。その後四十数年、米国はフィリピンを植民地支配しているが、当時の米軍司令官は、日本を占領したダグラス・マッカーサー元帥の父親だった。植民地支配に対する多くの反乱もあったが、フィリピン独立の決定的なターニングポイントは、日本軍が1941年(昭和16年)にフィリピンに上陸して軍政を施いた時に訪れた。当時、父親の後を継いでフィリピンにいたダグラス・マッカーサーは、有名な「アイ・シャル・リターン」という言葉を残してオーストラリアに脱出している。日本は1943年(昭和18年)にフィリピンを独立させている。1945年(昭和20年)8月15日に日本は終戦で戦闘行為を停止。フィリピン共和国が独立したのは翌年の1946年であった。
インドネシアの植民地支配は1596年にオランダがジャワに艦隊を派遣したことに始まる。インドネシア人は抵抗する術を持たなかった。オランダは1602年に東インド会社を設立し、7年後にジャワにオランダ総督府を開設。その後の350年あまりにわたるインドネシア支配に終止符が打たれたのは、1942年(昭和17年)の日本軍の侵攻によるものだった。オランダ軍はわずか7日で降伏した。日本軍は現地青年に軍事訓練を施し、忍耐心を教え、勇猛心を植え付けた。オランダ人を一掃し、インドネシア人に高い地位を与え、能力と責任感を身につけさせた。日本人による大きな国際貢献だったともいえる。太平洋戦争での日本の降伏後、オランダが軍を立て直して、植民地支配をしようとインドネシアに侵攻したが、日本の手によって建軍されたPETAが中心となって独立戦争に立ち上がり勝利、その時には、太平洋戦争で日本が降伏した後にも2000人ともいわれる日本兵がインドネシアに残って、共に戦い、半数が戦死している。ジャカルタ郊外のカリバタ英雄墓地には、独立戦争を戦った多くの日本兵が眠っている。
インドでは、英国が1600年に東インド会社を設立してインドの植民地化に着手した。1857年から、反イギリス民族闘争の有名なセポイの反乱が起こる。日本の明治維新は1867年だった。インドでは、1869年に、マハトマ・ガンジーが生まれた。1877年に英国がインド全土を統治するインド帝国が成立、ビクトリア女王がインド皇帝として即位、1897年にチャンドラ・ボースが生まれた。植民地支配に対して無抵抗主義を貫いたのが、マハトマ・ガンジーだった。ボースはガンジーとは対照的な武闘派だった。ビクトリア女王がインド皇帝として即位してから66年目にあたる1943年10月、ボースを首班とする自由インド仮政府が樹立された。ボースは大戦中に日本に援けられてインド国民軍(INA)を結成し、司令官として戦った。今でもネタージ(偉大な指導者)と呼ばれ、生誕地のベンガル地方で英雄とされている。ボースはシンガポールにおける大会で仮政府首班に推挙された。祖国インドへ向けた歴史的な進撃開始を宣言、日本軍と共にインド・ビルマ国境を超えて、インパールを目指した。自由インド仮政府は日本とともに英国、米国に対して宣戦を布告している。日本を取り巻く戦況は一変していた。インド国内に攻め込んだインパール作戦は、食糧弾薬の補給が続かず、総崩れになって退却している。
1947年、インドは200年にわたったイギリスの植民地支配に終止符が打たれ、ついに独立を達成した。独立後、レッド・フォードにおける報復裁判について、インド側のデサイ弁護団長は、「日本軍がインド国民軍を編成して、武器をとって進軍させてくれた。この進軍が、インド全土で国民運動となって、イギリスに独立を認めさせる契機となった。インド独立をもたらしたのは日本軍であった」と述べている。
かつての太平洋戦争後の東京裁判で連合軍が当時の日本の指導者たちを「侵略戦争」を計画して実行した罪によって裁いていた間、イギリス軍、フランス軍、オランダ軍が、大戦中に日本が解放したインドネシアやベトナム、ビルマ(今のミャンマー)、マレーを再び植民地化しようとして侵略を進めていた。東京裁判の判事11人のなかで、インドのラダビノド・パル判事、オランダのバート・V・A・レーリンク判事と、フランスのアンリ・ベルナール判事の3人が、判決に反対する意見を提出した。占領下にあった中では、この反対意見の公表は禁じられたが、ラダビノド・パル博士は「連合国は極東軍事裁判で、日本が侵略戦争を行ったことを歴史にとどめることによって、欧米列強による侵略を正当化し、日本に過去の罪悪の烙印を押すことが目的だった」と断じている。レーリンク判事も、後に著作の中で、日本がアメリカによって追い詰められて開戦を強いられた経緯を詳しく説明している。人種差別が太平洋戦争の主因の一つだったという。当時アメリカにおける日系人に対する差別はひどかった。日米戦争が始まると、12万人以上の米国籍を持つ日系人が全財産を没収された上で、有刺鉄線で囲まれた強制収用所に入れられた。
世界的に著名な歴史家アーノルド・トインビーは、イギリスの新聞に寄稿し、「日本は第二次大戦において、自国ではなく、大東亜共栄圏の他の国々に思いがけない恵みをもたらした。それまで、アジア・アフリカを200年の長きにわたって支配してきた西洋人は、無敵で、あたかも神のような存在だと信じられてきたが、日本人はそうではなかったことを人類の面前で証明した。これはまさに歴史的な偉業だった。」、また、「日本は白人のアジア侵略を止めるどころか、帝国主義、植民地主義、人種差別に終止符を打つことをなしとげた。」とも述べている。
さて、加瀬英明とヘンリー・S・ストークスの著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」によれば、マッカーサー元帥の情報担当部長だったチャールズ・ウイロビー少将は、戦争が1946年いっぱいまで続いたら、アメリカ軍の戦死者は100万人を超えると計算していた。実際には日本への原爆投下で戦争を早く終了させた結果、第2次世界大戦におけるアメリカ軍の戦死者は約30万人だったという。つまり、戦争があと1年4か月延びていれば更に70万人も戦死者が増えたというのだ。太平洋戦争での米軍の戦死者が約10万人なので、その7倍になる。日本ではどうか、広島と長崎の原爆で亡くなった人は約21万人、その後遺症に苦しんだ人は25万人もいる。もし、そのまま戦争が続いていたら「一億総玉砕」と煽られていた日本人の死者はもっと膨大な数になっていた。米軍が上陸した沖縄戦で亡くなった一般人は9万4000人。1940年の沖縄の人口は57万人、当時の日本の人口は約7200万人。そのまま戦争が続いていたら1千数百万人が亡くなっていたことになる。実際に東京の空襲だけでも約10万人が亡くなっている。しかもその当時、日本の食糧は尽きていた。戦う戦力などもなくなっていた。8月に昭和天皇の戦争終結宣言がなかったら、冬の間に10万人単位で国民が餓死していたともいえる。敗戦後の日本に、マッカーサーが来て、本当に食糧がないことに驚き、米国から緊急に食糧物資を輸送した。
広島と長崎、そして、小倉と新潟は焼夷弾による空襲を受けていない。京都もそうだ。なぜか、そのままの形で都市を残し、原爆の破壊力を試す必要があったからだという。京都が第一候補だったようだが、京都を訪問したことがあるスチムソン陸軍長官が強硬に反対したといわれる。トルーマン大統領も人口が100万人もいる京都は避けたいと思っていた。最終候補に選ばれた広島、小倉、長崎、新潟は、片方が海で、他方が山だ。原爆の効果を多角的に判断したかったようだ。優先順位は広島、小倉、長崎であり、2発目は小倉の予定だったが、小倉が曇りだったので引き返すつもりが、長崎が晴れだったのでプルトニウム型の原爆を落としたという。広島はウラン型の原爆だった。種類の違う原爆で効果を試したことになる。当時、ソ連も核兵器を作っていた。もし、ソ連が先に完成させていたら、ドイツのベルリンに落としていたであろう。ドイツも作っていた。ドイツが先に完成させたら、イギリスのロンドンに落としていたであろうという。日本では核開発に必要不可欠な遠心分離機を完成させていた。結局、アメリカが最初に原爆を完成させた。米国の科学者や政治家は反対していたのだが、すでに亡くなっていた前大統領ルーズベルトが当時の副大統領だったトルーマンに一切知らせずに多額の研究開発費と人材を注ぎ込んで完成させた世界初の核兵器であり、使わないで廃棄するのは容易なことではなかったようだ。その後の世界の覇権に影響するからだ。今や、人類は日本が犠牲になった核の恐ろしさを知っている。米中ロ間には、お互いに核の抑止力があり、核兵器保有国は、これを使うことはできなくなっている。
米国の原爆投下には、もう一つの理由があった。当時、ドイツと日本の核開発施設は米国によって破壊されたが、ソ連には残っていた。ソ連に対するメッセージの意味があった。来るべき戦後の世界で、米国が最上位の立場に立つという意思表示であった。ソ連の侵略は北方領土までで止まった。原爆投下がなければ、日本の降伏が遅れたことは確実なので、ソ連は間違いなく北海道に上陸していた。水間誠憲氏によってソ連の北海道占領の意図が暴かれている。ヤルタ会談では、ルーズベルトとの間で、北方領土はソ連のものにするという密約があった。だが、スターリンはヤルタ会談の合意内容を無視してポーランドを社会主義化したりしているので、ソ連の攻撃は北海道で止まらず、東北地方まで侵略したと考えられる。当時沖縄を占領した米国は日本国内を北上し、福島あたりでソ連軍と出会い、日本はドイツのように分断統治された可能性もある。実際、当初はドイツは東西二つではなく、米英仏ソの4つの領域に分断統治された。ルーズベルトとスターリンの間には、日本を分割して支配するという暗黙の了解があった。しかし、ルーズベルトは1945年4月に死亡し、副大統領のトルーマンが大統領になった。トルーマンは日本の統治を米国だけでやろうと考えた。ソ連も合意を裏切っていたのでお互い様で、結果的に日本は、朝鮮半島のように南北分断されなかったともいえる。
話は変わるが、2015年の8月に日本で集団的自衛権の行使容認が法制化された。憲法を文言通りに解釈することが立憲主義なのであれば、自衛隊が存在する限り、日本は立憲主義国ではないことになる。さて、米国との同盟国としての日本と韓国には大きな違いがある。日本には憲法9条があって、戦力の保持が禁止されている。実際には自衛隊という立派な軍事力がある。だが、建前上は軍隊ではない。韓国には正式な軍隊があり、日本にはない徴兵制もある。日本の憲法では徴兵制は認められていない。だからこそ、韓国軍はベトナム戦争に派遣されてもいる。韓国軍は1978年まで、国連軍に作戦統制権を移譲し、軍事行動をとった。当時国連軍の主力部隊は米国であり、米軍が指揮をとっていた。実質的な朝鮮戦争は1953年に終わっているが、今も法的には停戦状態のままだ。現在は、戦時の作戦統制権は国連軍から米韓連合司令部に移され、平時の作戦統制権は韓国が持っている。本当のところ、戦時の作戦統制権も米国は韓国に返したいのだが、韓国が応じない。2012年に戦時の作戦統制権の韓国移管がなされる予定だったが、2015年に延び、さらに2020年までに延びている。韓国は自分たちが指揮権をとってしまうと、在韓米軍が米国に帰ってしまうかもしれないと思っている。だから移管の時期を延ばしている。結局は米国に依存しているのだ。現在、日米韓は軍事的繋がりを強化している。一方で、米国は中国の南シナ海での策動を警戒している。それが東シナ海に及ぶことを恐れている。また、北朝鮮による挑発的な核実験とミサイル発射が続いている。北朝鮮からいうと、停戦状態にある朝鮮戦争は未だ終わっていないのだ。
米国では、共和党も民主党も日米安保維持の立場だ。米国だけで東アジアを全部守るというのは不可能だ。中国が軍事大国化し、15年前とは国際情勢が全く違う。今の日本に足りないのは、国民の認識と法制度といえる。米国はいつまでも沖縄の基地全部を米国だけで維持したいとは思っていない。必要のないものは整理して、自衛隊にできることは自衛隊にやってほしい。普天間基地は返還し、一部は辺野古にあるキャンプシュワブを拡張して移動する計画だ。辺野古は既存の基地の拡張工事だ。2016年12月、北部訓練場の半分を返還した。1996年に7800ヘクタールの訓練場のうち4000ヘクタールを返還すると合意してから20年かかった。その土地を返すためにはヘリパッドを移転しなければならなかった。だが、移転先の工事現場の入口を、基地反対運動の人達が塞いだ。だから新しいヘリパッドが建設できず、北部訓練場の土地も返せない。実をいうと、基地反対派の人々は、基地が本当に返されると困るのだ。口で言うことと実際にやることが矛盾しているのだ。北部訓練場には私有地があり、その地代だけで年間4億円かかっていた。この地代は日本政府が払っていた。米軍基地が返還されるということは、地主たちは安定的な収入源を失うことになるからだ。米軍が返還する北部訓練場は水源地なので、普通の土地開発はできない、ジャングル訓練に使用してきたが、そんな広いところは必要がなくなっている。返還するには代替施設が必要であり、訓練ができないと、極東地域の防衛力が低下する。代替施設の建設は基地返還の大前提だ。北部訓練場の返還に必要なのはヘリパッドだけなのだが、基地反対派の人達が、その建設を許してくれない。反対派の実態は「オール沖縄」ではなく、一部の過激派、反社会勢力、外国籍の工作員が混じっている。在日米軍の費用は6000億円、そのうち日本が負担する「思いやり予算」といわれるのが1900億円だ。仮に日本だけで極東における米軍に匹敵する軍事力を維持しようとしたら、日本の防衛費は現在の5兆円の3倍以上になるといわれている。