フランスとイギリスは「兄弟の国」だった。1066年フランスのノルマンディー公ウイリアムがドーバー海峡を渡ってイングランドを征服し、イギリス王(ウイリアム一世・征服王)となった。この時代、イギリス王は形式的にはフランス王の臣下だった。臣下といってもイギリス王の力は強大で、イギリス全土とフランスの一部(ノルマンディー地方)をイギリスの領土としていた。
この歴史に節目となる時期が訪れる。ジョン王(在位1199~1216)は「欠地王」といわれ、英国史上、実に評判の悪い王だ。(昔の教科書に「失地王」と書かれているのは誤り) ジョン王は暴政と失政で多くの領土を失う。「欠地」というのは、大陸(フランス)の領土を父王から与えられなかったという意味。ジョン王は十字軍遠征で有名なリチャード獅子心王の末弟で、本来は王位を継げる身ではなかったが、父を裏切り、兄を裏切って王位に就いた。それがフランス王の干渉を招き、フランスと戦って敗れ、大陸領土の部分をほとんど失う。貴族達はジョン王に一斉に反抗し、王権を制限する63か条の要求を出して、認めさせたのが有名な大憲章(マグナ・カルタ)で、1215年のことだった。
その後、ジョン王は嫌われ者となり、歴代のイギリス王には、ヘンリー、ウイリアム、エドワード、リチャードの「二世、三世」を名乗る王はいるが、ジョン二世はいない。マグナ・カルタは立憲政治の基盤となったといわれているが、王権を絶対とする国王に対して、初めて臣下の権利を認めさせたという歴史上の意義は大きい。イギリス人は革命を起こしても、国王を処刑することはせずに近代国家への道を進んだが、フランスの場合は、国王を処刑し、共和制に進んだ。
ジョン王の息子のヘンリー三世も無能で、マグナ・カルタを踏みにじり、怒った貴族達は、国王の娘婿(フランス人)のもとに結集し、国王派を破る。貴族達は王政そのものには反対しないが、それよりも高い権威としての法を重視し、これを王政批判の基準とした。その精神はイギリス史の中に生き続け、今日の立憲的議会主義を生み出した。法を踏みにじる王は追放しても良かったのである。
王が民衆を苦しめた場合、かつて中国にも孟子の「湯武放伐(とうぶほうばつ)論」つまり「易姓革命論」があり、悪い王は追放した。ただ、ここにはヨーロッパのような法の支配という考え方はない。中国における「悪王」とは「孝」や「義」という儒教の徳目を踏みにじることであり、法を破ることではない。現代の中国も、法治国家ではなく、人治国家と批判される根源もここにある。
イギリスや中国における革命理論に共通するのは、「王権」の権威を越える存在を認めていることだ。「悪王」を追放し、殺すことも許されている。日本には、そういう考え方はない。天皇家は絶対の存在である。それでは、なぜ幕府が興ったのか。武士達はなぜ独立国を作ろうとしたのか。当時、彼等には明確な土地所有権が認められていなかった。律令制度は公地公民制であり、私有地は一切認めない。しかし、藤原氏は「墾田永代私財法」という悪法で公地公民制を有名無実化し、結果的に「荘園」という私有地だらけの国にした。私財法では開墾した土地は自分のものになるので、地方では武装農場主ともいうべき武士階級が生まれた。武士の土地所有は不安定なもので、所領争いで負け、自分の土地が奪われたりする。同族による所領争いも激しい。平将門は叔父に所領を奪われそうになり、木曽義仲の父が殺されるのも同族による所領争いだった。「懸命(けんめい)」つまり命を懸けて守るのが土地であった。「一生懸命」の語源は「一所懸命」だ。
また、武力闘争に勝てばいいというものでもない。中央から派遣されてくる国司(受領)は、もともと自分のふところを肥やすために中央に賄賂を贈って地位を得た連中だ。武士達は自分の土地を守るため、また、税を免れるため、中央の貴族に「名簿を奉った」、貴族の家来となり、土地も寄進し、名義は中央貴族とし、自分は管理人という形で土地を守ってきた。ゆえに武士階級全体の悲願は、国家から認められた土地の正式な所有者になることであった。ところが1185年に源頼朝によって置かれた「地頭」は、それまでの「地頭」とは違っていた。それは、日本国総地頭職である源頼朝が任免権を持つ公職であり、頼朝のもとに国家公認で一元化されたものであった。これで武士達の幕府への信頼、忠誠は絶対のものとなった。しかし、全国に地頭を置いたといっても、朝廷も藤原摂関家も頼朝に滅ぼされたわけではなく、現地には昔ながらの荘園領主もいた。この貴族達の土地をどうするかが以後の最大の焦点になっていく。ともかく武士の権利は拡大されたのは事実であった。
もとはといえば頼朝は流罪人だった。平治の乱で父・義朝が殺された時、戦犯として処刑される寸前だった。それが平清盛の義母が「死んだ子に似ている」と同情してくれたおかげで助かった。そして伊豆に流されたことで、現地で関東武士の生き様をしっかり学ぶ。武士が何を望んでいるかも学ぶことができた。ともかく関東には律令国家から独立しようという強い意志があったのである。
さて、奥州征伐が頼朝の勝利に終わったことにより、対抗する勢力はいなくなる。当時の中央政府である朝廷は軍隊をもっていない。「北面の武士」という近衛兵はいたが、これも武士であり、頼朝の意に逆らうものではない。頼朝はついに上洛の決意を固める。平家追討の初期、富士川の合戦で勝利した時も、先に入京した木曽義仲が没落した時も、頼朝は「代官」を送って朝廷との折衝を行う。実のところ頼朝は鎌倉を動けなかったのだ。上洛をあきらめ、東国での反対勢力である常陸の佐竹氏征伐を行った。頼朝は直属の兵を持ってなく、東国武士団の意向に逆らってまで上洛することは出来なかった。政治外交面での代官を務めたのは舅である北条時政だ。義経が没落して京から逃げ出した時には、大軍を率いて入れ替わりに京へ入ったのは北条時政だった。
そこで、後白河法皇を圧迫して「日本国惣追捕使」「日本国惣地頭」「反別五升の兵粮米徴収権」を得た(1185年)。これが幕府成立の基礎となってゆく。そこで頼朝は、奥州征伐が勝利に終わった翌1190年、大軍を率いて上洛、この時、後白河法皇とトップ会談を行う。これは日本史上かつてないことだ。右近衛大将に任ぜられたが、3日で辞職している。後にこの手を織田信長も使う。朝廷側が就任祝賀式をやってくれたのに、3日で辞職とはなかなかの高等戦術である。ともかく東国にあった非合法の「独立政権」「解放区」を朝廷に認めさせ、頼朝は東国武士の絶対的支持を得てゆくことになる。
そもそも幕府とは、将軍が派遣先の現地に作る前進基地のことだ。幕府なるものは鎌倉時代にはなかった。当時の人は幕府とは呼んでいない。江戸時代以降の人間がつけた名称だ。確かに頼朝を中核とした武家政権全体は存在した。また、頼朝と対立した当時の朝廷の代表者を後白河法皇というが、これは後の諡(おくりな)であって、生前には後白河とは呼ばれていない。生きている間は天皇は一人、上皇も二、三人で、「本院」「新院」などと呼ばれていた。死んだ時点で歴代の上皇と区別するために、「後白河」という名がおくられた。
後に幕府と呼ばれることになる全国組織、当時の人は何と呼んだか、初めは「鎌倉殿」、頼朝個人を指すが、後には政治機構全体を指すようになる。鎌倉殿の下に政所、侍所、問注所といった機構が整えられてゆく。政所は、もとは公文所と言った。政府の要職についた人の個人オフィスであり、現在の「大臣官房」といったようなものだ。当時、従二位にして右近衛大将である源頼朝は、政所を開設する権利を得た。もっと低い身分であれば政所を開けない。その場合は公文所といわねばならない。だから最初は公文所といっていたが、従二位叙任により政所となった。政所というのは鎌倉幕府が創始した機構ではなく、平安時代からあった機構であり、同時期に複数あった。左大臣の政所あり、右大臣の政所もあり、右近衛大将の政所もあって、特に右近衛大将が全国武家政権の主であったので、他と違って重い意味を持つことになった。関白にも政所があるが、関白ほどの高官になると、その正妻も別の政所を開設できる。正妻は館の北側に住むので、奥方を「北の方」といい、北政所と呼び、正妻自体をそう呼ぶことになる。関白の母は大政所と呼ばれることになってゆく。以上は余談
そもそも武士が朝廷からの独立を望んだのは、律令体制の中で、自分の土地の権利が完全に認められていなかったからで、それだからこそ彼等は立ち上がり、それを認めてくれる「幕府」を支持した。幕府もそれに応えて、土地問題に関する公平な裁定者となる必要があり、問注所が開設された。また、侍を統轄し軍事を扱う部門として侍所も開設された。この二つは幕府の独創のものだった。
さて、権力者を倒せば、新しい権力者に代わるのが普通に見られる革命の歴史だが、日本の歴史において天皇家が断絶することはなかった。現在においても、権力者ではないが、天皇家が国民の象徴として尊敬を受けて存続していることは本当に素晴らしいことである。
不思議なことに鎌倉幕府は源氏滅亡後も存続した。北条氏は源氏の家来だったのに主家を滅ぼし自ら政権の座を奪った。これは反逆に見える。しかし、平氏政権の崩壊から鎌倉幕府誕生にかけての出来事は、源平の争乱ではなく、地方在住の武士達が中央政権に仕掛けた独立戦争だったのだ。東国武士達がリーダーとして担ぎ上げたのが源頼朝という「源氏」であり、その時の中央政府が、平清盛という「平家」が仕切っていたということである。しかし、「平家物語」が一連の出来事を源平の争いという視点で描いたため、後世に源平の争乱と判断された影響が大きい。
頼朝は流人の身から幕府の統率者へという異例の出世を遂げたが、朝廷との協調路線を歩もうとする。長女の大姫を天皇家へ「入内」させようとした。これでは藤原摂関政治のまねごとになってしまう。これに対して、独立戦争の主体者であった東国武士達は不満を抱く。大姫は若死してしまったので、頼朝の計画は挫折したが、その後、頼朝を襲う事件も続き、北条氏も源氏との距離を置くようになる。幕府の公式記録の「吾妻鏡」には、別のところに少し書かれているが、頼朝は落馬事故で死んだことになっている。これも不可解な話だ。その後、源氏の直系は三代で断絶しても鎌倉幕府に将軍は存続する。すなわち、執権となって幕府の全権を掌握した北条氏は、京から貴族の子弟(後には親王)を招き、将軍に推戴する。いわば象徴将軍だ。
「吾妻鏡」とは、北条氏の執権政治が確立してから作られた史書だ。かつて、壬申の乱の勝者であった天武天皇が「日本書紀」を編纂させたように、そこには源氏三代の跡を継いだ北条氏の意図が反映されていることも間違いない。つまり、こんな暗愚な源家の将軍だったから滅び、北条の世の中にしたのだという正当化作業がなされたということになる。ここにも政治権力の根拠が示唆されているのかもしれない。
この歴史に節目となる時期が訪れる。ジョン王(在位1199~1216)は「欠地王」といわれ、英国史上、実に評判の悪い王だ。(昔の教科書に「失地王」と書かれているのは誤り) ジョン王は暴政と失政で多くの領土を失う。「欠地」というのは、大陸(フランス)の領土を父王から与えられなかったという意味。ジョン王は十字軍遠征で有名なリチャード獅子心王の末弟で、本来は王位を継げる身ではなかったが、父を裏切り、兄を裏切って王位に就いた。それがフランス王の干渉を招き、フランスと戦って敗れ、大陸領土の部分をほとんど失う。貴族達はジョン王に一斉に反抗し、王権を制限する63か条の要求を出して、認めさせたのが有名な大憲章(マグナ・カルタ)で、1215年のことだった。
その後、ジョン王は嫌われ者となり、歴代のイギリス王には、ヘンリー、ウイリアム、エドワード、リチャードの「二世、三世」を名乗る王はいるが、ジョン二世はいない。マグナ・カルタは立憲政治の基盤となったといわれているが、王権を絶対とする国王に対して、初めて臣下の権利を認めさせたという歴史上の意義は大きい。イギリス人は革命を起こしても、国王を処刑することはせずに近代国家への道を進んだが、フランスの場合は、国王を処刑し、共和制に進んだ。
ジョン王の息子のヘンリー三世も無能で、マグナ・カルタを踏みにじり、怒った貴族達は、国王の娘婿(フランス人)のもとに結集し、国王派を破る。貴族達は王政そのものには反対しないが、それよりも高い権威としての法を重視し、これを王政批判の基準とした。その精神はイギリス史の中に生き続け、今日の立憲的議会主義を生み出した。法を踏みにじる王は追放しても良かったのである。
王が民衆を苦しめた場合、かつて中国にも孟子の「湯武放伐(とうぶほうばつ)論」つまり「易姓革命論」があり、悪い王は追放した。ただ、ここにはヨーロッパのような法の支配という考え方はない。中国における「悪王」とは「孝」や「義」という儒教の徳目を踏みにじることであり、法を破ることではない。現代の中国も、法治国家ではなく、人治国家と批判される根源もここにある。
イギリスや中国における革命理論に共通するのは、「王権」の権威を越える存在を認めていることだ。「悪王」を追放し、殺すことも許されている。日本には、そういう考え方はない。天皇家は絶対の存在である。それでは、なぜ幕府が興ったのか。武士達はなぜ独立国を作ろうとしたのか。当時、彼等には明確な土地所有権が認められていなかった。律令制度は公地公民制であり、私有地は一切認めない。しかし、藤原氏は「墾田永代私財法」という悪法で公地公民制を有名無実化し、結果的に「荘園」という私有地だらけの国にした。私財法では開墾した土地は自分のものになるので、地方では武装農場主ともいうべき武士階級が生まれた。武士の土地所有は不安定なもので、所領争いで負け、自分の土地が奪われたりする。同族による所領争いも激しい。平将門は叔父に所領を奪われそうになり、木曽義仲の父が殺されるのも同族による所領争いだった。「懸命(けんめい)」つまり命を懸けて守るのが土地であった。「一生懸命」の語源は「一所懸命」だ。
また、武力闘争に勝てばいいというものでもない。中央から派遣されてくる国司(受領)は、もともと自分のふところを肥やすために中央に賄賂を贈って地位を得た連中だ。武士達は自分の土地を守るため、また、税を免れるため、中央の貴族に「名簿を奉った」、貴族の家来となり、土地も寄進し、名義は中央貴族とし、自分は管理人という形で土地を守ってきた。ゆえに武士階級全体の悲願は、国家から認められた土地の正式な所有者になることであった。ところが1185年に源頼朝によって置かれた「地頭」は、それまでの「地頭」とは違っていた。それは、日本国総地頭職である源頼朝が任免権を持つ公職であり、頼朝のもとに国家公認で一元化されたものであった。これで武士達の幕府への信頼、忠誠は絶対のものとなった。しかし、全国に地頭を置いたといっても、朝廷も藤原摂関家も頼朝に滅ぼされたわけではなく、現地には昔ながらの荘園領主もいた。この貴族達の土地をどうするかが以後の最大の焦点になっていく。ともかく武士の権利は拡大されたのは事実であった。
もとはといえば頼朝は流罪人だった。平治の乱で父・義朝が殺された時、戦犯として処刑される寸前だった。それが平清盛の義母が「死んだ子に似ている」と同情してくれたおかげで助かった。そして伊豆に流されたことで、現地で関東武士の生き様をしっかり学ぶ。武士が何を望んでいるかも学ぶことができた。ともかく関東には律令国家から独立しようという強い意志があったのである。
さて、奥州征伐が頼朝の勝利に終わったことにより、対抗する勢力はいなくなる。当時の中央政府である朝廷は軍隊をもっていない。「北面の武士」という近衛兵はいたが、これも武士であり、頼朝の意に逆らうものではない。頼朝はついに上洛の決意を固める。平家追討の初期、富士川の合戦で勝利した時も、先に入京した木曽義仲が没落した時も、頼朝は「代官」を送って朝廷との折衝を行う。実のところ頼朝は鎌倉を動けなかったのだ。上洛をあきらめ、東国での反対勢力である常陸の佐竹氏征伐を行った。頼朝は直属の兵を持ってなく、東国武士団の意向に逆らってまで上洛することは出来なかった。政治外交面での代官を務めたのは舅である北条時政だ。義経が没落して京から逃げ出した時には、大軍を率いて入れ替わりに京へ入ったのは北条時政だった。
そこで、後白河法皇を圧迫して「日本国惣追捕使」「日本国惣地頭」「反別五升の兵粮米徴収権」を得た(1185年)。これが幕府成立の基礎となってゆく。そこで頼朝は、奥州征伐が勝利に終わった翌1190年、大軍を率いて上洛、この時、後白河法皇とトップ会談を行う。これは日本史上かつてないことだ。右近衛大将に任ぜられたが、3日で辞職している。後にこの手を織田信長も使う。朝廷側が就任祝賀式をやってくれたのに、3日で辞職とはなかなかの高等戦術である。ともかく東国にあった非合法の「独立政権」「解放区」を朝廷に認めさせ、頼朝は東国武士の絶対的支持を得てゆくことになる。
そもそも幕府とは、将軍が派遣先の現地に作る前進基地のことだ。幕府なるものは鎌倉時代にはなかった。当時の人は幕府とは呼んでいない。江戸時代以降の人間がつけた名称だ。確かに頼朝を中核とした武家政権全体は存在した。また、頼朝と対立した当時の朝廷の代表者を後白河法皇というが、これは後の諡(おくりな)であって、生前には後白河とは呼ばれていない。生きている間は天皇は一人、上皇も二、三人で、「本院」「新院」などと呼ばれていた。死んだ時点で歴代の上皇と区別するために、「後白河」という名がおくられた。
後に幕府と呼ばれることになる全国組織、当時の人は何と呼んだか、初めは「鎌倉殿」、頼朝個人を指すが、後には政治機構全体を指すようになる。鎌倉殿の下に政所、侍所、問注所といった機構が整えられてゆく。政所は、もとは公文所と言った。政府の要職についた人の個人オフィスであり、現在の「大臣官房」といったようなものだ。当時、従二位にして右近衛大将である源頼朝は、政所を開設する権利を得た。もっと低い身分であれば政所を開けない。その場合は公文所といわねばならない。だから最初は公文所といっていたが、従二位叙任により政所となった。政所というのは鎌倉幕府が創始した機構ではなく、平安時代からあった機構であり、同時期に複数あった。左大臣の政所あり、右大臣の政所もあり、右近衛大将の政所もあって、特に右近衛大将が全国武家政権の主であったので、他と違って重い意味を持つことになった。関白にも政所があるが、関白ほどの高官になると、その正妻も別の政所を開設できる。正妻は館の北側に住むので、奥方を「北の方」といい、北政所と呼び、正妻自体をそう呼ぶことになる。関白の母は大政所と呼ばれることになってゆく。以上は余談
そもそも武士が朝廷からの独立を望んだのは、律令体制の中で、自分の土地の権利が完全に認められていなかったからで、それだからこそ彼等は立ち上がり、それを認めてくれる「幕府」を支持した。幕府もそれに応えて、土地問題に関する公平な裁定者となる必要があり、問注所が開設された。また、侍を統轄し軍事を扱う部門として侍所も開設された。この二つは幕府の独創のものだった。
さて、権力者を倒せば、新しい権力者に代わるのが普通に見られる革命の歴史だが、日本の歴史において天皇家が断絶することはなかった。現在においても、権力者ではないが、天皇家が国民の象徴として尊敬を受けて存続していることは本当に素晴らしいことである。
不思議なことに鎌倉幕府は源氏滅亡後も存続した。北条氏は源氏の家来だったのに主家を滅ぼし自ら政権の座を奪った。これは反逆に見える。しかし、平氏政権の崩壊から鎌倉幕府誕生にかけての出来事は、源平の争乱ではなく、地方在住の武士達が中央政権に仕掛けた独立戦争だったのだ。東国武士達がリーダーとして担ぎ上げたのが源頼朝という「源氏」であり、その時の中央政府が、平清盛という「平家」が仕切っていたということである。しかし、「平家物語」が一連の出来事を源平の争いという視点で描いたため、後世に源平の争乱と判断された影響が大きい。
頼朝は流人の身から幕府の統率者へという異例の出世を遂げたが、朝廷との協調路線を歩もうとする。長女の大姫を天皇家へ「入内」させようとした。これでは藤原摂関政治のまねごとになってしまう。これに対して、独立戦争の主体者であった東国武士達は不満を抱く。大姫は若死してしまったので、頼朝の計画は挫折したが、その後、頼朝を襲う事件も続き、北条氏も源氏との距離を置くようになる。幕府の公式記録の「吾妻鏡」には、別のところに少し書かれているが、頼朝は落馬事故で死んだことになっている。これも不可解な話だ。その後、源氏の直系は三代で断絶しても鎌倉幕府に将軍は存続する。すなわち、執権となって幕府の全権を掌握した北条氏は、京から貴族の子弟(後には親王)を招き、将軍に推戴する。いわば象徴将軍だ。
「吾妻鏡」とは、北条氏の執権政治が確立してから作られた史書だ。かつて、壬申の乱の勝者であった天武天皇が「日本書紀」を編纂させたように、そこには源氏三代の跡を継いだ北条氏の意図が反映されていることも間違いない。つまり、こんな暗愚な源家の将軍だったから滅び、北条の世の中にしたのだという正当化作業がなされたということになる。ここにも政治権力の根拠が示唆されているのかもしれない。