竹島問題は、韓国では最も国民感情が刺激される問題だ。それは、歴史問題にこだわった故・盧武鉉大統領の時代、韓国国民が政治的宣伝活動で、竹島を領土問題ではなく歴史問題として認識するようになったことが背景にある。日本が竹島を島根県に編入したのは1905年であり、それは日本が韓国から外交の権限を奪い、保護領とした年と一致する。したがって、韓国では竹島は日本の韓国侵略の第1歩であり、日本の竹島領有権の主張は、日本の新たな領土的野心の表れだとの認識が広まっている。
島根県による「竹島の日」の制定や、これに伴う記念行事、日本教科書の竹島記述は、竹島を領土問題と見るならば、韓国の「独島」不法占拠、「独島領有権」教育に比べ、国際的に見ても決して理不尽な行動ではない。むしろ、非常に抑制された行動と言える。それでも韓国が反発するのは、歴史的に韓国が領有してきており、日本の領有権の主張には具体的な根拠がないとの見解に基づくもの。韓国の国民は日本の領有権の根拠を知らない。自分たちに都合の悪いことは知ろうとしない。韓国では、「良心的日本人」という言葉があるが、要するに竹島は韓国の領土だとする韓国迎合の日本人が若干名おり、それが、韓国では広く紹介されている。日本が竹島を領有する根拠を具体的に示していくことが重要になる。日本が国際司法裁判所に提訴するという動きに韓国政府が応じることは韓国の国内政治上困難ではあるが、日本が確かな根拠を有していることを示す上で有益なことかもしれない。日韓関係が悪化するというリスクも大きい。竹島問題の進展は一朝一夕には起こらないかもしれないが、中長期的視野で戦略的に前進させることが得策のようだ。
韓国は竹島の記念切手を発行していた。つまり竹島が韓国領土だと広言していた。竹島は島根県隠岐島の北西159キロ、韓国の欝陵(うつりょう)島の南東192キロに位置し、二つの大きな岩礁と数十の小岩礁から成る。この竹島が日本領土であることを示す確かな資料は多い。特に江戸時代には豊富にある。また島根県には詳細な文献資料も整理されている。一方、韓国には全く無いが、日本は、明治38年に竹島の領有権を確認し、以後、これに対する他国からの異論や抗議は出てこなかった。
韓国が竹島の領有権を唱え出したのは、戦後になってからのこと、すなわち韓国の初代大統領の李承晩が、海上に何の根拠もない線引きをして、韓国の領海を宣言した。それは悪名高き「李承晩ライン」といわれた。たまたま、竹島はその李承晩ラインの韓国側に位置していた。それだけが韓国領有を主張する根拠であった。そんなものが国際的に通用するはずはない。従って、日本が日韓国交正常化交渉や排他的経済水域設定などの機会に、この竹島領有問題を国際審判所で話し合いをしようとした時、韓国側は逃げて応じようとはしなかった。公の場で論じれば韓国は負けてしまうことを承知していた。だから、出てこない。既成事実をつくるのが勝ちとばかりに韓国は竹島を占拠し、事実上、韓国に占拠された状態になった。更に記念切手の発行もあり、地図にも竹島を韓国領土として記載している。韓国は、話し合いでは不都合なので、あくまでも既成事実を固めてしまおうとしているようだ。これまでの日本政府の怠慢もあるようだ。「李承晩ライン」撤廃の時、排他的経済水域設定の時、日韓国交正常化の時に、問題を明確にするチャンスは何度もあった。日韓国交正常化交渉の時には、朴大統領は日本からの資金援助なしには韓国を成長路線に乗せてゆくことが不可能な時であった。日本は、これを竹島問題の取引材料にも使おうとせず、経済援助のみで、ずるずると今日まできてしまったともいえる。
通常、実効支配している国が領有権で国民運動などして騒がないものだ。韓国が実効支配しているのに騒ぐのは「本当は日本の領土」と知っているからであろう。騒ぐべきは日本なのだ。島根県議会が領有権を明確にする行動に出たのは正しいし、これを日本政府が強く後押しすべきなのである。海面に岩礁が出ているだけで、人も住めない島と思いがちだが、そこが国土となるだけで領海や排他的経済水域が広がり、その有利さは計り知れなくなる。日本の漁業権にも大きな影響がある。一つ譲れば、それを突破口に次々と侵食されるのが領土問題だ。
さて、台湾海峡に危機が高まったことがある。それは、中国が台湾に武力侵攻する構えを見せた時、アメリカは即座に空母2隻を台湾海峡に派遣し、中国は手も足も出すことができなかった。この経験が中国には身にしみている。中国は台湾と事を構えるには、台湾の東側海域に原子力潜水艦を展開し、米軍空母を抑え込まなければならないと考える。そのため潜水艦の行動に重要な海底の様子や海水の状態を調査し、米軍や日本自衛隊の反応を探る目的で中国原子力潜水艦が出てくる。しかし、武力でアメリカに勝てるわけがないと中国も承知している。にもかかわらず原子力潜水艦がグアム島まで航行し、さらに日本の領海を侵犯する行動に出たのは、来るべき対決に備える準備でもある。中国の台湾に対する領土的野心は強い。
歴史的に中国が台湾を実効支配したことは一度もない。台湾を実効支配した権力といえば、戦前の日本が最初だった。その日本が太平洋戦争に敗れ、台湾の領有権を放棄した。台湾の領有権を中国に返還したのではなく、ただ放棄した。その時点で台湾は台湾のものになった。ところが、その間隙をぬって、大陸では毛沢東の共産党軍との権力闘争に敗れた蒋介石の国民党軍が台湾に逃げ込み、台湾を侵略した。蒋介石の国民党は中国大陸の正当な政権ではないので、これをもって台湾を中国固有の領土と主張することもできない。その後、台湾は、蒋介石が退き、その息子の蒋経国も退く間に、国民党の一党独裁をはねのけ、静かな民主革命を成し遂げている。台湾は2千万の人口と経済力を持ち、民主主義を成熟させて、自分たちで政権を総選挙で選び、国家を運営してきた。この台湾を国家として認めようとしない中国の、国際社会への偽善がある。台湾問題は中国の国内問題だという説明に我々は騙されてきている。仮にも台湾が中国に侵略併合され中国領土になった場合、東シナ海は中国の内海になる。現在、中国は尖閣列島に野心を抱き、海底資源の探索に動き、日本に抗議し、話し合いをしようとしている。東シナ海が中国の内海になると、中国の圧力は容赦なく沖縄に及んでくる。つまり、台湾問題は日本の安全保障問題になってくる。そして日米同盟の重要性が更に高まる。実は、台湾法というのが米国にあって、いざという時には、米国は武力で台湾を支援することになっている。
中国は矛盾を抱えた国でもある。経済発展は開放経済の賜物であり、それは市場経済、そして資本主義経済によるものだ。本来は、この開放経済を円滑に回転させていく政治は自由主義によるものだが、中国の政治は共産党一党独裁の全体主義。国民による国政選挙もない。政治が全体主義で、それでいて経済が自由主義、これは根本的に矛盾している。その運営を間違えれば、バブルがはじけかねない危険をはらむ。それでなくても、中国には沿岸部(4億の人口)と内陸部(9億の人口)の貧富の格差拡大という問題もある。「平等」が社会主義、共産主義の基本であるが、その岩盤が一挙に崩れる危険をはらむ。内部矛盾が激化する時、全体主義の政治体制においては、必ず行う常套手段がある。国の外に敵を設定し、国民の関心をそちらに逸らして矛盾を覆い隠すことだ。そのことは、旧ソ連や東欧で過去に見てきた通りだ。
日本を敵として真正面から戦争したアメリカやイギリスは、靖国神社に戦犯が合祀されているなどと文句をつけないが、日本を敵として戦っていない共産党政権の中国と、韓国、北朝鮮は日本に対して戦犯問題を抗議してくる。また、こんな異論もある。中国は日本の歴史認識を問題にしているが、中国の歴史認識にも問題があるという。満州を侵略し、満州族の文化、歴史、伝統を破壊して消滅させたのは中国であるという。清朝最後の皇帝の溥儀(ふぎ)、その祖先は満州族の皇帝であり中国全土に領土を拡大して清朝を開き、その皇帝となったのだが、その清朝最後の皇帝の要望を聞いて、満州族の地に戻してあげる役割を担ったのが当時の日本だった。シナ事変も先に引き金を引いたのは中国側だった。それは蒋介石の国民党軍に潜入していた当時の共産党の策動によるものだったという。日本が戦争した相手は、中国共産党政権ではなく、当時、蒋介石の国民党政権であった。
さて、ODA(政府開発援助)の問題である。ODA (Official Development Assistance)、ここ数年、日本の政治家の北京もうでが多い。日本の政治家は北京にせっせと通う。そして、中国から金をつかまされる。国会議員なら2千万円、地方議員なら3百万から5百万円という。それでも中国は採算が充分にとれる。莫大なODAを日本から受けているからだ。こんな話もある。ODAによって組まれたプロジェクトを日本の企業に請け負わせ、その仲介料の利権を握る日本の政治家もいる。これまで日本からのODAは21年間で2兆6千7百億円になる。そもそもODAとは、開発途上国に対する援助だ。経済発展の大きな中国にODAを提供し続けていることにも問題がある。これまでも対中国ODAは見直すべきだという議論があったが、その度に潰されてきた。潰す勢力がいたともいわれる。中国は、他の国に年間5億5千7百万ドルの対外援助を行い、海外への経済伸長を進めている。対外援助をする力のある中国に、ODAで援助する必要はないと思われる。
かつて、太祖ヌルハチが満州に出現し、「金」という国を建て、瀋陽(奉天)を都にした。その息子の太宗は国号を「清」に変えた。更にその子の世宗は北京を占領して中国全土を支配する皇帝になった。その清朝が1912年の辛亥革命によって滅び、最後の皇帝だった溥儀(ふぎ)は、その家庭教師であったイギリス人・ジョンストン卿と共に日本の公使館に逃げ込んできた。父祖の地の満州に戻って清朝を復興したいと熱望し、それを日本が助けて満州国皇帝にしたという経緯がある。このことは、ジョンストン卿の有名な名著「紫禁城の黄昏」に詳しく書かれており、満州国建国に至る政治情勢を客観視している貴重な本でもある。満州国建国が日本の侵略であり皇帝の溥儀(ふぎ)は日本の傀儡だという風評を正してくれている本でもある。平成元年に「ラスト・エンペラー」という映画が公開された。これは、「紫禁城の黄昏」をタネ本にしている。これに便乗して「紫禁城の黄昏」が岩波文庫から出たが、これがとんでもない翻訳で、第1章から第10章までと、第16章全部、それに序章の一部がばっさりと削られ、満州国に関係した人が虫食いのように削られている。そこには、日本が中国を侵略したことにしておきたいという思いが働いているようだ。こんな本が「紫禁城の黄昏」と思ったら大変な間違いだ。その後、詳伝社から出版された「紫禁城の黄昏」は、全て原本の全訳を正確に伝えており、皇帝溥儀(ふぎ)直筆の序文も写真版で入っている。
台湾のことだが、台湾の市民の受け止め方は冷静だ。庶民の居酒屋談義では解放軍はいつ攻め込むんだなどと息巻く場面もあるが、一定の知識層になると、直接選挙で最高指導者を選ぶというやり方に一種の敬意を抱いている。中央政府の建前論とは裏腹に、中国の「民意」は確実に成熟してきている。中国社会では「軍」とか「戦争」という単語は日本よりはるかに身近だ。中国政府の思考では、軍隊という実力に裏打ちされない政治はあり得ない。問題解決の1つのオプションとして軍事的手段というものが常に存在していて、庶民も政治とはそういうものだと思っている。このあたりの感覚は日本人にはなかなか理解しにくい。最近は中国にも日本のスポーツ新聞や駅売りのタブロイド紙に相当するような、政治とエンターテインメントを一緒にしたような新聞が増えている。それらの紙面では、「解放軍は何時間で台湾を制圧できるか?」とか「台湾解放、米軍の出方は?」といった見出しが躍ったこともあった。もちろん政府がオーソライズしたものではなく、いわば庶民の娯楽の一種のようなもの。日本との間の尖閣諸島の話も、領土がテーマになると、どこの国でも議論が熱くなりやすい。庶民の素朴な感覚では、要するに「台湾は自分たちのもの」であって、「米国や日本にそそのかされた連中が、我々の領土を奪っていこうとしている」といった感じに映る。そういう話を通俗的なマスコミが煽り、さらに増幅するという構造になっている。 一方、中国でも政府や共産党の関係者など知識層の人々の話では、そういう単純な話はまず出ない。「台湾独立反対」は共通しているが、そこに至る歴史的な経緯があることを理解しており、性急な解決には反対という人がほとんどなのだ。
日本は、ほかにも領土問題を抱えている。北方四島、尖閣諸島だ。北方四島が日本領土という詳細な理由は周知の事実だ。尖閣諸島は、八重山諸島西表島北方160キロに位置し、魚釣島はじめ八つの小島がある。昔は琉球王家の領土に属し、明治初期頃までは個人の所有者もいた。明治28年、閣議決定により沖縄県に編入、正式に日本領土となった。ところが、中国は、昭和27年のサンフランシスコ平和条約で日本が尖閣諸島の領有権を放棄したから中国の領土と主張した。日本は日清戦争の勝利で得た台湾と澎湖諸島の領有権を確かにサンフランシスコ平和条約で放棄した。だが、中国に返還したのではなく、台湾に戻っただけのことだ。台湾は中国とは別の独立政府である。尖閣諸島は台湾にも澎湖諸島にも含まれない、これは地理学上の常識だ。これをごまかして中国は尖閣諸島の領有を主張しているのは、ごり押しに過ぎない。近頃になって中国は歴史の見直しを行っている。中国人民に一つの国民という強い意識を持たせる対策として行なわれている。紀元前108年、漢の武帝は古朝鮮を征服し4つの郡を決めた。その一つ、玄莵郡に高句麗の地は含まれる。高句麗は漢に抵抗し、紀元前75年前後に高句麗が王国として成立した。中国の見直した歴史では、漢の武帝が征服した事実を強調し、高句麗はシナの伝統的な領土の一部としている。朝鮮や韓国では、古朝鮮を高句麗が継ぎ、高句麗を渤海が継ぎ、渤海を継いだのが北朝鮮であるとしている国のアイデンティティが否定されてしまうことになる。これを容認できるわけがない。
また、中国と北朝鮮国境を流れる鴨緑江の中流右岸、つまり中国東北部(満州)領内に「広開土王碑」というものがある。これは長い間土中に埋もれていたが、清朝時代に再発見され、刻まれた碑文も明らかになった。4世紀後半、高句麗王の広開土王の事跡を顕彰したものである。これによって高句麗は、シナの一部などではなく、漢から独立した王国だったことは明確である。広開土王碑は日本にも深い関係がある。西暦400年、新羅や百済を服属させ、現在の平壌まで占領した日本を、広開土王が破ったと碑文に記されていたのである。日本が朝鮮半島に勢力を伸ばしていた事実を韓国や北朝鮮は認めたくないが、この碑が満州領内にあったのは幸運だったかもしれない。また、高句麗の実効支配は今の中国領内(本来は満州族の領土)にも及んでいたので、鴨緑江流域の中国領は朝鮮の伝統的な領域の一部だという理屈も成り立つ。そのためか、以前はこの碑は、高句麗時代の遺物を収める博物館も建てられ、韓国、北朝鮮からも多くの観光客が訪れていたが、今は厳重に封鎖され、特に韓国、北朝鮮の人は入れなくなっている。
尖閣諸島に関する中国の発言はどうだったのか。
1949年10月1日に誕生した中華人民共和国(以下、中国とのみ表記)は、「尖閣諸島」を含んだ「琉球群島」どう位置付けていたか。中国は「尖閣諸島」を中国流の「釣魚島」と呼ばずに日本流に「尖閣諸島」と呼称し、かつ「琉球群島(沖縄県)に帰属する」と定義している。また琉球群島に関して「いかなる国際協定も琉球群島が日本から脱離すると言ったことはない」(日本に帰属することを否定したことはない)とさえ言っている。これは「尖閣諸島は中国のものではない」と中国政府が断言していたことになる。この発言は、中国共産党の機関紙である「人民日報」が何度も載せている。また「人民日報」だけでなく毛沢東自身も明確に「沖縄県は日本の領土」と言明し「尖閣諸島」を除外していない。
1953年1月8日付け「人民日報」、「人民日報」には昔から「資料」という欄があった。一般の記事や社説とは別に、あまり社会現象を知らない人や話題となっているトピックスに関して別枠で解説するものだ。1953年1月8日付の「資料」欄には「アメリカの占領に反対する琉球群島人民の闘争」と言うタイトルの解説が載った。『チャイナ・ギャップ』p.131の資料5、最初の部分に以下のようなことが書いてある。
琉球群島は我が国・台湾東北と日本の九州西南の海面上に散在しており、尖閣諸島、 先島諸島、大東諸島、沖縄諸島、大島諸島、トカラ諸島、大隅諸島等を含む、七組の島嶼(とうしょ)から成る。 そう定義した上で、「アメリカ帝国主義の占領に対して琉球人民が抗議し闘争している」ことを紹介、そして「琉球人民よ、頑張れ!」と「エール」を送っている。中国流の呼称である「釣魚島」を使わず日本的呼称の「尖閣諸島」を用いて表現し、かつ「尖閣諸島」を「琉球群島」の領土として定義している。これは「尖閣は日本の領土」と認めているということだ。いま中国では、「これは単なる資料であって、中国政府の見解を示したものではない」という弁明が数多く聞かれる。中国のネット空間には「日本はいよいよ日本の領土であると主張する根拠が無くなったので、ついには藁(わら)をもつかむような気持ちで古い『人民日報』の揚げ足を取り始めた」という書き込みもある。
さて、中国政府は、トウ小平の時から尖閣問題をこじらせぬようにしてきたが、中国人の反日感情に押され、今は日本批判を強めざるを得なくなっている。米国のWSJ(World street journal)紙が書いている「97年の漁業協定」とは、97年に締結され、2000年に発効した日中漁業協定を指す。日中漁業協定に、尖閣諸島周辺の海域での操業に対する取り締まり権については何も決めていない。97年の日中漁業協定について、WSJの記事に「尖閣諸島周辺に関しては、暫定措置水域を設置するという形で妥協的な解決がはかられた。暫定措置水域内では、いずれの国の漁船も相手国の許可を得ることなく操業することができ、各国は自国の漁船についてのみ取り締まり権限を有する」と書いているのは疑わしい。97年締結の日中漁業協定(正式名:漁業に関する日本国と中華人民共和国との間の協定)の原文を見ると、第7条で暫定措置水域が定義されている。だが、その水域は北緯27度以北。北緯25-26度にある尖閣諸島の領海は、暫定措置水域に含まれていない。北緯27度線は、尖閣諸島より100キロほど北にあり、尖閣諸島の周辺の排他的経済水域(半径200海里=370キロ)の北辺は、日中両国の漁船が自由に操業できる暫定措置水域に入るが、今回、海保が中国漁船を拿捕した尖閣の領海内は暫定措置水域の外にある。
尖閣諸島周辺の、北緯27度以南の東シナ海(東海)は、そもそも97年の日中漁業協定の対象外だ。協定の第6条(b)で除外されている水域にあたる。97年の前には、1955年と65年などに、日中間で漁業協定(国交樹立前なので民間協定)が締結されているが、そのいずれも、北緯27度より北の海域を協定の対象としている。つまり、尖閣諸島の領海には、日中間の漁業協定が何も存在しない。
日中漁業協定はもともと、1950-60年代に日本の漁船が東シナ海や黄海の中国の沖合の領海間近(ときに領海内)まで行ってさかんに漁を行ったため、まだ貧しく漁業技術が低かった中国側が日本側の乱獲に抗議し、協定が作られた。中国は1958年に領海を3海里から12海里に拡張すると宣言したが、中国の領海近くでさかんに漁をしていた日本側はそれを認めなかった。中国側が日本の尖閣諸島領有に反対し始めたのは、1971年の沖縄返還で、米国が尖閣諸島を沖縄の一部として日本の領土にしてからのことだ。78年に日中平和友好条約を結んだとき、トウ小平の提案で日中は尖閣諸島の領土紛争を棚上げした。(中国の領海声明に関する外務省情文局長の談話 1958年9月5日) その後、高度経済成長した中国は、尖閣諸島から東シナ海にかけての海域の海底資源や漁業資源を欲するようになり、92年に海洋法を制定して尖閣諸島(釣魚台)の領有権を盛り込んだ。尖閣の近海に中国の漁船が押し掛けて操業するようになり、東シナ海のガス田開発も始まった。日本の海保は、中国漁船を監視する巡視船を尖閣周辺に配置してきたが、トウ小平以来の日中間の領土紛争棚上げの合意もあり、これまで日本側は尖閣領海で、台湾や香港の船を激しく追尾しても、中国の船を拿捕・逮捕したことはなかった。日本も中国も、民間に「尖閣(釣魚台)を守れ」と主張する政治活動家がいても、政府としては対立を避ける姿勢を互いに採ってきた。その意味で日本の当局が中国の漁船を拿捕し船長を起訴する方針を固めたことは、日本が政府として中国との対立を決意するという、対中国政策の劇的な大転換を意味する画期的な動きだったことになる。
日本政府は「漁船がぶつかってきたのだから逮捕は当然。中国政府の怒りは不当だ」と言い、日本のマスコミの論調も同様。そして中国側は、衝突の際に海保と漁船のどちらが悪かったかについて、現場に当事者以外誰もいなかったので何も反論できず、人民日報英語版の報道も、その部分は「日本では、漁船の方からぶつかったと報じられている」としか書いていない。中国政府は、衝突時の経緯について反論できず、日本の主張が通っている。尖閣領海内は日中漁業協定の範囲外だが、外交的に日中間には、尖閣について日中は敵対しないという、トウ小平以来の日中の了解がある。今回、日本側がそれを破棄し、日本の法律を使って中国漁船員を逮捕するという、領有権をめぐる強い主張に踏み切ったので、中国政府は驚き、怒ったと考えられる。 事件後、中国当局は、尖閣周辺で操業する中国人漁民を保護するため、準軍事部隊である漁業監視船を派遣することにした。史上初めて、日本(海保)と中国(農業省傘下の漁業監視船)の軍事的な部隊が、海上で対峙する状況が生まれた。戦後65年なかったことである。
振り返ってみると、中国が「釣魚島は中国の領土」と言い始めるのは1970年1月~2月に在米台湾留学生が「琉球は台湾の領土」というデモを米国で始めてからだ。これは1969年11月の日米首脳による沖縄返還共同声明がきっかけだった。それはやがて、68年10月~11月のECAFE(国連アジア極東経済委員会)が尖閣のある東シナ海海底に石油資源が埋蔵しているという報告と結び付いて「釣魚島(台湾では釣魚台)は台湾のもの」という主張に変わっていった。中華人民共和国が「釣魚島は中国のもの」と公式の場で言い始めるのは国連に加盟してから2カ月後の71年12月のこと。しかも主張の根拠は「台湾は中国のものだから、台湾が釣魚島は台湾のものと言うのなら、それは中国のものである」という論理だった。だが、1895年に明治政府が尖閣諸島を沖縄県に編入すると閣議決定してから1971年まで中国は釣魚島(尖閣)を琉球(沖縄)から切り離して論じたことはなかった。「中華民国」の蒋介石は「沖縄は要らない」と言っただけだが、中華人民共和国は自ら積極的に「尖閣は沖縄に所属し、沖縄は日本の県である」と明言していたのも事実だ。
島根県による「竹島の日」の制定や、これに伴う記念行事、日本教科書の竹島記述は、竹島を領土問題と見るならば、韓国の「独島」不法占拠、「独島領有権」教育に比べ、国際的に見ても決して理不尽な行動ではない。むしろ、非常に抑制された行動と言える。それでも韓国が反発するのは、歴史的に韓国が領有してきており、日本の領有権の主張には具体的な根拠がないとの見解に基づくもの。韓国の国民は日本の領有権の根拠を知らない。自分たちに都合の悪いことは知ろうとしない。韓国では、「良心的日本人」という言葉があるが、要するに竹島は韓国の領土だとする韓国迎合の日本人が若干名おり、それが、韓国では広く紹介されている。日本が竹島を領有する根拠を具体的に示していくことが重要になる。日本が国際司法裁判所に提訴するという動きに韓国政府が応じることは韓国の国内政治上困難ではあるが、日本が確かな根拠を有していることを示す上で有益なことかもしれない。日韓関係が悪化するというリスクも大きい。竹島問題の進展は一朝一夕には起こらないかもしれないが、中長期的視野で戦略的に前進させることが得策のようだ。
韓国は竹島の記念切手を発行していた。つまり竹島が韓国領土だと広言していた。竹島は島根県隠岐島の北西159キロ、韓国の欝陵(うつりょう)島の南東192キロに位置し、二つの大きな岩礁と数十の小岩礁から成る。この竹島が日本領土であることを示す確かな資料は多い。特に江戸時代には豊富にある。また島根県には詳細な文献資料も整理されている。一方、韓国には全く無いが、日本は、明治38年に竹島の領有権を確認し、以後、これに対する他国からの異論や抗議は出てこなかった。
韓国が竹島の領有権を唱え出したのは、戦後になってからのこと、すなわち韓国の初代大統領の李承晩が、海上に何の根拠もない線引きをして、韓国の領海を宣言した。それは悪名高き「李承晩ライン」といわれた。たまたま、竹島はその李承晩ラインの韓国側に位置していた。それだけが韓国領有を主張する根拠であった。そんなものが国際的に通用するはずはない。従って、日本が日韓国交正常化交渉や排他的経済水域設定などの機会に、この竹島領有問題を国際審判所で話し合いをしようとした時、韓国側は逃げて応じようとはしなかった。公の場で論じれば韓国は負けてしまうことを承知していた。だから、出てこない。既成事実をつくるのが勝ちとばかりに韓国は竹島を占拠し、事実上、韓国に占拠された状態になった。更に記念切手の発行もあり、地図にも竹島を韓国領土として記載している。韓国は、話し合いでは不都合なので、あくまでも既成事実を固めてしまおうとしているようだ。これまでの日本政府の怠慢もあるようだ。「李承晩ライン」撤廃の時、排他的経済水域設定の時、日韓国交正常化の時に、問題を明確にするチャンスは何度もあった。日韓国交正常化交渉の時には、朴大統領は日本からの資金援助なしには韓国を成長路線に乗せてゆくことが不可能な時であった。日本は、これを竹島問題の取引材料にも使おうとせず、経済援助のみで、ずるずると今日まできてしまったともいえる。
通常、実効支配している国が領有権で国民運動などして騒がないものだ。韓国が実効支配しているのに騒ぐのは「本当は日本の領土」と知っているからであろう。騒ぐべきは日本なのだ。島根県議会が領有権を明確にする行動に出たのは正しいし、これを日本政府が強く後押しすべきなのである。海面に岩礁が出ているだけで、人も住めない島と思いがちだが、そこが国土となるだけで領海や排他的経済水域が広がり、その有利さは計り知れなくなる。日本の漁業権にも大きな影響がある。一つ譲れば、それを突破口に次々と侵食されるのが領土問題だ。
さて、台湾海峡に危機が高まったことがある。それは、中国が台湾に武力侵攻する構えを見せた時、アメリカは即座に空母2隻を台湾海峡に派遣し、中国は手も足も出すことができなかった。この経験が中国には身にしみている。中国は台湾と事を構えるには、台湾の東側海域に原子力潜水艦を展開し、米軍空母を抑え込まなければならないと考える。そのため潜水艦の行動に重要な海底の様子や海水の状態を調査し、米軍や日本自衛隊の反応を探る目的で中国原子力潜水艦が出てくる。しかし、武力でアメリカに勝てるわけがないと中国も承知している。にもかかわらず原子力潜水艦がグアム島まで航行し、さらに日本の領海を侵犯する行動に出たのは、来るべき対決に備える準備でもある。中国の台湾に対する領土的野心は強い。
歴史的に中国が台湾を実効支配したことは一度もない。台湾を実効支配した権力といえば、戦前の日本が最初だった。その日本が太平洋戦争に敗れ、台湾の領有権を放棄した。台湾の領有権を中国に返還したのではなく、ただ放棄した。その時点で台湾は台湾のものになった。ところが、その間隙をぬって、大陸では毛沢東の共産党軍との権力闘争に敗れた蒋介石の国民党軍が台湾に逃げ込み、台湾を侵略した。蒋介石の国民党は中国大陸の正当な政権ではないので、これをもって台湾を中国固有の領土と主張することもできない。その後、台湾は、蒋介石が退き、その息子の蒋経国も退く間に、国民党の一党独裁をはねのけ、静かな民主革命を成し遂げている。台湾は2千万の人口と経済力を持ち、民主主義を成熟させて、自分たちで政権を総選挙で選び、国家を運営してきた。この台湾を国家として認めようとしない中国の、国際社会への偽善がある。台湾問題は中国の国内問題だという説明に我々は騙されてきている。仮にも台湾が中国に侵略併合され中国領土になった場合、東シナ海は中国の内海になる。現在、中国は尖閣列島に野心を抱き、海底資源の探索に動き、日本に抗議し、話し合いをしようとしている。東シナ海が中国の内海になると、中国の圧力は容赦なく沖縄に及んでくる。つまり、台湾問題は日本の安全保障問題になってくる。そして日米同盟の重要性が更に高まる。実は、台湾法というのが米国にあって、いざという時には、米国は武力で台湾を支援することになっている。
中国は矛盾を抱えた国でもある。経済発展は開放経済の賜物であり、それは市場経済、そして資本主義経済によるものだ。本来は、この開放経済を円滑に回転させていく政治は自由主義によるものだが、中国の政治は共産党一党独裁の全体主義。国民による国政選挙もない。政治が全体主義で、それでいて経済が自由主義、これは根本的に矛盾している。その運営を間違えれば、バブルがはじけかねない危険をはらむ。それでなくても、中国には沿岸部(4億の人口)と内陸部(9億の人口)の貧富の格差拡大という問題もある。「平等」が社会主義、共産主義の基本であるが、その岩盤が一挙に崩れる危険をはらむ。内部矛盾が激化する時、全体主義の政治体制においては、必ず行う常套手段がある。国の外に敵を設定し、国民の関心をそちらに逸らして矛盾を覆い隠すことだ。そのことは、旧ソ連や東欧で過去に見てきた通りだ。
日本を敵として真正面から戦争したアメリカやイギリスは、靖国神社に戦犯が合祀されているなどと文句をつけないが、日本を敵として戦っていない共産党政権の中国と、韓国、北朝鮮は日本に対して戦犯問題を抗議してくる。また、こんな異論もある。中国は日本の歴史認識を問題にしているが、中国の歴史認識にも問題があるという。満州を侵略し、満州族の文化、歴史、伝統を破壊して消滅させたのは中国であるという。清朝最後の皇帝の溥儀(ふぎ)、その祖先は満州族の皇帝であり中国全土に領土を拡大して清朝を開き、その皇帝となったのだが、その清朝最後の皇帝の要望を聞いて、満州族の地に戻してあげる役割を担ったのが当時の日本だった。シナ事変も先に引き金を引いたのは中国側だった。それは蒋介石の国民党軍に潜入していた当時の共産党の策動によるものだったという。日本が戦争した相手は、中国共産党政権ではなく、当時、蒋介石の国民党政権であった。
さて、ODA(政府開発援助)の問題である。ODA (Official Development Assistance)、ここ数年、日本の政治家の北京もうでが多い。日本の政治家は北京にせっせと通う。そして、中国から金をつかまされる。国会議員なら2千万円、地方議員なら3百万から5百万円という。それでも中国は採算が充分にとれる。莫大なODAを日本から受けているからだ。こんな話もある。ODAによって組まれたプロジェクトを日本の企業に請け負わせ、その仲介料の利権を握る日本の政治家もいる。これまで日本からのODAは21年間で2兆6千7百億円になる。そもそもODAとは、開発途上国に対する援助だ。経済発展の大きな中国にODAを提供し続けていることにも問題がある。これまでも対中国ODAは見直すべきだという議論があったが、その度に潰されてきた。潰す勢力がいたともいわれる。中国は、他の国に年間5億5千7百万ドルの対外援助を行い、海外への経済伸長を進めている。対外援助をする力のある中国に、ODAで援助する必要はないと思われる。
かつて、太祖ヌルハチが満州に出現し、「金」という国を建て、瀋陽(奉天)を都にした。その息子の太宗は国号を「清」に変えた。更にその子の世宗は北京を占領して中国全土を支配する皇帝になった。その清朝が1912年の辛亥革命によって滅び、最後の皇帝だった溥儀(ふぎ)は、その家庭教師であったイギリス人・ジョンストン卿と共に日本の公使館に逃げ込んできた。父祖の地の満州に戻って清朝を復興したいと熱望し、それを日本が助けて満州国皇帝にしたという経緯がある。このことは、ジョンストン卿の有名な名著「紫禁城の黄昏」に詳しく書かれており、満州国建国に至る政治情勢を客観視している貴重な本でもある。満州国建国が日本の侵略であり皇帝の溥儀(ふぎ)は日本の傀儡だという風評を正してくれている本でもある。平成元年に「ラスト・エンペラー」という映画が公開された。これは、「紫禁城の黄昏」をタネ本にしている。これに便乗して「紫禁城の黄昏」が岩波文庫から出たが、これがとんでもない翻訳で、第1章から第10章までと、第16章全部、それに序章の一部がばっさりと削られ、満州国に関係した人が虫食いのように削られている。そこには、日本が中国を侵略したことにしておきたいという思いが働いているようだ。こんな本が「紫禁城の黄昏」と思ったら大変な間違いだ。その後、詳伝社から出版された「紫禁城の黄昏」は、全て原本の全訳を正確に伝えており、皇帝溥儀(ふぎ)直筆の序文も写真版で入っている。
台湾のことだが、台湾の市民の受け止め方は冷静だ。庶民の居酒屋談義では解放軍はいつ攻め込むんだなどと息巻く場面もあるが、一定の知識層になると、直接選挙で最高指導者を選ぶというやり方に一種の敬意を抱いている。中央政府の建前論とは裏腹に、中国の「民意」は確実に成熟してきている。中国社会では「軍」とか「戦争」という単語は日本よりはるかに身近だ。中国政府の思考では、軍隊という実力に裏打ちされない政治はあり得ない。問題解決の1つのオプションとして軍事的手段というものが常に存在していて、庶民も政治とはそういうものだと思っている。このあたりの感覚は日本人にはなかなか理解しにくい。最近は中国にも日本のスポーツ新聞や駅売りのタブロイド紙に相当するような、政治とエンターテインメントを一緒にしたような新聞が増えている。それらの紙面では、「解放軍は何時間で台湾を制圧できるか?」とか「台湾解放、米軍の出方は?」といった見出しが躍ったこともあった。もちろん政府がオーソライズしたものではなく、いわば庶民の娯楽の一種のようなもの。日本との間の尖閣諸島の話も、領土がテーマになると、どこの国でも議論が熱くなりやすい。庶民の素朴な感覚では、要するに「台湾は自分たちのもの」であって、「米国や日本にそそのかされた連中が、我々の領土を奪っていこうとしている」といった感じに映る。そういう話を通俗的なマスコミが煽り、さらに増幅するという構造になっている。 一方、中国でも政府や共産党の関係者など知識層の人々の話では、そういう単純な話はまず出ない。「台湾独立反対」は共通しているが、そこに至る歴史的な経緯があることを理解しており、性急な解決には反対という人がほとんどなのだ。
日本は、ほかにも領土問題を抱えている。北方四島、尖閣諸島だ。北方四島が日本領土という詳細な理由は周知の事実だ。尖閣諸島は、八重山諸島西表島北方160キロに位置し、魚釣島はじめ八つの小島がある。昔は琉球王家の領土に属し、明治初期頃までは個人の所有者もいた。明治28年、閣議決定により沖縄県に編入、正式に日本領土となった。ところが、中国は、昭和27年のサンフランシスコ平和条約で日本が尖閣諸島の領有権を放棄したから中国の領土と主張した。日本は日清戦争の勝利で得た台湾と澎湖諸島の領有権を確かにサンフランシスコ平和条約で放棄した。だが、中国に返還したのではなく、台湾に戻っただけのことだ。台湾は中国とは別の独立政府である。尖閣諸島は台湾にも澎湖諸島にも含まれない、これは地理学上の常識だ。これをごまかして中国は尖閣諸島の領有を主張しているのは、ごり押しに過ぎない。近頃になって中国は歴史の見直しを行っている。中国人民に一つの国民という強い意識を持たせる対策として行なわれている。紀元前108年、漢の武帝は古朝鮮を征服し4つの郡を決めた。その一つ、玄莵郡に高句麗の地は含まれる。高句麗は漢に抵抗し、紀元前75年前後に高句麗が王国として成立した。中国の見直した歴史では、漢の武帝が征服した事実を強調し、高句麗はシナの伝統的な領土の一部としている。朝鮮や韓国では、古朝鮮を高句麗が継ぎ、高句麗を渤海が継ぎ、渤海を継いだのが北朝鮮であるとしている国のアイデンティティが否定されてしまうことになる。これを容認できるわけがない。
また、中国と北朝鮮国境を流れる鴨緑江の中流右岸、つまり中国東北部(満州)領内に「広開土王碑」というものがある。これは長い間土中に埋もれていたが、清朝時代に再発見され、刻まれた碑文も明らかになった。4世紀後半、高句麗王の広開土王の事跡を顕彰したものである。これによって高句麗は、シナの一部などではなく、漢から独立した王国だったことは明確である。広開土王碑は日本にも深い関係がある。西暦400年、新羅や百済を服属させ、現在の平壌まで占領した日本を、広開土王が破ったと碑文に記されていたのである。日本が朝鮮半島に勢力を伸ばしていた事実を韓国や北朝鮮は認めたくないが、この碑が満州領内にあったのは幸運だったかもしれない。また、高句麗の実効支配は今の中国領内(本来は満州族の領土)にも及んでいたので、鴨緑江流域の中国領は朝鮮の伝統的な領域の一部だという理屈も成り立つ。そのためか、以前はこの碑は、高句麗時代の遺物を収める博物館も建てられ、韓国、北朝鮮からも多くの観光客が訪れていたが、今は厳重に封鎖され、特に韓国、北朝鮮の人は入れなくなっている。
尖閣諸島に関する中国の発言はどうだったのか。
1949年10月1日に誕生した中華人民共和国(以下、中国とのみ表記)は、「尖閣諸島」を含んだ「琉球群島」どう位置付けていたか。中国は「尖閣諸島」を中国流の「釣魚島」と呼ばずに日本流に「尖閣諸島」と呼称し、かつ「琉球群島(沖縄県)に帰属する」と定義している。また琉球群島に関して「いかなる国際協定も琉球群島が日本から脱離すると言ったことはない」(日本に帰属することを否定したことはない)とさえ言っている。これは「尖閣諸島は中国のものではない」と中国政府が断言していたことになる。この発言は、中国共産党の機関紙である「人民日報」が何度も載せている。また「人民日報」だけでなく毛沢東自身も明確に「沖縄県は日本の領土」と言明し「尖閣諸島」を除外していない。
1953年1月8日付け「人民日報」、「人民日報」には昔から「資料」という欄があった。一般の記事や社説とは別に、あまり社会現象を知らない人や話題となっているトピックスに関して別枠で解説するものだ。1953年1月8日付の「資料」欄には「アメリカの占領に反対する琉球群島人民の闘争」と言うタイトルの解説が載った。『チャイナ・ギャップ』p.131の資料5、最初の部分に以下のようなことが書いてある。
琉球群島は我が国・台湾東北と日本の九州西南の海面上に散在しており、尖閣諸島、 先島諸島、大東諸島、沖縄諸島、大島諸島、トカラ諸島、大隅諸島等を含む、七組の島嶼(とうしょ)から成る。 そう定義した上で、「アメリカ帝国主義の占領に対して琉球人民が抗議し闘争している」ことを紹介、そして「琉球人民よ、頑張れ!」と「エール」を送っている。中国流の呼称である「釣魚島」を使わず日本的呼称の「尖閣諸島」を用いて表現し、かつ「尖閣諸島」を「琉球群島」の領土として定義している。これは「尖閣は日本の領土」と認めているということだ。いま中国では、「これは単なる資料であって、中国政府の見解を示したものではない」という弁明が数多く聞かれる。中国のネット空間には「日本はいよいよ日本の領土であると主張する根拠が無くなったので、ついには藁(わら)をもつかむような気持ちで古い『人民日報』の揚げ足を取り始めた」という書き込みもある。
さて、中国政府は、トウ小平の時から尖閣問題をこじらせぬようにしてきたが、中国人の反日感情に押され、今は日本批判を強めざるを得なくなっている。米国のWSJ(World street journal)紙が書いている「97年の漁業協定」とは、97年に締結され、2000年に発効した日中漁業協定を指す。日中漁業協定に、尖閣諸島周辺の海域での操業に対する取り締まり権については何も決めていない。97年の日中漁業協定について、WSJの記事に「尖閣諸島周辺に関しては、暫定措置水域を設置するという形で妥協的な解決がはかられた。暫定措置水域内では、いずれの国の漁船も相手国の許可を得ることなく操業することができ、各国は自国の漁船についてのみ取り締まり権限を有する」と書いているのは疑わしい。97年締結の日中漁業協定(正式名:漁業に関する日本国と中華人民共和国との間の協定)の原文を見ると、第7条で暫定措置水域が定義されている。だが、その水域は北緯27度以北。北緯25-26度にある尖閣諸島の領海は、暫定措置水域に含まれていない。北緯27度線は、尖閣諸島より100キロほど北にあり、尖閣諸島の周辺の排他的経済水域(半径200海里=370キロ)の北辺は、日中両国の漁船が自由に操業できる暫定措置水域に入るが、今回、海保が中国漁船を拿捕した尖閣の領海内は暫定措置水域の外にある。
尖閣諸島周辺の、北緯27度以南の東シナ海(東海)は、そもそも97年の日中漁業協定の対象外だ。協定の第6条(b)で除外されている水域にあたる。97年の前には、1955年と65年などに、日中間で漁業協定(国交樹立前なので民間協定)が締結されているが、そのいずれも、北緯27度より北の海域を協定の対象としている。つまり、尖閣諸島の領海には、日中間の漁業協定が何も存在しない。
日中漁業協定はもともと、1950-60年代に日本の漁船が東シナ海や黄海の中国の沖合の領海間近(ときに領海内)まで行ってさかんに漁を行ったため、まだ貧しく漁業技術が低かった中国側が日本側の乱獲に抗議し、協定が作られた。中国は1958年に領海を3海里から12海里に拡張すると宣言したが、中国の領海近くでさかんに漁をしていた日本側はそれを認めなかった。中国側が日本の尖閣諸島領有に反対し始めたのは、1971年の沖縄返還で、米国が尖閣諸島を沖縄の一部として日本の領土にしてからのことだ。78年に日中平和友好条約を結んだとき、トウ小平の提案で日中は尖閣諸島の領土紛争を棚上げした。(中国の領海声明に関する外務省情文局長の談話 1958年9月5日) その後、高度経済成長した中国は、尖閣諸島から東シナ海にかけての海域の海底資源や漁業資源を欲するようになり、92年に海洋法を制定して尖閣諸島(釣魚台)の領有権を盛り込んだ。尖閣の近海に中国の漁船が押し掛けて操業するようになり、東シナ海のガス田開発も始まった。日本の海保は、中国漁船を監視する巡視船を尖閣周辺に配置してきたが、トウ小平以来の日中間の領土紛争棚上げの合意もあり、これまで日本側は尖閣領海で、台湾や香港の船を激しく追尾しても、中国の船を拿捕・逮捕したことはなかった。日本も中国も、民間に「尖閣(釣魚台)を守れ」と主張する政治活動家がいても、政府としては対立を避ける姿勢を互いに採ってきた。その意味で日本の当局が中国の漁船を拿捕し船長を起訴する方針を固めたことは、日本が政府として中国との対立を決意するという、対中国政策の劇的な大転換を意味する画期的な動きだったことになる。
日本政府は「漁船がぶつかってきたのだから逮捕は当然。中国政府の怒りは不当だ」と言い、日本のマスコミの論調も同様。そして中国側は、衝突の際に海保と漁船のどちらが悪かったかについて、現場に当事者以外誰もいなかったので何も反論できず、人民日報英語版の報道も、その部分は「日本では、漁船の方からぶつかったと報じられている」としか書いていない。中国政府は、衝突時の経緯について反論できず、日本の主張が通っている。尖閣領海内は日中漁業協定の範囲外だが、外交的に日中間には、尖閣について日中は敵対しないという、トウ小平以来の日中の了解がある。今回、日本側がそれを破棄し、日本の法律を使って中国漁船員を逮捕するという、領有権をめぐる強い主張に踏み切ったので、中国政府は驚き、怒ったと考えられる。 事件後、中国当局は、尖閣周辺で操業する中国人漁民を保護するため、準軍事部隊である漁業監視船を派遣することにした。史上初めて、日本(海保)と中国(農業省傘下の漁業監視船)の軍事的な部隊が、海上で対峙する状況が生まれた。戦後65年なかったことである。
振り返ってみると、中国が「釣魚島は中国の領土」と言い始めるのは1970年1月~2月に在米台湾留学生が「琉球は台湾の領土」というデモを米国で始めてからだ。これは1969年11月の日米首脳による沖縄返還共同声明がきっかけだった。それはやがて、68年10月~11月のECAFE(国連アジア極東経済委員会)が尖閣のある東シナ海海底に石油資源が埋蔵しているという報告と結び付いて「釣魚島(台湾では釣魚台)は台湾のもの」という主張に変わっていった。中華人民共和国が「釣魚島は中国のもの」と公式の場で言い始めるのは国連に加盟してから2カ月後の71年12月のこと。しかも主張の根拠は「台湾は中国のものだから、台湾が釣魚島は台湾のものと言うのなら、それは中国のものである」という論理だった。だが、1895年に明治政府が尖閣諸島を沖縄県に編入すると閣議決定してから1971年まで中国は釣魚島(尖閣)を琉球(沖縄)から切り離して論じたことはなかった。「中華民国」の蒋介石は「沖縄は要らない」と言っただけだが、中華人民共和国は自ら積極的に「尖閣は沖縄に所属し、沖縄は日本の県である」と明言していたのも事実だ。