話を藤原京の時代から始めると、当時の天皇(女帝)の持統天皇は一人息子の草壁皇子(くさかべのみこ)が早死にしてしまったため、草壁皇子の遺児である珂瑠皇子(かるのみこ)に皇位を譲ろうと考え、弱冠14歳の珂瑠皇子を文武天皇(もんむてんのう)として即位させる(697年)。この14歳の少年への譲位には反対者も多く、持統天皇が上皇となって文武天皇を補佐したが、持統天皇は702年に亡くなる。藤原不比等(ふじわらのふひと・藤原鎌足の息子)は自分の娘の藤原宮子(ふじわらのみやこ)を文武天皇の夫人にする (697年)、その後、文武天皇と藤原宮子との間に首皇子(おびとのみこ・後の聖武天皇)」が生まれる(701年)。藤原氏はこの後、自分の娘を天皇の夫人とし天皇家と親戚関係を結んでゆくことになる。聖武天皇は奈良時代の中頃、深く仏教を信仰し全国に国分寺、国分尼寺を建立し、また奈良の大仏を完成させた天皇であり、天平文化の黄金時代を築いた天皇でもある。
生来病弱であった文武天皇は25歳の若さで亡くなった(707年)。息子の首皇子はまだ7歳、天皇どころか皇太子にすらなれない年齢だった。文武天皇の遺言により首皇子が成人するまでは文武天皇の母親である(草壁皇子の妻・首皇子の祖母でもある)阿閇皇女(あへのひめみこ)に譲位が決定、阿閇皇女は元明天皇(げんめいてんのう)として即位する(707年)。元明天皇は藤原不比等を重用し、和同開珎(わどうかいちん・貨幣)を鋳造(708年)、平城京(へいじょうきょう)への遷都(710年)、「風土記(ふどき・日本最古の地誌)」の編纂(713年)、更に律令制を大いに進める。そして714年、14歳となった首皇子はようやく皇太子(こうたいし・皇位継承者)となり、元明天皇は翌年の715年に引退を決意する。首皇子は皇太子になったとはいえ年齢も若く、天皇に即位するには少し不安もあり、元明天皇は娘(文武天皇の姉でもある)氷高皇女(ひだかのひめみこ)を元正天皇(げんしょうてんのう)として即位させる(715年)。この元正天皇も母親の元明天皇と同様、首皇子が成人するまでの間の中継ぎとしての天皇だった。この頃に「三世一身法(さんぜいっしんのほう)」(723年)が出されている。皇太子となったことで天皇の座が決定的となった首皇子に対して、藤原不比等は自分の娘である藤原安宿媛(ふじわらのあすかべひめ)を差しだし、首皇子の夫人にさせる(716年)。そして724年、24歳という立派な大人に成長した首皇子(おびとのみこ・後の聖武天皇)は元正天皇の跡を継いで聖武天皇(しょうむてんのう)として即位、元正天皇は聖武天皇の後見人として上皇となった。
その3年後、藤原安宿媛との間に念願の皇子が誕生し、基親王(もといのみこ)と名付けられる。ここから歴史は動き出す。すなわち、光明子(こうみょうし)の登場、本名は藤原安宿媛(ふじわらのあすかべひめ)と言い、光明子というのは美称であり、皇族でも何でもない。聖武天皇の皇后にまでなる女性だ。基親王の誕生を喜んだのは藤原不比等(720年没)の息子達、藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)、藤原房前(ふじわらのふささき)、藤原宇合(ふじわらのうまかい)、藤原麻呂(ふじわらのまろ)、の4兄弟だ。基親王の母親である藤原安宿媛は自分たち4兄弟の妹なので、基親王(もといのみこ)が皇太子・天皇になれば4兄弟は天皇の親戚(伯父)として権力を使える。そこで藤原氏安泰のため、生後一ヶ月の基親王(おびとのみこ)を聖武天皇の皇太子にする。皇族であり、有力な皇位継承者である長屋王(ながやおう・高市皇子の息子で天武天皇の孫)などは藤原4兄弟に反感を持つが、うかつに手出しは出来ない。そして長屋王対藤原4兄弟の対立が表面化してゆく。武智麻呂・房前・宇合・麻呂はそれぞれが「南家」「北家」「式家」「京家」の「藤原四家」に分裂、それぞれが互いに勢力を競い合い、藤原氏の勢力拡大の一因となる。不運なことに皇太子である基親王(もといのみこ)は満1歳の誕生日の直前に亡くなる(728年)、その上、藤原氏の血縁者以外の妃から皇子「安積皇子(あさかのみこ)」が誕生する。幼い基親王が亡くなった事は、聖武天皇とその皇后の藤原安宿媛(ふじわらのあすかべひめ)が仏教信仰へ入り込んでいくきっかけになる。
新皇子の安積皇子は聖武天皇の唯一の皇子であり、皇太子となり天皇となってゆく。藤原4兄弟にとっては自分たちの血を引かない安積皇子が皇太子となることは絶対に避けたい。そこで藤原4兄弟は妹の藤原安宿媛(聖武天皇の皇后)によって藤原氏の勢力の安定を狙う。この当時は天皇の妻は「皇后」「妃」「夫人」など色々とランク分けされていて、特に「皇后」については天皇と共に政治を仕切る政治のパートナーとしての役割もあり、天皇に万一のことがあれば皇后が代わりに国政を担う。よって「皇后」「妃」については皇族だけにしか与えられず、いくら権力者であっても臣下である藤原一族では皇后は無理で、この藤原安宿媛(ふじわらのあすかべひめ)を皇后にしようとする計画は長屋王などの皇族の猛反対が当然予想される。そこで藤原4兄弟は長屋王を陥れるため、「幼い基皇子が亡くなったのは長屋王が呪い殺したからだ」との虚言を流し、長屋王は即刻捕らえられ、厳しい尋問を受け翌日に自刃する(729年の長屋王の変。その半年後、臣下の娘である藤原安宿媛(ふじわらのあすかべひめ)が聖武天皇の皇后になるという異例の詔(みことのり)が出る(729年)。この詔は聖武天皇に万が一の事が起きれば、国政は天皇家の人間ではなく藤原一族の娘が仕切ることになり、天皇家による政治が断絶してしまうという危険性があった。しかし、聖武天皇が藤原安宿媛との間に生まれた阿倍内親王(あべのないしんのう・基親王(もといのみこ)の姉)を史上初の女性皇太子とすることになり、天皇家による政治が断絶してしまう危険は回避された。
その後、仏教の信仰が厚い藤原安宿媛は730年、人々のために自分の財産を使って全国各地の薬草を集めさせ施薬院(せやくいん)という病人に薬を与える施設を造ったり、また同じ頃、貧しい人々の救済のために悲田院(ひでんいん)という施設を造ったりと立派な業績を残す。この立派な行いにより、藤原安宿媛は人々から大変に慕われ、740年頃には光明子と呼ばれるようになり、光明皇后(こうみょうこうごう)の名が歴史に刻まれる。奈良の大仏、正式には盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)は金銅仏としては世界最大で、また盧舎那大仏が安置されている東大寺も木造建築物としては世界最大である。737年、日本各地に天然痘(伝染病)が流行し民衆に多数の死者が出る。その天然痘は藤原安宿媛の兄達「藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)」「藤原房前(ふじわらのふささき)」「藤原宇合(ふじわらのうまかい)」「藤原麻呂(ふじわらのまろ)」にも次々と襲いかかり、4月17日に次男の房前が、7月12日には四男の麻呂が、7月25日に長男の武智麻呂、そして8月には三男の宇合も亡くなる。藤原4兄弟が亡くなった後、元皇族であった橘諸兄(たちばなのもろえ)が重用され、唐への留学から帰国した吉備真備(きびのまきび)や玄昉(げんぼう)らと共に疫病で乱れた政治の立て直しをはかる。橘諸兄らによる改革が進む中、不幸な出来事が起こる。 藤原4兄弟の三男、宇合の息子「藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)」は橘諸兄が重用されているにもかかわらず、藤原氏である自分が「大宰府(だざいふ・九州の警備を行う役所)」での田舎勤めになっている事に不満を感じ九州で挙兵、反乱を起こす(藤原広嗣の乱・740年)、この乱は2ヶ月ほどであっけなく鎮圧され、藤原広嗣は都へ移送中に殺される。度重なる疫病や政治の乱れに心を痛めた聖武天皇は都を平城京から「恭仁京(くにきょう・現在の京都府相楽郡)」へと移し(740年)、仏教の力で国を平和にさせようと全国の国ごとに「国分寺」「国分尼寺」という寺を建立させる(741年)。そして2年後の743年には聖武天皇の離宮(別荘)の「紫香楽宮(しがらきのみや・現在の滋賀県甲賀郡信楽町)」に大仏を鋳造する詔を出す。(国分寺・国分尼寺の建立や大仏の鋳造に活躍したのが「行基(ぎょうき)」という僧で、彼は後に僧の最高位である大僧正の位を日本で初めて与えられる。)
しかし、国分寺の建立は朝廷の財政困難を引き起こし、民衆を労働や重税で苦しめることになる。このことに頭を痛めた聖武天皇は「墾田永年私財法」という法律を発布(743年)、この法律は「自分で開墾した土地は永久に私有地として認める」という内容だったので民衆はこぞって開墾に力を入れ、財政困難は回避されるが、私有地を認めるということは、100年かけて作り上げた律令制の根本的な考えである「公地公民」を根底から覆す内容でもあった。この「墾田永年私財法」はこの後の歴史に多大な影響を与えることになる。政治の乱れが収まらない現状に困った聖武天皇は743年、「恭仁京」の造営を中止、744年、難波宮(なにわのみや・現在の大阪市中央区)へ遷都、その後に「紫香楽宮(しがらきのみや現在の滋賀県甲賀郡信楽町)」へ遷都、更に翌年の745年には「平城京」に都を戻すなど、2年の間に3回も都を変え、これがまた民衆には負担となった。紫香楽宮の大仏鋳造は事故続きで、聖武天皇は思い切って紫香楽宮での大仏鋳造をあきらめ、平城京で大仏を鋳造することにした。大仏師「国中公麻呂(くになかのきみまろ)」を中心として再開(745年) した。大仏の鋳造手順というのは、石を積んで土台を作り、その上に木で大仏の骨組みを組み立て、竹や縄で大まかな形を作る。大まかな形が出来上がったら上から粘土を盛り、大仏の原型を作り乾燥させる。粘土が乾いたら原型の上に雲母の粉をふりかけ、大仏の型を取るため40~50cmの厚さに粘土を盛ってもう一度乾燥させる。型が乾燥したら原型から各部分に分けて剥がし、焼き上げて外型が完成。原型の表面を5~6cm削って上から外型をはめ込み、周りを土で囲む。削られた原型と外型との間に溶かした銅を8回に分けて流し込む。流し込みながら土を盛っていくので最後には大きな山ができる(18mほどの山になる)。流し込んだ銅が完全に固まるまで待つ。銅が固まったら山を崩し、外型を取っていく。これで大仏はほとんど完成品に近くなる。 部分的な補修をし、頭の螺髪(らほつ・通称『仏パンチ』)を取り付ける。仕上げに金を塗って完成となる。大仏の鋳造には原型が完成するまでに1年2ヶ月かかり、銅を流し込む作業だけで3年という年月がかかった。大仏鋳造が順調に進む中、東北地方で金鉱山が見つかり、聖武天皇はこれを機会に娘の阿倍内親王(あべのないしんのう・基親王の姉)に皇位を譲り、孝謙天皇(こうけんてんのう)として即位(749年)、752年、大仏の開眼供養を行い聖武天皇の悲願であった大仏が完成した。聖武天皇が娘の阿倍内親王(あべのないしんのうに皇位を譲ることで阿倍内親王は日本史上初の女性皇太子となる。阿倍内親王21歳。日本の歴史上、女帝というのは、男子の皇位継承者が不在であった時に天皇になる女性であり、阿倍内親王のように皇太子となって次期天皇の座が確約された女性は日本史上では初めてだった。
749年、盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ・奈良の大仏)に塗るための金が東北地方で見つかった事をきっかけとして聖武天皇は皇太子である阿倍内親王に皇位を譲ることになったのだが、阿倍内親王は孝謙天皇(こうけんてんのう)として天皇に即位したとは言え、当時は孝謙天皇の母親で皇太后でもある藤原光明子(ふじわらこうみょうし)と藤原4兄弟の長男「藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)」の息子、「藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)」(仲麻呂は後に名前を変えて『恵美押勝(えみのおしかつ)』と名乗る)の2人が実権を握っており、孝謙天皇は形だけの天皇という地位に甘んじなければならなかった。そんな中、父である聖武天皇が亡くなり(756年)、その2年後には母親の光明子が病に倒れた。孝謙天皇は母親の光明子の看病をするため天皇を引退することを決意、「天武天皇」の孫の大炊王(おおいのおおきみ)に皇位を譲り「淳仁天皇(じゅんにんてんのう)」として即位させる(758年)。淳仁天皇の即位の裏には藤原仲麻呂(恵美押勝)が絡んでいたことは言うまでもない。760年、孝謙上皇の看病の甲斐も無く光明子は亡くなり、孝謙上皇自身も倒れる。孝謙上皇を看病するため一人の僧が現れた。それが「道鏡(どうきょう)」だ。密教を学んだ道鏡は呪法を用いて孝謙上皇の病気を治し、これによって孝謙上皇の厚い信頼を得る(761年)。聖武天皇の娘として育てられ、史上初の女性皇太子となり独身を余儀なくされた孝謙上皇は、ここで初めて心惹かれる男性に巡り会ったのだ。孝謙上皇に対する淳仁天皇と藤原仲麻呂の対立が表面化し、孝謙上皇の寵愛を受け、次第に力を増してくる道鏡に対して藤原仲麻呂(恵美押勝)は衰退してゆく。危機感を覚えた藤原仲麻呂は孝謙上皇に対して「道鏡が『物部守屋(もののべもりや)』の地位と名前を継ごうとしている」と告げ、道鏡を遠ざけるように進言する。この道鏡、実は物部守屋の末裔だった。また天智天皇の「ひ孫」という説もあるが疑わしい。
その6日後、藤原仲麻呂(恵美押勝)の朝廷に対する謀反が明るみに出る。そこで孝謙上皇は藤原仲麻呂(恵美押勝)の「駅鈴(えきれい・役人が出張の時など使う鈴)」と「内印(ないいん・公式な文書であることを示すハンコ)」を回収しようとする。つまり、藤原仲麻呂(恵美押勝)は役人を解任される。対する藤原仲麻呂(恵美押勝)は自分の息子達に命じて駅鈴・内印を奪取しようと計画する。これを知った孝謙上皇は直ちに兵を派遣し藤原仲麻呂の息子を殺す、同時に藤原仲麻呂(恵美押勝)とその子孫達の姓と官位を剥奪。結局、藤原仲麻呂(恵美押勝)は琵琶湖湖畔で捕えられて殺されてしまう(藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱、764年)。戦いに勝利した孝謙上皇は藤原仲麻呂(恵美押勝)と共に謀反を企てたとして淳仁天皇を廃位させ、淡路島に島流しにして幽閉(764年)、淳仁天皇は翌年脱出を試みるが捕らえられ殺される。淳仁天皇という名前は明治時代以後につけられた名前で、昔は「淡路廃帝」という名前で呼ばれていた。敵対する邪魔者がいなくなった孝謙上皇は重祚(再び天皇になる)、称徳天皇(しょうとくてんのう)として即位(764年)。歴代天皇で「重祚」したのは中大兄皇子の母親である皇極天皇(斉明天皇)と孝謙天皇(称徳天皇)の2名だけで、どちらも女帝である。
称徳天皇は翌年、寵愛の深い道鏡を「太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)」という律令制の最高位である「太政大臣」と同じ権力を持つ「禅師」と言う意味の位に任ずる(765年)。道鏡は人臣の最高位を得る。更に翌年の766年、称徳天皇は「法王(ほうおう)」という位を新設してこれを道鏡に授ける。この法王という位の内容については不明だが、もうほとんど「天皇」と同じ程の位だと言われる。称徳天皇が何故こんなことをしたのか。独身であった称徳天皇は子供が居なかったため次期天皇の座を道鏡に譲りたかった。当時最高の権力を誇っていた藤原氏の専横を道鏡を使って阻止したかった。称徳天皇が道鏡に惹かれていて、2人は男女の関係にあった。道鏡が天皇の座を狙い、称徳天皇に取り入った、などといわれている。称徳天皇が道鏡のことをかなり信頼していたことは確か。こんな中、とてつもない噂が流れる。現在の大分県宇佐市にある「宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)」と言う神社の神様が「道鏡を天皇にすれば日本は安泰になるであろう」とのお告げを出した(769年)というのだ。宇佐八幡宮は全国にある八幡宮の総本宮でそこに祀られている八幡神は天皇の祖先である「応神天皇(おうじんてんのう)」と同一視されているので、八幡神が「道鏡を天皇にせよ」と言うのであればたとえ道鏡が皇族でなくても天皇にしても良いのではという意見も出る。道鏡を天皇にすれば万世一系と言われる天皇の血筋が絶えてしまうことになるので簡単に決めてしまうことも出来ない。当時、宇佐八幡宮を管理していた役所(大宰府)の長官は道鏡の弟だった。真相を確かめるため、称徳天皇は宇佐八幡宮に「和気清麻呂(わけのきよまろ)」という人物を派遣する。和気清麻呂は最初、自分の保身のため「道鏡に有利な神託を持って帰ればいい」という気持ちで宇佐八幡宮に来た。神託を待つ和気清麻呂の前に高さ9mの満月のような色をした神様が現れ、「古来より天皇と人臣は明確に区別されたものである。よって人臣が天皇に取って代わることはできない」と告げたという。つまり道鏡を天皇にせよという神託はなかったと。和気清麻呂は自分の命に換えてもこの神託を天皇にお届けしなければと固く決意し、都に戻り称徳天皇に八幡神のお告げを伝えた。
称徳天皇は激怒し、単に神託を聞きに行っただけの和気清麻呂の名前を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と変え、また和気清麻呂の姉「和気広虫(わけのひろむし)」も「別部狭虫(わけべのさむし)」と変えさせて島流しとする。(宇佐八幡宮神託事件・769年) これによって万世一系と言われる天皇家の血筋が絶えてしまうかもしれない大事件は回避できた。いかに称徳天皇であっても神託は覆すことなど出来るわけもない。称徳天皇は翌年の770年に病死。この後1600年代前半まで日本の歴史に女帝は出ていない。天皇の位は藤原北家の「藤原永手(ふじわらのながて・房前の次男)」の後押しで天智天皇の孫「白壁王(しらかべのおう)」が選ばれ、「光仁天皇(こうにんてんのう)」として即位(770年)。新天皇の即位で道鏡は即座に左遷され(772年没)、島流しにあった和気清麻呂・広虫姉弟は再び都に呼び戻され重用された。そして時代は1000年間栄える京都の「平安京(へいあんきょう)」に都を移した「桓武天皇(かんむてんのう)」へと続く。
奈良時代も終わりに近づいた770年、日本を混乱の渦に巻き込んだ女帝「称徳天皇(しょうとくてんのう)」は53歳で病死(暗殺説あり)、次期天皇として「天智天皇(てんじてんのう)」の孫にあたる「白壁王(しらかべのおう)」が選ばれ「光仁天皇(こうにんてんのう)」として即位(770年)。光仁天皇この時62歳、かなりの高齢だった。光仁天皇は称徳天皇によって混乱した政治の立て直しを図り、まず混乱を引き起こした張本人である「道鏡(どうきょう)」を左遷し、次に称徳天皇によって島流しにされた「和気清麻呂(わけのきよまろ)」「和気広虫(わけのひろむし)」を都へ呼び戻して重く用いる。同時に「井上内親王(いがみないしんのう・聖武天皇の娘)」を皇后に迎え、息子の「他戸親王(おさべしんのう)」を皇太子(こうたいし・天皇の後継者)に指名する。2年後の772年、皇后である井上内親王が光仁天皇に対する「巫蠱(ふこ)の罪」、つまり天皇を呪っていたという理由で捕らえられ皇后を廃位させられてしまい、それに連座して息子の他戸親王も皇太子を廃位させられる。しかも翌年の773年には光仁天皇の姉である「難波内親王(なにわのないしんのう)」を呪い殺したという「厭魅(えんみ)の罪」まで着せられ、現在の奈良県五條市に他戸親王と共に幽閉され、775年、同じ日に2人共に亡くなる。井上内親王が光仁天皇や難波内親王を呪う理由が全く不明なので、これについては天皇の系統を天智天皇の血筋に戻すために天武天皇の血を引く井上内親王と他戸親王を闇に葬ろうと企んだ藤原式家の「藤原百川(ふじわらのももかわ)」対「山部親王(やまべのしんのう)」の陰謀ではないかとの説が有力だ。
井上内親王と他戸親王は死んでから後に怨霊となり、様々な災いをもたらして天皇や朝廷を脅かしたと伝えられ、880年に藤原百川が死んだのもこの2人の怨霊のせいだといわれている。真相はどうあれ天武天皇の血を引く他戸親王に代わって天智天皇の血を引く「山部親王(やまべのしんのう)」が皇太子として選ばれ(773年)、これにより天皇の系統が天武天皇系から再び天智天皇系に戻ることとなり、この後は天智天皇系の血筋が主流となる。「百人一首」が天智天皇の歌から始まっているのは、平安時代の天皇系統の創始者である天智天皇に敬意を表しているからともいわれている。
781年、病気と老齢(73歳)とを理由に光仁天皇は天皇を山部親王に譲り、桓武天皇(かんむてんのう)が誕生する。781年に即位した桓武天皇は父親である光仁天皇の政治を受け継ぎ、称徳天皇のせいで混乱した政治を立て直そうと力を注ぐ。そのためには桓武天皇は2つの課題をクリアーしなければならない。1つは「代々天皇を受け継ぐ血筋を1つにすること」。つまり皇位継承者を「天智天皇系」である桓武天皇の子孫だけに決め、天皇親政(天皇が中心の政治)を強化すること。当時、天皇の血筋は大別すると「天智天皇系」と「天武天皇系」の2つに分かれており、皇太子などを選ぶ際に皇位継承争いが絶えず、これが政治を乱す一因となっていた。そこで桓武天皇は皇太子に同母弟(天智天皇系)である早良親王(さわらしんのう)を皇太子にする。桓武天皇には少なくとも23人の妃と35人の子供がいた。桓武天皇には「安殿親王(あてしんのう)」という長男が居たが、まだ8歳で皇太子にするには早すぎるので、光仁上皇の意見により人望も厚かった早良親王に決まった。桓武天皇は天智天皇系の血筋をより盤石なものとするため、天武天皇系の皇族やそれに仕える貴族達を政治の中心から次々と排除し、逆に天智天皇系の息のかかった人間を重用し始める。桓武天皇の政策に対してそれまで主流であった天武天皇系の皇族やそれに仕える貴族などは不満を抱く。桓武天皇の父親である光仁上皇が病気で亡くなってしまう(782年)。その直後、これは天武天皇系へ実権を取り戻すチャンスとばかりに氷川川継(ひかわかわつぐ)は桓武天皇に対しての反逆を計画。(この氷川川継の父親の『塩焼王』は天武天皇の孫で天武天皇系の有力な皇位継承者だったが『藤原仲麻呂の乱』の時に仲麻呂についたので処刑されている。) その計画は実行する前にバレ、氷上川継は捕まってしまう。普通なら即処刑となるはずが、その時は光仁上皇が死んで喪に服している時だったので伊豆へ島流しされた。(氷上川継の乱・782年)
この氷上川継の島流しより天武天皇系の血筋が完全に絶たれることとなり、桓武天皇の計画の一つである天武天皇系の断絶は成功し、これ以後の皇族の血統は桓武天皇系へと移る。これで「代々天皇を受け継ぐ血筋を1つにすること」という課題はクリアーされた。そして2つ目の課題、それは「僧」達の存在。奈良時代の末期、道鏡という僧が称徳天皇に取り入って出世し天皇にまでなりかけたという出来事の影響で他の一般の僧まで権力を持つようになり、最近では政治にまで口出しするようになっていた。これも政治を乱す一因。こういった状況に頭を痛めていた桓武天皇に対して忠臣「和気清麻呂(わけのきよまろ)」は口うるさい僧達が多い平城京を離れ、新しい都を造ることを提案。桓武天皇は新都造営の責任者として信頼の厚い藤原式家の「藤原種継(ふじわらのたねつぐ)」を指名し、藤原種継は山背国乙訓郡長岡(現在の京都府長岡京市)を視察、桓武天皇はその地に新都造営を決定(783年)。都を移すことには反対の意見も強かったため、長岡を首都としてではなく当時副都として存在していた「難波宮(なにわのみや)」(現在の大阪市中央区)を移転するということで新都造営を進めていき、その後784年、桓武天皇は長岡京に遷都する。長岡京の規模は東西4.3km、南北5.3kmで平城京(東西4.3km、南北4.8km)より少し大きいくらいだった。長岡京の造営が決定してから遷都まで1年足らず。この様な短期間で長岡京に遷都できたのは難波宮の資材を淀川の水運を使って運び出して再利用したおかげだ。これで桓武天皇は仏教勢力の強い平城京から離れることが出来、混乱した政治を立て直すのに必要な2つの課題をクリアーできた。
784年、「桓武天皇(かんむてんのう)」は仏教勢力の強い平城京を離れて新しく「長岡京(ながおかきょう・現在の京都府長岡京市)」に遷都、心機一転して混乱した政治の立て直しに力を尽くした。しかし翌年の785年、重大な事件が発生、長岡京の造営の責任者であった「藤原種継(ふじわらのたねつぐ)」が何者かによって弓で射られ暗殺される。捜査の結果、犯人は「大伴継人(おおとものつぐひと)」「大伴竹良(おおとものちくら)」と判明、2人は直ちに捕らえられ厳しい取り調べを受け処刑された。この取り調べでとんでもない事実が判明する。実行犯の2人は「大伴家持(おおとものやかもち・超有名な歌人)」らと共謀して藤原種継の暗殺を計画、これを桓武天皇の実弟で皇太子である「早良親王(さわらしんのう)」に報告後、実行したとの自白をした。つまり暗殺事件の黒幕が皇太子である早良親王だった。早良親王は捕らえられ「乙訓寺(おとくにでら・京都府長岡京市)」に幽閉される。事件の黒幕にされた早良親王は自分の無実を訴えながら、身の潔白を証明するため断食を決行するが10日余りの後に淡路島への島流しが決定、淡路島に護送中の淀川沿いで餓死した(785年)。早良親王が死んで皇太子が不在になったので、桓武天皇は弱冠11歳の長男の「安殿親王(あてしんのう)」を皇太子にし(785年)、気持ちを切り替えて長岡京造営を進める。788年に桓武天皇の夫人が亡くなったのを皮切りに、790年には皇后が亡くなり、皇太子の安殿親王も病気となり、また近畿地方の30歳以下の人のほとんどが伝染病にかかってしまい、更に大飢饉まで発生。その上、造営中の長岡京が2度も水害に見舞われた(792年)。
長岡京の造営開始からもう既に7年が経とうとしていたが、この様な凄まじい状況では造営など進むはずがない。桓武天皇の信頼が厚い「和気清麻呂(わけのきよまろ)」は桓武天皇に対し、水害に見舞われやすい長岡京から立地条件の良い場所へもう一度遷都することを進言。そして桓武天皇は和気清麻呂の進言を取り入れ、造営中であった長岡京を諦めて新たに都を造営する場所を山背国葛野郡宇太村(やましろのくにかどのぐんうだむら・現在の京都市)に決定、早速造営を開始させる。と同時に副都であった「難波宮(なにわのみや・現在の大阪市中央区)」を廃止(793年)。そして翌年の794年、造営中の新都を「平安京(へいあんきょう)」と名付け、長岡京から遷都。ここから華やかな平安時代は幕を開け、平安京は明治に至るまでの約1000年以上の永きに渡って日本の首都となった。
( 参照メモ ) 平城京のできた経過
671年、天智天皇は亡くなる、息子である大友皇子(即位して弘文天皇(こうぶんてんのう)となったと伝えられてはいる)は父の墓を作るという目的で多くの労働者を集めるが、その労働者たちに武器を持たせて大海人皇子との決戦の準備を始める。大海人皇子は先手を打つために東国へ行き、地方の豪族などに協力を求め、関ヶ原(岐阜県)で合流、ここに陣を張って大友皇子を迎え撃つ作戦にでる。 大友皇子の方も都の有力な豪族達の力を借り、関ヶ原へと進軍。大海人皇子が先に手を出せば天皇に逆らう『逆賊』とされてしまう。相手から先に仕掛けてくれば正当防衛となるので、戦いに勝てれば 大海人皇子が文句なしに次の天皇となれる。大友皇子・大海人皇子の双方の兵力は約3万人ずつだった。当時の日本の人口は約600万人。 お互い大兵力なので戦いはなかなか決着がつかなかったが、大海人皇子が優勢になり戦場は西へ移動、最終的に瀬田川(滋賀県)での戦いで大友皇子の軍は壊滅。この戦いに負けた大友皇子はわずか数人の部下と共に自殺。勝った大海人皇子は都を大津から「飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや・奈良県)」に移し、天武天皇(てんむてんのう)として即位(673年)した。
この672年の「壬申の乱(じんしんのらん)」に勝利した「大海人皇子(おおあまのおうじ)」は都(首都)を大津から「飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)」に移し、翌年の673年、天武天皇が即位する。当時の都は現在のような都市ではなく、代々の天皇がそれぞれ「宮(みや・天皇の住まい)」を建て、その宮に官僚達や豪族達が出勤して政務を行っていくというシステムが採用されていて、その「宮」のあるところが都となった。そこで676年、天武天皇は「唐(中国)のように永続的に使用できる立派な都」を日本にも作ろうと考え、新しい都の建設場所を探し始める。(新都計画が具体的に動き出すのは683年頃から。) そして684年、新都建設予定地が現在の奈良県橿原市(かしはらし)に決まる。ここまでは順調だったが、天武天皇は新都の建設予定地を決めたまま、道半ばにして病死する(686年)。
皇太子には天武天皇と「讃良皇女(さららのひめみこ)」の間に生まれた「草壁皇子(くさかべのみこ)」が既に決まっており次の天皇には草壁皇子がなるはずだったが、天武天皇には他にも沢山の子供達がいて、中でも「大津皇子(おおつのみこ)」や「高市皇子(たけちのみこ)」は人気が高かった。天武天皇の皇后の讃良皇女は次の天皇を明確にしないまま、讃良皇女自身が政務を執る。そんな中、天武天皇の皇子で「太政大臣(だじょうだいじん)」であった大津皇子が謀反の疑いをかけられ、翌日に処刑されてしまうという不可解な事件が起こる「大津皇子の変」(689年)。一般には讃良皇女が草壁皇子を天皇にするために大津皇子を陥れたものとされている。有力なライバルが消えたにもかかわらず、草壁皇子は天皇に即位することができない。「大津皇子の変」で周囲の反発がかなりあった。草壁皇子が天皇に即位しないままの状態が3年間続く。689年、皇太子である草壁皇子が病死。新都建設どころの話ではなく、計画は中断してしまう。翌年690年、草壁皇子の母親である讃良皇女が「持統天皇(じとうてんのう)」として自ら即位する。そして高市皇子を太政大臣に任命し(高市皇子の母親は身分が低かったので高市皇子は皇太子にはなれない)、夫である天武天皇の遺志を継ぎ、新都建設へ向けてようやく動き出す。そして691年、地鎮祭を行って本格的に新都建設に着手し、694年には都を「飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)」から「藤原京」に移す。この都(藤原京)は唐の都「長安(ちょうあん)」をモデルにした日本初の本格的な「都城(王の城を中心に整備された都市)」で、最近の発掘調査によると東西5.3km、南北4.8kmにも及び奈良時代の「平城京」や平安時代以降の「平安京」に勝るとも劣らない規模であったと報告されている。昭和初期の調査ではラクダの臼歯(きゅうし・奥歯)が発見されていることから、藤原京はかなり国際的な雰囲気を持った都市であったと考えられる。ここまで巨大で国際的な雰囲気を持った藤原京が拡張工事の最中であるにもかかわらず、16年後の710年「平城京」に都を移される。その理由ははっきりとは分かっていない。
生来病弱であった文武天皇は25歳の若さで亡くなった(707年)。息子の首皇子はまだ7歳、天皇どころか皇太子にすらなれない年齢だった。文武天皇の遺言により首皇子が成人するまでは文武天皇の母親である(草壁皇子の妻・首皇子の祖母でもある)阿閇皇女(あへのひめみこ)に譲位が決定、阿閇皇女は元明天皇(げんめいてんのう)として即位する(707年)。元明天皇は藤原不比等を重用し、和同開珎(わどうかいちん・貨幣)を鋳造(708年)、平城京(へいじょうきょう)への遷都(710年)、「風土記(ふどき・日本最古の地誌)」の編纂(713年)、更に律令制を大いに進める。そして714年、14歳となった首皇子はようやく皇太子(こうたいし・皇位継承者)となり、元明天皇は翌年の715年に引退を決意する。首皇子は皇太子になったとはいえ年齢も若く、天皇に即位するには少し不安もあり、元明天皇は娘(文武天皇の姉でもある)氷高皇女(ひだかのひめみこ)を元正天皇(げんしょうてんのう)として即位させる(715年)。この元正天皇も母親の元明天皇と同様、首皇子が成人するまでの間の中継ぎとしての天皇だった。この頃に「三世一身法(さんぜいっしんのほう)」(723年)が出されている。皇太子となったことで天皇の座が決定的となった首皇子に対して、藤原不比等は自分の娘である藤原安宿媛(ふじわらのあすかべひめ)を差しだし、首皇子の夫人にさせる(716年)。そして724年、24歳という立派な大人に成長した首皇子(おびとのみこ・後の聖武天皇)は元正天皇の跡を継いで聖武天皇(しょうむてんのう)として即位、元正天皇は聖武天皇の後見人として上皇となった。
その3年後、藤原安宿媛との間に念願の皇子が誕生し、基親王(もといのみこ)と名付けられる。ここから歴史は動き出す。すなわち、光明子(こうみょうし)の登場、本名は藤原安宿媛(ふじわらのあすかべひめ)と言い、光明子というのは美称であり、皇族でも何でもない。聖武天皇の皇后にまでなる女性だ。基親王の誕生を喜んだのは藤原不比等(720年没)の息子達、藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)、藤原房前(ふじわらのふささき)、藤原宇合(ふじわらのうまかい)、藤原麻呂(ふじわらのまろ)、の4兄弟だ。基親王の母親である藤原安宿媛は自分たち4兄弟の妹なので、基親王(もといのみこ)が皇太子・天皇になれば4兄弟は天皇の親戚(伯父)として権力を使える。そこで藤原氏安泰のため、生後一ヶ月の基親王(おびとのみこ)を聖武天皇の皇太子にする。皇族であり、有力な皇位継承者である長屋王(ながやおう・高市皇子の息子で天武天皇の孫)などは藤原4兄弟に反感を持つが、うかつに手出しは出来ない。そして長屋王対藤原4兄弟の対立が表面化してゆく。武智麻呂・房前・宇合・麻呂はそれぞれが「南家」「北家」「式家」「京家」の「藤原四家」に分裂、それぞれが互いに勢力を競い合い、藤原氏の勢力拡大の一因となる。不運なことに皇太子である基親王(もといのみこ)は満1歳の誕生日の直前に亡くなる(728年)、その上、藤原氏の血縁者以外の妃から皇子「安積皇子(あさかのみこ)」が誕生する。幼い基親王が亡くなった事は、聖武天皇とその皇后の藤原安宿媛(ふじわらのあすかべひめ)が仏教信仰へ入り込んでいくきっかけになる。
新皇子の安積皇子は聖武天皇の唯一の皇子であり、皇太子となり天皇となってゆく。藤原4兄弟にとっては自分たちの血を引かない安積皇子が皇太子となることは絶対に避けたい。そこで藤原4兄弟は妹の藤原安宿媛(聖武天皇の皇后)によって藤原氏の勢力の安定を狙う。この当時は天皇の妻は「皇后」「妃」「夫人」など色々とランク分けされていて、特に「皇后」については天皇と共に政治を仕切る政治のパートナーとしての役割もあり、天皇に万一のことがあれば皇后が代わりに国政を担う。よって「皇后」「妃」については皇族だけにしか与えられず、いくら権力者であっても臣下である藤原一族では皇后は無理で、この藤原安宿媛(ふじわらのあすかべひめ)を皇后にしようとする計画は長屋王などの皇族の猛反対が当然予想される。そこで藤原4兄弟は長屋王を陥れるため、「幼い基皇子が亡くなったのは長屋王が呪い殺したからだ」との虚言を流し、長屋王は即刻捕らえられ、厳しい尋問を受け翌日に自刃する(729年の長屋王の変。その半年後、臣下の娘である藤原安宿媛(ふじわらのあすかべひめ)が聖武天皇の皇后になるという異例の詔(みことのり)が出る(729年)。この詔は聖武天皇に万が一の事が起きれば、国政は天皇家の人間ではなく藤原一族の娘が仕切ることになり、天皇家による政治が断絶してしまうという危険性があった。しかし、聖武天皇が藤原安宿媛との間に生まれた阿倍内親王(あべのないしんのう・基親王(もといのみこ)の姉)を史上初の女性皇太子とすることになり、天皇家による政治が断絶してしまう危険は回避された。
その後、仏教の信仰が厚い藤原安宿媛は730年、人々のために自分の財産を使って全国各地の薬草を集めさせ施薬院(せやくいん)という病人に薬を与える施設を造ったり、また同じ頃、貧しい人々の救済のために悲田院(ひでんいん)という施設を造ったりと立派な業績を残す。この立派な行いにより、藤原安宿媛は人々から大変に慕われ、740年頃には光明子と呼ばれるようになり、光明皇后(こうみょうこうごう)の名が歴史に刻まれる。奈良の大仏、正式には盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)は金銅仏としては世界最大で、また盧舎那大仏が安置されている東大寺も木造建築物としては世界最大である。737年、日本各地に天然痘(伝染病)が流行し民衆に多数の死者が出る。その天然痘は藤原安宿媛の兄達「藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)」「藤原房前(ふじわらのふささき)」「藤原宇合(ふじわらのうまかい)」「藤原麻呂(ふじわらのまろ)」にも次々と襲いかかり、4月17日に次男の房前が、7月12日には四男の麻呂が、7月25日に長男の武智麻呂、そして8月には三男の宇合も亡くなる。藤原4兄弟が亡くなった後、元皇族であった橘諸兄(たちばなのもろえ)が重用され、唐への留学から帰国した吉備真備(きびのまきび)や玄昉(げんぼう)らと共に疫病で乱れた政治の立て直しをはかる。橘諸兄らによる改革が進む中、不幸な出来事が起こる。 藤原4兄弟の三男、宇合の息子「藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)」は橘諸兄が重用されているにもかかわらず、藤原氏である自分が「大宰府(だざいふ・九州の警備を行う役所)」での田舎勤めになっている事に不満を感じ九州で挙兵、反乱を起こす(藤原広嗣の乱・740年)、この乱は2ヶ月ほどであっけなく鎮圧され、藤原広嗣は都へ移送中に殺される。度重なる疫病や政治の乱れに心を痛めた聖武天皇は都を平城京から「恭仁京(くにきょう・現在の京都府相楽郡)」へと移し(740年)、仏教の力で国を平和にさせようと全国の国ごとに「国分寺」「国分尼寺」という寺を建立させる(741年)。そして2年後の743年には聖武天皇の離宮(別荘)の「紫香楽宮(しがらきのみや・現在の滋賀県甲賀郡信楽町)」に大仏を鋳造する詔を出す。(国分寺・国分尼寺の建立や大仏の鋳造に活躍したのが「行基(ぎょうき)」という僧で、彼は後に僧の最高位である大僧正の位を日本で初めて与えられる。)
しかし、国分寺の建立は朝廷の財政困難を引き起こし、民衆を労働や重税で苦しめることになる。このことに頭を痛めた聖武天皇は「墾田永年私財法」という法律を発布(743年)、この法律は「自分で開墾した土地は永久に私有地として認める」という内容だったので民衆はこぞって開墾に力を入れ、財政困難は回避されるが、私有地を認めるということは、100年かけて作り上げた律令制の根本的な考えである「公地公民」を根底から覆す内容でもあった。この「墾田永年私財法」はこの後の歴史に多大な影響を与えることになる。政治の乱れが収まらない現状に困った聖武天皇は743年、「恭仁京」の造営を中止、744年、難波宮(なにわのみや・現在の大阪市中央区)へ遷都、その後に「紫香楽宮(しがらきのみや現在の滋賀県甲賀郡信楽町)」へ遷都、更に翌年の745年には「平城京」に都を戻すなど、2年の間に3回も都を変え、これがまた民衆には負担となった。紫香楽宮の大仏鋳造は事故続きで、聖武天皇は思い切って紫香楽宮での大仏鋳造をあきらめ、平城京で大仏を鋳造することにした。大仏師「国中公麻呂(くになかのきみまろ)」を中心として再開(745年) した。大仏の鋳造手順というのは、石を積んで土台を作り、その上に木で大仏の骨組みを組み立て、竹や縄で大まかな形を作る。大まかな形が出来上がったら上から粘土を盛り、大仏の原型を作り乾燥させる。粘土が乾いたら原型の上に雲母の粉をふりかけ、大仏の型を取るため40~50cmの厚さに粘土を盛ってもう一度乾燥させる。型が乾燥したら原型から各部分に分けて剥がし、焼き上げて外型が完成。原型の表面を5~6cm削って上から外型をはめ込み、周りを土で囲む。削られた原型と外型との間に溶かした銅を8回に分けて流し込む。流し込みながら土を盛っていくので最後には大きな山ができる(18mほどの山になる)。流し込んだ銅が完全に固まるまで待つ。銅が固まったら山を崩し、外型を取っていく。これで大仏はほとんど完成品に近くなる。 部分的な補修をし、頭の螺髪(らほつ・通称『仏パンチ』)を取り付ける。仕上げに金を塗って完成となる。大仏の鋳造には原型が完成するまでに1年2ヶ月かかり、銅を流し込む作業だけで3年という年月がかかった。大仏鋳造が順調に進む中、東北地方で金鉱山が見つかり、聖武天皇はこれを機会に娘の阿倍内親王(あべのないしんのう・基親王の姉)に皇位を譲り、孝謙天皇(こうけんてんのう)として即位(749年)、752年、大仏の開眼供養を行い聖武天皇の悲願であった大仏が完成した。聖武天皇が娘の阿倍内親王(あべのないしんのうに皇位を譲ることで阿倍内親王は日本史上初の女性皇太子となる。阿倍内親王21歳。日本の歴史上、女帝というのは、男子の皇位継承者が不在であった時に天皇になる女性であり、阿倍内親王のように皇太子となって次期天皇の座が確約された女性は日本史上では初めてだった。
749年、盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ・奈良の大仏)に塗るための金が東北地方で見つかった事をきっかけとして聖武天皇は皇太子である阿倍内親王に皇位を譲ることになったのだが、阿倍内親王は孝謙天皇(こうけんてんのう)として天皇に即位したとは言え、当時は孝謙天皇の母親で皇太后でもある藤原光明子(ふじわらこうみょうし)と藤原4兄弟の長男「藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)」の息子、「藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)」(仲麻呂は後に名前を変えて『恵美押勝(えみのおしかつ)』と名乗る)の2人が実権を握っており、孝謙天皇は形だけの天皇という地位に甘んじなければならなかった。そんな中、父である聖武天皇が亡くなり(756年)、その2年後には母親の光明子が病に倒れた。孝謙天皇は母親の光明子の看病をするため天皇を引退することを決意、「天武天皇」の孫の大炊王(おおいのおおきみ)に皇位を譲り「淳仁天皇(じゅんにんてんのう)」として即位させる(758年)。淳仁天皇の即位の裏には藤原仲麻呂(恵美押勝)が絡んでいたことは言うまでもない。760年、孝謙上皇の看病の甲斐も無く光明子は亡くなり、孝謙上皇自身も倒れる。孝謙上皇を看病するため一人の僧が現れた。それが「道鏡(どうきょう)」だ。密教を学んだ道鏡は呪法を用いて孝謙上皇の病気を治し、これによって孝謙上皇の厚い信頼を得る(761年)。聖武天皇の娘として育てられ、史上初の女性皇太子となり独身を余儀なくされた孝謙上皇は、ここで初めて心惹かれる男性に巡り会ったのだ。孝謙上皇に対する淳仁天皇と藤原仲麻呂の対立が表面化し、孝謙上皇の寵愛を受け、次第に力を増してくる道鏡に対して藤原仲麻呂(恵美押勝)は衰退してゆく。危機感を覚えた藤原仲麻呂は孝謙上皇に対して「道鏡が『物部守屋(もののべもりや)』の地位と名前を継ごうとしている」と告げ、道鏡を遠ざけるように進言する。この道鏡、実は物部守屋の末裔だった。また天智天皇の「ひ孫」という説もあるが疑わしい。
その6日後、藤原仲麻呂(恵美押勝)の朝廷に対する謀反が明るみに出る。そこで孝謙上皇は藤原仲麻呂(恵美押勝)の「駅鈴(えきれい・役人が出張の時など使う鈴)」と「内印(ないいん・公式な文書であることを示すハンコ)」を回収しようとする。つまり、藤原仲麻呂(恵美押勝)は役人を解任される。対する藤原仲麻呂(恵美押勝)は自分の息子達に命じて駅鈴・内印を奪取しようと計画する。これを知った孝謙上皇は直ちに兵を派遣し藤原仲麻呂の息子を殺す、同時に藤原仲麻呂(恵美押勝)とその子孫達の姓と官位を剥奪。結局、藤原仲麻呂(恵美押勝)は琵琶湖湖畔で捕えられて殺されてしまう(藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱、764年)。戦いに勝利した孝謙上皇は藤原仲麻呂(恵美押勝)と共に謀反を企てたとして淳仁天皇を廃位させ、淡路島に島流しにして幽閉(764年)、淳仁天皇は翌年脱出を試みるが捕らえられ殺される。淳仁天皇という名前は明治時代以後につけられた名前で、昔は「淡路廃帝」という名前で呼ばれていた。敵対する邪魔者がいなくなった孝謙上皇は重祚(再び天皇になる)、称徳天皇(しょうとくてんのう)として即位(764年)。歴代天皇で「重祚」したのは中大兄皇子の母親である皇極天皇(斉明天皇)と孝謙天皇(称徳天皇)の2名だけで、どちらも女帝である。
称徳天皇は翌年、寵愛の深い道鏡を「太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)」という律令制の最高位である「太政大臣」と同じ権力を持つ「禅師」と言う意味の位に任ずる(765年)。道鏡は人臣の最高位を得る。更に翌年の766年、称徳天皇は「法王(ほうおう)」という位を新設してこれを道鏡に授ける。この法王という位の内容については不明だが、もうほとんど「天皇」と同じ程の位だと言われる。称徳天皇が何故こんなことをしたのか。独身であった称徳天皇は子供が居なかったため次期天皇の座を道鏡に譲りたかった。当時最高の権力を誇っていた藤原氏の専横を道鏡を使って阻止したかった。称徳天皇が道鏡に惹かれていて、2人は男女の関係にあった。道鏡が天皇の座を狙い、称徳天皇に取り入った、などといわれている。称徳天皇が道鏡のことをかなり信頼していたことは確か。こんな中、とてつもない噂が流れる。現在の大分県宇佐市にある「宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)」と言う神社の神様が「道鏡を天皇にすれば日本は安泰になるであろう」とのお告げを出した(769年)というのだ。宇佐八幡宮は全国にある八幡宮の総本宮でそこに祀られている八幡神は天皇の祖先である「応神天皇(おうじんてんのう)」と同一視されているので、八幡神が「道鏡を天皇にせよ」と言うのであればたとえ道鏡が皇族でなくても天皇にしても良いのではという意見も出る。道鏡を天皇にすれば万世一系と言われる天皇の血筋が絶えてしまうことになるので簡単に決めてしまうことも出来ない。当時、宇佐八幡宮を管理していた役所(大宰府)の長官は道鏡の弟だった。真相を確かめるため、称徳天皇は宇佐八幡宮に「和気清麻呂(わけのきよまろ)」という人物を派遣する。和気清麻呂は最初、自分の保身のため「道鏡に有利な神託を持って帰ればいい」という気持ちで宇佐八幡宮に来た。神託を待つ和気清麻呂の前に高さ9mの満月のような色をした神様が現れ、「古来より天皇と人臣は明確に区別されたものである。よって人臣が天皇に取って代わることはできない」と告げたという。つまり道鏡を天皇にせよという神託はなかったと。和気清麻呂は自分の命に換えてもこの神託を天皇にお届けしなければと固く決意し、都に戻り称徳天皇に八幡神のお告げを伝えた。
称徳天皇は激怒し、単に神託を聞きに行っただけの和気清麻呂の名前を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と変え、また和気清麻呂の姉「和気広虫(わけのひろむし)」も「別部狭虫(わけべのさむし)」と変えさせて島流しとする。(宇佐八幡宮神託事件・769年) これによって万世一系と言われる天皇家の血筋が絶えてしまうかもしれない大事件は回避できた。いかに称徳天皇であっても神託は覆すことなど出来るわけもない。称徳天皇は翌年の770年に病死。この後1600年代前半まで日本の歴史に女帝は出ていない。天皇の位は藤原北家の「藤原永手(ふじわらのながて・房前の次男)」の後押しで天智天皇の孫「白壁王(しらかべのおう)」が選ばれ、「光仁天皇(こうにんてんのう)」として即位(770年)。新天皇の即位で道鏡は即座に左遷され(772年没)、島流しにあった和気清麻呂・広虫姉弟は再び都に呼び戻され重用された。そして時代は1000年間栄える京都の「平安京(へいあんきょう)」に都を移した「桓武天皇(かんむてんのう)」へと続く。
奈良時代も終わりに近づいた770年、日本を混乱の渦に巻き込んだ女帝「称徳天皇(しょうとくてんのう)」は53歳で病死(暗殺説あり)、次期天皇として「天智天皇(てんじてんのう)」の孫にあたる「白壁王(しらかべのおう)」が選ばれ「光仁天皇(こうにんてんのう)」として即位(770年)。光仁天皇この時62歳、かなりの高齢だった。光仁天皇は称徳天皇によって混乱した政治の立て直しを図り、まず混乱を引き起こした張本人である「道鏡(どうきょう)」を左遷し、次に称徳天皇によって島流しにされた「和気清麻呂(わけのきよまろ)」「和気広虫(わけのひろむし)」を都へ呼び戻して重く用いる。同時に「井上内親王(いがみないしんのう・聖武天皇の娘)」を皇后に迎え、息子の「他戸親王(おさべしんのう)」を皇太子(こうたいし・天皇の後継者)に指名する。2年後の772年、皇后である井上内親王が光仁天皇に対する「巫蠱(ふこ)の罪」、つまり天皇を呪っていたという理由で捕らえられ皇后を廃位させられてしまい、それに連座して息子の他戸親王も皇太子を廃位させられる。しかも翌年の773年には光仁天皇の姉である「難波内親王(なにわのないしんのう)」を呪い殺したという「厭魅(えんみ)の罪」まで着せられ、現在の奈良県五條市に他戸親王と共に幽閉され、775年、同じ日に2人共に亡くなる。井上内親王が光仁天皇や難波内親王を呪う理由が全く不明なので、これについては天皇の系統を天智天皇の血筋に戻すために天武天皇の血を引く井上内親王と他戸親王を闇に葬ろうと企んだ藤原式家の「藤原百川(ふじわらのももかわ)」対「山部親王(やまべのしんのう)」の陰謀ではないかとの説が有力だ。
井上内親王と他戸親王は死んでから後に怨霊となり、様々な災いをもたらして天皇や朝廷を脅かしたと伝えられ、880年に藤原百川が死んだのもこの2人の怨霊のせいだといわれている。真相はどうあれ天武天皇の血を引く他戸親王に代わって天智天皇の血を引く「山部親王(やまべのしんのう)」が皇太子として選ばれ(773年)、これにより天皇の系統が天武天皇系から再び天智天皇系に戻ることとなり、この後は天智天皇系の血筋が主流となる。「百人一首」が天智天皇の歌から始まっているのは、平安時代の天皇系統の創始者である天智天皇に敬意を表しているからともいわれている。
781年、病気と老齢(73歳)とを理由に光仁天皇は天皇を山部親王に譲り、桓武天皇(かんむてんのう)が誕生する。781年に即位した桓武天皇は父親である光仁天皇の政治を受け継ぎ、称徳天皇のせいで混乱した政治を立て直そうと力を注ぐ。そのためには桓武天皇は2つの課題をクリアーしなければならない。1つは「代々天皇を受け継ぐ血筋を1つにすること」。つまり皇位継承者を「天智天皇系」である桓武天皇の子孫だけに決め、天皇親政(天皇が中心の政治)を強化すること。当時、天皇の血筋は大別すると「天智天皇系」と「天武天皇系」の2つに分かれており、皇太子などを選ぶ際に皇位継承争いが絶えず、これが政治を乱す一因となっていた。そこで桓武天皇は皇太子に同母弟(天智天皇系)である早良親王(さわらしんのう)を皇太子にする。桓武天皇には少なくとも23人の妃と35人の子供がいた。桓武天皇には「安殿親王(あてしんのう)」という長男が居たが、まだ8歳で皇太子にするには早すぎるので、光仁上皇の意見により人望も厚かった早良親王に決まった。桓武天皇は天智天皇系の血筋をより盤石なものとするため、天武天皇系の皇族やそれに仕える貴族達を政治の中心から次々と排除し、逆に天智天皇系の息のかかった人間を重用し始める。桓武天皇の政策に対してそれまで主流であった天武天皇系の皇族やそれに仕える貴族などは不満を抱く。桓武天皇の父親である光仁上皇が病気で亡くなってしまう(782年)。その直後、これは天武天皇系へ実権を取り戻すチャンスとばかりに氷川川継(ひかわかわつぐ)は桓武天皇に対しての反逆を計画。(この氷川川継の父親の『塩焼王』は天武天皇の孫で天武天皇系の有力な皇位継承者だったが『藤原仲麻呂の乱』の時に仲麻呂についたので処刑されている。) その計画は実行する前にバレ、氷上川継は捕まってしまう。普通なら即処刑となるはずが、その時は光仁上皇が死んで喪に服している時だったので伊豆へ島流しされた。(氷上川継の乱・782年)
この氷上川継の島流しより天武天皇系の血筋が完全に絶たれることとなり、桓武天皇の計画の一つである天武天皇系の断絶は成功し、これ以後の皇族の血統は桓武天皇系へと移る。これで「代々天皇を受け継ぐ血筋を1つにすること」という課題はクリアーされた。そして2つ目の課題、それは「僧」達の存在。奈良時代の末期、道鏡という僧が称徳天皇に取り入って出世し天皇にまでなりかけたという出来事の影響で他の一般の僧まで権力を持つようになり、最近では政治にまで口出しするようになっていた。これも政治を乱す一因。こういった状況に頭を痛めていた桓武天皇に対して忠臣「和気清麻呂(わけのきよまろ)」は口うるさい僧達が多い平城京を離れ、新しい都を造ることを提案。桓武天皇は新都造営の責任者として信頼の厚い藤原式家の「藤原種継(ふじわらのたねつぐ)」を指名し、藤原種継は山背国乙訓郡長岡(現在の京都府長岡京市)を視察、桓武天皇はその地に新都造営を決定(783年)。都を移すことには反対の意見も強かったため、長岡を首都としてではなく当時副都として存在していた「難波宮(なにわのみや)」(現在の大阪市中央区)を移転するということで新都造営を進めていき、その後784年、桓武天皇は長岡京に遷都する。長岡京の規模は東西4.3km、南北5.3kmで平城京(東西4.3km、南北4.8km)より少し大きいくらいだった。長岡京の造営が決定してから遷都まで1年足らず。この様な短期間で長岡京に遷都できたのは難波宮の資材を淀川の水運を使って運び出して再利用したおかげだ。これで桓武天皇は仏教勢力の強い平城京から離れることが出来、混乱した政治を立て直すのに必要な2つの課題をクリアーできた。
784年、「桓武天皇(かんむてんのう)」は仏教勢力の強い平城京を離れて新しく「長岡京(ながおかきょう・現在の京都府長岡京市)」に遷都、心機一転して混乱した政治の立て直しに力を尽くした。しかし翌年の785年、重大な事件が発生、長岡京の造営の責任者であった「藤原種継(ふじわらのたねつぐ)」が何者かによって弓で射られ暗殺される。捜査の結果、犯人は「大伴継人(おおとものつぐひと)」「大伴竹良(おおとものちくら)」と判明、2人は直ちに捕らえられ厳しい取り調べを受け処刑された。この取り調べでとんでもない事実が判明する。実行犯の2人は「大伴家持(おおとものやかもち・超有名な歌人)」らと共謀して藤原種継の暗殺を計画、これを桓武天皇の実弟で皇太子である「早良親王(さわらしんのう)」に報告後、実行したとの自白をした。つまり暗殺事件の黒幕が皇太子である早良親王だった。早良親王は捕らえられ「乙訓寺(おとくにでら・京都府長岡京市)」に幽閉される。事件の黒幕にされた早良親王は自分の無実を訴えながら、身の潔白を証明するため断食を決行するが10日余りの後に淡路島への島流しが決定、淡路島に護送中の淀川沿いで餓死した(785年)。早良親王が死んで皇太子が不在になったので、桓武天皇は弱冠11歳の長男の「安殿親王(あてしんのう)」を皇太子にし(785年)、気持ちを切り替えて長岡京造営を進める。788年に桓武天皇の夫人が亡くなったのを皮切りに、790年には皇后が亡くなり、皇太子の安殿親王も病気となり、また近畿地方の30歳以下の人のほとんどが伝染病にかかってしまい、更に大飢饉まで発生。その上、造営中の長岡京が2度も水害に見舞われた(792年)。
長岡京の造営開始からもう既に7年が経とうとしていたが、この様な凄まじい状況では造営など進むはずがない。桓武天皇の信頼が厚い「和気清麻呂(わけのきよまろ)」は桓武天皇に対し、水害に見舞われやすい長岡京から立地条件の良い場所へもう一度遷都することを進言。そして桓武天皇は和気清麻呂の進言を取り入れ、造営中であった長岡京を諦めて新たに都を造営する場所を山背国葛野郡宇太村(やましろのくにかどのぐんうだむら・現在の京都市)に決定、早速造営を開始させる。と同時に副都であった「難波宮(なにわのみや・現在の大阪市中央区)」を廃止(793年)。そして翌年の794年、造営中の新都を「平安京(へいあんきょう)」と名付け、長岡京から遷都。ここから華やかな平安時代は幕を開け、平安京は明治に至るまでの約1000年以上の永きに渡って日本の首都となった。
( 参照メモ ) 平城京のできた経過
671年、天智天皇は亡くなる、息子である大友皇子(即位して弘文天皇(こうぶんてんのう)となったと伝えられてはいる)は父の墓を作るという目的で多くの労働者を集めるが、その労働者たちに武器を持たせて大海人皇子との決戦の準備を始める。大海人皇子は先手を打つために東国へ行き、地方の豪族などに協力を求め、関ヶ原(岐阜県)で合流、ここに陣を張って大友皇子を迎え撃つ作戦にでる。 大友皇子の方も都の有力な豪族達の力を借り、関ヶ原へと進軍。大海人皇子が先に手を出せば天皇に逆らう『逆賊』とされてしまう。相手から先に仕掛けてくれば正当防衛となるので、戦いに勝てれば 大海人皇子が文句なしに次の天皇となれる。大友皇子・大海人皇子の双方の兵力は約3万人ずつだった。当時の日本の人口は約600万人。 お互い大兵力なので戦いはなかなか決着がつかなかったが、大海人皇子が優勢になり戦場は西へ移動、最終的に瀬田川(滋賀県)での戦いで大友皇子の軍は壊滅。この戦いに負けた大友皇子はわずか数人の部下と共に自殺。勝った大海人皇子は都を大津から「飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや・奈良県)」に移し、天武天皇(てんむてんのう)として即位(673年)した。
この672年の「壬申の乱(じんしんのらん)」に勝利した「大海人皇子(おおあまのおうじ)」は都(首都)を大津から「飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)」に移し、翌年の673年、天武天皇が即位する。当時の都は現在のような都市ではなく、代々の天皇がそれぞれ「宮(みや・天皇の住まい)」を建て、その宮に官僚達や豪族達が出勤して政務を行っていくというシステムが採用されていて、その「宮」のあるところが都となった。そこで676年、天武天皇は「唐(中国)のように永続的に使用できる立派な都」を日本にも作ろうと考え、新しい都の建設場所を探し始める。(新都計画が具体的に動き出すのは683年頃から。) そして684年、新都建設予定地が現在の奈良県橿原市(かしはらし)に決まる。ここまでは順調だったが、天武天皇は新都の建設予定地を決めたまま、道半ばにして病死する(686年)。
皇太子には天武天皇と「讃良皇女(さららのひめみこ)」の間に生まれた「草壁皇子(くさかべのみこ)」が既に決まっており次の天皇には草壁皇子がなるはずだったが、天武天皇には他にも沢山の子供達がいて、中でも「大津皇子(おおつのみこ)」や「高市皇子(たけちのみこ)」は人気が高かった。天武天皇の皇后の讃良皇女は次の天皇を明確にしないまま、讃良皇女自身が政務を執る。そんな中、天武天皇の皇子で「太政大臣(だじょうだいじん)」であった大津皇子が謀反の疑いをかけられ、翌日に処刑されてしまうという不可解な事件が起こる「大津皇子の変」(689年)。一般には讃良皇女が草壁皇子を天皇にするために大津皇子を陥れたものとされている。有力なライバルが消えたにもかかわらず、草壁皇子は天皇に即位することができない。「大津皇子の変」で周囲の反発がかなりあった。草壁皇子が天皇に即位しないままの状態が3年間続く。689年、皇太子である草壁皇子が病死。新都建設どころの話ではなく、計画は中断してしまう。翌年690年、草壁皇子の母親である讃良皇女が「持統天皇(じとうてんのう)」として自ら即位する。そして高市皇子を太政大臣に任命し(高市皇子の母親は身分が低かったので高市皇子は皇太子にはなれない)、夫である天武天皇の遺志を継ぎ、新都建設へ向けてようやく動き出す。そして691年、地鎮祭を行って本格的に新都建設に着手し、694年には都を「飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)」から「藤原京」に移す。この都(藤原京)は唐の都「長安(ちょうあん)」をモデルにした日本初の本格的な「都城(王の城を中心に整備された都市)」で、最近の発掘調査によると東西5.3km、南北4.8kmにも及び奈良時代の「平城京」や平安時代以降の「平安京」に勝るとも劣らない規模であったと報告されている。昭和初期の調査ではラクダの臼歯(きゅうし・奥歯)が発見されていることから、藤原京はかなり国際的な雰囲気を持った都市であったと考えられる。ここまで巨大で国際的な雰囲気を持った藤原京が拡張工事の最中であるにもかかわらず、16年後の710年「平城京」に都を移される。その理由ははっきりとは分かっていない。