西暦220年頃には、邪馬台国は存在していたことが魏誌倭人伝で分かっている。この頃に、倭国に統一国家が出来ていたと考えられている。しかし、日本での統一国家は大和政権が最初であり、4世紀初め(崇神天皇)とされている。もし邪馬台国が奈良にあれば、倭国における統一国家の時期は、一挙に100年ほどさかのぼり3世紀初めと言うことになる。日本古代史では50年の違いは比較的大きな違いで、時期は「3世紀はじめ、3世紀なかば、3世紀終わり」という言い方で特定されている。この三点の違いは50年以内だ。
魏誌倭人伝には、すべて「邪馬壹国」(現代の漢字では邪馬壱国)と書かれていて、一度も「邪馬臺国」(現代の漢字では邪馬台国)とは書かれていない。これを、従来から歴史学界では、「壹」は「臺」の誤りとし、邪馬台国と呼んできた。この呼び方に問題がないとはいえない。邪馬台国の存在を記した魏誌倭人伝とはいかなる書物なのか。魏の使いが邪馬台国を訪問した時期は、230年頃だが、当時の紀行文と邪馬台国から魏国への報告の2つを情報源として倭人伝は書かれている。特に魏の使者の紀行文、これには、魏国から朝鮮半島、対馬、壱岐を経て、九州の伊都国に至る方向と距離が記述されている。魏の使者は、伊都国までは足を運びながら、肝心の邪馬台国には、実際に足を運んでいない。そこから先は、伝聞形式で、周辺の国々の方向と距離が書いてあるだけで、邪馬台国については、水行10日、陸行1ヶ月と書かれているだけだ。この日数は、伊都国からなのか、魏国からなのかは明確でない。奈良盆地に邪馬台国があったと主張する人は、伊都国からと考える人達で、邪馬台国は九州にあると主張する人は、魏国からと考える人たちだ。また、使者が卑弥呼に直接面会したとも書かれていない。具体的に卑弥呼がどこに住んでいたかと言うことも書かれていない。卑弥呼の服装、生活ぶり、政治形態などは書かれている。邪馬台国から聞いた話として、隣接する国の名前、邪馬台国に敵対する国(狗奴国)、太平洋を半年間(往復)も船で行く国(歯黒国、裸国)などが書かれている。卑弥呼の使者が魏国に来たこと、使者の名前や身分、持ってきた貢物の内容(生口、雑錦など)、返礼として、景初三年に魏王が鏡100枚を与えたことなども書かれている。そして、卑弥呼が死に、大きな塚を作って埋葬したこと、その後、男子の王が立ったが再び国が乱れ、再度女性のリーダーである「台与」(とよ)が王になったことが書かれている。
卑弥呼が魏国に使者を送ったときの朝鮮半島の情勢はどうか。朝鮮半島には、古くは基氏朝鮮、衛氏朝鮮という中国から亡命してきた人たちの国があった。(これを古朝鮮という)その後、馬韓、弁韓、辰韓という三国時代になるが、中国に「漢」ができてからは、朝鮮半島は「楽浪郡」、「帯方郡」などと呼ばれ、完全に中国の一部となる。日本の九州も「イト郡」と呼ばれ、漢の領土だった可能性もある。漢が事実上崩壊し、三国時代になると朝鮮から今の吉林省あたりに公孫氏が勢力を拡張してきた。魏国は今の北京あたりで、勢力を拡大しつつあったが、西暦238年、魏は公孫氏を倒し、朝鮮半島へ進出する。卑弥呼の使者が魏に行ったのは、この翌年239年である。つまり、卑弥呼は、魏が朝鮮半島から倭国方面に進出しようとしていた矢先にタイミングよく使者を送った。この時、使者は、かっての中国の王朝である「商」の国の役職を名のった。どういう理由で、日本の使者が、当時から600年も前に滅んだ「商」の国の役職を名乗ったのか判らないが、日本には、商の時代の政治の慣行が残っていた。魏は卑弥呼の使者を喜んで迎えている。使者が持ってきた土産ものをみると生口(職人、兵士、奴隷のいずれか)や雑錦(絹の織物)などであり、当時の魏では、兵士が大幅に不足していたとみえる。中国の三国時代の人口は、黄巾の乱が始まったころは、6000万人であったが、卑弥呼が使いを魏に出した頃は、600万人になっていた。つまり、中国の人口は10分の1になっていた。中国の三国時代は過酷な戦争で人口が激減したようだ。当時の倭国の人口が推定で600万人だから、この時期、日本と中国の人口が同じだった。
卑弥呼が使者を送った頃は、魏では極端な人手不足だったらしい。卑弥呼は人間を土産として送った。また、雑錦とは絹織物。中国では、錦とは絹で織った龍の文様をした織物をいうが、雑錦は龍以外の文様を織った絹織物をいう。文様の違いで雑錦か錦かの違いがある。古代中国は、絹の製造技術が外国に出てゆくのを極端に嫌った。絹に関しては技術を独占しておきたかった。ところが、邪馬台国では、絹を作っていた。これは、邪馬台国、または、それ以前の倭国が、中国と深い関係を持っていた証拠である。九州一帯が、漢の時代は、朝鮮半島と同様に漢の領土の一部だった。紀元後57年、倭国の「奴国」が中国から金印をもらった。この時の金印である「漢委奴国王」という金印が玄界灘の志賀島から発見された。歴史学界では、これを「かんのわのなの国王」と読ませている。これは、「漢のイト国王」とも読める。イト国というのは、魏誌倭人伝にも出てくる国で、「伊都国」と書く。邪馬台国の時代は、伊都国には、魏の出先機関が置かれていた。「漢委奴国王」を「漢のわのなの国王」と読むのは少しおかしい。「わ」は「倭」であり「委」ではない。しかも、これまで中国の歴史書で「倭」を「委」と書いたこともない。金印が出土した志賀島が当時は「奴国」の領土だったので、「委」を無理に「わ」と読ませ、「かんのわのなの国王」と読ませたのだろう。当時の九州一帯は、漢の領土か、または属国であったものと考えられる。絹の生産技術が、中国から伝来したと考えてもおかしくはない。
邪馬台国を議論するとき、使者が持ち帰った鏡の枚数と年代が、たびたび議論になる。しかし、卑弥呼の絹織物も重要な手がかりとなる。すなわち、3世紀前半の遺跡から絹織物が大量に発見されれば、そこが邪馬台国の一部と考えられる。北部九州からは他とは比較にならないほど、絹織物の出土例が多い。このことは、北九州が邪馬台国である可能性が高い。みやげにもらった鏡の出土枚数となると近畿のほうが遥かに多い。鏡は、当時、日用品というよりは、祭祀に用いた道具と考えられる。日常使用していた絹織物の方が、邪馬台国の場所特定にとっては、有力な証拠品と思われる。
卑弥呼が魏から送られたと見られる三角縁神獣鏡が、あまりにも多く発見されることから一つの疑問が出てきたという。卑弥呼の時代の鏡と見られる三角縁神獣鏡の出土例は500枚ほど。卑弥呼の使者は、魏国から100枚の鏡をもらっているので500枚というのは多すぎる。これに対して、近畿邪馬台国説の歴史家は、5回ほど使者が行けば500枚になると主張する。そもそも遺品や出土品は統計的に累積生産量(累積使用量)の1%程度しか残らない。全部で500枚もらってきたとしたならば5枚程度しか残らないことになる。鏡が特に埋葬のときの副葬品だとして、残存率が高いと見て、10%ほどあるとしても、50枚の鏡が出土すればよい。逆に500枚出土しているのだから、鏡の累積生産量(累積使用量)は5000枚ということになる。果たして中国から、これほど、大量の鏡を持ち帰ったかどうかが議論の対象となった。これに対し、近畿邪馬台国説の歴史家は、三角縁神獣鏡は、最初は魏からもらったが、日本で複製品を作ったと主張する。当時、九州では青銅を生産していたので、その可能性も否定できない。しかし、どこで生産しても鏡は、移動可能だ。九州にあった邪馬台国が何らかの理由で近畿に移動した時に持って行ったとも考えられる。鏡の出土例が必ずしも邪馬台国のあった場所ではない。日本書紀では750年ごろ秩父で日本で最初の銅が発見されたとある。邪馬台国は九州にも近畿にもあったとする説がある。卑弥呼の時代の邪馬台国は、北九州のどこかにあったが、台与(とよ)が女王になったころ、邪馬台国は、なんらかの理由で近畿に移ったという。また、政権が東遷したという伝説もある。
奈良盆地の3、4世紀の弥生式遺跡である纏向(まきむく)遺跡の発掘が進むにつれて、この遺跡が奈良およびその周辺の出土品ばかりでなく、東は関東から、西は九州(含む吉備、山陰)まで広範囲の産物が発見された。これにより、纏向遺跡は単なる弥生式遺跡ではなく、そこには、かなりの政権が存在したものと推定されている。これにより、邪馬台国の東遷説が浮上してきた。しかし、なぜ邪馬台国が東遷する必要があったのかは判っていない。纏向遺跡は、規模は吉野ヶ里遺跡より大きいと推定されている。全体像は、未定であるが、纏向遺跡には、北は埼玉県から西は北九州までの範囲で土器類が集められている。このことから、西暦220以降は邪馬台国は纏向にあったと主張する人もいる。
邪馬台国という特定の国があったのか。古田武彦氏が研究しているように、倭人伝には、邪馬台国でなく邪馬壱(壹)国となっている。邪馬台国が30余りの倭国の連合体であることは知られている。邪馬台国は、この連合国の名前とも考えられる。当時、「ヤマ」とは、「多い」と意味であった。「ヤマタノオロチ」は「多くの頭をもった大蛇」という意味である。邪馬壱国は「多くの国が一つになった」という意味すなわち連合国家ともとれる。卑弥呼は邪馬台国という国に住んでいたのではなく、魏誌倭人伝に出てくるどこかに住んでいたと思われる。恐らく「伊都国」に住んでいた。伊都国は、当時、邪馬壱連合国の首都であった。魏の使者が、伊都国までしかいかなかった理由も、邪馬台国の所在地も具体的に書かなかった理由もわかる。また、水行10日、陸行1ヶ月と書いたのは、魏から伊都国までの時間である。すなわち、伊都国が、邪馬台国の首都だった。伊都国は、今の糸島半島あたりと考えられる。当時の糸島は、今では陸続きで糸島半島となっている。ここは当時の奴国の左隣に位置するが、伊都国と奴国との境界線は決まったものではなく変化に富んでいた。志賀島から出土した金印も古く、漢の時代に伊都国が倭国王のあかしとしてもらったものであろう。漢委奴国王(かんのいと国王)の印である。
邪馬台国を治めていた女王卑弥呼が死んで、いったん男の王が立てられたが民がこれに従わず内乱となったため、事態を収集するため、「壱与」(いよ)、「台与」(とよ)とも呼ばれる13歳の彼女が女王となり国が治まったといわれる、その時代(西暦260年頃)から、40、50年経過した頃、邪馬台国を構成していたどこかの国が奈良盆地に移動した。これが近畿邪馬台国である。九州・福岡県一帯と奈良盆地には同じ地が多いとの研究報告があるが、近畿に東遷した邪馬台国の国は福岡県一帯に居住していた人達の国かもしれない。日本書紀に書かれた崇神天皇が、この時に東遷したといわれる。東遷したその国は、国名を「ひのもと」と命名した。この国は、発展をとげ、大阪、吉備、出雲などを従えるようになり、多くの鏡を生産し、九州、中国、近畿にばら撒いた。そして、「ひのもと」の首都が、纏向遺跡で、「多くの人がいる」という意味で「ヤマト」と呼ばれた。後世、「日本」、「大和」と書いてヤマトと呼んでいるが、このような歴史的事実があったからこそ、当時の人は抵抗なく受け入れた。この時期、大阪は、「クサカ」(草深い棲家)と呼ばれていた。この国は100年近く栄えたが、その後、応神天皇が、九州の勢力(実際は朝鮮の勢力か)を従えて、大阪に上陸することになり、激しい戦闘の末、近畿にいた邪馬台国は敗北し、長野県方面に逃げたが、さらに津軽にまで逃げ、そこで、その子孫は、再び国を作る、これが、「エミシ」と呼ばれる人たちの国で、1500年頃まで、政権は変わったが、津軽を中心に栄えた。「エミシ」の「エ」は「えにし」の「エ」で昔の意味、ミは「尊い」の意味、「シ」は「うおがし」の「し」と同じで場所特定の意味、すなわち、「昔の尊い人」という意味になる。しかし、津軽の邪馬台国の後継政権は、1500年ごろ当地を襲った大地震で壊滅している。
奈良の天理市の近くに「石上神社」があるが、ここでは今でも毎年1月1日の早朝に祝詞を挙げる慣わしがある。内容は、「ひふみよいむなや」で始まる意味不明の祝詞である。これを古代朝鮮語で訳した人がいる。内容は「返してよ、返してよ、お馬鹿さん」という意味だ。石上神社は奈良盆地で一番古い神社といわれている。津軽に、これと同じ祝詞を1月1日に挙げる神社がある。石上神社は、「ひのもと」の国の神社であった。応神王朝に対して、政権の返還を実に1600年に渡って主張している。津軽の神社でもその子孫が、延々と歩調を合わせていた。津軽には、「津軽外三郡史」という江戸時代にできた歴史書がある。この中に、「かって、津軽は日本の中央であった。」という意味で、「日本中央」とういう石碑があったが、坂上田村麻呂の侵略のとき、地中に埋めたと書かれている。戦時中、自分の庭に防空壕を作ろうとしていた農家の庭先から、「日本中央」と書かれた石碑が出てきた。当時は、戦時下で、この事実は伏せられていたが、広く写真入りで公表されている。NHKの番組では、「日本中央」の石碑の発見に関して、戦時中、農家の人が適当な大きさの石を探しているとき、小川の土手で偶然「日本中央」の石を発見したとなっていた。かっての津軽政権の残した「日本中央」の石碑かどうか。津軽政権の遺跡と思われる。津軽政権の一端を示すものなのか。
日本人の血液を分析すると、東北地方と、沖縄人がともに南方系ということで共通している。これは、弥生時代に朝鮮からの人口移入により、それまで日本に住んでいた縄文人や比較的古い弥生人が南北に分断されたためだ。このことは、邪馬台国の東遷、そして、東北地方への亡命という歴史的出来事と符合する、3世紀の九州の人骨と津軽の古墳の人骨のDNA鑑定をしてもらいたい。「邪馬台国はどこにあったか」という質問に対し、西暦200年から260年ごろは北九州に、西暦260年から350年ごろは奈良盆地に、しばらく長野に滞在したのち、西暦400年から1500年間は、津軽地方にあったということもできる。
余談になるが、神と名のつく3人の天皇、すなわち、神武天皇、崇神天皇、応神天皇、推測するに、神武天皇(初代)と崇神天皇(10代)は日本書紀に書かれているが、創作した話の天皇であり、実際には、15代の応神天皇が、九州から近畿地方へ東征し、邪馬台国を倒して大和政権を打ち立てたと考えられる。日本書紀では、3人の天皇が別人として書かれているが、実際は同一人物、応神天皇のことであろう。日本書紀や古事記は創作した神話の世界に近く、歴史記録文献としては信用されていない、それは、第40代、天武天皇の時に、大和政権を正統化するために創作されたものだからだ。初代の神武天皇から10代の崇神天皇あたりまでは作られた話であろう。12代の景行天皇あたりからが実在した天皇と思われる。日本書紀や古事記に出てくる、国譲りの物語、つまり、大国主命(おおくにぬしのみこと)が大和政権に国を譲ったと美化されている話も、実際は大和政権が、近畿に東遷した邪馬台国を武力で倒し、国を奪い取ったということになるのだろうか。
魏誌倭人伝には、すべて「邪馬壹国」(現代の漢字では邪馬壱国)と書かれていて、一度も「邪馬臺国」(現代の漢字では邪馬台国)とは書かれていない。これを、従来から歴史学界では、「壹」は「臺」の誤りとし、邪馬台国と呼んできた。この呼び方に問題がないとはいえない。邪馬台国の存在を記した魏誌倭人伝とはいかなる書物なのか。魏の使いが邪馬台国を訪問した時期は、230年頃だが、当時の紀行文と邪馬台国から魏国への報告の2つを情報源として倭人伝は書かれている。特に魏の使者の紀行文、これには、魏国から朝鮮半島、対馬、壱岐を経て、九州の伊都国に至る方向と距離が記述されている。魏の使者は、伊都国までは足を運びながら、肝心の邪馬台国には、実際に足を運んでいない。そこから先は、伝聞形式で、周辺の国々の方向と距離が書いてあるだけで、邪馬台国については、水行10日、陸行1ヶ月と書かれているだけだ。この日数は、伊都国からなのか、魏国からなのかは明確でない。奈良盆地に邪馬台国があったと主張する人は、伊都国からと考える人達で、邪馬台国は九州にあると主張する人は、魏国からと考える人たちだ。また、使者が卑弥呼に直接面会したとも書かれていない。具体的に卑弥呼がどこに住んでいたかと言うことも書かれていない。卑弥呼の服装、生活ぶり、政治形態などは書かれている。邪馬台国から聞いた話として、隣接する国の名前、邪馬台国に敵対する国(狗奴国)、太平洋を半年間(往復)も船で行く国(歯黒国、裸国)などが書かれている。卑弥呼の使者が魏国に来たこと、使者の名前や身分、持ってきた貢物の内容(生口、雑錦など)、返礼として、景初三年に魏王が鏡100枚を与えたことなども書かれている。そして、卑弥呼が死に、大きな塚を作って埋葬したこと、その後、男子の王が立ったが再び国が乱れ、再度女性のリーダーである「台与」(とよ)が王になったことが書かれている。
卑弥呼が魏国に使者を送ったときの朝鮮半島の情勢はどうか。朝鮮半島には、古くは基氏朝鮮、衛氏朝鮮という中国から亡命してきた人たちの国があった。(これを古朝鮮という)その後、馬韓、弁韓、辰韓という三国時代になるが、中国に「漢」ができてからは、朝鮮半島は「楽浪郡」、「帯方郡」などと呼ばれ、完全に中国の一部となる。日本の九州も「イト郡」と呼ばれ、漢の領土だった可能性もある。漢が事実上崩壊し、三国時代になると朝鮮から今の吉林省あたりに公孫氏が勢力を拡張してきた。魏国は今の北京あたりで、勢力を拡大しつつあったが、西暦238年、魏は公孫氏を倒し、朝鮮半島へ進出する。卑弥呼の使者が魏に行ったのは、この翌年239年である。つまり、卑弥呼は、魏が朝鮮半島から倭国方面に進出しようとしていた矢先にタイミングよく使者を送った。この時、使者は、かっての中国の王朝である「商」の国の役職を名のった。どういう理由で、日本の使者が、当時から600年も前に滅んだ「商」の国の役職を名乗ったのか判らないが、日本には、商の時代の政治の慣行が残っていた。魏は卑弥呼の使者を喜んで迎えている。使者が持ってきた土産ものをみると生口(職人、兵士、奴隷のいずれか)や雑錦(絹の織物)などであり、当時の魏では、兵士が大幅に不足していたとみえる。中国の三国時代の人口は、黄巾の乱が始まったころは、6000万人であったが、卑弥呼が使いを魏に出した頃は、600万人になっていた。つまり、中国の人口は10分の1になっていた。中国の三国時代は過酷な戦争で人口が激減したようだ。当時の倭国の人口が推定で600万人だから、この時期、日本と中国の人口が同じだった。
卑弥呼が使者を送った頃は、魏では極端な人手不足だったらしい。卑弥呼は人間を土産として送った。また、雑錦とは絹織物。中国では、錦とは絹で織った龍の文様をした織物をいうが、雑錦は龍以外の文様を織った絹織物をいう。文様の違いで雑錦か錦かの違いがある。古代中国は、絹の製造技術が外国に出てゆくのを極端に嫌った。絹に関しては技術を独占しておきたかった。ところが、邪馬台国では、絹を作っていた。これは、邪馬台国、または、それ以前の倭国が、中国と深い関係を持っていた証拠である。九州一帯が、漢の時代は、朝鮮半島と同様に漢の領土の一部だった。紀元後57年、倭国の「奴国」が中国から金印をもらった。この時の金印である「漢委奴国王」という金印が玄界灘の志賀島から発見された。歴史学界では、これを「かんのわのなの国王」と読ませている。これは、「漢のイト国王」とも読める。イト国というのは、魏誌倭人伝にも出てくる国で、「伊都国」と書く。邪馬台国の時代は、伊都国には、魏の出先機関が置かれていた。「漢委奴国王」を「漢のわのなの国王」と読むのは少しおかしい。「わ」は「倭」であり「委」ではない。しかも、これまで中国の歴史書で「倭」を「委」と書いたこともない。金印が出土した志賀島が当時は「奴国」の領土だったので、「委」を無理に「わ」と読ませ、「かんのわのなの国王」と読ませたのだろう。当時の九州一帯は、漢の領土か、または属国であったものと考えられる。絹の生産技術が、中国から伝来したと考えてもおかしくはない。
邪馬台国を議論するとき、使者が持ち帰った鏡の枚数と年代が、たびたび議論になる。しかし、卑弥呼の絹織物も重要な手がかりとなる。すなわち、3世紀前半の遺跡から絹織物が大量に発見されれば、そこが邪馬台国の一部と考えられる。北部九州からは他とは比較にならないほど、絹織物の出土例が多い。このことは、北九州が邪馬台国である可能性が高い。みやげにもらった鏡の出土枚数となると近畿のほうが遥かに多い。鏡は、当時、日用品というよりは、祭祀に用いた道具と考えられる。日常使用していた絹織物の方が、邪馬台国の場所特定にとっては、有力な証拠品と思われる。
卑弥呼が魏から送られたと見られる三角縁神獣鏡が、あまりにも多く発見されることから一つの疑問が出てきたという。卑弥呼の時代の鏡と見られる三角縁神獣鏡の出土例は500枚ほど。卑弥呼の使者は、魏国から100枚の鏡をもらっているので500枚というのは多すぎる。これに対して、近畿邪馬台国説の歴史家は、5回ほど使者が行けば500枚になると主張する。そもそも遺品や出土品は統計的に累積生産量(累積使用量)の1%程度しか残らない。全部で500枚もらってきたとしたならば5枚程度しか残らないことになる。鏡が特に埋葬のときの副葬品だとして、残存率が高いと見て、10%ほどあるとしても、50枚の鏡が出土すればよい。逆に500枚出土しているのだから、鏡の累積生産量(累積使用量)は5000枚ということになる。果たして中国から、これほど、大量の鏡を持ち帰ったかどうかが議論の対象となった。これに対し、近畿邪馬台国説の歴史家は、三角縁神獣鏡は、最初は魏からもらったが、日本で複製品を作ったと主張する。当時、九州では青銅を生産していたので、その可能性も否定できない。しかし、どこで生産しても鏡は、移動可能だ。九州にあった邪馬台国が何らかの理由で近畿に移動した時に持って行ったとも考えられる。鏡の出土例が必ずしも邪馬台国のあった場所ではない。日本書紀では750年ごろ秩父で日本で最初の銅が発見されたとある。邪馬台国は九州にも近畿にもあったとする説がある。卑弥呼の時代の邪馬台国は、北九州のどこかにあったが、台与(とよ)が女王になったころ、邪馬台国は、なんらかの理由で近畿に移ったという。また、政権が東遷したという伝説もある。
奈良盆地の3、4世紀の弥生式遺跡である纏向(まきむく)遺跡の発掘が進むにつれて、この遺跡が奈良およびその周辺の出土品ばかりでなく、東は関東から、西は九州(含む吉備、山陰)まで広範囲の産物が発見された。これにより、纏向遺跡は単なる弥生式遺跡ではなく、そこには、かなりの政権が存在したものと推定されている。これにより、邪馬台国の東遷説が浮上してきた。しかし、なぜ邪馬台国が東遷する必要があったのかは判っていない。纏向遺跡は、規模は吉野ヶ里遺跡より大きいと推定されている。全体像は、未定であるが、纏向遺跡には、北は埼玉県から西は北九州までの範囲で土器類が集められている。このことから、西暦220以降は邪馬台国は纏向にあったと主張する人もいる。
邪馬台国という特定の国があったのか。古田武彦氏が研究しているように、倭人伝には、邪馬台国でなく邪馬壱(壹)国となっている。邪馬台国が30余りの倭国の連合体であることは知られている。邪馬台国は、この連合国の名前とも考えられる。当時、「ヤマ」とは、「多い」と意味であった。「ヤマタノオロチ」は「多くの頭をもった大蛇」という意味である。邪馬壱国は「多くの国が一つになった」という意味すなわち連合国家ともとれる。卑弥呼は邪馬台国という国に住んでいたのではなく、魏誌倭人伝に出てくるどこかに住んでいたと思われる。恐らく「伊都国」に住んでいた。伊都国は、当時、邪馬壱連合国の首都であった。魏の使者が、伊都国までしかいかなかった理由も、邪馬台国の所在地も具体的に書かなかった理由もわかる。また、水行10日、陸行1ヶ月と書いたのは、魏から伊都国までの時間である。すなわち、伊都国が、邪馬台国の首都だった。伊都国は、今の糸島半島あたりと考えられる。当時の糸島は、今では陸続きで糸島半島となっている。ここは当時の奴国の左隣に位置するが、伊都国と奴国との境界線は決まったものではなく変化に富んでいた。志賀島から出土した金印も古く、漢の時代に伊都国が倭国王のあかしとしてもらったものであろう。漢委奴国王(かんのいと国王)の印である。
邪馬台国を治めていた女王卑弥呼が死んで、いったん男の王が立てられたが民がこれに従わず内乱となったため、事態を収集するため、「壱与」(いよ)、「台与」(とよ)とも呼ばれる13歳の彼女が女王となり国が治まったといわれる、その時代(西暦260年頃)から、40、50年経過した頃、邪馬台国を構成していたどこかの国が奈良盆地に移動した。これが近畿邪馬台国である。九州・福岡県一帯と奈良盆地には同じ地が多いとの研究報告があるが、近畿に東遷した邪馬台国の国は福岡県一帯に居住していた人達の国かもしれない。日本書紀に書かれた崇神天皇が、この時に東遷したといわれる。東遷したその国は、国名を「ひのもと」と命名した。この国は、発展をとげ、大阪、吉備、出雲などを従えるようになり、多くの鏡を生産し、九州、中国、近畿にばら撒いた。そして、「ひのもと」の首都が、纏向遺跡で、「多くの人がいる」という意味で「ヤマト」と呼ばれた。後世、「日本」、「大和」と書いてヤマトと呼んでいるが、このような歴史的事実があったからこそ、当時の人は抵抗なく受け入れた。この時期、大阪は、「クサカ」(草深い棲家)と呼ばれていた。この国は100年近く栄えたが、その後、応神天皇が、九州の勢力(実際は朝鮮の勢力か)を従えて、大阪に上陸することになり、激しい戦闘の末、近畿にいた邪馬台国は敗北し、長野県方面に逃げたが、さらに津軽にまで逃げ、そこで、その子孫は、再び国を作る、これが、「エミシ」と呼ばれる人たちの国で、1500年頃まで、政権は変わったが、津軽を中心に栄えた。「エミシ」の「エ」は「えにし」の「エ」で昔の意味、ミは「尊い」の意味、「シ」は「うおがし」の「し」と同じで場所特定の意味、すなわち、「昔の尊い人」という意味になる。しかし、津軽の邪馬台国の後継政権は、1500年ごろ当地を襲った大地震で壊滅している。
奈良の天理市の近くに「石上神社」があるが、ここでは今でも毎年1月1日の早朝に祝詞を挙げる慣わしがある。内容は、「ひふみよいむなや」で始まる意味不明の祝詞である。これを古代朝鮮語で訳した人がいる。内容は「返してよ、返してよ、お馬鹿さん」という意味だ。石上神社は奈良盆地で一番古い神社といわれている。津軽に、これと同じ祝詞を1月1日に挙げる神社がある。石上神社は、「ひのもと」の国の神社であった。応神王朝に対して、政権の返還を実に1600年に渡って主張している。津軽の神社でもその子孫が、延々と歩調を合わせていた。津軽には、「津軽外三郡史」という江戸時代にできた歴史書がある。この中に、「かって、津軽は日本の中央であった。」という意味で、「日本中央」とういう石碑があったが、坂上田村麻呂の侵略のとき、地中に埋めたと書かれている。戦時中、自分の庭に防空壕を作ろうとしていた農家の庭先から、「日本中央」と書かれた石碑が出てきた。当時は、戦時下で、この事実は伏せられていたが、広く写真入りで公表されている。NHKの番組では、「日本中央」の石碑の発見に関して、戦時中、農家の人が適当な大きさの石を探しているとき、小川の土手で偶然「日本中央」の石を発見したとなっていた。かっての津軽政権の残した「日本中央」の石碑かどうか。津軽政権の遺跡と思われる。津軽政権の一端を示すものなのか。
日本人の血液を分析すると、東北地方と、沖縄人がともに南方系ということで共通している。これは、弥生時代に朝鮮からの人口移入により、それまで日本に住んでいた縄文人や比較的古い弥生人が南北に分断されたためだ。このことは、邪馬台国の東遷、そして、東北地方への亡命という歴史的出来事と符合する、3世紀の九州の人骨と津軽の古墳の人骨のDNA鑑定をしてもらいたい。「邪馬台国はどこにあったか」という質問に対し、西暦200年から260年ごろは北九州に、西暦260年から350年ごろは奈良盆地に、しばらく長野に滞在したのち、西暦400年から1500年間は、津軽地方にあったということもできる。
余談になるが、神と名のつく3人の天皇、すなわち、神武天皇、崇神天皇、応神天皇、推測するに、神武天皇(初代)と崇神天皇(10代)は日本書紀に書かれているが、創作した話の天皇であり、実際には、15代の応神天皇が、九州から近畿地方へ東征し、邪馬台国を倒して大和政権を打ち立てたと考えられる。日本書紀では、3人の天皇が別人として書かれているが、実際は同一人物、応神天皇のことであろう。日本書紀や古事記は創作した神話の世界に近く、歴史記録文献としては信用されていない、それは、第40代、天武天皇の時に、大和政権を正統化するために創作されたものだからだ。初代の神武天皇から10代の崇神天皇あたりまでは作られた話であろう。12代の景行天皇あたりからが実在した天皇と思われる。日本書紀や古事記に出てくる、国譲りの物語、つまり、大国主命(おおくにぬしのみこと)が大和政権に国を譲ったと美化されている話も、実際は大和政権が、近畿に東遷した邪馬台国を武力で倒し、国を奪い取ったということになるのだろうか。