井沢元彦氏が「『誤解』の日本史」の中で書いている。山本七平氏の「私の中の日本軍」で紹介している文言だが、「戦争、なぜ終わらないのか、それは軍人の戦時加俸(昇給)がなくならないためだ」、戦争中からこういういいかたがあった。つまり戦争が続いているかぎり、軍人の給料は上がり続けるという。日本の戦国時代は戦さが日常的だった。武士は戦さで活躍し、そして出世してゆく。司馬遼太郎の小説「功名が辻」の主人公の山内一豊は、信長、秀吉そして家康に仕えて功名をたてた。ここでいう功名とは、敵を殺せば、領地も増え、城ももらえるということ。出世を望む武士なら誰でも功名をあげたいと考える。それを実現した最大の成功者が豊臣秀吉であった。その秀吉が戦国の世を終わらせて天下を統一した。
ところが、天下が統一されれば戦国の世が終わる。乱世を統一した英雄というのは、余ってしまった強大な軍事力をどこかで使おうとする。そして外征に乗り出す。秀吉の朝鮮出兵も必然だったのかもしれない。戦争が続けば、武士にとっても功名を立てるチャンスがやってくる。朝鮮への出陣にあたり、秀吉が養子の関白秀次に宛てた25か条の覚書がある。「秀吉自らが渡海して明(みん、つまり当時の中国)を征服し北京に都を移す、二年後には後陽成天皇の北京への行幸を実現し、北京周辺の十か国を天皇に献上する。秀次を明国の関白とし、周辺の百か国を与え、秀吉の義理の甥である羽柴秀保か宇喜田秀家を日本の関白とする、さらに日本の天皇には皇太子の政仁親王(のちの後水尾天皇)か天皇の弟の智仁親王をあてる」という壮大な計画だ。これは秀吉の妄想に過ぎなかったと多くの歴史学者はいうが、当事者の秀吉は案外本気だったのかもしれない。
当時、朝鮮出兵の段階で日本国内の大名の勢力分布を見ると、豊臣秀吉が日本全国で五百万石程度の収入があった。全国すべての石高を足すと約一千八百万石、そのうちの五百万石が秀吉の直轄領だったことになる。ちなみに、江戸時代の徳川将軍家の直轄領である天領の石高は約四百万石、御三家や旗本の所領を合わせると約八百万石だった。秀吉には、この他に貿易の収益もあり、金山、銀山も持っていたので、実収入はもっと多かったと思われる。朝鮮出兵の段階で、第二位の徳川家康は二百五十万石、第三位の前田利家で百万石弱だった。もしも朝鮮出兵が成功していれば、国外に膨大な領土を獲得し、加藤清正や小西行長といった秀吉子飼いの武将たちを全員百万石以上の大勢力にもできたはず。秀吉が徳川家康を朝鮮出兵に参加させなかった理由もそこにあったのかもしれない。朝鮮出兵は失敗に終わったので、参加しなかった家康が賢明だったという歴史家の話になっているのだろうか。
ところで、日本歴史の中で、日本の経済を握っていたのは神社仏閣だったという意外な事実がある。平安時代中頃、比叡山延暦寺の仏教集団が朝廷に対して自分たちの要求・権利を認めさせようと、「強訴」という示威行為をやっている。僧兵の武力を傘に着て朝廷に要求を突きつけていた。彼等の経済基盤は国家から独立していた。金融業、運送業、商業までも自分たちでやっていた。関所をつくって物が流通する時に流通税をとる。海上では水軍と契約して貨物船を臨検させ、品物から税金をとり、それを上部機関である比叡山に納めさせる。紙でも醤油でも油でも、製造販売の許可をする権限を持ち、代金の一部を徴集する、今でいえばパテント料、特許料をとっていた。エゴマや菜種を栽培して油をつくろうとする者は油の販売権を一手に引き受ける特権を持つ有力な寺や神社から許可書をもらう必要があった。つまり、寺社勢力には、役所のような特権を与えられていた。古代以来、全ての最先端技術は、主に中国大陸に日本の僧侶が留学することで得られた。建物をつくるにせよ、瓦をふく、用材を切り出したり、カンナをかけたり、ニスを塗ったりする技術もそうだった。最新の彫刻技術、金箔を押す技術、木版技術等、つまり、お金を儲ける許認可権は朝廷でもなく、武家政権の幕府でもなく、寺社勢力が持っていたのだ。
当時は、業者の集団のことを「座」といい、油には「油座」、紙には「紙座」といった特権商人たちもいた。そして寺社勢力は特権商人を利用して日本経済を牛耳っていた。これが中世といわれる時代の経済の実態でもあった。実はこれを打ち破ったのが織田信長の改革だ。その改革の目玉ともいえる「楽市楽座」というのは物の製造販売に対する許認可制の完全廃止だった。独占を禁止し、自由に物をつくってもいい、自由に売ってもいいというのが楽市楽座という政策だった。それは規制緩和どころか、規制撤廃であった。当然に物価は下がり、庶民は喜ぶ。怒るのは寡占企業としてそれまで儲けてきた寺社勢力であった。寺社勢力は僧兵という軍隊で、織田信長の改革路線を妨害した。信長は関所の撤廃も実行した。関所は本来、治安を維持するため、反乱や争乱を防ぐためであり、つまり、通行料をとらないのが関所だった。戦国時代には通行料をとるのが当たり前になっていた。庶民のための政策を武力で邪魔する比叡山の僧兵集団を信長は許せなかった。武装解除せよと迫っても比叡山は断固として聞こうとしないので、信長は比叡山を焼き討ちにした。信長がけじめをつけるという前例をつくってくれたおかげで、後に秀吉が高野山に武装解除せよと迫った時には高野山は素直に応じている。家康の時代になると、命令に逆らう寺社勢力はなくなった。武器をもってはならぬ、宗教の争いで人殺しをしてはいけない、経済にも関与してはいけないということになった。その上で、秀吉は比叡山の復興も許している。信長が残した最大の贈り物はこれであろう。それ以来、日本では外国に見られるような宗教テロは根絶されたともいえる。信長の比叡山焼き討ちという事実だけで信長の人格の断定はできないようだ。
話は変わるが、江戸時代の15代も続いた将軍たちから見えてきたことがある。初代の家康は絶対君主だったが、二代将軍秀忠の時代には、将軍はある意味でお飾り的な存在になっていた。家康は歴史を良く分かっていたというか、日本人は絶対的な権力者を嫌うので、今の体制では政権は長続きしないと理解していたようで、軍事的な判断は劣るが親のいうことはよく聞く、それが唯一の取りえのような、お飾り的な後継者を選んだのかもしれない。そして、実際の政策決定は老中の合議制とし、合議で決まったことを将軍は原則として裁可するというシステムをつくった。これは、今の官僚制度とよく似ている。官僚が事務次官会議で認めたことは自動的に閣議が了承するという、本来決定権を持っているのは閣議のはずなのに、下が決めたことを了承するというシステムになっている。平時はこのシステムがいちばん落ち着く。話し合い絶対主義である。4代将軍家綱などは子供の頃に将軍になったこともあり、老中合議制の仕組みの上に乗ったお飾りのような存在だった。
ところが、5代将軍綱吉というのは自分のやりたい政治、理想とする政策に積極的に取り組もうとした将軍だった。これは本人にそれだけの力量がないと絶対にできない。綱吉は自ら理想とする政治を実現するために独自の体制をとった。老中と将軍との間に側用人(そばようにん)を置く。側用人(そばようにん)は老中合議の結論を突き返すことができた。「上さまはそのようなことは多分、御裁可なさりますまい」と言って突き返すのだ。将軍が「イエス」というようなことだけが側用人を通して上にあがってくる。側用人は将軍が自分で選ぶことができた。綱吉が創設した側用人で有名なのが柳沢吉保だ。家康以来の老中合議制のシステムを変革してしまった。自分の政治をやりたかった将軍は、その後、側用人を重用している。8代将軍吉宗もそうだ。老中合議では前例のないことはできないのだが、5代将軍綱吉が発令した「生類憐みの令」とか、8代将軍吉宗の「足高の制」という革新的な政策を断行するためには、将軍親裁をするため側用人はどうしても必要になる。吉宗の代には側用人を「側用取次」と呼んでいた。5代将軍綱吉が発令した「生類憐みの令」には悪評が多いが、どんな背景があって出された法律だったのかを考えてみる必要もあろう。
綱吉の時代は元禄文化で泰平の時代でもあったが、武士が人を殺すのが当たり前という気風は、戦国時代からの延長で続いていた時代でもあった。病気の人間を見捨てたり、動物を殺すのは日常当たり前で、誰も悪いことだという認識のない時代でもあった。名君として名高い水戸黄門こと、徳川光圀も若い頃を述懐してホームレスの人斬りゲームをやっていたという告白をしている。悪友と共に浅草の観音堂の下にいる、今でいうホームレスを遊びで人斬りにいっていたという。「生類憐みの令」には生命の尊重という基本思想があったのだ。日本人の意識を劇的に変えた効果もあった。確かに非常に劇薬的な法律でもあったともいえる。
8代将軍吉宗についても名君といわれた一面もあるが、問題もあった。米の計算だけで政治・経済を考えようとする傾向が強かったともいえる。財政再建のためと称して、社会全体に質素倹約を強要した一面もあった。現在も同じだが、役人の人数を減らし、既得権益にメスを入れ、行政をスリム化して支出を減らすという方向性は正しい。中央政府と地方自治体との二重行政を一本化することで無駄な支出を減らすのも必要なことではある。だが、こうした倹約を国民にまで強要してしまうのは間違いだ。それは、経済の流通を停滞させ、市民を救済することにはならない。例えば、宝飾品は全て「ぜいたく」だといい、倹約の対象にし、飾り職人の仕事まで奪うのはどうか。祭りの神輿にも金銀細工を禁止してしまうのも問題であろう。民には節約よりもお金を使わせるほうが良く、経済も活性化し、国民も豊かになる。
徳川幕府が近代的な政府になれなかった原因を考えると、当時の薩摩藩や長州藩と比べてみると見えてくる面がある。国力を石高の点から見ると、薩摩は表高・おもてだか(名目上の石高)77万石、長州は表高37万石しかない。日本全体が約2000万石として、幕府は最低でもその5分の1にあたる400万石を直轄支配していた。しかし、現実には薩摩、長州を合わせて幕府の400万石に勝っていた。それは経済・財政改革により、国力が充実していたのだ。重農主義から重商主義への転換にあった。つまり、米中心の経済から商業や貿易を重視した商品経済を中心に富を稼ぐという経済であった。薩摩は江戸時代を通じて、琉球を経由した貿易を行い、膨大な利益を上げていた。
鎖国というのは、「海外渡航禁止令」と「大船製造禁止令」により、日本人の海外への渡航を禁止し、海外との興隆を制限することで、幕府が貿易を独占するという政策だったのだが、鎖国をしたことで、日本の造船技術は退化していた。江戸時代を通じて、日本で使われていた船というのは沿岸航海しかできない程度の船で、外洋航海には耐えられない危ない舟だった。大黒屋光太夫やジョン万次郎も嵐の海で外洋に流された事例である。松平定信の頃に伊勢の船乗り・海運業者の大黒屋光太夫は江戸に向かう途中、暴風雨に会い、アユーシャン列島に流れ着き、ロシアへつれて行かれ保護された。また、幕末の土佐の漁師ジョン万次郎こと中浜万次郎は時化で遭難し、太平洋上の無人島(鳥島)に漂着、アメリカの捕鯨船に助けられ、米国に渡っている。
参照メモ: (復習) 徳川政権と朱子学の弊害
朱子学は別名「宋学」といわれるように、漢民族の王朝であった「宋」が、野蛮な「金」や「元」に滅ぼされる過程で発生した。世界の中心たる「中華」という自負を持った中国、当時の「宋」にとって、野蛮な「金」や「元」に滅ぼされることなど、漢民族のプライドが許さないのだが現実に起こってしまった。その「宋」で誕生した朱子学は、現実を無視し、空理空論に走るものとなっていったことは否めない。
朱子学思想には、政治への悪影響が三つある。一つは新しい事態への柔軟な対応ができない。先祖の決めたルールを「祖法」として絶対化する。儒教では「孝」つまり「親に対する忠義」が何よりも優先する。子孫が新しい法を作るのは「孝」に反すると説く。二つ目は、日本人も意識していない朱子学の最大の欠点だが、歴史を捏造してしまうこと。過去の真実、実際に起こったことよりも理想を重視する朱子学においては、事実は無視され、「あるべき姿」が歴史として記録されてゆく。つまりウソの歴史が記述されてしまう。三つ目には、外国人を「夷」(えびす)、野蛮人と決めつけ、その文化を劣悪なものとして無視する。
日本においては、徳川幕府の鎖国政策は3代将軍家光がとったもので、創始者の徳川家康の決めたことではなかった。家康は外国との通商貿易を奨励し、ウイリアム・アダムズ(日本名・三浦あんじん)を顧問にして覇業を助けてきたというのが歴史の真実だが、朱子学は「家康公ともあろう御方が、野蛮人の外国人を顧問にするはずがない」という「あるべき姿」に変えてしまう。すなわち外国との交易は廃止するという政策をとった。幕末においては、この朱子学思想が尊皇攘夷の精神的支柱となっていった。
ところで、平安貴族は「日本書紀」や「大鏡」を通じて国の歴史を知っていた。鎌倉時代の知識階級は「吾妻鏡」を、室町時代は「愚管抄」や「神皇正統記」「太平記」を通じて知ることができた。起こった事実はきちんと書いている。足利尊氏が後醍醐天皇の政権を奪ったことも正確に書いている。ところが、江戸時代には、正確な歴史記録がなされていない。朱子学思想が歴史を捏造、改竄している。「家康公が開国論者だった」という正確な歴史を主張できなかった。
また、江戸幕府という政府は経済的にも大きな過ちを犯している。その一つが農業からの税収に頼り過ぎ、商工業や貿易からの税収を悪とみなし、それを拡大発展させようとしなかった。また、通貨(小判、一部銀、銅銭等)の発行権を持つのに、米本位制をとり、銭本位制に転換しなかった。武士の給料(俸禄)は銭でなく米で支払っている。米は通貨ではない。実体経済は銭本位制で動いており、商品として米を売り、銭に換える必要があった。米は商品だから不足すると価格が上り、物価全体を押し上げる。米価を下げれば良いのだが、米で給料を受け取っている武士にとっては、賃金がカットされると同じことになる。凶作の時は米の流通量が減り米価が上るはずだから、その時を待って売ればよいが、「武士が商売するなどとんでもない」という教えだ。こんな時は国民が飢えないように幕府が米を供出する。経済的には米価を下げることになり、武士の賃金カットになる。更に、幕府は不足財源の補填のために貨幣改鋳もする。これは通貨の発行量を増やすので、インフレとなり、給料が固定されている武士階級は更に困窮する。明らかに幕府の経済政策の失敗だった。
朱子学では、お上のやることに間違いはなく、商行為は悪だという。武士が苦しむのは、商人どもが徒党を組んで経済を支配しているからだと責任転嫁する。そして、流通を仕切っている株仲間を解散させ、武士の俸禄である米を銭に換えてくれる札差も解散させられた。「株仲間解散令」によって、札差の株仲間も解散させられ、誰もが札差業に参加できるようになったが、札差たちも、旗本、御家人に対して、これ以上金を貸すのを避けようと、やんわりと断るようになる。現代でいう「貸し渋り」だ。更に多額の借金を抱えた武家からは「貸しはがし」もする。武家たちは米の現金化に窮する。ついには水野忠邦の天保の改革も破綻し、その10年後にはこの解散令を撤回、これを発令したのが「株仲間再興令」であり、発令者は、水野忠邦の失脚後に南町奉行になっていた遠山金四郎景元(遠山の金さんのモデル)だった。
天保の改革というのは、実はほとんど失敗に終わったものであり、人返し令も株仲間の解散も、江戸や大阪の周囲に散在する大名領、旗本領を幕府の直轄地にしようとした上知令(あげちれい)も失敗していた。天保の改革という歴史記録は、江戸時代の御用歴史学者が三大改革の一つとして書いたもので、後世の歴史家もこれに習ったとしかいいようがない。江戸時代の歴史を書いた人は、松平定信のような名門に育った朱子学原理主義者だった。故に商売に走る田沼意次は極悪人となり、松平定信は名宰相ということになる。商業や貿易を盛んにしようとした田沼意次の政策を堕落ととらえた松平定信のとった寛政の改革は実は政策的に大失敗だったのだ。改革と呼ぶべき田村政治を改革と呼ばず、結果において幕府を滅亡へと向けていった反動政治を寛政の改革と呼んだのは歴史の錯覚という以外にない。一方では、江戸から遠く離れた薩摩や長州で、行政改革と商業の発展、海外貿易等を進め、幕府側の改革とは別に西洋からの先進技術を取り入れて発展していったのは歴史の皮肉なのか。
ところが、天下が統一されれば戦国の世が終わる。乱世を統一した英雄というのは、余ってしまった強大な軍事力をどこかで使おうとする。そして外征に乗り出す。秀吉の朝鮮出兵も必然だったのかもしれない。戦争が続けば、武士にとっても功名を立てるチャンスがやってくる。朝鮮への出陣にあたり、秀吉が養子の関白秀次に宛てた25か条の覚書がある。「秀吉自らが渡海して明(みん、つまり当時の中国)を征服し北京に都を移す、二年後には後陽成天皇の北京への行幸を実現し、北京周辺の十か国を天皇に献上する。秀次を明国の関白とし、周辺の百か国を与え、秀吉の義理の甥である羽柴秀保か宇喜田秀家を日本の関白とする、さらに日本の天皇には皇太子の政仁親王(のちの後水尾天皇)か天皇の弟の智仁親王をあてる」という壮大な計画だ。これは秀吉の妄想に過ぎなかったと多くの歴史学者はいうが、当事者の秀吉は案外本気だったのかもしれない。
当時、朝鮮出兵の段階で日本国内の大名の勢力分布を見ると、豊臣秀吉が日本全国で五百万石程度の収入があった。全国すべての石高を足すと約一千八百万石、そのうちの五百万石が秀吉の直轄領だったことになる。ちなみに、江戸時代の徳川将軍家の直轄領である天領の石高は約四百万石、御三家や旗本の所領を合わせると約八百万石だった。秀吉には、この他に貿易の収益もあり、金山、銀山も持っていたので、実収入はもっと多かったと思われる。朝鮮出兵の段階で、第二位の徳川家康は二百五十万石、第三位の前田利家で百万石弱だった。もしも朝鮮出兵が成功していれば、国外に膨大な領土を獲得し、加藤清正や小西行長といった秀吉子飼いの武将たちを全員百万石以上の大勢力にもできたはず。秀吉が徳川家康を朝鮮出兵に参加させなかった理由もそこにあったのかもしれない。朝鮮出兵は失敗に終わったので、参加しなかった家康が賢明だったという歴史家の話になっているのだろうか。
ところで、日本歴史の中で、日本の経済を握っていたのは神社仏閣だったという意外な事実がある。平安時代中頃、比叡山延暦寺の仏教集団が朝廷に対して自分たちの要求・権利を認めさせようと、「強訴」という示威行為をやっている。僧兵の武力を傘に着て朝廷に要求を突きつけていた。彼等の経済基盤は国家から独立していた。金融業、運送業、商業までも自分たちでやっていた。関所をつくって物が流通する時に流通税をとる。海上では水軍と契約して貨物船を臨検させ、品物から税金をとり、それを上部機関である比叡山に納めさせる。紙でも醤油でも油でも、製造販売の許可をする権限を持ち、代金の一部を徴集する、今でいえばパテント料、特許料をとっていた。エゴマや菜種を栽培して油をつくろうとする者は油の販売権を一手に引き受ける特権を持つ有力な寺や神社から許可書をもらう必要があった。つまり、寺社勢力には、役所のような特権を与えられていた。古代以来、全ての最先端技術は、主に中国大陸に日本の僧侶が留学することで得られた。建物をつくるにせよ、瓦をふく、用材を切り出したり、カンナをかけたり、ニスを塗ったりする技術もそうだった。最新の彫刻技術、金箔を押す技術、木版技術等、つまり、お金を儲ける許認可権は朝廷でもなく、武家政権の幕府でもなく、寺社勢力が持っていたのだ。
当時は、業者の集団のことを「座」といい、油には「油座」、紙には「紙座」といった特権商人たちもいた。そして寺社勢力は特権商人を利用して日本経済を牛耳っていた。これが中世といわれる時代の経済の実態でもあった。実はこれを打ち破ったのが織田信長の改革だ。その改革の目玉ともいえる「楽市楽座」というのは物の製造販売に対する許認可制の完全廃止だった。独占を禁止し、自由に物をつくってもいい、自由に売ってもいいというのが楽市楽座という政策だった。それは規制緩和どころか、規制撤廃であった。当然に物価は下がり、庶民は喜ぶ。怒るのは寡占企業としてそれまで儲けてきた寺社勢力であった。寺社勢力は僧兵という軍隊で、織田信長の改革路線を妨害した。信長は関所の撤廃も実行した。関所は本来、治安を維持するため、反乱や争乱を防ぐためであり、つまり、通行料をとらないのが関所だった。戦国時代には通行料をとるのが当たり前になっていた。庶民のための政策を武力で邪魔する比叡山の僧兵集団を信長は許せなかった。武装解除せよと迫っても比叡山は断固として聞こうとしないので、信長は比叡山を焼き討ちにした。信長がけじめをつけるという前例をつくってくれたおかげで、後に秀吉が高野山に武装解除せよと迫った時には高野山は素直に応じている。家康の時代になると、命令に逆らう寺社勢力はなくなった。武器をもってはならぬ、宗教の争いで人殺しをしてはいけない、経済にも関与してはいけないということになった。その上で、秀吉は比叡山の復興も許している。信長が残した最大の贈り物はこれであろう。それ以来、日本では外国に見られるような宗教テロは根絶されたともいえる。信長の比叡山焼き討ちという事実だけで信長の人格の断定はできないようだ。
話は変わるが、江戸時代の15代も続いた将軍たちから見えてきたことがある。初代の家康は絶対君主だったが、二代将軍秀忠の時代には、将軍はある意味でお飾り的な存在になっていた。家康は歴史を良く分かっていたというか、日本人は絶対的な権力者を嫌うので、今の体制では政権は長続きしないと理解していたようで、軍事的な判断は劣るが親のいうことはよく聞く、それが唯一の取りえのような、お飾り的な後継者を選んだのかもしれない。そして、実際の政策決定は老中の合議制とし、合議で決まったことを将軍は原則として裁可するというシステムをつくった。これは、今の官僚制度とよく似ている。官僚が事務次官会議で認めたことは自動的に閣議が了承するという、本来決定権を持っているのは閣議のはずなのに、下が決めたことを了承するというシステムになっている。平時はこのシステムがいちばん落ち着く。話し合い絶対主義である。4代将軍家綱などは子供の頃に将軍になったこともあり、老中合議制の仕組みの上に乗ったお飾りのような存在だった。
ところが、5代将軍綱吉というのは自分のやりたい政治、理想とする政策に積極的に取り組もうとした将軍だった。これは本人にそれだけの力量がないと絶対にできない。綱吉は自ら理想とする政治を実現するために独自の体制をとった。老中と将軍との間に側用人(そばようにん)を置く。側用人(そばようにん)は老中合議の結論を突き返すことができた。「上さまはそのようなことは多分、御裁可なさりますまい」と言って突き返すのだ。将軍が「イエス」というようなことだけが側用人を通して上にあがってくる。側用人は将軍が自分で選ぶことができた。綱吉が創設した側用人で有名なのが柳沢吉保だ。家康以来の老中合議制のシステムを変革してしまった。自分の政治をやりたかった将軍は、その後、側用人を重用している。8代将軍吉宗もそうだ。老中合議では前例のないことはできないのだが、5代将軍綱吉が発令した「生類憐みの令」とか、8代将軍吉宗の「足高の制」という革新的な政策を断行するためには、将軍親裁をするため側用人はどうしても必要になる。吉宗の代には側用人を「側用取次」と呼んでいた。5代将軍綱吉が発令した「生類憐みの令」には悪評が多いが、どんな背景があって出された法律だったのかを考えてみる必要もあろう。
綱吉の時代は元禄文化で泰平の時代でもあったが、武士が人を殺すのが当たり前という気風は、戦国時代からの延長で続いていた時代でもあった。病気の人間を見捨てたり、動物を殺すのは日常当たり前で、誰も悪いことだという認識のない時代でもあった。名君として名高い水戸黄門こと、徳川光圀も若い頃を述懐してホームレスの人斬りゲームをやっていたという告白をしている。悪友と共に浅草の観音堂の下にいる、今でいうホームレスを遊びで人斬りにいっていたという。「生類憐みの令」には生命の尊重という基本思想があったのだ。日本人の意識を劇的に変えた効果もあった。確かに非常に劇薬的な法律でもあったともいえる。
8代将軍吉宗についても名君といわれた一面もあるが、問題もあった。米の計算だけで政治・経済を考えようとする傾向が強かったともいえる。財政再建のためと称して、社会全体に質素倹約を強要した一面もあった。現在も同じだが、役人の人数を減らし、既得権益にメスを入れ、行政をスリム化して支出を減らすという方向性は正しい。中央政府と地方自治体との二重行政を一本化することで無駄な支出を減らすのも必要なことではある。だが、こうした倹約を国民にまで強要してしまうのは間違いだ。それは、経済の流通を停滞させ、市民を救済することにはならない。例えば、宝飾品は全て「ぜいたく」だといい、倹約の対象にし、飾り職人の仕事まで奪うのはどうか。祭りの神輿にも金銀細工を禁止してしまうのも問題であろう。民には節約よりもお金を使わせるほうが良く、経済も活性化し、国民も豊かになる。
徳川幕府が近代的な政府になれなかった原因を考えると、当時の薩摩藩や長州藩と比べてみると見えてくる面がある。国力を石高の点から見ると、薩摩は表高・おもてだか(名目上の石高)77万石、長州は表高37万石しかない。日本全体が約2000万石として、幕府は最低でもその5分の1にあたる400万石を直轄支配していた。しかし、現実には薩摩、長州を合わせて幕府の400万石に勝っていた。それは経済・財政改革により、国力が充実していたのだ。重農主義から重商主義への転換にあった。つまり、米中心の経済から商業や貿易を重視した商品経済を中心に富を稼ぐという経済であった。薩摩は江戸時代を通じて、琉球を経由した貿易を行い、膨大な利益を上げていた。
鎖国というのは、「海外渡航禁止令」と「大船製造禁止令」により、日本人の海外への渡航を禁止し、海外との興隆を制限することで、幕府が貿易を独占するという政策だったのだが、鎖国をしたことで、日本の造船技術は退化していた。江戸時代を通じて、日本で使われていた船というのは沿岸航海しかできない程度の船で、外洋航海には耐えられない危ない舟だった。大黒屋光太夫やジョン万次郎も嵐の海で外洋に流された事例である。松平定信の頃に伊勢の船乗り・海運業者の大黒屋光太夫は江戸に向かう途中、暴風雨に会い、アユーシャン列島に流れ着き、ロシアへつれて行かれ保護された。また、幕末の土佐の漁師ジョン万次郎こと中浜万次郎は時化で遭難し、太平洋上の無人島(鳥島)に漂着、アメリカの捕鯨船に助けられ、米国に渡っている。
参照メモ: (復習) 徳川政権と朱子学の弊害
朱子学は別名「宋学」といわれるように、漢民族の王朝であった「宋」が、野蛮な「金」や「元」に滅ぼされる過程で発生した。世界の中心たる「中華」という自負を持った中国、当時の「宋」にとって、野蛮な「金」や「元」に滅ぼされることなど、漢民族のプライドが許さないのだが現実に起こってしまった。その「宋」で誕生した朱子学は、現実を無視し、空理空論に走るものとなっていったことは否めない。
朱子学思想には、政治への悪影響が三つある。一つは新しい事態への柔軟な対応ができない。先祖の決めたルールを「祖法」として絶対化する。儒教では「孝」つまり「親に対する忠義」が何よりも優先する。子孫が新しい法を作るのは「孝」に反すると説く。二つ目は、日本人も意識していない朱子学の最大の欠点だが、歴史を捏造してしまうこと。過去の真実、実際に起こったことよりも理想を重視する朱子学においては、事実は無視され、「あるべき姿」が歴史として記録されてゆく。つまりウソの歴史が記述されてしまう。三つ目には、外国人を「夷」(えびす)、野蛮人と決めつけ、その文化を劣悪なものとして無視する。
日本においては、徳川幕府の鎖国政策は3代将軍家光がとったもので、創始者の徳川家康の決めたことではなかった。家康は外国との通商貿易を奨励し、ウイリアム・アダムズ(日本名・三浦あんじん)を顧問にして覇業を助けてきたというのが歴史の真実だが、朱子学は「家康公ともあろう御方が、野蛮人の外国人を顧問にするはずがない」という「あるべき姿」に変えてしまう。すなわち外国との交易は廃止するという政策をとった。幕末においては、この朱子学思想が尊皇攘夷の精神的支柱となっていった。
ところで、平安貴族は「日本書紀」や「大鏡」を通じて国の歴史を知っていた。鎌倉時代の知識階級は「吾妻鏡」を、室町時代は「愚管抄」や「神皇正統記」「太平記」を通じて知ることができた。起こった事実はきちんと書いている。足利尊氏が後醍醐天皇の政権を奪ったことも正確に書いている。ところが、江戸時代には、正確な歴史記録がなされていない。朱子学思想が歴史を捏造、改竄している。「家康公が開国論者だった」という正確な歴史を主張できなかった。
また、江戸幕府という政府は経済的にも大きな過ちを犯している。その一つが農業からの税収に頼り過ぎ、商工業や貿易からの税収を悪とみなし、それを拡大発展させようとしなかった。また、通貨(小判、一部銀、銅銭等)の発行権を持つのに、米本位制をとり、銭本位制に転換しなかった。武士の給料(俸禄)は銭でなく米で支払っている。米は通貨ではない。実体経済は銭本位制で動いており、商品として米を売り、銭に換える必要があった。米は商品だから不足すると価格が上り、物価全体を押し上げる。米価を下げれば良いのだが、米で給料を受け取っている武士にとっては、賃金がカットされると同じことになる。凶作の時は米の流通量が減り米価が上るはずだから、その時を待って売ればよいが、「武士が商売するなどとんでもない」という教えだ。こんな時は国民が飢えないように幕府が米を供出する。経済的には米価を下げることになり、武士の賃金カットになる。更に、幕府は不足財源の補填のために貨幣改鋳もする。これは通貨の発行量を増やすので、インフレとなり、給料が固定されている武士階級は更に困窮する。明らかに幕府の経済政策の失敗だった。
朱子学では、お上のやることに間違いはなく、商行為は悪だという。武士が苦しむのは、商人どもが徒党を組んで経済を支配しているからだと責任転嫁する。そして、流通を仕切っている株仲間を解散させ、武士の俸禄である米を銭に換えてくれる札差も解散させられた。「株仲間解散令」によって、札差の株仲間も解散させられ、誰もが札差業に参加できるようになったが、札差たちも、旗本、御家人に対して、これ以上金を貸すのを避けようと、やんわりと断るようになる。現代でいう「貸し渋り」だ。更に多額の借金を抱えた武家からは「貸しはがし」もする。武家たちは米の現金化に窮する。ついには水野忠邦の天保の改革も破綻し、その10年後にはこの解散令を撤回、これを発令したのが「株仲間再興令」であり、発令者は、水野忠邦の失脚後に南町奉行になっていた遠山金四郎景元(遠山の金さんのモデル)だった。
天保の改革というのは、実はほとんど失敗に終わったものであり、人返し令も株仲間の解散も、江戸や大阪の周囲に散在する大名領、旗本領を幕府の直轄地にしようとした上知令(あげちれい)も失敗していた。天保の改革という歴史記録は、江戸時代の御用歴史学者が三大改革の一つとして書いたもので、後世の歴史家もこれに習ったとしかいいようがない。江戸時代の歴史を書いた人は、松平定信のような名門に育った朱子学原理主義者だった。故に商売に走る田沼意次は極悪人となり、松平定信は名宰相ということになる。商業や貿易を盛んにしようとした田沼意次の政策を堕落ととらえた松平定信のとった寛政の改革は実は政策的に大失敗だったのだ。改革と呼ぶべき田村政治を改革と呼ばず、結果において幕府を滅亡へと向けていった反動政治を寛政の改革と呼んだのは歴史の錯覚という以外にない。一方では、江戸から遠く離れた薩摩や長州で、行政改革と商業の発展、海外貿易等を進め、幕府側の改革とは別に西洋からの先進技術を取り入れて発展していったのは歴史の皮肉なのか。