パクス・ブリタニカでも、パクス・アメリカーナでも、古代ローマのパクス・ロマーナを意識した命名だ。パクス・ロマーナとは何だったのか。まずは当時のPAX(平和)とは、平和を望んでいる人々がいる一方で、望んでいない人々も常に国内にいた中で、一つには、経済活動をしてゆくのに活動しやすい環境にするため、平和を望む。二つには、征服した後の国土領域が確定したので以後は平和を国家政策としたい、という理由があった。
古代ローマ、共和制時代には攻勢一方であったローマも、帝政に移行した後は、パクス(平和)をモットーとするようになる。地中海を中心として西は太平洋、北はライン河とドナウ河、東はユーフラティス河、南はサハラ砂漠までをローマ世界と定め、パクス・ロマーナ(ローマによる平和)を維持していくことを政治の基本方針とした。この領域の防衛線に沿って25個から30個の軍団が配置された。
一個軍団は六千人の兵で構成され、ローマ市民権所有者であることが条件の主戦力は15万から18万。この数は、ハイテク化された現代の西欧の陸軍力と比べても少ない。それでいてローマ帝国の防衛線は、ヨーロッパと中近東と北アフリカにまたがっていた。
いかに精鋭の軍隊で固めても不充分なことは明らかだ。食べ物を求めて大挙して襲撃してくる蛮族は、ライン河の前線だけでも常に万単位の集団である。そこでローマが考え出したのは、ローマ市民権を持たない属州民で組織された補助部隊だ。主戦力軍団と合わせて30万前後。この程度の戦力でも防衛が可能だったのは、軍の敏速な移動のために敷設したローマ街道であり、それは軍用道路として誕生したもの。補助部隊でも25年の兵役を終えるとローマ市民権が与えられた。初代皇帝アウグストウスの定めた政策に反対の理由はない。征服するたびに加えた多くの人種や民族も併合した一大多民族国家だった。
たとえ優秀な人材でも他民族出身者を登用すれば、本国出身のローマ人の登用がそれだけ減るという理由で鎖国路線を主張する言論面でのリーダーはキケロであり、行動面でのリーダーがブルータスであった。そして開国路線を強行したのは、自分が征服したガリアの有力部族長たちまでをも元老院に参加させたユリウス・カエサルだったのだ。昨日の敵が元老院の座席に座っているのにはローマの民衆も驚いたに違いない。
シェークスピア作の「ジュリアス・シーザー」で有名なブルータスとその同志たちによるカエサル暗殺は、ユリウス・カエサルの独裁に反対するためというのは浅い見方だ。国家の基本方針をめぐってローマは今後どう進むべきか。本国が属州を支配すべきだというブルータスと、ローマ人の帝国は属州までも含めた運命共同体となるべきだと考えたカエサルとの対決だった。カエサルは暗殺されるが、彼の考えは後継者となる初代皇帝アウグストウスに引き継がれてゆく。仮にブルータスが勝利者になっていたなら、ローマもまた後代の帝国主義国家と同じ形の帝国になっていたであろう。現代の、アイルランドを同化するよりもアイルランドを支配したイギリスのようなもの、すなわち、後代の大英帝国のような民族帝国にならずに、ローマは普遍帝国になっていったのだ。
アレクサンダー大王の夢は普遍帝国の建設にあったが、その夢の実現の前に死ぬ若い天才アレクサンダーを視野に入れたフランスの作家ユルスナルは、「ハドリアヌス帝の回想」の中でこのように述べている。「アレクサンダーの嫡子は、この若きギリシャの王アレクサンダーがペルシャの王女に生ませた子ではなく、ユリウス・カエサルであった」と。プルタルコス(英語でブルターク)の「英雄伝」は、ギリシャ側一人とローマ側の一人を対比させながら叙述した作品であるが、この「ブルターク英雄伝」の中で、アレクサンダー大王に対比させた人物はカエサルだった。ブルタークも、この組み合わせ以外には考えられなかったに違いない。
古代ローマ、共和制時代には攻勢一方であったローマも、帝政に移行した後は、パクス(平和)をモットーとするようになる。地中海を中心として西は太平洋、北はライン河とドナウ河、東はユーフラティス河、南はサハラ砂漠までをローマ世界と定め、パクス・ロマーナ(ローマによる平和)を維持していくことを政治の基本方針とした。この領域の防衛線に沿って25個から30個の軍団が配置された。
一個軍団は六千人の兵で構成され、ローマ市民権所有者であることが条件の主戦力は15万から18万。この数は、ハイテク化された現代の西欧の陸軍力と比べても少ない。それでいてローマ帝国の防衛線は、ヨーロッパと中近東と北アフリカにまたがっていた。
いかに精鋭の軍隊で固めても不充分なことは明らかだ。食べ物を求めて大挙して襲撃してくる蛮族は、ライン河の前線だけでも常に万単位の集団である。そこでローマが考え出したのは、ローマ市民権を持たない属州民で組織された補助部隊だ。主戦力軍団と合わせて30万前後。この程度の戦力でも防衛が可能だったのは、軍の敏速な移動のために敷設したローマ街道であり、それは軍用道路として誕生したもの。補助部隊でも25年の兵役を終えるとローマ市民権が与えられた。初代皇帝アウグストウスの定めた政策に反対の理由はない。征服するたびに加えた多くの人種や民族も併合した一大多民族国家だった。
たとえ優秀な人材でも他民族出身者を登用すれば、本国出身のローマ人の登用がそれだけ減るという理由で鎖国路線を主張する言論面でのリーダーはキケロであり、行動面でのリーダーがブルータスであった。そして開国路線を強行したのは、自分が征服したガリアの有力部族長たちまでをも元老院に参加させたユリウス・カエサルだったのだ。昨日の敵が元老院の座席に座っているのにはローマの民衆も驚いたに違いない。
シェークスピア作の「ジュリアス・シーザー」で有名なブルータスとその同志たちによるカエサル暗殺は、ユリウス・カエサルの独裁に反対するためというのは浅い見方だ。国家の基本方針をめぐってローマは今後どう進むべきか。本国が属州を支配すべきだというブルータスと、ローマ人の帝国は属州までも含めた運命共同体となるべきだと考えたカエサルとの対決だった。カエサルは暗殺されるが、彼の考えは後継者となる初代皇帝アウグストウスに引き継がれてゆく。仮にブルータスが勝利者になっていたなら、ローマもまた後代の帝国主義国家と同じ形の帝国になっていたであろう。現代の、アイルランドを同化するよりもアイルランドを支配したイギリスのようなもの、すなわち、後代の大英帝国のような民族帝国にならずに、ローマは普遍帝国になっていったのだ。
アレクサンダー大王の夢は普遍帝国の建設にあったが、その夢の実現の前に死ぬ若い天才アレクサンダーを視野に入れたフランスの作家ユルスナルは、「ハドリアヌス帝の回想」の中でこのように述べている。「アレクサンダーの嫡子は、この若きギリシャの王アレクサンダーがペルシャの王女に生ませた子ではなく、ユリウス・カエサルであった」と。プルタルコス(英語でブルターク)の「英雄伝」は、ギリシャ側一人とローマ側の一人を対比させながら叙述した作品であるが、この「ブルターク英雄伝」の中で、アレクサンダー大王に対比させた人物はカエサルだった。ブルタークも、この組み合わせ以外には考えられなかったに違いない。