YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

これからの旅とイスタンブールからシンガポールまでのルートの話

2021-11-10 10:34:43 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
・これからの旅とイスタンブールからシンガポールまでのルートの話
 今、私が持っている旅費はトラベラーズチェックで230ドル(1ドル360円。外貨持出し最高額500ドルの内、ソ連の旅行代金は70ドル建てで、既に200ドル使った)、イギリスのお金10ポンドと少々の小銭、それに15万円相当のM&M乗船券引換券(これはエール フランスの航空券も買える便利な券)でした。私はこのM&M乗船券の書替え手続きの為、ロンドンに滞在しなければならなかった。それに滞在したお陰で内側からイギリスの情勢やロンドンについて知る事が出来、更に色々な体験する事が出来ました。
しかし、レストランの皿洗いの仕事は生活するのにやっとで、今後の旅費の足しには、全くならなかった。金銭的な事だけを考えたら、手持金を余り減らさずに滞在する事が出来た、と言うだけであった。
 今後の旅の事を考えると、これだけの旅費では、心細かった。しかし15万円相当の乗船券があるだけで、『何か最悪の状態になった場合、日本までこれに多少のお金を足せば帰れる』と言う保証が有り、多少の安心感があった。
 「シンガポールまで陸続きで行く」と言ってもビルマは、渡航が禁止されて入国出来ないし、東パキスタンの道路は全く不明・不備の状態であるらしく、陸路で行くのは困難な状態が予想された。又、国によって政情不安や、自分の気まぐれによりどんなコースを取ったら良いのか、全く分らなかった。
2週間ほど前に受け取った妹の手紙と共に、鶴村さんの手紙が同封されていた。鶴村さんはヘルシンキからストックホルムまで照井さん、鈴木さんと共に行動を共にした4人仲間であった。その彼からの手紙によると、「ストックホルムで我々と別れた後、弟さんと車でヨーロッパ旅行をしてからトルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタンを列車・バスを使ってインドのニュー デリーから飛行機で帰国した」との事でした。そして、彼からの助言・忠告として、「イスラムの国とインドは分けの分らない、信用出来ない人達が多く、死に物狂いの旅であった。中近東、インドへは行かない方が良い」と書いてあった。
しかし、英語も全く知らないおじさんが、その経路を通ってニュー デリーへ行けたのだから、私だって出来ない事はない、と確信した。又、「行かない方が良い」と言われれば、どんな所であるのか、余計に好奇心が沸くのを感じ得なかった。
 今の時点(1968年11月11日現在)、シンガポールまでのルート、行く方法等について私は全く分らなかった。後日、何処で逢ったか忘れてしまったが、複数の旅人(アメリカ人かカナダ人か、或は日本人か定かではない)から、イスタンブールからシンガポールへ行く幾つかのルート、方法の情報を得た。纏めて見て以下のルートが最も良かった。
イスタンブール→汽車3等62リラ(2,480円)→エルズルム→バス25リラ(1,000円)→バザーゲン(イラン国境)→バス320リアル(1,536円)→テヘラン→バス200リアル(960円)→メシェッド→150リアル又は100アフガニ(720円から800円位)→ヘラート→バス240アフガニ(1,920円)→カブール→バス165アフガニ又は15ルピー(1,140円、7ルピーは通行税)→ペシャーワル→汽車16ルピー(1,216円)→ラホール→タクシー又バス5ルピー(380円)→国境→力車5ルピー(240円)→バス発車所→バス4ルピー(192円)→アムリツァール→力車・輪タク2ルピー(96円)→アムリツァール駅→汽車2等25ルピー寝台料金6.5ルピー(合計1,600円)→ニューデリー→汽車2等40時間95ルピー寝台料金12ルピー(合計5,350円)→マドラス→船(デッキクラス22ドル・3等34ドル月2度出航)→ペナン島→汽車3等20マレーシアドル(2,400円)→クワラルンプール→汽車3等132マレーシア・ドル(1,560円)→シンガポール
 尚、この情報と併せて中近東やインドは、道路も整備されておらず、自動車の通行量は殆んど無い状態との事であった。従って、ヒッチは出来ないからバスや列車を利用した方がより効率的で、しかも金銭的に返って安くつくとの事であった。
これによると、乗り物料金は約98ドル(約35,000円)、ロンドン~アテネ間約1ヶ月掛かるとして最低1日3ドル要するとして旅費は約90ドル(32,400円)、アテネ~シンガポール間2ヵ月間、最低1日1.5ドル要するとして約90ドル(32,400円)、合計278ドル(100,080円)。ロンドン~シンガポール間は食事代、乗り物代、ユース ホステル、或は安いホテルを利用して、最低限の概算で280ドルから300ドルは必要なのだ。しかし手持金は230ドルと数ポンドしか持ってないので、50~70ドル程不足であった。
『陸続きで行って見たい』と言う想いだけで、金銭的に厳しい旅になる事は予想出来たが、ロンドンを去る時点で、この様なハッキリとした数字的裏付けは全く無く、常にお金に対する心配や心細さが付き纏っていた。
 ヨーロッパ、特に北欧やロンドン、パリ等大都市のユースに於いては、旅に必要な情報交換が全く無かった。その反面、非西洋諸国のユースや安ホテルでは、旅人同士が密接にルート、乗り物、宿泊所等についての情報交換がなされていた。
例えば、ニューデリーで旅人が集まる場所で、シンガポールから来た者がテヘランへ行く場合は、テヘランから来た旅人からテヘラン~ニューデリー間のルート、安い宿泊所、交通等の情報を得て、その逆にその人がシンガポール~ニューデリー間の情報を教えてやる、と言った情報交換をしていました。
又、アメリカ人やカナダ人は、『1日5ドル世界の旅』とか『1日10ドルで経済的なヨーロッパ旅行』と言った本を片手に旅をしている者が多かった。その本には世界各国の最も安く行くルート、方法、宿泊所、観光、レストラン、買物等が集約され、彼等の旅の手助けになっていた。
私も外国へ行く前に本屋を見て回ったが、主にヨーロッパや北アメリカの物ばかりで、アフリカ、中近東、インド周辺、東南アジア、特に地方の情報が掲載されている本は無いに等しかった。情報があったとしても険約旅行を求める旅人に参考になる本は無かった。欧米の他に線で結ぶ旅をした者がいない様であり、それらの本は出版されてなかった。アメリカやカナダでは、それらの本が若者の間でポピュラーになり、彼等は世界を線で結んでいたのでした。
 イスタンブールからシンガポール間を陸続きで旅をすれば、私も先駆者の1人として仲間に入れるであろう。そんな意味で鶴村さんも先駆者の1人になったのだと思う。
所で、鶴村さんの「死に物狂い」とはどの様な事か、ある程度想像が出来た。私もそのルートを旅して見たかったので、彼に先を越された様な感じがした。私は高校時代からユーラシア大陸に憧れ、何度も世界地図を広げて見ていた。特にイスラム諸国特有の文化、何処までも続く砂漠、そして昔栄えたシルク ロード、或いは中学の時に見た映画「砂漠は生きている」の場面を一目でよいから垣間見たいと思っていた。
そんな訳で、中共(現中国。当時「中国」と言えば国連から承認された中華民国であり、台湾政府の事を示す。現中国は承認されてなく、大陸の事を「中共」と言っていた。渡航制限の処置が取られていた)へは行けないが、せめてシンガポールからヨーロッパへ列車、バス、徒歩等で横断したいと思っていた。その中間にある中近東諸国は、イスラムの教えに従って生活しているらしく、そう言う中のシルク ロードの旅は、考えただけで何かゾクゾクするものを感じた。このルートは、世界でいろんな意味で一番変化に富み、旅を志す者にとって先ず目に付く地域であろう。

惜別の情でロンドンを去る~フランスのヒッチの旅

2021-11-10 07:02:43 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
フランスのヒッチの旅(千里の道も一歩から)

・昭和43年11月10日(日)曇り後晴れ(惜別の情でロンドンを去る)
 明日、ロンドンを去る予定であったが、何もする事が既に無い状態で部屋に居るのは、寂しくて堪らず、1日早く出立する事にした。昨日、予め旅支度、身の回りの整理をしておいたので、1日早くても問題は無かった。
 今後の旅について考えるとここ2・3日、部屋に居ると居ても立っても居られない気持であった。そして今、ロンドンをいざ去ろうと思うと、如何してか寂しさ、悲しさが募った。
朝食を軽く済ませた。今朝、霜が下りて特に寒かった。ストーブ料金がまだ残っていたので、暖を取ってから部屋を出た。
 思えば一宿一飯、そしてこの部屋を借りるのにお世話になったミルスおじさんにその後、一言もお礼を言わずロンドンを去る事は、本当に心苦しかった。早く心臓の病が良くなり、退院出来るように祈るばかりであった。
 8時半頃、住み慣れた部屋を出て階段を下り、別れの挨拶がしたい為、2階のマリアンのドアをノックした。彼女はまだ寝ていたのか、眠たい目をしながらパジャマ姿で出て来た。
「マリアン、私は今からロンドンを去ります。一昨日、マリアンのお陰で、私は楽しい一時を過ごす事が出来ました。有り難う御座いました」と私。
「Yoshi、ドーバーまで送ってあげるよ」とマリアン。
「有り難う。でも、ヒッチで行きます。マリアンに余り迷惑を掛けたくないし、気持だけで充分です。今日は日曜日、それなのに早く起こしてごめん」
「いいのよ、Yoshi。それでは元気で旅をして下さい。時々手紙を書いて下さいね」
「約束します。君も書いて下さい。それではマリアン、さようなら」と私。
「グッド ラック、Yoshi」とマリアン。私達は固い握手し、そして私は階段を下りた。
マリアンは、私が階段を下り切るまで、手を振って見送ってくれた。本当に別れ難い、そして私好みの女性であった。シーラから心変わりしたのでないが、もっと早くマリアンと知り合えたならば、私のロンドン生活も違った、もっと楽しいものになっていたかも知れない、再びそう思うと残念でならなかった。
 大家さんの所にも挨拶に行った。おばさんが出て来て、今から去る旨を伝えた。2日分の部屋代をバックして貰えるか聞いたら、断られてしまった。「又、ロンドンに来た時、ここに来ればその分の部屋代は取らない」とおばさんは言った。しかし、再びロンドンに来る事が果たしてあるであろか。
アンテスィペイト エンジェルのアパートを出た。ストーブで暖を取って来たが、外は一段と寒く、直ぐ身体は冷え切った。私がこちらに来て以来、一番寒い日になった。
通い慣れたアーボン ロードのこの道も、そして周りの建物も何もなかったように静まり、日曜日の朝はまだ目覚めていなかった。
 アンダーグランドでロンドン ブリッジ駅まで行き、そこから列車でDortford St(ドートフォード ストリート駅)で下車し、そこからドーバーに向けてヒッチする予定であった。このコースは予めハイド パークにあるロンドン大地図で調べておいたのだ。大都市のヒッチは難しいので、郊外からの方が良いと思った。そして何処の郊外まで出たら良いのか、その地図で検討しておいたのでした。
 ロンドンで買った暖かそうなカーキ色のジャンパーを着て、青のジーパンを履いて、そして灰色のリックを背負い、フランスで買った茶色の布製バッグを持ち、颯爽とした旅姿で、私は住み慣れた街を後にした。
 日曜日のアンダーグランドは空いていた。そしてロンドン ブリッジ駅から郊外通勤用列車に乗り、ロンドンを後にした。この列車は、日本の中距離列車と異なっていた。お互いに向き合った座席は長く(8人~10人座れる)、その中央に出入り口用のドアが付いて、各車両にこのドアが6つ~7つ付いていた。
 マリアンは、「私をドーバーまで送ってくれる」と言っていたが、実際はシ-ラに送って貰いたかった。ロンドンを1人寂しく去るのは、余りにも虚しかった。
7年間文通し、色々なプロセスを通してイギリスに遣って来た。そして2ヵ月半滞在し、色々な事があった。車窓からその光景が、1コマ1コマ走馬灯の様に私の頭の中を過って行った。それらの思い出は、6年半の苦悶と外国へ行って見たいと言う想いの結晶でもあった。もう2度とイギリスには来られないのであろうか。青春の一時を過したこの大都会・ロンドン。する事が無くなり、寂しくてロンドンを早く去りたかったが、現に去ろうとしていると何故か心残りと言うのか、名残惜しく感じるのでした。しかし列車はそれらを打ち消し、ロンドンを離れて行った。
「又、いつかきっと来るぞ。きっと又、来るのだ。シ-ラ、私は心に決めたぞ。シ-ラも元気で、さようなら」
彼女も間もなく去るロンドンの方に目をやり、心の中で何回も自分に言い聞かせた。寂しさ、不安さ、そんなごっちゃ混ぜの心境でシンガポールに向けて1人旅が今、始まった。
 ドートフォード駅は、ロンドン ブリッジ駅から10キロ程度であろうか、ここまで来ると田園風景、既に郊外になっていた。
 駅からドーバーに向かう街道に出た。日曜日のヒッチ率は案の定悪く、1時間経っても私をピックアップしてくれる車は無かった。少し歩いて行くと道路際に旅行用移動ハウス車があり、そこに人が住んでいた。貧しそうな家庭であった。そこの親子が焚き火をしていたの
で、寒かったので暖を取らせてもらった。
 その後、直ぐヒッチ合図をしたら1台目が止まってくれた。この車で半分以上来てしまった。ロンドンの薄暗い部屋に1人で居るよりも、こうしてヒッチの旅をしていた方が、よっぽど楽しいのであった。
 午後の2時頃、3台目でドーバーに着いた。明日の乗船券を買おうと発売所を探したが見付からず、ユースへ行って泊まる手続きをした。
 ドーバーは、イギリスとフランスの交通の要、大きな街にも拘らずホステラーは、アメリカ人男性3人とカナダ人12歳の女性3人であった。彼女達は3人でヨーロッパをヒッチで旅行しているとの事であった。日本の中学生よりずっと行動力を感じた。同時に12歳と言えば小学6年か中1なのだ。学校は如何したのであろうか。夏季や冬季の休みではないし、娘3人連れの旅を、親はよく許したものだと思った。
 このユースにペアレントの手伝いをしているアメリカ女性も居た。彼女は旅費が無くなってしまい、本国から送金されて来るのを待っていた。その間、ユースの仕事をして無料で泊めて貰っているとの事であった。色々な外国女性が居るものだ。
 ペアレントに乗船場所と乗船券について尋ねたら、乗船場所と乗船券は明日、そこへ行ってからでも買える旨を教えてくれた。
 私はイギリス最後の夜をドーバーのユースで過した。8月24日から11月11日まで計80日間、イギリスに滞在した事になった。