・昭和43年11月13日(水)晴れ(最初で最後の若い女性の車をヒッチ)
ロンドンに滞在していた時は、毎日曇りか小雨の日が続いて、部屋にいると居たたまれない気分であったが、フランスに渡ってから3日間連続して晴れの日が続いていた。天気が良いと、それだけで気分も晴れた。そう言う意味で人間の心は、天候でも左右され・昭和43年11月13日(水)晴れ(最初で最後の若い女性の車をヒッチ)るのか、ましてヒッチの旅には有り難い。
今日も昨日に続いてヒッチの旅が続いた。1台目、2台目、3台目と乗り継ぎパリへと向かった。しかし乗車区間が余りにも短かったので、パリへ近づいていない様な感じであった。車に乗っている時は良いのだが、降ろされて道路に立っている時は、とても寒く、辛かった。イギリスに滞在していた時は、寒い日もあったが、こんなに寒くなかった。ここ3・4日で気温が急に変化したのであろうか。それともフランスへ入って大陸性気候になった為なのか。顔が冷たく、手がかじかむ、手袋が欲しかった。
4台目は、かなりの長い間(約1時間)、道路端に立たざるを得なかったが、寒さの中を辛抱した甲斐があって、若いフランス女性に乗せて貰った。幸運な事にこの車で160キロ、一気にパリまで行った。
この様な車に乗せて貰うと、ヒッチの旅も最高な気分に変わった。彼女は英語が話せず、私はフランス語が全く話せないので、2時間以上同じ車内に居ても、まるっきり会話が無かった。
途中2回、警察の検問に引っ掛かった。交通取締ではない感じであった。何か重大な事件が発生し、その為の検問の様な感じがした。
私を乗せた彼女の年齢は、同じ位か年下と推測した。感じはとても良く、フランス女性そのままの雰囲気があった。途中、人気の無い寂しい所で休んだ時があった。ヒッチ ハイカーが私みたいな純情・純粋な男で、彼女は幸運であったのだ。もし卑屈な男であったら、彼女は犯されても仕方ない様な無防備の状態であったのだ。犯罪的行為をしてはいけないのは勿論であるが、乗せる方も、そして特に乗せて貰う方もお互いマナーだけは守って、楽しい旅でありたいものだ。
パリに近づくにつれて、多くのヒッチ ハイカーを見掛けた。彼女は彼等に目をやらず、パリへと車を走らせた。
パリのほぼ中心に着いて彼女と別れる時、お礼に日本の絵葉書を数枚差し上げた。 お世話になった人(ヒッチで長く乗せてくれた人)に御礼として絵葉書を上げたいので、私はロンドン滞在中、妹から取り寄せておいたのだ。私が日本から持って来た絵葉書は、既に使い果たし無くなっていた。何故その様な事をするのかと言いますと、長距離乗せて貰い、お世話になって「ハイ、さようなら」では余りにも義理が立たないではないか。日本人の心情を良くしておくのも、我々若い旅人の勤めでもあるし又、絵葉書を贈る事によって日本観光の宣伝にもなるのではないか、と思うからであった。又、私の様な心掛けの人が何千何万と後に続いてくれれば、それは、日本とその国の平和交流、国際親善の一環に役立つ、と信じるのであった。
パリのユースに泊まったら、ドーバーのユースで会ったアメリカ人の旅人と又、会った。我々は再会を喜び合い握手をした。彼は、「カレーの郊外で私が乗っていた事を覚えているだろう。あのフランス人のドライバーはホモで、危うく犯されそうになったが、君は乗らなくって良かったな」と言った。乗らなくってではない、乗せて貰えなかったのである。しかし彼には失礼だが、犯されそうになったとは、可笑しくて仕方なかった。
今回でパリは、3回目の訪問になった。夕食後、前にパリ滞在中に部屋を提供してくれたマサオの所へ行って見る事にした。私がロンドンに居る時、彼は手紙を書いてくれる事になっていたが、とうとう1通も届かなかった。でも彼はまだ元気で居るかもしれないと思い、再会を楽しみにしていた。
一方、彼と別れる時(8月24日)、「僕はもう少し経ったらパリを去り、スペインのある島へ行きます」と言っていたので、若しかしたら既に彼は居ないのでは、と危惧していた。懐かしい階段を上って行った。部屋は鍵が掛けられ、マサオは既に住んでいる様子はなかった。管理人のおばさんや隣部屋の人の話では、「10月中旬頃、彼はここを出て行った。行き先は分らない」との事であった。マサオは、スペインの『楽しい島』へ流れて行ったのであろう。私は彼がそこで元気で居る事を望むだけであった。