・昭和43年11月24日(日)曇り(ピーチカと美味しいワイン)
中年のおばさんが起こしに来た。時計を見ると、まだ5時半前ではないか。いくらなんでも起きるには、まだ早過ぎた。早く起こされたので、「ブゥブゥ」独り言を言いながら、又ベッドへ潜ってしまった。
6時前、又おばさんが入って来て、「わぁわぁ」訳の分らない事を大声で言いながら今度は、叩き起こされた。何がどうなっているのか、まだわめき散らしていた。私は何も悪い事をしていないのに、如何して怒っているのか、面食らってしまった。如何もそのおばさんの様子から、「もう遅いので直ぐ起きて、部屋から出て行ってくれ」と言っているようであった。仕方がなく、ペンションを出た。私は宿泊施設で6時(おばさんにしてみれば、こんなに遅くまで寝ていて、と言う感じであった。)に追い出されたのは、生まれて初めてであった。
日曜日の朝6時と言うのに、街全体が起きていて、昨夜と全く異なり活気があった。昨夜のカフェテリアで朝食を取ろうと思って入って見ると、既に大勢の人がいた。
ここの国の人々は、朝は早く起きて、夜は早く寝る、『早寝早起きの国民。又は早起きは3文の得』を身上(習慣)にしている、或は国策にしていると見受けた。従って5時半や6時に起きるのは、寝ボスケの部類で、これでは私が早く起こされても仕方ないと納得した。
今日のヒッチは、そんな訳で7時30分頃から始まった。こんなに早くから開始したのは、初めてであった。
街の中の街道をBeograd(ベオグラード)方面に向けて歩いていると、ヒッチ合図をしないのに、むこうから若者2人が乗っているオンボロ車が直ぐに止まってくれた。しかし200~300m走ってヨロヨロと止まってしまった。古い車なので故障したのかな、と思った。幸いにも20分位で直り、100キロ程乗せて貰った。
ユーゴ人は、よく〝この国道〟(トリエステの国境を越えた所からリュブリャーナ、ザグレブ、ベオグラード、スコピエ経由のユーゴ中央を横断してギリシャへ至る、片道一車線の道路。)を「ハイ ウェイ」と言って、自慢していた。この国道は、10年計画でつい最近完成された。他の道路と平面交差で、道幅も日本の一般道路と同じ位で、到底ハイ ウェイ(高速道路)と言える道路ではなかった。ただ走っている車が少なく、高速で走れるが、殆どの車はせいぜい60キロぐらいで、そんなにスピードを出していなかった。
この道路以外の他の道路は、全く整備されていなかった。従ってこの道路から分かれて他の町に通じる道路は、砂利道か濛々と砂埃を上げて行く様な凸凹道であった。村に通じる道は、雨が降った後ではないのに、グジャグシャな泥んこ道が、延々と続いた状態であった。そんな道路なので、彼等にとってこの道路は自慢の国道であり、ハイ ウェイなのであった。州都や首都の道路は、ヨーロッパの先進国に比べても引けを取らないが、いずれにしても、郊外へ出ればこの国道以外は、そんな状態の道であった。そして、ユーゴの北部に比べて南部は、もっと酷い状態の道路であった。
日本でも昭和38年頃は、国道17号線でも東京から本庄までは整備されていたが、その先、高崎や前橋の市街地以外、砂利道や泥んこ道であった。43年現在でも、地方では、殆んどその様な道なので、ユーゴと比較して日本の道路だって自慢出来なかった。
何はともあれ、原野や山地が延々と続くその真っただ中をこの素晴らしいハイ ウェイ(?)をドライブ出来るのは、楽しいものであった。そしてこの国道はギリシャに入る国境の町まで、街の中を通らなかった。
ともあれ2台目は、35キロ程乗せて貰った。3台目は、トラックに乗せて貰った。このドライバーは陽気なおじさんで、言葉は通じなくても乗っていて楽しかった。看板に女性が描かれたり、女性が歩いていたりすると、看板や女性達に向かって「ピーチカ、ピーチカ」と言って、はしゃぐのであった。私は、ピーチカを良い女、又はカワイコチャンと言う意味だと思い、女性を見ると「ピーチカ、ピーチカ」と言って、運転席で彼と共にはしゃいだ。
余談であるが、後にイスラエルのキブツに滞在した時、そのキブツ仲間の1人にユーゴの女性が居たので、彼女に「ピーチカとはどんな意味ですか」と尋ねた。すると彼女は自分の性器を指差して、「Cunt(Omankoの意味)の事よ」と教えてくれたのであった。私は彼女にユーゴのドライバーとの状況を話して、2人で大笑いしたのでした。意味も分らないで使うと、後で物笑いになる可能性もあるし、場合によっては、侮辱の原因になる事もあるので、注意しなければならなかった。
話を戻すが、そんな助平な言葉とも知らない事を良い事に、大声を上げてはしゃぎながらのドライブも、そのドライバーの心の気安さが感じられたからであった。又このドライバーは汚い新聞紙に包んであったワインを取り出し、飲みながら運転していた。運転中、酒類を飲まない方が良いに決まっているが、私は別に飲んだからと言って、危ないとは思わなかった。この道路は整備されているが、何しろ余り車が走っていないので、車同士の正面衝突等の事故は無いと思っていた。あるとすれば、畑の中か原野に突っ込む事故があるかも、と言った程度であった。
おじさんは、「このワインは自分で作った地酒で、とても旨い。」と私に一生懸命説明した。それで、おじさんがラッパ飲みした、しかも薄汚れた瓶のワインを私に、「飲め、飲め」と勧めた。
それではと思い、1飲みご馳走になった。それが思った以上に旨かったので、もう1飲みご馳走になってしまった。それは、私がフランスでよく飲んでいた2フランのワイン、或いは3・4ヶ月前マドリードへの車中で飲んだワインよりも、旨いワインであった。そして、そのワインの舌から喉に染み渡る旨さは、夜になっても余韻が残っていた。私は、過ってこれほど旨いワインを飲んだ事が無かった。
この面白いドライバーにベオグラードまで乗せて貰いたかったが、100キロ程乗って、残念であるが降ろされてしまった。降ろされた場所は、道路際に2軒民家があるだけで、周りは一面の畑であった。おじさんの運転する車は、本道から分かれ、何処までも続く凸凹の泥んこ道をヨタヨタしながら去って行った。
ここで暫らくの間、次の車をゲット出来なかった。それから間もなくして突然、何処からとなく中年女性の村民2人が現れた。何処かへ行くらしく、マナー違反である事を知らないのか、私の手前でヒッチを始めた。村民達には勿論、自家用車が無く、乗合バスも走ってないので、彼女達の移動手段はヒッチであった。そして直ぐ車が止まり、彼女達を乗せた走り去り、私だけが畑の中に取り残された。
暫らくして今度は、高級乗用車が止まった。紳士風の人が顔を出して、「金を出したら乗せてあげる」と言うので勿論、断った。ヒッチをしている旅人に如何してお金を請求するのか、理解出来なかった。金持ちの人(高級車に乗っているので、そう思った)がヒッチ ハイカーに金をせびるとは、何とケチなのか、呆れてしまった。こんな人に出逢ったのは、ヒッチの旅をして今回が初めてであった。
そうこうしている内に、4台目のドイツ青年の車が止まってくれて、ベオグラード(セルビア共和国の中心地、ユーゴの首都)まで乗せて貰った。
市内の中心に位置する場所であろうか、彼はトラベル インフォメーション オフィス(旅行案内所)前で降ろしてくれた。これは、「今夜の宿泊所をここで紹介して貰いなさい」と言う、彼の私に対する親切行為と理解した。
案内所の男性スタッフに聞いてみると、安いホテルで41ディナール(1,030円)であった。私にとって高かったので、やはりユースに泊まる事にした。彼にユースの場所を教わり、市内観光マップを貰って案内所を出た。しかし、ユースの行き方を教えて貰ったが、直ぐ道順を忘れてしまった。ベオグラードは大都会、しかも東も西も方向感覚が全く分らない私に、「あー行って、こー行って、あー行く」と教わっても結局、分らなかった。多くの人に尋ねたが、英語は通用しなかった。私は何回も何回も同じ事を尋ね、市電を再三乗り継ぎ、そして人々の指差す方向を頼りに郊外にあるユースにやっと辿り着いた。この時はさすがにホットした。言葉が通じない初めての都会や大きい町では、毎度のパターンであった。
同じ部屋に旅人のカナダ人(名前はヘンリー)が居て、直ぐに親しくなった。彼と近くのレストランへ夕食を食べに出掛けた。
ユースに戻ると、地方から集まって来たと思われる(一目見て、着ている物がお粗末であったから)ユーゴの若者達が食事を取りながら、歌を歌ったりして過ごしていた。それを見た彼は、「食事が貧しそうだが、よく楽しそうにしていられるね」と言った。確かにその食事内容を見ると、その通りであった。私も毎日、貧しい食事内容であるから、何とも言えない。ただ私は、「食事が貧しくても、皆で楽しめればそれで良いのでは」と言った。彼は「You are right」と言って納得した。
その後、我々がロビーで寛いでいたら、先ほどのグループと思われる20歳前後の女性達が集まって来た。日本人が珍しいのか、ヘンリーより私に興味があるらしかった。彼女達は、都会的に洗練された服装や髪型、或いは振る舞いではなかった。(こんな言い方は失礼であるが)まさしく地方の農村からやって来た様な、やぼったい感じであった。でも彼女達は皆、純粋、純情その者の様な感じがした。
その中で、ほんの少し英語が出来る女性が2人いて、私に「何処から来たのですか」、「何人ですか」、「ユーゴは如何ですか」等々の質問攻めに遭い、もててしまった(?)。彼女達は富士山、切腹、空手等の日本についての知識を披露した。大した事を知らないのでガッカリしたが、逆に我々日本人はどれだけユーゴの事について知っているであろうか。多くの日本人は、何にも知らないのではなかろうか。我々の国際、外国に対する知識は、そんなものなのだ。その2人の女性が文通を希望しているので、お互いの住所を交換し、私が帰国後、文通をする約束をした。
今日のヒッチの旅は、ザグレブからベオグラードまで約430キロであった。