YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

旅の心情~ユーゴスラビアのヒッチの旅

2021-11-28 08:47:00 | 「YOSHIの果てしない旅」 第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅
△寒風が吹く荒涼とした原野をギリシャに向けて歩を進める私- Painted by M.Yoshida

・昭和43年11月26日(火)晴後曇(寒風吹く中のパンク事故)
 ヘンリーは「もう一泊する」と言う。私は5年間も世界中を旅しているアメリカの旅人(昨夜遅く、ユースに到着した)と共にユースを去り、ベオグラード郊外の街道に出た。彼は私と反対のイタリア方面へ向かって行った。地理や方向感覚が分からず、それに言葉の障害でユースへ辿り着くにも、郊外へ出るのもいつも苦労をするが、それでいて何とはなしにユースに着くし、又自分の行きたい方向への道路に着くから不思議であった。
 この道路は、2車線で整備され、絶対的に交通量が少ないが、平面交差が多い所為か、今日100キロと行かない内に2度、交通事故の惨劇を見てしまった。いずれにしても、『私が乗っている車だけは、事故を起こさないよう、事故に遇わないよう』と祈るだけであった。
2台目の車から降りる際、リックから○〇○が車の中にこぼれてしまった。ドライバーにえらい物を見られた様で慌てて拾い上げた。私はユーゴにこんな品質の良い物は無いだろうと思い、乗せてくれたお礼に3個プレゼントした。
 所で大都市以外、いつも降ろされる場所は、何も無い原野か畑の真ん中であった。だから、時に2・3軒の農家がある所に降ろされただけで、『そこに人が住んでいる』と思うだけで、何か癒された。 
そして今、車から降りると原野に寒風が吹いていた。今日も昼食抜きだから、余計に寒さを感じた。特に、手の冷たさが一段と堪えた。こんな事ならロンドンに居た時、或は割かし物価の安いイタリアで手袋を買って置けば良かったと、何回も後悔した。しかし、イタリアに入ったらポカポカな陽気であったので、スッカリ忘れていたのか、買う意思は全く無かった。そしてベオグラード滞在中は、衣類関係が割かし高めで、これから南下するので我慢出来るであろうと思った。そんな事で、ロンドンを去る日から手袋が欲しかったが、今だに持って無かった。
 道路端にじっと立っていると寒いので、トボトボ歩きながら、そして寂しさを紛わらす為、「会いたい♪気持がまま♪ならぬ♪♪、北国の街は♪冷たく♪遠い♪♪』と『小樽の人よ』を歌いながら、ヒッチした。
車は通らない、来ても素通りしてしまい、何時間も車をゲット出来なかった。1時間、2時間歩いても、周りの様子は何ら変化しなかった。ただ寒いので片方の手をジーパンのポケットに入れて、もう一方の手で手提げバッグを持ち、それを交互に手を暖めながら、リックを背負って、ただ歩いた。 
 それにしてもユーゴのヒッチの旅は、寒い上に如何して寂しいのか。如何してこんな苦労をしなければならないのか、自分で嫌に成る程であった。出来れば今直ぐ、このまま飛んで行って、日本へ帰りたい気持が湧いた。お風呂にゆっくり入った後、コタツに入りテレビを見ながら熱燗で一杯やれたら、どんなに嬉しいであろうか。凄く平凡な事が大切であり、そんな平凡な暮らしが出来る事が、とても幸せである様な気がして成らなかった。
しかし、ただ帰っても自分で納得した旅でなければ、意味が無いし、悔いも残る。今帰っても、私自身が充分に旅をした、と言う実感がまだ無い様な気がした。だから、『今はもっと旅を続けなければ』と言う、その一途であった。
 それでも3台目、4台目と乗り継いで来て、Nis(ニーシュ)を過ぎた辺りまで遣って来た。5時を過ぎて辺りは、夕闇が迫っていた。そして今夜の寝る場所は、まだ決まっていないので、いつもの事ながら不安が漂った。
遠くに2つ3つ家の灯が見えた。温かい家庭がそこにあり、平和に暮らしているユーゴの国民がいる気がしてならなかった。私みたいな流れ者(最近、私自身そんな気持にもなって来た感じであった。)にとっては、暗くなると家庭の灯りを見ただけで、そこに幸せそうに暮らしている人が羨ましかった。私も今日の旅を終りにして、そこの家庭に泊めて貰いたい、そんな誘惑に駆られる気持になった。原野の寒風の中、今夜の泊まる所も定まらず、6時を過ぎても暗闇の中を、寒さ凌ぎに街道を歩き続けた。
 そんな時、遥か向こうから来る車のヘッド ライトが見えた。必死の思いで、しかも願いを込めてヒッチ合図をした。大型トラックが減速し、50m程行過ぎて止まってくれた。助かった思いで、本当に有り難かった。 
15分か20分位同乗していたら、突然車が止まってしまった。ドライバーが降り、暫らく経っても運転席に戻って来なかった。如何したのか疑問に思い、私もトラックから降りて行った。見ると、トラックの左後輪2つの内1つがパンクしたらしく、彼は寒風の中、タイヤの点検中であった。
私は乗っていて、パンクに全く気が付かなかったが、彼は気が付いたのだ。タイヤ交換作業の為、私も大きいタイヤを保持する手助けをしたが、腹が減って力が出ないありさまであった。おまけに言葉が通じ合わず、運転免許を持っていない私は、当然タイヤ交換をした事が無かったので、彼の手助けが全く出来なかった。せめて私の出来る事と言ったら、彼と同じ寒風の中、彼の傍でじっと作業をしているのを見守るか、懐中電灯を彼の手元に照らすだけであった。それにしても、寒風の中での交換作業は、長かった。私は寒くて仕方なかった。彼も苛立ち始めて来たのが分った。1時間経っても直らなかった。
タイヤが直るのか、如何なのか。8時が過ぎてこれから今夜の泊まる場所が確保出来るのか、私も不安と苛立ちが募った。そして、寒風の中での立ち尽くし、寒さの為に手や足の感覚が無くなりつつあった。『たった20分程乗っただけで、こんな思いをするのなら、乗らなければ良かった』と後悔の念も沸いて来た。
それから間もなく、やっとタイヤ交換が終了した。トータル的に交換作業は、1時間半以上費やしてしまったようだ。でも再出発出来て、本当に良かった。灯り1つ見えない真っ暗な原野に放り出されたら、凍え死んでしまうのではないか、と思う様な状態であった。
 再出発して後、運転中にも拘わらず、45歳位のおじさんに「安いホテルに連れて行って下さい。ホテルがないのなら、おじさんの所に泊めて下さい」と英語とジェスチャで、懸命に彼にお願いした。しかし彼は私の言った事、願っている事が分ったのか、如何なのか、私には分らなかった。
トラックに1時間余り乗っていると、やがて遠く右手前方高台の家々の灯が見える所に来た。何処かの町であった。周りが闇夜であるから一軒一軒の灯が明るく感じられた。
彼はその町へ行くらしく、本道から右折する交差点箇所手前で車を止めた。そして彼は、「この角を曲がるので、ここで降りろ」と手真似した。
私はこんな所で降ろされたら大変だと思い、寝る真似をして、「ホテルへ連れて行くか、貴方の家に泊まらせて下さい。」と必死に訴えた。すると彼は、前方を指差した。レストランらしき店が確かに見えた。彼のジェスチャから判断して、そこで宿泊出来るらしい事が分った。
彼に心から感謝を述べ、大型トラックから降りようとしたら、彼はお金(2・3枚の札、札の種類は分らなかった)を出して、私に「あげる」と言うのであった。『車に乗せて貰い、しかもお金まで貰っては申し訳ない(ハシタナイ)』と思い、気持だけを受け取った。私は彼にお礼を何遍も言ってトラックを降りた。
 私は貧乏な旅人、本当は1ディナール(25円)でも10パラ(2円50銭)でも喉から手が出るほど欲しかった。実際に寒風の中、タイヤ交換で懐中電灯を照らすのを手伝い、又、交換中1時間30分も寒い中、彼の傍に居たのだ。彼は作業を手伝った私に対する感謝の気持で、お金を出したのかもしれないのだ。しかし、だからと言って安易に受け取る事は、私の気持として出来なかった。
  シーラの実家のウェールズを去る時、1ポンド紙幣1枚であったが、気持からシーラのお母さん(マミ)は、餞別として私に差し上げたかったに違い。私も本当は欲しかったが、あの時も有り難くお断りした。マミは家事の合間に、午前・午後とも近くのストアで働き、又夜はクラブで給仕として働いていた。シーラの家は、決して豊かでなかった。家計の為に一生懸命働いているマミから1ポンドであっても、私はいただく気持になれなかった。
 『お金を余り持って無い、或は無くなったから』と言って、私の方から人に恵を請うたり、或は人のお金や物を盗んだりしてまで、旅をしたいと思わなかった。『もしそんな事をしたら、私の旅そのものの意義、想いが失われる』と自身思っていた。
私は、『旅は苦労して、自分で道を切り開いて行く事。そのプロセスの中で多くの体験や経験して行く事が大切である』と思っていた。この事は、日本を出発前の私の旅に対する、基本的な考え方であった。
 私は今現在、イギリスのロンドンを発って、アテネに向かって欧州大陸を旅している。毎日、色々な面で苦労しながら旅をしている。辛いし、寂しいし、空腹で情けないし、そして寒さも加わり大変なのだ。しかし、だからと言って本当にこの旅が嫌になってしまった、と言う訳ではなかった。この様な旅をして見たいと思っていたし、考えてもいた。従って、『辛い、淋しい、大変』と言う類(たぐい)の言葉・表現が日記の中に随所書いたが、ある反面、私はそんな旅を楽しんでいるのであった。
 話は脇にそれたが、私はトラックから降り、ドライバーに教えて貰ったレストラン(ユーゴのこの街道沿いに店があるのが、珍しかった。大きな町が直ぐ近くにある証拠だと思った。)へ行った。9時を大分過ぎていたが、中に入ると2・3人の客が居た。店の主人が出て来て尋ねると、「宿泊も出来る」との事であった。私は内心ホットした。店内にストーブが赤々と燃えていて、私の冷え切った身体を温めてくれた。
主人が英語を話せるのも有り難かった。泊まる場所は、店の裏側に幾つかのバンガローがあって、その1つに案内された。そこにリックを置いて、再び店に戻り、遅い夕食を取った。今日は辛い、そして寒い旅であった。腹も非常に減っていたので、暖を取りながら美味しく食事が取れた。
 主人はコイン収集しているので、私に自分が集めたコインを自慢げに見せた。その中には、外国のコインも含まれていた。
 彼は、「日本のコインを持っていたら交換して欲しい」と言うので、100円貨幣とユーゴの10ディナール(約250円)と交換した。因みに100円貨幣は、東京オリンピック記念硬貨であった。主人のサービスが良かったので、勿体ないがほんの気持であった。私は、『何かの役に立つ』と思い、数枚持って来ていた。
  バンガローに戻った。部屋に暖房が効いてないので、身体は直ぐに冷えてしまった。ベッドに潜っても寒さの為、中々寝付かなかった。