・昭和43年11月11日(月)晴れ(イギリスとフランスの天候の違い)
イギリスのドーバーから船で、フランスのカレーへ渡った。4度目の船旅、そしてとうとうイギリスを離れたのであった。
11時頃出航、私はデッキでイギリス本土が見えなくなるまで眺めていた。イギリスは厚い雲で全土が覆われていて、暗く寂しい国の様な感じであった。この天候の様に私のロンドン生活も同じであった。生活も天候に左右されるものであろうか。それでも過ぎ去ってしまえば、数多い楽しい思い出を残してイギリスを去るのは、感無量であった。胸が張り裂ける思いで、いつまでもイギリス本土の方に目をやっていた。
イギリスとフランスを結ぶこの航路(この区間)は最も短く、2~3時間の乗船であった。
フランスに近づくにつれて、天候は晴れて来た。それは全く対照的な天候で、空が突き抜けるように晴れ渡っていた。ドーバー海峡1つ隔てて、こんなにも天気が違うものなのか。何はともあれ旅の気分は天気しだい、晴れている事は有り難かった。
乗船中に出入国の手続きを済ませ、私はカレーで下船した。多くの乗船客は、カレー駅からそのまま列車でパリへ行くのであった。
私はカレーの街をパリ方面の街道へ行く為、アメリカ娘3人と共に歩いた。街道に着いて、4人でヒッチした。直ぐに停まってくれたが、私だけ乗せて貰えなかった。女性のヒッチ率は、良いのだ。私もドライバーであったら、どちらかと言えば女性の方を乗せるでしょう。仕方ない事であった。
暫らくの間、そこの場所に立たざるをえなかった。その間、ドーバーのユースで会った旅人を乗せた車が一瞬停まったが、乗せて貰えず行ってしまった。その旅人は「悪いな」と言った様な合図を残して去って行った。2日後、パリのユースで再びそのアメリカ人の旅人と再会した。その彼は「ドライバーはホモで、危うく犯されそうになり、散々な目に遭った」と、あの後の事をこの様に語っていた。
確かに、乗せてくれる人も色々な人がいると思う。時には女性なら乗ったら強姦されたり、脅迫され金銭を巻き上げられたり、先程の話の様にホモに遭ったり、『ヒッチは、決して安全・快適な旅の手段ではない』と私は認識していた。
そう言えば、ウィーンで照井さんと再会した時に彼は、「我々のグループのOさんと言う彼女にある所で再会したが、彼女は何回も姦淫されている感じであった」と言っていた言葉が思い出され る。やばい感じを経験した事があるから容易に想像出来た。
しかし、怖れていたら何にも出来ない。ヒッチは、私にとってなくてはならない手段だから、危険だからと言って止めよう、との考えは全く無かった。
フランスの車は道路の右側を走る規則になっていて、日本やイギリスと反対であった。ヒッチする場合は当然、道路の右側に立つ事になる。カレーの郊外に来て大分時間が経つが、乗せてくれる車は無かった。車が余り走ってないので当然であった。この場所は、家が数件並んで見えるだけで、周りは一面の畑が点在していた。その様な所で、私はヒッチ合図を送りながら車が停まってくれるのを待った。
そうしたらやっと1台目の車が停まってくれた。後ろの席にドーバーのユースで会ったアメリカ人2人が乗っていた。 カレーから40キロ程来たBoulogne(ブローニュ)の町まで乗せて貰った。私はこの町にユースホステル(以後、「ユース」と言う)があるし、間もなく夕暮れになるので、無理をしないでここで泊まる事にした。アメリカ人2人は先まで行くらしく、降りなかった。
ユース利用者は、私とイギリス人男性の2人だけであった。彼はスペインからヒッチして帰る途中であった。その彼が「ドーバーを渡る船賃しか持っていないので、腹が減っても今日、何も食べてない」と言った。同じ旅人同士、ロンドンで買った香港製の中華ラーメンを2人分作り、半分彼に分けて上げた。このラーメンは、日本の即席ラーメンでないので余り美味しくなかった。でも、昨日と今日、私は昼抜きで腹が減っていたのでまあまあであった。腹が空いて何も食べていない彼にとっては旨かったであろう。
彼は何も上げる物が無いが御礼にと言って、フランスの道路地図を私にくれた。彼は、義理堅い、そして礼儀を知っている人だと感じた。
食後、ペアレント(管理人夫婦)と4人でピンポンをして、楽しい一夜を過ごした。