△さやかになびく潮風、青い空に青い運河。古の宮殿、寺院が静かな青の水面にその影を落としている。水に囲まれたヴェネチアは、旅情豊かな雰囲気を醸し出し、おおらかな、そして心豊かにしてくれた。ヴェネチアの乗合船にての私。
・昭和43年11月21日(木)晴れ(ヴェネチア観光で旅情を楽しむ)
昨夜知り会った髭を生やしている鈴木、そしてカナダ人のアーロンと共に3人でヴェネチア観光をする事になった。
所で、Venice(ヴェニス)をイタリア語でVenezia(ヴェネチア)と言うので、ここでは、「ヴェネチア」と言う呼び名で統一した。
ヴェネチアは本土と海を隔てているので、市内に入るのに本土と島を結ぶ長い橋(リベルタ橋3.5キロ)を渡った。私はこれで3度渡っているのであった。1度目と2度目はローマからウィーンヘ行った時、列車は真夜中の11時近くヴェネチアのサンタ・ルチア駅に停車した。その時、駅に進入進出はスイッチバックの形になるので、2度渡ったのである。今度ヴェネチアを去る時を入れれば4回になる。
ヴェネチアへ入る全ての車は、橋を渡った所までであった。市内に車道が無いので、これ以上車は、乗り入れ出来ない。
ヴェネチアは、多くの島から成っていて、大小の運河が市内の至る所、言い替えれば、個々の家の裏口まで張り巡らし、人や物の移動は、全て船に頼っていた。
タクシーは、『TAXI』と表示されたモーター・ボート、観光用のゴンドラ、そして市民の足はなんと言ってもFerry Boat(乗合船)であった。船の停まる所は、船着場と言わず、「ステイション」(駅)と言っていた。
ユースの真ん前に運河(カルナ グランテ)があり、駅も直ぐ近くであった。我々はその乗合船に乗って観光に出掛けた。乗船代は50リラ前後であった。このカルナ グランテは、市内の中央に沿って逆Sの字形に走り、ヴェネチアのメイン ストリート(大通り)であった。大通りと言えば、車で混雑しているイメージがあるけれど、時たま船が行き交う程度で、船がしょっちゅう往来している訳ではなかった。日本を含む欧米の車社会にありがちな〝社会問題〟(交通渋滞、事故、排気ガス、騒音等)には、程遠い現実であった。
運河を行く船上からのヴェネチアの眺め・光景は、最高であった。中世の趣を街並に残し、青色の綺麗な運河の水面に白大理石のゴシック風の宮殿やオリエンタル風ドームの寺院が、その影を落としているのだ。その白と青のコントラストが、とても印象的であった。
ヴェネチアの主たる見所と言えば、サン マルコ広場にあるサン マルコ寺院(オリエントの影響を受けている)やデュカレー宮(中世の政庁)であった。サン マルコ広場はレンガ敷きになっていて、それが中世から現存している古の感じがした。十字軍の兵士が同じこのレンガの上を勇ましく行進し、中近東方面へ戦いに挑んでいったのであろうか。又この広場は、満潮時になると3分の1は海面の下になってしまうので、海水が引いてもあちこちに水溜りが残っていた。この広場だけでは無く、街全体が地盤沈下し、市民にとって最大の悩みの様であった。
サン マルコ寺院やデュカレー宮は、壮麗かつ壮大で目を見張る思いであった。又、広場にある鐘楼がこの広場に花を添えていた。中世の富と建築、美術の粋を集めて建てられたこれらの建物、広場、そして運河と街全体が調和していて、ヴェネチアの美しさ、素晴らしさ醸し出していた。
私は、こちらに来て色々な素晴らしい、美しい建物や景色を見て来た。最近、私は見慣れて来たのかそれらを見ても、或は初めて訪れる国でされ新鮮味が無くなり、興味さえも沸いて来なくなっていた。しかし、ヴェネチアは違っていた。
所でこのヴェネチアは、日本の故郷を思い出させる様な、そんな懐かしい雰囲気のある所があった。場所は、はっきり分らなかったが、サン マルコ広場に来る途中、ある宮殿の広場に幾つかのテントを張って、そこで綿飴や焼きいか、焼芋等、日本の夜店で売っている物があった。縁日に来た様なそんな錯覚がした。その雰囲気がとても日本の縁日に似ていた。
そう言えばイタリア人は、日本人と似ている所を感じさせた。陽気、あけっぴろげ、少し田舎者、そして東洋的であり、そんな所に親しみ易さが感じられた。そんな理由かヴェネチアで、私は日本の縁日の雰囲気に出逢って、余計にそのように感じたのだ。
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△中世都市の面影を残すヴェネチアの街は、旅人の心を静かに包んでくれた。サン マルコ寺院を背景に旅人のカナダ人のアーロンと後ろ向きの鈴木~ヴェネチアにて。
私、鈴木そしてアーロンの3人は昼食を取る為、市中を歩き回った末、あるレストランへ入った。イタリア語を少し話せる鈴木も字が読めないのか、我々3人は迷った末に適当に同じ物を注文した。大きなお皿に出て来た料理はスープであったが、一見して違和感があるスープであった。中に動物の腸(はらわた)に似た物が入っていたので尋ねると、ウェイターは犬の鳴き声をした。3人とも犬と聞いて食べるのを拒絶してしまった。最初から何か臭みのある感じがしたし、見た目にも何かグロテスクの様な感じがしたので、誰一人として口を付けなかった。我々は、犬の腸スープを注文してしまったのだ。私はローマでもメニューが分らないので、犬の料理を注文してしまった事があった。今回で2度目になってしまった。
我々があちこちと適当なレストランを探していた時、肉屋の店先に皮を剥ぎ取られた犬が天井から吊られているのに気が付いていた。又、レストランでそれらしい料理がある事は、ローマで経験したので分っていた。しかしよりによって我々の注文した物が、ドカット大きなお皿で出されるとは、思ってもいなかった。我々は全く手を付けずに支払だけ済ませ、レストランを出てしまった。
見ているだけで気味の悪いスープをよく彼等(イタリア人)は旨そうに食べるのか。この辺がヨーロッパ人と比べて変わった人種である、と理解した。我々は他のレストランへ行って、スパゲティ ボンゴレ(200リラ)を注文した。私は腹が満たされないので、もう一皿、同じ物を注文した。
ヴェネチアは、旅人同士で散策、或はショッピング(ジャスト ルッキング)するだけでも楽しい街であった。又、子供達が運河に掛かる橋を利用して板滑りをしているのに出くわした。子供の頃、土手で板滑りをした事を思い出した。子供達が「キャーキャー」言いながら楽しそうに遊んでいるのを見ていると、こちらまで楽しくなって来た。
我々3人で市内観光している間、アーロンと話をする時は、勿論英語であるが、鈴木と話す時も英語を使った。それは、日本語が分らないアーロンに気を使っての事でした。3人でいるので日本語が分らないアーロンにとって、鈴木と日本語で話をしていたら疎外感を感じるであろう。私達日本人としても、お互いに仲間であると言う意識を持つには、この様な心使いも必要であろうと感じていた。そしてこの様な状況に於いて、日本人同士の下手な英語であっても、違和感が全く無いのだから、不思議であった。ユースで何度も日本人だけの集団を作り、日本語でペチャクチャ話をしている光景に出くわした事があった。その様な集団の中に外人は誰も入れないし、話し掛ける雰囲気も無かった。私でさえ異端児集団に見えたのだから不思議だ。英語は国際語であるように認識されている今日、そこに英語圏の人が居れば、皆の共通語の英語で話をするのが大切である、と思ったからだ。
我々3人の市内観光も終りに近づいた。街全体が見渡せる眺めの良い運河上のテラスで、カップチーノ(イタリアのコーヒー)を飲みながらの語らいも楽しかった。時たま乗合船やゴンドラが行き交う運河、そしてその向こうに佇む絵になる様な中世都市の面影を残す街並み、或はひっそりとした水面を眺めているだけで、旅の疲れを忘れるのであった。そんな時、何処からともなく教会の鐘の音が我々の心を癒すかの様に優しく響き渡り、いっそう旅情を感じさせてくれた。
暫らくすると夕日が街や運河を黄金色に染め、一段と映えたその景色は、ヴェネチアの忘れ難い思い出として、私の心に深く印象付けた。我々3人は、昨夜知り合ったばかりなのに、今日こうして共に観光を楽しみ、お茶を飲み、語らい、そして最後に我々の観光の中でも最高の印象を与えてくれた黄金のヴェネチア。この時、我々は何の言葉も発せず、各々自分の感激、瞑想、旅情に耽っていた。2人の表情を見ると、『旅は良いなぁ』と感じている様であった。
このヴェネチアは、私の旅の寂しさ、辛さを癒してくれた。そして折角知り会い、旅の友になったのに、明日は別々に別れ、旅して行かなければならない宿命を我々は語らずとも既に理解しているのでした。我々はお互い無言のまま自分の世界に入って行った。遠い何かを見つめる様な2人の表情は、どことなく愁いを帯びていた。
ユースに帰り、のんびり過ごしていたら午後8時頃、又、日高君と再会した。我々は再会と元気で旅をしている事に喜び合った。彼とは今回で5度目だ。旅をしていて、彼ほどチョクチョク会う人はいなかった。私と彼は、同じ道を同じ方向に旅をしているのだ。最初に会ってから彼は、私と同じアテネに向けて旅をしているのであった。不思議なもので、2人とも会おうと思って会っているのではない。何処かの国のユースで偶然に何回も出会うとは、世界は広いようで狭い感じがした。
「旅は道ずれ、世は情け」と申しまして、彼と共に旅をしたい好人物であったが、「旅は1人に限る」のが良いのだ。以前、鈴木と言う人とヘルシンキからバルセロナまで旅をして来て、つくづくそう感じたからだ。
この後、昼間共に観光した鈴木、日高と私の3人で社会主義国家について体験、情報、意見交換等をして、多いに語り合った。
長期間旅をしていると〝色々な意味〟(それは一人旅からの寂しさ、旅愁、或は、日本語の飢えから来るのかも知れない)で、共に気楽に語れる同胞の旅人がユースに居れば、それは『砂漠の中のオアシス』で、明日の旅に勇気を与えてくれるのだ。他の国の旅人も3~4人集まって話し合っていた。
今日は、良い1日であった。明日も又、無事に旅が出来る事を祈る。おやすみ。