サインを頂いたときはご身体ご不自由な中お辛そうななか、本の裏書きを探したら葉書に書かれたものです。ハラっとおちて拾い上げましたら。
サインを頂いたときはご身体ご不自由な中お辛そうななか、本の裏書きを探したら葉書に書かれたものです。ハラっとおちて拾い上げましたら。
果実 枝 携え お留守番 ドライ
補足 今年のヤマモモは 小粒でした たくさん なったぶんだけ 養分が 家が割れるので 子供を捨てるように 地面を叩き落とした感じ 生き 残る為・
この間相変わらず いろんなことが 私だけで無く、辛い事起こりました.
前にも書いたけど益々 ハチの巣状態
歳をとったせいだと思いますけど 面倒になったというより うっかりが多くなったと思います すぐ人の話を 鵜呑みにしてしまう こともが多くなりました 問い正せば 自分の都合のいいようにしか 振る舞わない。 弁解 もどき ならまし
詐欺が多くなる 一方 こんな愚痴を 言ってる場合ではないんだと思います だけど どうしても乗り越えたくても 越えられない 事があるんではないか 諦めではない この数日間この一か月間 明るい気持ちに 違うよ 以前の事は望んでいないけど 覆いかぶさるように 他人が入ってくる 嫌気よりも 身の危険さえ感じる
自分 今思うと あいうのが あのことが 詐欺だった ものぐさになって あきらめも早い 身の置き場が 狭くなっていくのは確か
相変わらず整理整頓 の中で過去に出会った気がする…。
ブログをかく、つづける、躊躇、エンデングノート。急かされてる訳ではありません。それにしても、思い込み、感違いに振り回され、挙句の果て弁解もそこそこ。たたみかけてくる?貴方のものさしと私のとは違う。短文で時短で事柄を済ませられたら良いにきまってる、今日、猛暑の中、体感地震、福島も大変な暑さに違いない。なんだろな、?暑さ厳しいわりに、太陽の光は鈍く、写真撮影はかどらず、寝かせておいた。薔薇、これ又今2だ。気合に欠ける。
ガリシアの続編画像、
家畜小屋というのか何となく、曲がり家屋。粒揃いトウモロコシは家畜用なのか種保存?養蜂の箱もあった。
周りが立てつづけ不幸、特に認知の問題にかぎらずこの猛暑、熱中症、脳梗塞。合併症!! エンデングノート。
古い写真整理、北スペインガリシア地方、どうしても訪れたくて、バス乗り継いで、日に一本、バス穀物倉庫集落初めて遭遇した、おおきなジキタリス。季節寒かった。帰りの事がきになる。それでも引き込まれるように、穀物倉庫、海辺、
まるでおとぎ話の世界。ガリバー小人国。この頃は言葉も全く解らないけど、
美しい世界はケルト文化の名残。観光客なんかいないし、すれ違う村人もいなかった。2度と穀物倉庫には出逢うことはない。名残惜しく。それから数年後で再び訪れる事となり。(野口整体)の集まり。ガりシア出身の女性主宰。私はアシスタントと言うことでーー中身は今から思うといい加減。さくらだったかも?
主催者の別荘に泊めていただき、200年ほど前、荘園主、日本でもテーブル型こたつでお父さんと彼女、私。収穫をえたブドウ畑。普段はtuiに住んでいるそうで窓の外に穀物倉庫。
間だ整理できてない。写真画像はネガ起こしでないため、画像は悪い。随分重いカメラなんかもって、何処かに保管せっかくだから後で編集し直そうと思います。この数日、人と打ち合わせが多くといっても小さな事が重なり。アチラコチラ。相変わらず庭作業に翻弄され。紫外線回避がうまくいかない、窓際食事も廊下にしてみたけど紫カメレオン。日光、今に始まったことではありません。夜遊び向きの体質。
懐かしがってはいけないんだ❗
南の人たちはガリシア人たちを暗いと総称。因みにこの区域生産ワインは白。カストロもガルシアマルケスもルーツはガリシアです。数年
前、ベネゼェラから故郷へ逃げ帰るというニュース、ガリシアがクローズアップされその後ははあれよあれよとハイパーインフレ。ここでまた2分割。
あれほど裕福が保証され資源があってもメンテナンスの資金力がない。出させない。でも地下に眠ってる資源。操るは強国。世界でニュースになったときは末期。また変なこと考えてしまう。遺伝子組み換え大豆教えてくれたのもこのスペインでした皮肉にも容認ときいています。トウモロコシ生産で有名。このあとつづきます。
5月19日、モンサントは懲りもせず逆襲。ついさいきん草取り広告宣伝詳細を読んでみるとラウンドアップ使用が当たり前。作業注意などしてるのかどうか
昨日は母の日と言うことで少し、母の母から繋がり。長いこと開くことはありませんでした。そして解らないことも、人それぞれ、親がいるのは当たり前でも、言うに言えないこともあるだろう。この母の母がすすめたというかねじ伏せ、婚姻、父はこの人でなければ死ぬとまでいったそうです。母には婚約者がいたそうで、この婆さん、写真、軍属を弾き飛ばし、今で言う乗り換え。
母の条件。
山登りは一切辞めること。お手伝いさんをつけること。しかしこのご時世普通立ったようです。父の父もそんな生活。通い、その都度決めていたそうです。家屋に関しては借家が当たり前でもーー大抵は親戚の誰かというように。ところがどっこい職場を追われる。戦中は母の着物で白米に変えていたらしく、婚姻の時、結婚指輪は奴隷制度の名残だといってのける。全て、その調子でした。今回は母についてですからこの辺で
と思いましたが父が平成3年の出来事。
戦争。赤呼ばわりされても、平気だったかどうか、結構強かになってしまったのか?ものしぐさ、南林間時代、私の同級生など母にあいたく立ち寄ったり。顔つき自分は母に似てなく 、ただ子供には活動のことは伏せて降りました。
そして自分の中で思い出と言うものもなく、親戚に如何にできが悪い。なんの仕事してるかも分からないので、私のことをぼやいていたようです。どちらかと言えば自慢できない。恥ずかしいの一念。認められなかった人間は死ぬまで卑屈の殻の中。