『 自然は全機する 〜玉の海風〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「生きてるだけが仕合せだ」🍎

 もうひとりの自分〜 「 シャドウ (影) 」

2021-07-13 22:17:25 | 小覚

__ わたしは若い頃から、占星術・錬金術・その他オカルトのマニアで、世界中のあらゆる神秘学を根掘り葉掘り探求していましたが……

例えば伊勢白山道に出逢うまで、伊勢神宮と白山神についてはまったく触れて来ませんでした

いま思い出しても不可思議なことですが、これが「縁」とゆーものなのでしょー

 

「人が見るのは 自分に見えているものだけである。」(C.G.ユング)

 

フロイト・ユング・アドラー等によって広く認知された心理学、なかでもユングの東洋哲学への理解(易経など)と受容力には一目おいていた

その彼が提唱した元型(アーキタイプ)のなかで、「シャドウ()」なるものの不思議には、歳を重ねてからあらためて驚かされることになる

 

(wikiより)>

 かげ、英語:  shadow 、ドイツ語:Schatten は、

物体や人などが、光の進行を遮る結果、壁や地面にできる暗い領域である。影は、その原因となる物体や人の輪郭に似たものとなるが、壁や地面など、影ができる面の角度に応じて、普通、歪んだ像となる。比喩的な意味でも使われ、文学や心理学の概念としても使用される。

なお、光の当たらないところは、区別して、

 かげ、英語:  shade と書く。

 

> 影は、その人の意識が抑圧したり、十分に発達していない領域を代表するが、また未来の発展可能性も示唆する。

その人の生きられなかった反面をイメージ化する力といえよう。

 

‥‥ たとえば映画『マトリックス』のエージェント・スミスは、主人公ネオのシャドウであるし、『ゲド戦記』もまたシャドウと向き合う対決が主題となっているそーだ

心理学における「影」は、闇そのものではなく、暗いものではあるが光を浴びる対象から派生したとゆーか、同時に成立した共生物であろー

このシャドウは、日常的に自分の内部に意識されることは殆どの場合ない

まったく心の奥底に埋没させられ、忘れ去られている

しかし同次元に共に厳然と生きているのだ、ここに「ひずみ」が生じる

 

> 無意識の中にあらゆるものはすべてそうだが、

シャドウは意識の光のもとにさらされなければ、他者に投影されてしまう。

 

> 概して、シャドウは同性に投影される

同性の他人の中に見られる大嫌いな性質を正直に見つめることによって、大きな洞察を得ることができる。

> シャドウと自我(エゴ)は、一緒になって全体を構成する のであり、その全体は、我々がすでに見たように、必ずしも完全無欠(パーフェクト)ではない。しかし、それは、完結している(コンプリート)のである。

> シャドウの心理的姿(フィギュア)は、我々が我々自身の中でもっとも軽蔑するものすべてである。

自分の内で欠けている半面を人格化(投影)していることに気づくためには、両極の間のどこかに、今の自我の中心点を移さねばならない。

自我はこのような移動によってそれが壊されると感じるだろう、これは骨の折れる企てである。しかし実際には、壊されるものは人の能力ではなく、アイデンティティ(主体)でもないが、むしろ自我が自分の家の主人であるという信念であろう。

(引用;リズ・グリーン『占星学』岡本翔子&鏡リュウジ/訳 より)

 

‥‥ 「見る」ことは、かくも重要なことなのである

自分のシャドウを注視するだけで、内心のひずみは爆発しないし、生き霊となって身近な他人に「投影」されることもない

 

> 己の闇を見るものは、すべてを見る。(理神論のハーバート卿)

 

‥‥ 人生の岐路にひとは立って、あるべき自分を選ぶ

選ばれなかったもうひとりの自分が「シャドウ」である

「選ぶ(決定する)」とゆー行為には、選ばなかったものに対する思いやりが求められるのであろー

その因果の輪全体を眺める、いわゆる「遠山の目付け」が静観の心得なのかとは思う

「自分を知る者は世界のすべてを知る」とゆー消息の極め付けは、

『老子道徳経』第47章のこの条りでありましょー

>  戸口から出ないで、天下のことを知る。じっと外を見ないで、天の道をすべて知る。遠くへ行けば行くほど、知ることはいっそう少なくなる。 

[※ 張鐘元『老子の思想』上野浩道:訳 講談社学術文庫−より]

 

‥‥ 外の知識を得ることは自分自身を知るための予備知識に過ぎないと、聖老子は自分自身を見詰めることによりコノ世の森羅万象を知ったとゆーこと、

カール・グスタフ・ユング博士も云われています

 

「 シャドウの中に黄金がある 」

 

創造の光に向けた半身が、自分のすべてではなく、内なる光で照らせば「シャドウ」もほの明るくなります

シャドウは光の当たった「影」なのであり、ブラックホールの如く光の当たらない「陰(シェイド)」とは似て非なるものなのです

 

> もし、影を落としているその体が曲がっているのなら、影をまっすぐに伸ばそうとしてもむだである。(ステファノ・ガッツオ)

‥‥ あくまでも表に出した自分、自ら選んだ自分の姿が主体となる

自分のシャドウが投影された他人をいくら攻撃したとて、問題の核心には行き着けぬもの……

まずは自分をゆるし、それにつれて似たよーな他人をゆるす

キライな他人をゆるすと楽になる、それは隠された自分を認めることだから

情けはひとの為ならず、それと知らずに自分自身にしていた惨い仕打ちに気づく刻が来るかな

以上

 



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