7月の京都、8月の紀州、とたて続きに出かけました。
一番手のかかる娘の、修学旅行や短期留学にあわせて、予定を組みました。
母業をおろそかにしては、なりませんものね!
さて、瀧との熱い出会いのあと、新宮にある熊野本宮を参詣。帰りのバスの車窓から、すぐ下を熊野川の緩やかな流れ。川底の石の一つ一つが、くっきりと見ることが出来ます。
4日間の旅の最終日、という感慨と疲れで、人もまばらなバスの中で、一人。淋しかった。
このような、状態の時に、もしも仲間がいてくれたら、この孤独感は、帰宅するまで、感じずにすんだだろうか。
もしも、これはありえない話だけれども、恋人が隣に座っていたら、この孤独感は、帰宅してからも、感じずにすんだのだろうか。
旅の終わりは、切ないものです。現実から、熊野のような非現実の世界に触れてしまい、再び現実に引き戻されてしまう。でも、終わりのない旅などないのだから、素直におしまいを受け入れなければ、次の旅が出来なくなってしまう。
空を飛ぶことを覚えてしまった籠の鳥。
私は、何も知らずに生きてきました。どこに興味を持つでなく、世界のどんなところに、美しいものがあるのか、知る気もなく、映像を眺めていれば充分と、思っていました。どんな風景があったとして、それがなんなの?人は人、よそはよそ。
大きな間違いに、今頃気付いています。本を読んでも、映像を楽しんでも、遠くから眺めるだけでも、駄目。まずは、出かけて、見て、触れて、初めてわかることがあり、実は、それが最も大切だと言うこと。
嗅覚を、いつも鋭く。そして映像になりえない部分を、探す。風景であったり、会話であったり。そこいらに寝ている、猫だったり、魚屋のおじちゃんとおばちゃんの仲を詮索してみたり、地元のおばちゃんの人生を想像してみたり…。バスのシートに描かれたいたずら書きに、どんな思いの若者が、傷心の旅にこの地を訪れたのだろうと、思いを巡らし…。
自分の目で、見ること。五感を使って、景色を感じること。すぐに失われてしまう記憶だとしても、必ず、潮の匂いも、肌に感じた滝壺の空気も、どこかに残るはず。
歴史はよくは、わからないけれども、熊野本宮のたたずまいも、長い時間の流れを感じることが出来た。
古道を黙々と歩き、参詣をし、滝壺に祈り、またそれを伝えた比丘尼の存在。
神聖な場所に、触れてしまい、わが身を省みた時の、情けない気持ちは、例えようもないほど、みじめでした。
つづく
一番手のかかる娘の、修学旅行や短期留学にあわせて、予定を組みました。
母業をおろそかにしては、なりませんものね!
さて、瀧との熱い出会いのあと、新宮にある熊野本宮を参詣。帰りのバスの車窓から、すぐ下を熊野川の緩やかな流れ。川底の石の一つ一つが、くっきりと見ることが出来ます。
4日間の旅の最終日、という感慨と疲れで、人もまばらなバスの中で、一人。淋しかった。
このような、状態の時に、もしも仲間がいてくれたら、この孤独感は、帰宅するまで、感じずにすんだだろうか。
もしも、これはありえない話だけれども、恋人が隣に座っていたら、この孤独感は、帰宅してからも、感じずにすんだのだろうか。
旅の終わりは、切ないものです。現実から、熊野のような非現実の世界に触れてしまい、再び現実に引き戻されてしまう。でも、終わりのない旅などないのだから、素直におしまいを受け入れなければ、次の旅が出来なくなってしまう。
空を飛ぶことを覚えてしまった籠の鳥。
私は、何も知らずに生きてきました。どこに興味を持つでなく、世界のどんなところに、美しいものがあるのか、知る気もなく、映像を眺めていれば充分と、思っていました。どんな風景があったとして、それがなんなの?人は人、よそはよそ。
大きな間違いに、今頃気付いています。本を読んでも、映像を楽しんでも、遠くから眺めるだけでも、駄目。まずは、出かけて、見て、触れて、初めてわかることがあり、実は、それが最も大切だと言うこと。
嗅覚を、いつも鋭く。そして映像になりえない部分を、探す。風景であったり、会話であったり。そこいらに寝ている、猫だったり、魚屋のおじちゃんとおばちゃんの仲を詮索してみたり、地元のおばちゃんの人生を想像してみたり…。バスのシートに描かれたいたずら書きに、どんな思いの若者が、傷心の旅にこの地を訪れたのだろうと、思いを巡らし…。
自分の目で、見ること。五感を使って、景色を感じること。すぐに失われてしまう記憶だとしても、必ず、潮の匂いも、肌に感じた滝壺の空気も、どこかに残るはず。
歴史はよくは、わからないけれども、熊野本宮のたたずまいも、長い時間の流れを感じることが出来た。
古道を黙々と歩き、参詣をし、滝壺に祈り、またそれを伝えた比丘尼の存在。
神聖な場所に、触れてしまい、わが身を省みた時の、情けない気持ちは、例えようもないほど、みじめでした。
つづく