その個人の努力、あるいは、普通の人間には、不可能であっても、
手を差し伸べる方が、御手を差し伸べて、運命を動かせば、
普通の人からは一見、偶然に見えるのですが、助力を頂くことはあるでしょう。
人が出来ないことを、神仏は出来るのです。その方たちの手は(人の眼には)見えないのです。
私は、”様”と呼ばれるのを嫌っています。
”教えてください”と言われるのもすこし嫌っています。
いくつか理由があって、1つ(というか多く)は傲慢にならないために、傲慢を避けるために。
神仏や尊い人にだけ私は、様を使うようにしています。
母については、
私は母様の愛と犠牲なくしては育ち、生きながらえる事が絶対にできなかったゆえ、様が付いています。
知識などはパンを分かち合うように、自分の知識を分けるようにしています。これは難しいか。
言葉の波長、心の波長で、敬意、時に愛情を持って、さん、ちゃん、と言えばよいと思っています。
様と呼ばれて喜ぶのは良くないと思っています。
会うというのは、元気な顔を相互に見て、生きている喜び、共感や、時間を一緒に過ごす喜びを共にする。
それは、(必要性などが)あるのは少しは分かるつもりでいます。
それは確かに意義があるのですが、心というのは、望めば(時として望まざる時にも)、近くにあるものなのです。
距離的概念、時間的な概念は見えるものに対して働くものなのです。
ただし、必ずしも、自分の望むときではありません。(私には)
神仏など超越している存在は全く別です。