日記帖

飛ぶ鳥のように、渡る風のように、流れる水のように、野に咲く花のように、煌めく星のように。

~人は運命に打ち勝てるか?~

2023-12-12 20:59:39 | 作文する

その個人の努力、あるいは、普通の人間には、不可能であっても、
手を差し伸べる方が、御手を差し伸べて、運命を動かせば、
普通の人からは一見、偶然に見えるのですが、助力を頂くことはあるでしょう。
人が出来ないことを、神仏は出来るのです。その方たちの手は(人の眼には)見えないのです。

私は、”様”と呼ばれるのを嫌っています。
”教えてください”と言われるのもすこし嫌っています。
いくつか理由があって、1つ(というか多く)は傲慢にならないために、傲慢を避けるために。
神仏や尊い人にだけ私は、様を使うようにしています。
母については、
私は母様の愛と犠牲なくしては育ち、生きながらえる事が絶対にできなかったゆえ、様が付いています。
知識などはパンを分かち合うように、自分の知識を分けるようにしています。これは難しいか。

言葉の波長、心の波長で、敬意、時に愛情を持って、さん、ちゃん、と言えばよいと思っています。
様と呼ばれて喜ぶのは良くないと思っています。

会うというのは、元気な顔を相互に見て、生きている喜び、共感や、時間を一緒に過ごす喜びを共にする。
それは、(必要性などが)あるのは少しは分かるつもりでいます。

それは確かに意義があるのですが、心というのは、望めば(時として望まざる時にも)、近くにあるものなのです。
距離的概念、時間的な概念は見えるものに対して働くものなのです。
ただし、必ずしも、自分の望むときではありません。(私には)
神仏など超越している存在は全く別です。



 

 

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~致死遺伝子~

2023-12-12 17:46:03 | 作文する

鳥の交配には、致死遺伝子が働く事が有ります。

いまは、組み合わせによって、どれとどれを交配させたら、
致死遺伝子によりどれくらい孵らないか、あるいはすぐ死んでしまうかを知ることができます。
ただ、昔はいまよりずっと苦労したと思います。
また、近親交配の危険については、前に書きました。

鳥でも、他のペットでもそうですが、
ときどき、どうしても悲しくなってしまいます。

人間の「業」の深さっていうのでしょうか。

やはり、動物は飼わないほうが、と、思ってしまうときもあります。

私は、私が特に願って、たくさん主に鳥を飼いましたが、
みな、旅立ってしまいました。
飼っていた動物が死ぬのは悲しいです。
当時の飼い方には今思い返すとたくさん改善点があるようにも思います。

母様は、特に動物をも可愛がる方でした。
私以外は、母様が世話をしていました。
どんなに母様の心を痛めたのでしょう。


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~また会えるかは?~

2023-12-12 17:17:59 | 作文する

私は
血縁があるか、歴史的か、運命的か、なにか特に濃い人は、
次に会えるか、会えないかが、感じる(わかってしまう)ときがあります。

親しい人がもう会えない。と、感じる時は、とても悲しいですね。
本能的なものです。
そういう場合は、意識だけで会いに来てくれる場合もありました。

たぶん、一部の人を除いて、理解しにくい、理解できないと思います。


なにも感じない人は、まだその時期ではないか、などいろいろあるのでしょう。
なにか感じる人は、将来的にも、まだ何か影響があるのかもしれませんし、また会えるかはわかりません。

また、何かを感じることは重大な危険を伴う場合もあって、そういうのはゾッとします。

ただ、私にとって、それらを感じることは、大変な負担で、肉体的精神的にも。




 

 

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