●新採用で独身寮の衝撃(その4)
どんな境遇に置かれてもそれなりに面白いものにしていける自信のある私ではあったが、生活の基本となる住まいについては、大学生活の頃よりも劣悪になることには早々と耐え難くなってきた。
4月下旬から少しずつ残業で職場に残ることが増え始め、「文京寮」に帰着するのが夜8時過ぎなどになると、既に給仕スタッフが引き上げた食堂の賄い食も冷めきっていたり、申し込んでおいた筈なのに誰かが食べてしまったのか残っていなかったりということも。風呂についても大勢の入った後は湯舟の中が汚れていたりで気分が悪い。こうした部分での不快さの連続が、建物の古さなどはあまり気にならない私でも、もはや我慢ならなくなってきたのだ。
「文京寮」の確保には職場の上司から相当お骨折り頂いたようだったので、「気に入らないから別の寮かアパートでも斡旋してくれ」とはさすがに言えない。職場に隠密で私は転居のためのアパートを探し始めた。今日のようにネットで賃貸情報を検索できるような時代ではないので不動産業者頼みになるのであるが、新潟市内に特に知り合いのない私の心当たりは学生時代のアパートを仲介してくれていた不動産業者しかなかった。
新潟大学五十嵐キャンパス近くのアパートを扱っていた業者が、そこから10km以上離れた新潟県庁近くの物件を扱っているだろうか。しかも引っ越しの最盛期である年度末をとうに過ぎた5月の連休明けのこの時期に良い空き物件など残っているのだろうか。私は不安な思いで大学卒業の時のアパート引き渡し以来となる不動産業者に電話でアポを取り、店舗に相談に行ってみた。
応対してくれた業者は意外にも「うちは学生中心ではなく新潟市内幅広く賃貸物件を扱っている」という。むしろ新潟駅周辺の勤め人向けのアパートの扱いが多いのだという。確かに5月を過ぎて物件の動きは収まっているが、贅沢言わなければ単身用アパートなど結構空いているものだという。来たばかりの店舗にて早速いくつかの物件の資料を見せてもらい、立地や設備、賃貸料などで折り合えそうな物件を3つほど車に乗せてもらってみて回ることになった。
最初の物件は新潟県庁から信濃川沿いに河口方面に2kmほど離れた昭和大橋のたもとにあるアパートだった。新潟市の最大の繁華街である万代シティが近く、さらに2kmほどで新潟県最大の交通の結節点である新潟駅がある。県庁へは近くから乗り換えなしでバスに乗れるようだし、歩いて通うにも30分ほどで文京寮と変わりがない。
さらに着目したことがあった。アバートの敷地に砂利敷きの空間があって、ここは誰かの駐車場所かと聞くと、契約により特定の者に貸している場所ではなく、要は早い者勝ちで車を停めて置ける場所なのだという。この立地なら通勤に使うことのない車を平日ずっと置いておくことになるので一度占有してしまえば実質駐車場として使えそうだ。そこが誰かに停められたとしても、アパート付近の河川敷に車を自由に停めておけそうだ。昭和62年頃の当時は新潟市中心部にもこんなおおらかな土地利用があったのだ。
そして部屋の中を見せてもらう。6畳和室のワンルームに、2畳ほどで較的広めの台所のほか風呂とトイレ一体のバスルームがあり、最低限の設備を備えていたのであるが、驚いたのは部屋の窓からの眺めだった。なんとアルミサッシ窓の眼下にすぐ信濃川の流れが見えて、河口付近らしいその幅広の雄大さの向こう岸に街路樹の並木や市民文化会館など整った都市的な雰囲気を望めるのだ。これは凄い眺望だと思わずため息がでるほどたった。
その後に予定した2つのアパートを見て回ったが、私は最初の物件に既に心を決めていた。一人暮らしなので誰かに相談して了解を得る必要もない。案内してくれた不動産業者にそのまま申し込む意思を伝え、契約書を受け取って手続きを進めることにした。
かくして、昭和62年4月に県職員として勤め始めることと併せて入居した独身寮「文京寮」での一人暮らしは5月末までで終えることにした。
(「新潟独り暮らし時代64「新採用で独身寮の衝撃(その4)」」終わり。仕事遍歴を少し離れた独り暮らし時代の思い出話「新潟独り暮らし時代65「新採用で独身寮の衝撃(その5)」」に続きます。)
☆ツイッターで平日ほぼ毎日の昼休みにつぶやき続けてます。
https://twitter.com/rinosahibea
☆新潟久紀ブログ版で連載やってます。
①「へたれ県職員の回顧録」の初回はこちら
②「空き家で地元振興」の初回はこちら
③「ほのぼの日記」の一覧はこちら
➃「つぶやき」のアーカイブスはこちら
4月下旬から少しずつ残業で職場に残ることが増え始め、「文京寮」に帰着するのが夜8時過ぎなどになると、既に給仕スタッフが引き上げた食堂の賄い食も冷めきっていたり、申し込んでおいた筈なのに誰かが食べてしまったのか残っていなかったりということも。風呂についても大勢の入った後は湯舟の中が汚れていたりで気分が悪い。こうした部分での不快さの連続が、建物の古さなどはあまり気にならない私でも、もはや我慢ならなくなってきたのだ。
「文京寮」の確保には職場の上司から相当お骨折り頂いたようだったので、「気に入らないから別の寮かアパートでも斡旋してくれ」とはさすがに言えない。職場に隠密で私は転居のためのアパートを探し始めた。今日のようにネットで賃貸情報を検索できるような時代ではないので不動産業者頼みになるのであるが、新潟市内に特に知り合いのない私の心当たりは学生時代のアパートを仲介してくれていた不動産業者しかなかった。
新潟大学五十嵐キャンパス近くのアパートを扱っていた業者が、そこから10km以上離れた新潟県庁近くの物件を扱っているだろうか。しかも引っ越しの最盛期である年度末をとうに過ぎた5月の連休明けのこの時期に良い空き物件など残っているのだろうか。私は不安な思いで大学卒業の時のアパート引き渡し以来となる不動産業者に電話でアポを取り、店舗に相談に行ってみた。
応対してくれた業者は意外にも「うちは学生中心ではなく新潟市内幅広く賃貸物件を扱っている」という。むしろ新潟駅周辺の勤め人向けのアパートの扱いが多いのだという。確かに5月を過ぎて物件の動きは収まっているが、贅沢言わなければ単身用アパートなど結構空いているものだという。来たばかりの店舗にて早速いくつかの物件の資料を見せてもらい、立地や設備、賃貸料などで折り合えそうな物件を3つほど車に乗せてもらってみて回ることになった。
最初の物件は新潟県庁から信濃川沿いに河口方面に2kmほど離れた昭和大橋のたもとにあるアパートだった。新潟市の最大の繁華街である万代シティが近く、さらに2kmほどで新潟県最大の交通の結節点である新潟駅がある。県庁へは近くから乗り換えなしでバスに乗れるようだし、歩いて通うにも30分ほどで文京寮と変わりがない。
さらに着目したことがあった。アバートの敷地に砂利敷きの空間があって、ここは誰かの駐車場所かと聞くと、契約により特定の者に貸している場所ではなく、要は早い者勝ちで車を停めて置ける場所なのだという。この立地なら通勤に使うことのない車を平日ずっと置いておくことになるので一度占有してしまえば実質駐車場として使えそうだ。そこが誰かに停められたとしても、アパート付近の河川敷に車を自由に停めておけそうだ。昭和62年頃の当時は新潟市中心部にもこんなおおらかな土地利用があったのだ。
そして部屋の中を見せてもらう。6畳和室のワンルームに、2畳ほどで較的広めの台所のほか風呂とトイレ一体のバスルームがあり、最低限の設備を備えていたのであるが、驚いたのは部屋の窓からの眺めだった。なんとアルミサッシ窓の眼下にすぐ信濃川の流れが見えて、河口付近らしいその幅広の雄大さの向こう岸に街路樹の並木や市民文化会館など整った都市的な雰囲気を望めるのだ。これは凄い眺望だと思わずため息がでるほどたった。
その後に予定した2つのアパートを見て回ったが、私は最初の物件に既に心を決めていた。一人暮らしなので誰かに相談して了解を得る必要もない。案内してくれた不動産業者にそのまま申し込む意思を伝え、契約書を受け取って手続きを進めることにした。
かくして、昭和62年4月に県職員として勤め始めることと併せて入居した独身寮「文京寮」での一人暮らしは5月末までで終えることにした。
(「新潟独り暮らし時代64「新採用で独身寮の衝撃(その4)」」終わり。仕事遍歴を少し離れた独り暮らし時代の思い出話「新潟独り暮らし時代65「新採用で独身寮の衝撃(その5)」」に続きます。)
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