●新採用で独身寮の衝撃(その5)
5月上旬の週末に文京寮からの転出先アパートを即決すると、週明けに職場の人事関係担当者に5月一杯で文京寮を退去すると報告した。
担当者は思いのほか驚いた様子だった。勤め始めたばかりで安月給であり、独身で食事などに不便しがちと思われる私のことを慮って、賄い付きの独身寮を確保してあげたのに僅か2か月でどうして…と顔に書いてあるようだったし、実際にそんな趣旨の事を言われたものだ。
私のライフスタイルでは到底我慢できない環境だったのですといっても、地味で堅実な公務員の暮らしぶりが意識に標準装備されているような年上の担当職員には、ただの我がままとしか受け止められなかったであろう。実際にそのとおりなのだが、言い合うのも面倒くさくて私は知り合いの不動産屋から是非と言われて付き合いで断れず…みたいな事を言って凌いだと思う。担当者の上司にあたる係長は文京寮の確保に腐心してくれたらしく、彼に気兼ねする担当者に何らか言い訳できる大儀のようなものを与えてやらねばならないように思えたのだ。
私の係と人事担当係は同じフロアの端と端の位置にあったのであるが、私が文京寮転出を報告して以来、職場で行きかう時に人事担当係から向けられる私への眼差しは冷たいものになったように思えた。"係長の恩義を無碍にした不心得者"という感じなのだ。
考えてみれば、相手は人事担当係である。新採用職員ごときが勤め始めのこのタイミングから我がままを言って好感度を下げてしまっては、この先の人事異動などでマイナスになるかもしれない。私は、せめて1年は我慢すれば良かったかなどと後悔するも後の祭り。ええいままよ。自分に素直に生きようと、将来の出世などもはや望めないような気持ちの中で日々を過ごすのだった。
ところが、大きな情勢変化が訪れた。5月の給料日の翌日、ここでの生活も残り僅かの文京寮へ仕事を終えて帰ると、何やら見慣れぬ男性たちの出入りで物々しい雰囲気になっていた。近くにいた人に聞くと「この寮に空き巣が侵入して被害が出ている」というのだ。驚いて4階の部屋に駆け上がると私の部屋のダイヤル式南京錠は閉まったままで一安心。ところが廊下挟んで向かいの部屋の並びは、軒並み南京錠で占められる金具部分がネジごと引き抜かれていて引き戸が開けられていた。
親しくしていただいていた向かいの住人が居たので話を聞くと、部屋に帰ってきたらこの有様で、部屋に保管していた昨日支給されたばかりの給与が全額盗まれたとがっくりしていた。昭和62年頃のこの当時は、現金で給与を受けとる職員も少なくなかった。外部から犯行が見つかりにくいということなのか、4階の私の部屋と反対側の部屋ばかりが狙われたようだ。たとえ私の部屋に入られたとしても私は学生時代からバイト慣れを通じて収入金は振込受入れを基本にしていたので部屋には現金など無かったのであるが。
この事件が報道され方々で話題になると、「泥棒が易々と入るような危ない寮は直ぐに出たほうが良いよ」というムードが職場に広まってきた。かくして、せっかく上司が苦労して用意した寮を僅か2か月ほどで退去する不届き者という私への汚名は、霧のように一気に消えてしまったのだ。
私は胸を張って誰に気兼ねすることなく、自分自身で決めた新しい住まいである「水明荘」への引っ越し準備を進めたのであった。
〓文京寮の衝撃終わり〓
(「新潟独り暮らし時代65「新採用で独身寮の衝撃(その5)」」終わり。仕事遍歴を少し離れた独り暮らし時代の思い出話「新潟独り暮らし時代66「新部屋は眼下に信濃川の眺め」」に続きます。)
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https://twitter.com/rinosahibea
☆新潟久紀ブログ版で連載やってます。
①「へたれ県職員の回顧録」の初回はこちら
②「空き家で地元振興」の初回はこちら
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➃「つぶやき」のアーカイブスはこちら
担当者は思いのほか驚いた様子だった。勤め始めたばかりで安月給であり、独身で食事などに不便しがちと思われる私のことを慮って、賄い付きの独身寮を確保してあげたのに僅か2か月でどうして…と顔に書いてあるようだったし、実際にそんな趣旨の事を言われたものだ。
私のライフスタイルでは到底我慢できない環境だったのですといっても、地味で堅実な公務員の暮らしぶりが意識に標準装備されているような年上の担当職員には、ただの我がままとしか受け止められなかったであろう。実際にそのとおりなのだが、言い合うのも面倒くさくて私は知り合いの不動産屋から是非と言われて付き合いで断れず…みたいな事を言って凌いだと思う。担当者の上司にあたる係長は文京寮の確保に腐心してくれたらしく、彼に気兼ねする担当者に何らか言い訳できる大儀のようなものを与えてやらねばならないように思えたのだ。
私の係と人事担当係は同じフロアの端と端の位置にあったのであるが、私が文京寮転出を報告して以来、職場で行きかう時に人事担当係から向けられる私への眼差しは冷たいものになったように思えた。"係長の恩義を無碍にした不心得者"という感じなのだ。
考えてみれば、相手は人事担当係である。新採用職員ごときが勤め始めのこのタイミングから我がままを言って好感度を下げてしまっては、この先の人事異動などでマイナスになるかもしれない。私は、せめて1年は我慢すれば良かったかなどと後悔するも後の祭り。ええいままよ。自分に素直に生きようと、将来の出世などもはや望めないような気持ちの中で日々を過ごすのだった。
ところが、大きな情勢変化が訪れた。5月の給料日の翌日、ここでの生活も残り僅かの文京寮へ仕事を終えて帰ると、何やら見慣れぬ男性たちの出入りで物々しい雰囲気になっていた。近くにいた人に聞くと「この寮に空き巣が侵入して被害が出ている」というのだ。驚いて4階の部屋に駆け上がると私の部屋のダイヤル式南京錠は閉まったままで一安心。ところが廊下挟んで向かいの部屋の並びは、軒並み南京錠で占められる金具部分がネジごと引き抜かれていて引き戸が開けられていた。
親しくしていただいていた向かいの住人が居たので話を聞くと、部屋に帰ってきたらこの有様で、部屋に保管していた昨日支給されたばかりの給与が全額盗まれたとがっくりしていた。昭和62年頃のこの当時は、現金で給与を受けとる職員も少なくなかった。外部から犯行が見つかりにくいということなのか、4階の私の部屋と反対側の部屋ばかりが狙われたようだ。たとえ私の部屋に入られたとしても私は学生時代からバイト慣れを通じて収入金は振込受入れを基本にしていたので部屋には現金など無かったのであるが。
この事件が報道され方々で話題になると、「泥棒が易々と入るような危ない寮は直ぐに出たほうが良いよ」というムードが職場に広まってきた。かくして、せっかく上司が苦労して用意した寮を僅か2か月ほどで退去する不届き者という私への汚名は、霧のように一気に消えてしまったのだ。
私は胸を張って誰に気兼ねすることなく、自分自身で決めた新しい住まいである「水明荘」への引っ越し準備を進めたのであった。
〓文京寮の衝撃終わり〓
(「新潟独り暮らし時代65「新採用で独身寮の衝撃(その5)」」終わり。仕事遍歴を少し離れた独り暮らし時代の思い出話「新潟独り暮らし時代66「新部屋は眼下に信濃川の眺め」」に続きます。)
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