日の本の下で  究極の一点 Ⓢ への縦の道

『究極の一点』Ⓢ 
神のエネルギーの実在を『フライウェイ』の体験を通して知り、
伝えるデンパ(伝波)者

重力波の計測とポルターガイスト  ②  『三次のアナタ』

2018年05月19日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

重力波の計測とポルターガイスト

続きを

読まれてない方は読んでからどうぞ

 

霊、幽霊というものを直接見た経験あると言い切れる人はどのくらいいるのだろうか。

 

ネット検索に出てきた来た、ガシェット通信というところの

2011年の3000人アンケートでは

見た事がある人は26%の780人と書いてあった。

 

またヒューマグループという会社のアンケートでは

「幽霊を見た事がある。」と「よく見る」いうひとは全世代では19.5%であった。

 

もう一つ、医療関係者2200人近くにアンケートをしたという記事では

「幽霊や第六感、超常現象など通常の科学では説明できない不思議な体験を

したことはありますか?」という問いに

開業医 27%   勤務医  21%   看護師  47%

が「はい」と回答している。

 以前

死後の世界の可能性を証明する科学。

の記事の中で当時

東京大学医学部附属病院救急部・集中治療部部長で、

東京大学大学院医学系研究科・医学部救急医学分野教授。

という肩書を持つ 矢作直樹氏という医師が

死後の世界を肯定する著作を多数出版されている事を書いた。

 

日々、医療の現場に立ち、最先端の科学的知識と経験を持たれている方が

人生経験を積み重ね上で、死後の世界を肯定しているのは、

私ような者には非常に心強い味方だ。

 

アンケートでお面白いと思ったのは、

色々な職業を持つであろう3000人アンケートと

開業医と、勤務医の

心霊体験の%がほぼ変わらないという事だ。

また看護師さんの%が多いのはたぶん医師より日々多くの患者さんに接する

機会が多いのが原因のように思う。

 

ここから導きだされる大まかな数字は

1000人いたら、200~250人は「幽霊を見たことがある」

という回答をするであろうとい統計学的な予測だ。

 

かく言う私は当然その中に入る

がこれは、前回書いたポルターガイストの目撃談によるものではない。

 

私は過去、幽霊を見たと思える経験がある。

ただそれがハッキリと幽霊だと証拠を提示できない経験であったが、

私の見た幽霊は、足もあり、スニーカーも履いていて、

物質化という意味では、間違いなく人間の形をしていた。

私はそれに触る度胸がなく、それが本当の物質化したモノか

それともただたんに3Dホログラムのように可視化されたのかを

確かめる事が出来なかった。

 

しかしそれが、ただの人形に思えなかった一番の理由は

その人の形をしたモノから放たれていた気配が

生きている人間と同等の、強い何らかの感情を発しているように

感じられたからであった。

 

たぶんそれは地縛霊と言われるモノであったと思うが

その見事な程の物質化現象が、夏のムシムシした雨の日であった事は

よく語られる『タクシーの後部座席に乗車した人が消えて

シートが水浸しになっていた』というエピソードと繋がり、

霊の物質化というか可視化には空気中の水分が不可欠なのだろうと

その事から私は思うようになった。

 

細かい霧上の水をスクリーンにして映像を映すイベントがあるが、

初音ミクさんの3D映像のように透過スクリーンの代わりに

湿度100%であった空気中の水分を利用して

その地縛霊は自身の姿を物質化していたように私は推測している。

何より、その場所には複数の蛍光灯の光源が有り、

その光を利用すれば、完全な3Dホログラムの姿を作る事が出来たのではないかと。

 

後は

その地縛霊と思えるモノが何をエネルギー源にして、

霊を見る資質のない私が可視できる程、

自身の姿を物質化したのだろうという事であった。

 

フライウェイを学んだ私は、

感情化と物資化のベクトルはほぼ同じだという事を知った。

それ故に、地縛霊という感情が固着し念となった意識体は

強い感情エネルギーを持った存在という事が推測でき

それ故、その感情エネルギーを自身の姿を空気中の水蒸気を利用して可視化する為に

使ったのではないかと。

 

私がそのモノから感じた、生きている人間のような強い思いは

肉体が亡くなったにも関わらず、この世に未練や執着、

または死んだ事が自覚できないなどの理由で

成仏または、御昇華出来ず、行き場のないそのモノの感情エネルギーが

自身の存在をアピールする為に物質化に使わたように思える。

 

たまたま、蒸し暑い夏の夜に空気中に多くの水分が有り

そのモノの念の物質化エネルギーでも可視化または物質化できる状態に

その場の条件が満たされたのではないかと。

 

改めて、この場の定義として

念とは  感情エネルギーが三次元の物質化に向かう事を指している。

それは、呪術で相手を呪詛する事に使われたりするが、

エネルギーの正体は感情であり、

そのエネルギーの増大と物質化の増大のエネルギーの

ベクトルの方向が同じ故に起こりえるのだと。

 

フライウェイではこの世界を 天界(神界) 幽界  現界 で出来ているとしている。

これは普通の宗教の世界観とさして違いはないだろうと思うが

大きな違いがあるとすれば、

フライウェイでは幽界まで 『三次元』としている事だ。

それは、 幽界、つまり物理的には四次元と言えるであろう物質的な制約のない幽界だが

そこの意識体または意識生命体は物質次元の概念に囚われているからに他ならない。

地縛霊を例にするなら

「肉体がないにも関わらず自身が肉体のある存在と思っている、

または、肉体のある世界の現界に戻りたいまたは介入したいと

未練または執着を持ち続けている意識体、または

感情エネルギー(念)の残存している状態と言える。」

 

彼ら、彼女らはすでに肉体がないにもかかわらず、四次元の概念ではなく、現実世界の概念に

から抜け出す事が出来ないため、地縛霊となっている、

もしくは、私が見たような現象を起こしているのだと。

そして、彼ら、彼女ら、という概念を保持している意識体の念の方向は

現界、この物質世界の生きている人間の世界に向けられている。

本来なら、天界(神界)という真逆の方向を目指さなければならないのに。

 

前回の記事で何故幽霊に物理攻撃が有効と書いたが

その理由は彼らは肉体を持っていないにも関わず、自分が肉体を持っているという

三次元的な概念から抜け切る事が出来ない事による事が大きいのではないかと

私は推測している。

 

幽界とは、物理的な制約や時間的な制約を受けない四次元ではあるが

そこに存在する、霊、意識体が、

まだ人間としての個人の感情や現実世界での概念を捨てきれず保持し、

それ故、この現実界への執着が断ち切れない者たちの居場所をさしている。

宗教的に言えば、成仏できていない、御昇華出来ていない迷える者たちがいる場所と言える。

 

クレイグ・ケイコ氏は

客観性のない発言をするとそれは『三次のアナタでしょ。』

と言って戒めていた。

 

幽界を居場所とするモノたちは、肉体も時間もない四次元にいるはずなのに

心はまだ生きている人間と同じ『三次のアナタ』のままなのだった。

 

 

 

*謝罪と訂正。

前回、ファブリーズや柑橘系のスプレーがラップ音に有効と書きましたが

誤解や偏見の助長の元になりますのでその文章を削除しました。

謹んで謝罪いたします。

 

心霊関係に敏感な知人が

柑橘類を持ち歩いて対応していたのは

複数の事実を元にしているので

一つの情報として記しておきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『守護神ハイヤーセルフと共に生きるフライウェイ』   発売

2018年05月13日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

*タイトルをクリックするとアマゾンに飛びます。

  守護神ハイヤーセルフと共に生きるフライウェイ: 人生・家族・スピリチュアル 運命を信じた男の病の果て (MyISBN - デザインエッグ社)
源 現
デザインエッグ社

事前告知!  

の記事でお約束していた本の出版日が

5月21日に決まりましたのでお知らせします。

 

私の『ヘブンリーブルー』自己免疫疾患という経験の記事を再構成した小説と

フライウェイについての私の体験を通した解説本のようなものです。

 

一昨年の病に罹らなかったら、

フライウェイの事を文章にして残す事はなかったかもしれません。

そういう意味で運命は不思議なものだと改めて今感じています。

 

書店には並ばない、オンデマンド出版ですし、

『フライウェイ』をすでに知っている人以外では

このブログに訪れた方しかこの本を知る事は今のところないでしょう。

そういう意味で

「ここでしか知る事ができない変な本」と言えるとは思えます。

 

『ヘブンリー ブルー』 番外編  「壺を売る」「壺を買う」 神への対価 

で私のスピリチュアルに対するスタンスを書きました。

この度、思いがけず自分が『壺を売る』側になったと自覚しています。

それ故、私の本を買ってまで読んで見ようと思われる方は

まずはこのブログ全体に目を通して頂いて、

それから購入するかどうかをお考えください。

このブログを始めてから、

休眠状態の時を含めればもう丸六年の時が過ぎました。

政治関連の事ばかり書いていた頃から読んで頂いていた方からみれば

随分とブログ主は変わったと感じられると思います。

 

実際に私は変わりました。

それ故、今回の本の出版に至ったのだと思います。

が、過去の政治的な記事や感情的な記事を書いてきた私も

間違いなく私自身で有り、根底の部分では何も変わっていないと思っています。

それ故、過去の様々な記事を読む事が今回の本が買うに値するかどうかの一番の

判断材料だと思っています。

 

世間の常識から判断したら、

一考の余地もない与太話だと思われるのは十分承知の上で

それでも長年そうした世界を彷徨い知った事が

少しでもお役に立つ可能性があるならと思っています。

 

 

『信じるか信じないかは、あなた次第です !!』

 

      2018   5  13 

 

                                源 現

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


若者と宗教

2018年05月09日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

若い時の私は宗教が嫌いであった。特に宗教の勧誘は生理的と言えるほどダメであった。

 

 よく玄関先に押し掛ける宗教にあるパータンなのは、

「~を信じないと救われない」とか

「~の門をくぐるもののみが天国の門を通る事が出来る」などというものだが。

これなどは、バイブル、特に旧約聖書の嫉妬深い神様

(神自身が聖書の中で言っているので私の悪口ではない。)

の影響がたぶんに後に生まれた宗教に影響を与えたのだと思う。

 

私は新興宗教の家で育ち幼い頃から教義を刷り込まれたが、

幸い神道系であったその宗教は「万教帰一」を掲げ、

他の宗教を排斥するようなものではなかったから

私も普通の日本人的な神仏混合的な文化の中で育つ事が出来、

一部のシバリの強い宗教のように

親兄弟の結婚式や葬式に宗教上の理由で出席できないというような

事はなかったから、その点は良かったと思っている。

しかし、思春期に入るとその刷り込まれた教義と

世間の現実や両親の言葉との違いから、それらの事全てが嫌いになった。

それ故、自分を翻弄した神とか宗教とかの勧誘は倍返しにしなければ

気が済まないくらい嫌いであった。

 

玄関先に押しかける宗教はキリスト教から分かれたものが主であったが、

『そのイエスという二千年前に死んだとされる男性の死によって

人類の罪がどうにかなったなら、それ以後のキリスト教の名の元の数々の

虐殺も起きなかったはず』だとか、宗教の深い理解のなかった私は

玄関先に出現する意味不明の相手を論破しないと気がすまなかった。

 

『そんなに最後は自分の命を捧げて、殉教する事が何が楽しいのですか?

それを市井の人々に強いるのは、頭がおかしくありませんか』などと

こと宗教に関しての批判は止める事が出来ず、容赦なく玄関先の相手を侮辱するような

事を言って追い払う事をしていた。

 

かく言う今の私は『フライウェイ』という誰も聞いた事もないような、

現在のカテゴリーとしては宗教に入る事を扱い、

(未来に物理的な証明ができれば、宗教ではなく自然科学の分野になる可能性があると本気で思っている。)

次元を超えた交流などという、世間の常識から逸脱した事を喧伝している。

そんな私が、もし十代の私の前に現れたとしたら、

さぞ酷い罵声を浴びせて追い払った事だろう。

 

でもそれはそれで良いのだと今でも思っている。

若さはその経験の少なさ故に洗脳されやすい。

まして、若者が自身で思考して才能の可能性を手足、頭脳を使って試すこともせずに

宗教などの教義を一度も疑わず従うのは、

人間存在の精神しとしての死を意味していると私は思う。

 

 

ISISに憧れたり、身を投じたりする先進国の若者は

その人生経験の少なさから何が本当の正義なのか

実際にテロリストになるという事がどういう事なのか想像する事ができずに

物事を判断する基準が、非常に狭い経験と知識と

分泌量の多いホルモンによって熟慮する事ができない思考によって決められてしまっている。

あの当時、ヨーロッパからシリアに向かった少年少女たちが今のシリアの現状を

想像していたとは、とても思えない。

 

人生が子供の頃から思い描いた通りに生きてゆけるのは

ごく限られた人たちだ。

誰もが、大谷翔平君のような有り余る才能を持って生まれてくるわけではなく

自分の才能が何なのか分からず、何の為に生まれてきたのかも知る事ができず

今日を生きるのが精一杯という人々が

まだ地球の過半数以上の人口であると言うのも事実とそう違わないだろう。

 

この三次元世界は不平等で矛盾だらけに出来ている。

そしてそれを受けいれて、現実を直視して出来る事と出来ない事を見極めた上で

直も夢を目標という現実に落とし込む事を諦めなかった者たちには

自分では想像しえなかったギフトが与えられる可能性があると

今を生きる若い人に告げておこう。

 

これからは、政治はもちろんの事、宗教も感情ではなく論理と実存の時代に突入する。

感情にばかり訴え、実際の結果の伴わない政治家や

確かな論理と実存を感じる事が出来ない宗教は真っ先に廃れてゆくだろう。

 

若い人はひたすら、自分たちが熱中できるものを探して生きれば良い。

そこに神などを介在させる必要は若いうちはないと私は言っておこう。

 

神や仏が必要なのは、

自分の命や大切な人の命が失われようとしている人。

人生に打ちひしがれ、生きる希望を失った人。

日々の生活に疲れきり心の平安を見出すすべが、わからなくなってしまったような人。

心の底からの感情の飢えを満たす事がでずに、他者との関係に

悩んでいるような人などだ。

 

健康な若者で一度や二度の人生の失敗なら

お金に関係なく熱中できるものを再び探して生きて行けばよい。

少なくともこの日本では、

汗水流して働く事を厭わなければ(ブラックな職場に妥協しろとは言わない。)

そして生きる事から逃げなければ、

味わいのある時を生きる事が出来るはずだ。

 

たとえそこで失敗して倒れるだけでも、身の丈の分だけは前に進み、

見えなかった地平線の先の風景が次へのヒントを与えてくれる。

 

健康で生きている限り儲けものだ。

人生を心の底から楽しもう!  若い諸君!!

 

 

 

 

*2018  5  21  

一部、加筆修正しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


暗闇を恐れる心 と 健全な精神の成長

2018年05月08日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

神や仏や、天国、極楽浄土、地獄、天使と悪魔。

神話や聖書や経典で語られているのは事実ではなく

フィクション、作り話が大半だと現代人は普通は認識しているだろう。

 

モーセが行った、紅海が二つに割れる事や、イエスが行ったとされるさまざまな奇跡など。

それをそのまま起きた事実だと信じる人は、バイブルの影響のほぼない日本では皆無だろう。

そしてそれは、日本人にとってはとてもラッキーな事ではあったと私は思う。

 

西洋世界やイスラム世界での宗教的な概念の束縛は今だ大きい。

キリスト教に関しては確かにその本来の信仰的影響力は衰えていると思うが

文化として西洋文明の中に脈々と流れ影響を与え続けている事は事実だろう。

2011年刊の『レッドステイツの真実』という本のデーターでは

アメリカ人の70%がイエスの再臨を信じ

62%が悪魔の実在を信じているという事であった。

 

1973年公開のオカルト映画『エクソシスト』では日本での公開に先立ちアメリカで

観客の失神者が相次ぎ、また映画関係スタッフや役者が死亡したりした為

日本での公開時の盛り上がりは異常だったのを覚えている。

 

バイブルランドの人々がこの映画に恐怖した一番の理由は、

やはり悪魔の実在を信じているという文化圏に生きているからに他ならないと思う。

二代前の法王、ヨハネ・パウロ・二世は生前からエクソシストとして有名だった。

現、フランシスコ法王も、悪魔祓いをしたというニュースが2013年の5月に流れ騒動になり

法王庁がそれを否定する声明を出している。

バイブルランドの多くの人々にとっては

悪魔は今だ完全な絵空事ではなく、

日常の生活の中で人間の弱い心のすきを狙い

本能的恐怖心に影響を与える力を持つオカルト的存在なのだと思う。

 

 人さらいと、 危機回避能力

の記事にも書いたが、

私は昭和の田舎の子供だったから、小さい頃はまだ人工照明が少ない世界で育った。

それは、子供にとっては日が暮れると闇が迫ってきて

五感全体を震わせる恐怖を日常的に味わう経験でもあった。

『逢魔時』という言葉どうり、西の空の紅い帯が光を失い始めると

不気味な何かを含んだ暗闇は想像異常の早さで迫ってくるものだった。

 

子供の頃真の闇の中に独りで取り残されるほど恐ろしいものはなかった。

それは、見知らぬ、場所の外はもちろんだが、

罰として押し込められた押し入れや納戸の中もその真っ暗闇の中の恐怖は同じであった。

それ故、闇は私のような子供にとっては幽霊や妖怪が棲む異界への出入り口と同じ意味をもつ

何か得体の知れないモノたちといつ出会うかもしれない

恐ろしい空間であった。

 

 

過去の時代、私のように本能的に闇を恐れる心や幼い頃から文化的な背景によって

悪魔の存在を信じるような育ち方をした人間にとっては

その心の底に流れている、本能的な恐怖が

宗教を信じる事の一つの理由であったと私は思う。

 

人間の心は弱く、闇に巣食う悪魔や悪霊から心を守るには

神、仏に対する信仰こそが

その弱さに勇気を与えてくれる実感があったのだろう。

 

しかし、物質文明が成熟した国家において

夜の真の闇はなく、子供たちがその五感以外のシックスセンスを磨く機会は

限りなくなくなってしまった。

 それ故、今の日本の若者たちの大半は

真の闇の怖さや自然の恐ろしさを体験しないで

大人になってしまっているのだと思う。

 

東日本大震災などの自然災害はあいかわらず各地で起こっているが

日常の中に潜んでいる自然の怖さは親の世代も含めほとんど体験していないのだと

夏起こる水難事故などをニュースで見たりすると思ってしまう。

 

川や海で遊ぶ事がどれだけ危険な事は田舎の子供なら

小さい時に一度くらいは恐ろしい思いをして知っている。

私も海で潮に持って行かれた事はあったし、川で溺れそうになった友人がいて

その子から『足を引っ張られた』と真顔で言われた経験があるから

川の深みには絶対に近寄らないとそれ以後は思ったものだった。

 

昔は親がそういう経験をして自然の怖さを知っていたから

その経験を子供に直接伝える事ができたが、

今は親の世代もそういう言い伝えや経験を伝授されているものは少ないから

非科学的と思える言い伝えは無くなってしまい

闇が駆逐された現代では、東日本大震災のような自然の本当の恐ろしさを容赦なく

体験させるような出来事を経験しない限り、

危険に対する直感は中々養われないのだろう。

 

私は今の若い人が昔に比べ宗教的な事に懐疑的な理由は

そのような、五感全体で味わう感覚的な恐怖を

日常的に体験する機会が持てないまま成長している事も理由の一つだろうと思う。

 

物事は明るい照明の元、科学や社会的な常識が揺るがない日常が続き

オカルト的な何かは漫画やアニメの中の作り物の世界でしか体験しないから

現実にそのようなものが存在する可能性を最初から考える余地がないのだと。

今でも田舎に行けば、野山はあるが、その自然と深く触れ合うような生活を

田舎の子供たち全員がしているわけではなく、都会と同じようにスマホを持ち

インターネットでゲームをする生活である事は都会と何も変わらないだろう。

 

ただ、中ニ病にかかる年代だけはホルモンの影響でそういう

目に見えない事やオカルト的な事にロマンを感じて、一時的に信じたりするが

現代の日本では成長と共に、

多くはそういう非科学的なモノを客観的に分析して

排除してゆくように育ってゆくだろう。

 

それは、霊感商法や過去の束縛して収奪するのが目的の宗教に引っ掛かり難いという意味では

大変良い事だと思う。

が何か言葉にできない恐怖や畏怖の念を子供の時に心の底に持つという事もまた

人間が生きてゆく上では大切な事だと私は思う。

 

それは自分ではない何者かを恐怖すると同時に認める事でもあるから。

 

そういう体験をしないで成長してしまうと、人間に対してはもちろん、自然に対しても

怖いもの知らずの心のままで、いざ何かに直面した時に、

抑制のきかない行動を取ってしまう原因になってしまうだろうと思う。

 

心の底から震え上がる経験を子供の時にしておく事は大事な事だ。

そういう経験をすれば、自己と他者の違いを少なくとも認める意識は育ってゆく。

真の恐怖を知らないで育つと、世界の全てが自己の意識の延長上にあるように肥大化しまま

コントロールできるような勘違いをして成長してしまい、

コントロール出来ない事象にぶつかると

大した理由もなく他者を傷つけたりするようになってしまいがちだ。

私の分析では今の若い人たちの犯罪はそのような事に起因する事が多々あると思えてならない。

 

 

大きな人生上の出来事はトラウマになると言われるが、

運命論者の私にすれば、心の底に記憶として残るような事は必然的に起きたのだと思う。

人間が生きてゆく理由はその記憶や経験とどう向き合って忘れてゆくかであって

向き合いもせず無視して生きてゆく事ではない。

そして、人間ではない自然や超自然的なモノから感じる、畏怖や恐怖の思いが

子供の頃に刷り込まれる事は、心の予防接種に似て

人間が打ちひしがれた後心を切り替えて生きてゆくのに必要な

諦観を教えてくれると思う。

 

 

子供の頃の感覚は大人になると忘れがちになるものだ。

だが、完全にその感覚を忘れてしまうものでもない。

今の私の中にもその感覚は生きていて、それは時として直感として私を助けてくれている。

 

人間の感覚は磨けば、よりミクロの世界に近づけると思うのは

私の偽りない実感だ。

デジタルの時代だからこそ、

計測できず残されたアナログ世界の中にこそ

デジタルの可能性があるのだと。

 

 

 

  

 

 

 

*フライウェイ・レッスンの為にクレイグ・ケイコ氏が設立した『生昇会』

 ホームページにおいても定価にて取り寄せ可能。

 

 

スーパーナチュラルの法則―究極の生をもたらすフライウェイ
クレイグ・ケイコ (著)
史輝出版

重力波の計測とポルターガイスト

2018年05月05日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

ゴールデンウイークなので、

暇を潰せるいつもの変な話をひとつ。

 

去年ニュートリノ振動の発見で

ノーベル賞を受賞された梶田隆章先生の講演を聴く機会があった。

 

私は生粋の文系なので、数学はまったくの不得手だが

ロマン溢れる、量子理論の内容に魅せられて

好奇心から物理学の先生方の本を少しずつ読むようになった。

今世紀  自我の意識構造の科学的な解明が、宗教やイデオロギーの呪縛からの開放を加速させる。

天才 と 『シュレディンガーのパンツ』  と 『アヴェ・ヴェルム・コルプス』

の記事でも量子理論に触れてきたが、

その三次元的概念では証明できない観測結果が

三次元以上の次元の存在が実際に存在し観測できる事を

予測しているように私には思えとてもワクワクした。

 

人類が、目に見えなかった微細モノが、顕微鏡の発明によって目に見え始め

科学によりミクロ世界の構造が解明された事によって、中世までは

魔法や奇跡であった事が、科学的に証明され、再現できるようになっていった。

では、人類は今どれだけ微細なものを観測できるようになったかという到達点の話を

梶田先生は、アメリカのチームが重力波の観測に成功した事によってノーベル賞を受賞した例を

出して講演で話されていた。

 

それは、太陽と地球との距離      約 1億5000万キロメートル

に対して

    水素原子一個分の大きさ    約  100億分の1メートル 

 

の距離が変化した事を計測したという事であった。

 

重力波の存在はアインシュタインによって100年以上前から予測されていたが、

このミクロの距離の違いを観測できる為には100年の時を待つ必要があったのだった。

 

今現在はようやく重力波を観測しその存在を証明する事が出来た。

ようやく重力波が人間によって完全に解析できる一歩手前にきたと言ってもよいだろう。

だとしたら今後の科学の発展によって、

重力そのものが解明され、それをコントロールするすべが

解明されれば、人間が機械的操作によって、地球の重力から解放される日も夢ではないと言えるかもしれない。

 

また、宇宙の成り立ちや始まりというマクロ世界の証明の為には、

これからは超ミクロ世界の観測データーによる証明が不可欠であると梶田先生は言われていた。

もし宇宙が無からの揺らぎによって誕生したのなら

これから物理学者は、その次元を超えた先の無を観測する世界に必然的に

入ってゆく事になる。

それはもう一世紀前まで霊魂心霊が棲むと言わている

時間の壁を超えた先にある世界と限りなく似ていると私は思う。

 

 

ここからがいつものデンパな話

私は若い頃、ポルターガイストと思える現象を見た事がある。


ポルターガイスト現象(ポルターガイストげんしょう)

あるいはポルターガイスト(独: Poltergeist)は、

そこにいる誰一人として手を触れていないのに、物体の移動、

物をたたく音の発生、発光、発火などが繰り返し起こるとされる、

通常では説明のつかない現象。

いわゆる 心霊現象の一種ともされている。  by  wiki

 

 

カラオケボックスで部屋にすしずめの人数でまさに

馬鹿騒ぎして最高潮に盛り合った時

テーブルの上に置いてあったワイングラスが独りでに直上に浮き、

横にスライドするように動きながら空中で何にもぶつからずパンと

音をたてて砕け散った。

 

部屋にいた者たちは酔っぱらっていたが、流石にその現象が

誰かが仕組んだトリックだとは誰も言わなかった。

テーブル中央にあったグラスが誰も触れずに空中に上がった上に粉々に割れたのを

その場にいた者のほとんどが目撃したのだから。

一人が「ポルターガイストじゃない。」

と映画のタイトルで有名になったオカルト現象の事を小声で言った。

店員を呼んだり後片付けをしながら、キツネに化かされたような気分になって

酔いが冷めるのを感じながらも、

その場にいた私たちは、今見た現象は間違いなくポルターガイストであったと確信した。

流石にその後はもう一度その時のように盛り上がる事はなく、グラスが浮く事も割れる事もなくお開きになった。

 

私は当時はまだ、オカルトにもスピリチュアルにも詳しくなかったが、

ポルターガイスト現象は、子供の頃強制された家の新興宗教の経典の中に、

イギリスのスピリチュアリズムの例として

心霊について具体例を挙げて解説する場面が出てくるので、

霊によって物理的な現象が引き起こされる事は

子供の頃から知っていた。

それ故、映画やテレビドラマで幽霊屋敷で物がひとりでに動いたり、空中に浮かんだりする事が

事実としてあるのだと、子供の頃から信じていた。

 

カラオケボックスでの出来事は私がポルターガイストが事実だと再認識する出来事になった。

この出来事は、霊や幽霊がどのような原理を利用して物理法則(重力)に反する現象を

引き起こしているのかという単純だが面白い疑問を考える切っ掛けとなった。

 

自分が見た事や体験した事を基準にして物事を分析するのは当たり前のスタンスだと思う。

講演で梶田先生も当時ニュートリノに重さがあるという事は物理学的には有り得ない事とされていたが、

スーパーカミオカンデでの観測結果は、ニュートリノが変化した事実を示していると確信し

ニュートリノ振動という現象を世界に発表したと講演で言われていた。

 

ポルターガイストで一般的なのは

「バッチ」というのような音を出すラップ音と呼ばれる現象だが

これは、昔から「家鳴り」と言われ木造家屋がほとんど田舎では

家が実際にきしむ音と聞き分ける事はむつかしい。

都会のコンクリートで出来た建物ホテルでは

心霊現象が多いと旅慣れた芸能人がTVで言っているが、

「バッチ」という音がホテルで起きれば、ラップ音を疑ってみても良いだろう。

 

物の移動も幽霊屋敷の定番の観測現象だ。

重い物の移動もあり、テーブルや椅子は当たり前、グランドピアノが空中に浮く

まさに今でいうイリュージョンの世界だ。

 

イリュージョニストからすれば、その現象を再現し種明かしする事は簡単だろうが

 この現象を霊、幽霊などの存在の仕業として、または超能力の存在証明として

トリック以外で再現する事は今だ誰もなしえていない。

 

映画スターウォーズの中で、ダースベイダーやルーク・スカイウォーカーが

フォースを使って、重力に逆らって、飛んだり、物体を投げたり、ライトセーバーを

手元に引き寄せたりしているが、いわばその現象は重力に干渉して

フォースの力が重力を上回っているから成立してる現象と言えるだろう。

 

これからもっと科学が進み、重力を遮断できる方法が考案されると、

SF映画でよくある、ビルの屋上から何もない空中に歩き出す事や、

重力を遮断し、推進力を同時に制御できれば

スーパーマンのように空を自由に飛行する事も可能だろう。

 

私が目撃した現象の原因が何よるものかを考えた時、

人による作為的なトリック以外は

重力以外の力が働いたからと結論して良いと思う。

そしてその原因になるような強い力を出せるものは

常識的な物理では目に見えず誰も触れていない事から

磁力か、風力、または電子レンジのマイクロ波ぐらいしか私には想像できない。

だが、カラオケボックス内でコップだけ浮き上がる風を吹かせる事は無理があるし

ガラスのグラスを磁力で持ち上げる事は普通は無理だろうし、

あの場では不可能だろう。

またマイクロ波でグラスを割る事はできても、浮き上がられせる事は

その装置の大きさを考えれば無理だろう。

いずれにせよ、それをするメリットや動機はない。

 

後残るのは、そこにいた人間から発せられたエネルギーによるか

そこに存在したかもしれないポルターガイストのエネルギーが原因によるものかの二つに絞られる。

 

あの時の雰囲気は異様に盛り上がった飲み会を想像してもらえば良いだろう。

カラオケボックスでみんなノリノリになって、絶叫系の歌を歌い続けて

ブルーハーツの「リンダ・リンダ」のところをひときわ大きな声で合唱するような場面だ。

(歳がわかるね)

そのロックのライブのような熱狂感は、時としてムッとした熱気を伴った空気圧に似た

感情エネルギーが物理的エネルギーに変換されてゆくように感じられる。

その場にいた生きた人間の感情エネルギー(エモーショナルエナジー)

が重力に逆らう程の力を発したのだろうか。

 

またポルターガイストが原因だとしたら

その騒がしい幽霊はどのようにして重量を遮断してコップを浮揚させ

どのような力で横に動かし、そしてコップを割ったのだろうか。

 

ここからは私の柔らか仮説。

まずはフライウェイで知り得た法則から。

 

宇宙のエネルギーには螺旋回転の二方向のエネルギーの流れがある。

それはシンボルでは卍、言葉ではマンジ、スワスチカ、と言われ、ナチスのハーケンクロイツは左のマンジだ。

ヒトラーが左マンジをシンボルに使うまではマンジ、スワスチカは幸福の象徴であった。

 

右回転は宇宙の究極の一点である命の源から地上に向かう物質化を。

左回転は地上から究極の一点に向かうプラズマ化を表しいる。

 

私が繰り返し述べてきたエネルギーの流れの転換は前世紀までは

地上に向かう右回転の物質化を促すエネルギーの流れが強かったが

左回転のプラズマ化の天へと向かうエネルギーの方への転換が世紀末に起こり

今現在も強くなり続けている事を示している。

 

また、それに伴う人間の意識がどのように影響されるかと言えば、

人間の意識は地上に向かうほど感情のエネルギーが増大してゆく。

逆に究極の一点に近づくほど感情というものは消失してゆく。

これは、各種宗教で天界や極楽浄土に入ると感情に左右されなくなると

多くの記述がなされている。

 

私たちが実際に命ある肉体を持って生きている三次元世界は

究極の一点から形のないエネルギーが物資化される出口にあたる事から

炭素を核にした有機物で構成された物質化した肉体は感情エネルギーの

受け皿となっている。

 

この三次元世界は

究極の一点から生まれたエネルギーが物質化する場所であり、

4次元以降の次元の意識エネルギーが感情化という影響を受ける事で

物質化できる場所でもある。

 

そして、その感情化エネルギーは物質化エネルギーと同じ

地上に向かうほど増大するというベクトルを持っている。

物質化と感情は非常に密接な関係にある。

 

では人間の感情エネルギーは物理的エネルギーに変換出来るのだろか。

その答えは、

カラオケボックスでの現象が物理的自然現象とトリックという原因を完全に排除できれば

イエスという事になる。

ただし、私はこのカラオケボックスの場合、多人数がワイングラスに意識を集中して

現象が起きた訳ではないので、

私は幽霊実在派の立場から、

ポルターガイストがその場にいた人間たちの感情エネルギーに

指向性を与え、自己の存在のアピールに利用したのだと推測している。

 

ポルターガイストが起きる場所は俗にいう心霊スポットや多くの人が集まる

劇場やカラオケボックスなどが多い。

カラオケボックスで会計した者が店員に改めて心霊現象があるかどうかを聞いたら

やはり過去にも似たよう事が起きたと認めたという事であった。

 

私も数年前まではカラオケボックスをよく使う機会が有り

心霊関係に敏感な友人はいつも柑橘類を持ち歩いて

部屋に入るなり、いるとわかると汁を空中に振りまいていた。

何故、幽霊に物理攻撃が有効なのかは、また別の機会にして

今日の伝波な話をおしまいとしよう。

 

 

 

 

 

 

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 セブンアンドワイのオンラインサイトでも、1.512円、税込み+送料で購入可能

 

スーパーナチュラルの法則―究極の生をもたらすフライウェイ

クレイグ・ケイコ (著)
史輝出版

『ヘブンリーブルー』自己免疫疾患という経験においての*****の開示

2018年05月03日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

お待たせしました。

本当なら事前告知での本の販売が確定したら

一緒にこの記事を書く予定でしたが、

プログラムトラブルという理由で連休明けになりそうなのでお約束を守るために

先に長らく*****としてきた言葉を開示しようと思います。

 

それは、

『フライウェイ』 と 『守護神』 です。

 

******が、どちらがどのように使われているかをどうしても確認したい方は

そのうち販売される私の本でお確かめください。

 

ただ、本を確かめなくても

ブログの記事を読めば、わかるとは思います。

明らかに違った使い方をしている個所がありますから。

*下記本のタイトルをクリックするとアマゾンに飛びます注意

 

 

スーパーナチュラルの法則―究極の生をもたらすフライウェイ

クレイグ・ケイコ(著)
史輝出版


 

 

上記が『フライウェイ』創始者のレッスンブックです。

検索するとクレイグ・ケイコ氏の本がもう一冊出てきますが、

レッスンブックと創始者が指定したのはこの本だけだと告げておきます。

(理由については私の本に書いてはあります。)

いずれにせよ、言葉は開示いたしましたので、

ご興味のある方は、ご自身の判断で購入され、考察頂ければと思います。

 

 

 

目に見えない事、

科学的に証明される事が出来なかった世界。

その世界のエネルギーや情報を

これから実際に利用する体験の積み重ねによって

人類が物質的概念から解き放たれてゆく証の一つとして

『フライウェイ』がある事を

告げておきます。

 

この度、病に後押しされる形で私なりに

『フライウェイ』について今語れる限りの事を書いてみました。

本人としては大真面目なのですが、価値観が違う方々から

「何を非科学的な馬鹿な事を言葉にしたり、実行して世を惑わす事を言いふらすのか」

という声が聞こえてくる事は十分承知の上で、

『信教の自由』が保証されている日本のおおらかさの元に

私はその事を信じ実行しているのだと告げようと思います。

 

究極の一点に存在する創造主である神というエネルギー。

エネルギーの流れが縦へと転換した現在においては、

今までのような概念としてだけの存在ではなく

実在し人類が平等に使う事が出来るエネルギー存在だという事を

これからも私なりに伝えてゆきたいと思います。

 

本出版に当たり

 源 現(みなもと げん)と名乗ることにしました。

常識を疑い、頭を柔らかく、未来に希望の持てる記事を

これからも書いてゆけたらと思っております。

 

 

2018    5   3        伝波者     

                      源 現

                      

 

 

 

 

 


事前告知!  

2018年04月27日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

お知らせです。

一月中旬から二月初旬にかけて連載した

『ヘブンリーブルー』自己免疫疾患とい経験 の最後の記事

『ヘブンリー ブルー』 自己免疫疾患という経験  あとがき 『天上の青』


でお約束した*****の伏字を開示を

いまとところ5月1日以降のゴールウィーク中にする予定です。

この間四月中になんらかの報告をすると書いたので

お待ちになっている方が少しはいるかもと思いましたので。

 

それに伴って、このブログの方向性もまた変わってゆくかもしれません。

 

ネットの海にスポイトで情報を一滴落とす事を主旨として

ブログを書き続けてきました。

物事に天の理に合う、合わないという観点での

真贋があるとするなら、

私の今まで書いてきた事が天の理に合っていたとしら、

これから少しずつ広まってゆくでしょうし、そうでないとしたら

このままネットの海の底深くに溶けて消えてゆく運命にあるのだと思います。

 

天の理や天の法則などという事を声高に言う者のいかがわしさは

私もよく理解しているつもりです。

が、これから先人類が経験してゆくのはその、今まで実感出来なかった

天の理を人類が意識を合わせる事で実感として経験できる世界になってゆくという事なのです。

 

元々、このブログは若い世代に向けて書き始めたものです。

そして、その若い世代がソース(情報源)が信用できるデータのないものを信用しないのも

十分承知の上で、スピリチュアルな事に関しては、

自分が実際に経験した事を元に今までブログの文章を書いてきました。

今回自らの経験した病の事を本にして残そうと思いましたので

ブログの記事内では語らなかった事が知りたい方がいらっしゃれば、

本を読んで頂ければと思っています。

本はオンデマンド出版、アマゾンで販売の予定

(出版日が決定してから開示しようと決めていますので、

いまのところ何日開示すると確定できないのです。)

後、分不相応に値段が高いです。

なので、*****の伏字を開示しますから、

興味がある方はまずはその事を調べて頂き、

それに伴って私の今までのエネルギー転換の話のソース元の本も開示しますから、

私の本を買う前に、*****にご興味がある方はそちらの本を手に入れて一読する事をお勧めします。

昔の本なのでアマゾンでなら、早いもの勝ちで安く手に入る可能性が高いです。

ソース元の本は*****の創始者の著書で

超自然的な事が苦手な人はついてゆけない(途中で読む事を諦めるレベルの)

飛び切りスピリチュアルな内容な事は保証いたします。

 

ご興味のある方はもう少しだけお待ちください。

 

               

 

                         デンパで運命論者の  ブログ主

 

 

 

 

 

 

 

 

 



平成の次の世代は、『センチメンタリズム』や『可愛いは正義』などの感情や性別を超克した純粋に論理的な文明を目指してゆく。

2018年04月24日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

*****についての一連の作業が山を越えたので、

久しぶりに今話題の出来事を元に、デンパな視線なへんな文章を書いてみようと思う。

 

ここのところ毎日、マスコミの女性記者に対する、財務省の次官という立場の人が

行ったセクハラ行為について、TVや新聞は熱を込めて報道している。

私だけではないと思うが、政権が憎いのか権力が憎いのか

とにかく、そんな情熱をかけてまで報道する事なのかと

政治的な事から興味が遠のいた今の私でも呆れてしまう。

私は保守主義者だが、親米主義ではないので、

何でもかんでもアメリカべったり(特に安保問題)の今の安倍政権も

どちらかと言ったら、私の主義主張とは離れている政権だと思う。

だからと言って、セクハラという文化や歴史や、社会構造が生み出してきた

問題を、時の政権への攻撃材料に使うのは

権力の番人の品位を貶めるだけの行為だと思うのだが。

それは置いておく事にして、

 

職場での女性へのセクハラは

#Me Tooを発端とした今の世界的なトレンドであり

日本に限らず、女性に対する性的なハラスメントや差別は、

イスラム教徒のマララ・ユフスザイ氏を象徴とした

戦争を尺度とした男性優位の物質文明で生まれた女性差別が解消されてゆく事が

エネルギー転換により、これから構築されてゆく

秩序と平和を尺度とする精神文明へ向かう為には

避けて通れない問題の一つだという証明になるだろう。

 

女性の精神と肉体の自由を縛ったてきた、過去の宗教や文化が

物質文明が成熟した先進国の女性たちが立ち上がり、

女性に生まれたという事を理由に

制限または差別されてきた事実からの解放を求める事が

これから地球全体に広がってゆくのは

水が重力に従って広がってゆくのと同じくらい必然的な事だ。

 

この問題は先進国では、すでに女性の社会的な地位はある程度まではバランスがとられる形にはなってきているが

(アメリカではガラスの天井とヒラリー氏が言っていたが、レディーファーストを女性側が受け入れているうちは

対等なものとはならないだろうと余計な事を言っておこうと思う。)

かたや日本はあいかわらず、男性優位の社会構造は変わっていないだろう。

政治家、官僚、起業家、会社経営者、統計的にはいまだ圧倒的に男性優位というのが事実だろう。

ただ、現場の働き手という意味では女性の社会進出は確実に広がっているだろう。

 

女性も結婚しても当たり前に働き続ける時代がようやく到来した感じがする。

 

私は3Kと呼ばれた製造業で働いてきたが、ある時男女雇用機会均等法が出来

末端の管理職の立場でその運用方法とかのレクチャーを受けた最初の世代にあたる。

当時の職場に女性が正社員として入る事は考えられなかった。

(差別ではなく、日常的にスポーツ選手並みに筋肉量が必要で、一度に25キロの袋を二つ運ばなければ

 仕事をしたと認めてもらえない、体育会系の部活まんまの世界だったから。)

 

限られた時間で生産性を高める事を求められるのは、

日本中の会社と呼ばれる組織の中ではあたり前の事だろう。

男社会で、

大きな機械音が響く工場で野郎たちが大きな声を出して、筋肉全開で作業している中に

当時の最初の女性たちは、それなりに覚悟を持って職場に入ってきていた。

 

当時の女性社員たちは、今の社会的な基準を照らし合わせれば

パワハラもセクハラも日常的に受けてきたと言うだろう。

ただ、それはこの日本においてはもちろん世界中でも

歴史的に女性が体力的な不利益を被る文明の元に

生きざるおえなかった事実による事が大きいと私は思う。

だが、先進国、物質文明が成熟した社会になればなるほど、

肉体的、体力的な不利は無くなってゆき。

今では、機械を使って作業するのがあたり前となった現在では、女性だろうが男性だろうが

オペレーターとしてなら何も違いはない状態の職場が大半になってしまった。

確かに今だ男性の筋肉頼みのハードな仕事場はあるだろう。だが建築や土木などの現場も

機械化が進み、ユンボやローラーなど道路整備でも女性のオペレーターを見かける機会が増えた。

アニメのパトレイバーではないが、機械化された建設機器を女性オペレーターが繰るのは

当たり前の世界になるのはすぐ目の前だと言えるだろう。

 

物質文明が成熟し、家庭、職場環境、国家管理のインフラで

女性の体力的な不利益が解消された構造を持つ事が

これから精神文明を人類が築いてゆく上での最初の出発点になるだろう。

日本はもちろんその最初のランナーの一人になる。

 

だが、今世間を賑わしているセクハラの問題は

人間の性別を論理的に認識しなおす事が社会全体で進んでいかなければ

中々解消されないのは誰にでも推測できるだろう。

 

だが後二十年もすれば、女性の社会進出はもっと進み、

セクハラの意味が男性から女性へのというのが当たり前の今の概念が

逆に女性から男性へが大半になっていたとしても私は驚かない。

これから、エネルギー転換により女性の思考も感情よりもより論理的思考が

重視されるように自然となってゆく。

それは当然の結果として多くの女性の社会的地位を爆発的に向上させる。

またそれと同時にこのエネルギーの転換がもたらすのは母性社会への回帰であるから。

父性の力は今よりもっと弱まり、

必然的に男性は女性に従属的な社会を形成する事になってゆくだろう。

ただそれも性という概念を保持し続ける社会での事だ。

 

意識はある領域を超えると、性別は無くなる。

中性的な感覚を持って生まれてきている子供たちはすでにその事を

youtubeなどで宣言をしているが。

その事を中二病的な一時の熱病だと即断するのは私は違うと感じている。

たぶんかれらは、肉体的な束縛、(男性、女性ホルモンなどによる)に耐性があるように生まれてきた世代なのだと。

その世代古い死語で言えばニュータイプと呼べるかもしれない

新たな世代は、スタートレックに登場する論理的思考を重視し感情の発露を恥じとする

バルカン星人のような文明を築いてゆくように私は想像している。

つまり、以前書いたように私のような演歌や浪花節やセンチメンタルが大好きな意識構造の人間とは

まったく別次元の意識をもちこの三次元世界に生まれてきているのではと。

 

性にこだわって生きてゆく事は昭和世代はもちろん、

『可愛いは正義』が代名詞だった平成世代ももちろん生まれながら持っている感性だろう。

だが、平成がおわり次の元号に生まれてくる世代にとって

性別の持つ意味は、三次元世界を肉体を持って生きる事において

それほど大きな意味を持たないで生まれてくると私は予想する。

何故ならこれから人類の全体の意識が

エネルギーの流れの転換によって目指すのは

性別はもちろん、三次元的な概念や思いが消えてゆく

無と呼ばれるエネルギーのみの次元なのだから。

 

その性のシバリのない人類が目指す文明に『センチメンタリズム』や『可愛いは正義』は

最初から含まれていないであろうことは寂しくもあるが

きっとその寂しいという感性を、論理が凌駕してゆき、

想像こえた意識と精神の自由を

人類が謳歌する文明に到達すると予想して、

この夜のへんな話を終わりとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


宗教 強制  親子 信教の自由 

2018年04月17日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

長い話。よろしかったらどうぞ

 

子供の時の親による宗教体験の強制は 愛を濁らせる。 

 

しばらく記事を書かないでいると、いつの間にか

上記の記事が私のブログ中で一番読まれている記事に返り咲く。

直近の記事が一番になるのはせいぜい、記事を投稿した日とその翌日までで、

だいたい三日もすれば、上記の記事が一番に戻っている。

 

一時期何故そうなるのか、誰かがリンクでも貼ったのかと思ってたが

どうも違うようで、

毎日誰かが家族間での宗教の強制に悩み検索に出てくる私の記事のタイトルが気になって

訪れてくれているようだ。

それで、今回はデンパでスピリチュアル馬鹿を自称する者の

最近磨きが掛かったデンパぶりに、上の記事で訪れた方々が??

となっているかもと思い少し記事を書いてみようと思う。

 

上記の記事の内容と重なるが少しガマンしてもらいたい。

何度も書いてきたが、私の両親は新興宗教の信者であった。

特に父は出征前に一時期、渋谷にあったその宗教団体の学生寮に住み、

その神道系の教祖の講話を

身近で聞き、霊的な悟りによる人格の完成を目指したと、息子に言うほど

真面目な信仰者であった。

母は父の信仰を受け、当然その影響を受けていた。

 

もの心着く前からその教えに触れ、聖経の読誦などを

(感謝行・浄心行などを母に無理やりやらされた)して育った私は

小学生の頃から、神とか悟りとかいう抽象的で単純な答えのない概念を

考える癖が自然と身についてしまった。

だからと言って、親の信仰した宗教が好きになったかと言えば、正反対で

年齢を重ねるにつれ、浮かび上がる、

聖経に書いてある事と、親の口にする事、世間的な現実との違いに

当然疑問を感じ、思春期に入る頃には宗教の教えとは、完全に距離を置くようになっていった。

 

生きていて、

人が神に真剣に向きあわざるをえない時はどんな時だろうか。

私の場合はやはり、自分にしろ、他人にしろ、命が懸かっている時であった。

自分の手ではどうしようもできない事に直面した時、

愛する人、子供、親、もしくは自身の命が納得いかない形で失われようとする時

「神様 助けて下さい。」と思わず祈ってしまうのは

ごく普通の行動だと私は思う。

だが、逆の見方をすれば、自身の命ごいを除いて、

自身の命を捧げても良いと思える程の祈りは

愛する人々の命ぐらいしかない。

その他の事は、神という全の運命を握っている存在に祈る程の事ではなく

人間が自分自身で真剣に考えて行動すれば、結果はどうあれ納得でき、

未来に向かって前向きに生きてゆけるだろうと私は思う。

ただしこれには人間としての条件があり、健全な愛情交換によってその人が

人を信じ愛する事ができるという健全な精神が育っている事が条件になる。

 

多くの人がそう簡単に前向きに生きてゆく事が容易く出来ないのは

自分を信じる事も他人を信じる事にも確固たるものを育むのが

言葉で言うほど容易くないからだ。

ではどうすれば、人間は人を自分も他人も信じ愛する事を学ぶのだろうか。


『子供は大人の鏡』

子どもは、批判されて育つと 人を責めることを学ぶ

子どもは、憎しみの中で育つと 人と争うことを学ぶ

子どもは、恐怖の中で育つと オドオドした小心者になる

子どもは、憐れみを受けて育つと 自分を可哀想だと思うようになる

子どもは、馬鹿にされて育つと 自分を表現できなくなる

子どもは、嫉妬の中で育つと 人をねたむようになる

子どもは、ひけめを感じながら育つと 罪悪感を持つようになる

子どもは、辛抱強さを見て育つと 耐えることを学ぶ

子どもは、正直さと公平さを見て育つと 真実と正義を学ぶ

子どもは、励まされて育つと 自信を持つようになる

子どもは、ほめられて育つと 人に感謝するようになる

子どもは、存在を認められて育つと 自分が好きになる

子どもは、努力を認められて育つと 目標を持つようになる

子どもは、皆で分け合うのを見て育つと 人に分け与えるようになる

子どもは、静かな落ち着いた中で育つと 平和な心を持つようになる

子どもは、安心感を与えられて育つと 自分や人を信じるようになる

子どもは、親しみに満ちた雰囲気の中で育つと 生きることは楽しいことだと知る

子どもは、まわりから受け入れられて育つと 世界中が愛であふれていることを知る

                         ドロシー・ロー・ノルト 博士

この詩は子育てする新米パパママの間では昔から有名な詩で

私も新米とうさんの時読んで心のどこかで忘れないようにしようと思ったものだ。

実際子育てに携わった自分は子供が小さい頃はよく叱る父親で

子供の性格を見極めずに、誰に対しても同じように叱って

恐怖の中で育つとオドオドした小心者になるを実行していた

愚かな父親であった思う。

この18の優れた言葉の中で特に子供にとって重要なのは

 

子どもは、励まされて育つと 自信を持つようになる

子どもは、ほめられて育つと 人に感謝するようになる

子どもは、存在を認められて育つと 自分が好きになる

子どもは、安心感を与えられて育つと 自分や人を信じるようになる

子どもは、親しみに満ちた雰囲気の中で育つと 生きることは楽しいことだと知る


この5つの教えのように思う。

逆に考えれば、親はこの5つの言葉を守り

言葉と行動が一致するよう家庭で子供を育てる事ができれば

子供は人を信じ、他者を信じ、自分も他人も好きで

生きる事を楽しいと思える人間に育ってゆける可能性が大きいという事だ。

 

私の親は両親ともが、信仰宗教の教えに染まり

子供の私たちにはその啓示的な教えを刷り込んだ

しかし生活の面で言えば、母からは普段は厳しい、楽器のレッスンや勉強で

褒められたり励まされたりする事などない毎日であったし

父はそもそも遠い存在であった。

 

私はお世辞にも精神が健全に育まれ、強い精神力を

親の教育によって育まれたとはこれっぽっちも思っていない。

むしろ、人を愛する事を親から受け継ぐ事ができず

十代の半ばから長い時間をかけて自身の人生の中で自分で学んだと思っている。

子供の時の親による宗教体験の強制は 愛を濁らせる。 

の記事の中ではその事を

多かれ少なかれ親との関係性に問題をかかえ

人を素直に信じ愛する事を受け継ぐ事が出来ない者は

いつの時代でも多いのではないだろうか。

そしてそれは、愛を疑うという作業をしながらも求めるという

泥臭く人間的な努力をしてゆく為の原因になっていると私は思う。

しかしそれは負担ではあるが、愛を知るという意味では地道な近道の一つだと思う。

と書いた。

ここで改めて言う事があるとするなら

多くの親は、私も含め

『子供は大人の鏡』にある魔法の言葉通りの子育ては中々できないという事だ。

そして付け加えるなら、その魔法の言葉の中にはなんら宗教的な要素など

必要のないという事実だ。

 

もう一度、私の体験的な結論を言おう。

親の宗教的価値観の強制的な刷り込みは子供の自由な思考的選択を奪い

何もしない事に比べて悪影響を与える。

そして、神や仏という抽象的な概念の愛情交流の伴わない刷り込みは

年齢を重ねた後にその概念の拒否に直結する。

 

親権の乱用よる子供の人権を無視した

信教の自由への冒涜をこれからの子供たちには、許してはいけないだろう。

神や仏、などという概念を扱うのは劇薬を扱うのと同じでみだりに

子供が扱って良いものではない。成熟した大人が命を懸けて探求して初めて

その真髄に近づく事が出来るかもしれない深淵だ。

それ故、それに一旦魅了されると、人生をいとも簡単に狂わせる可能性は誰にでも起こりえると

親は十二分に胆に銘じなければならない。

そのような事に想い至らない、または考えもしないで

宗教や神事に触れ、子供に押し付けるのは人間としての大きな罪を犯していると知るべきでだと

もう一度言っておく。

 

ちょっと前に、ボクサーの亀田兄弟のお兄ちゃんとお父さんの史郎さんが

TV番組の『しくじり先生』の最終回に出ていた。

私の家族はこの番組が好きで家族で深夜帯の頃から見ていた。

私はミーハーなので、『あしたのジョー』を子供の頃見て以来

ボクシングも見てきて、当然、亀田兄弟の中継も最初の頃から全ての顛末を見聞きしていて

良い印象を持った事は一度としてなかった。

特にあの史郎さんというお父さんの粗暴さや、強引さが嫌いであった。

しかし、あの番組を見て長男の亀田興毅君が心底、お父さんが好きで深い愛情で

結ばれている姿はその他の事全てがどうでも良いと思えるほど

「親子っていいなぁ」て思わせてくれるものであった。

 

それは、たぶん私や私のように親にきちんとした愛情の交流をしてもらえなかった

子供時代をすごした大人には一抹の寂しさを覚える感情のように思う。

 

私は今も宗教的な事やスピリチュアルな事を信じ生きてる

だが、子供時代の自身の経験から

自分の宗教的な価値観を子供に押し付ける事だけはしなかった。

それ故、子供たちは今も父親が熱中しているモノの正体を知らない。

(おからハンバーグは付き合いで食べさせられたけど。)

ある時、妻と深夜神について討論が発熱しているのを長男に見られた事があった。

その事を大人になって長男は、「夫婦で共通の話題であんなに議論できるのは羨ましい」

と言ってくれたから、悪影響は与えなかったのだろう。

 

「お父さんはいつも家にいなかったなぁ」

それは私の言葉ではなく、息子が大人ってなってから何気なく言った言葉だった。

 

馬車馬のように働いていた時期、子供が起きる前に家を出て

子供が寝てから帰る日々が、自分にもあった。

そしてそれは、自分の子供時代の父の姿でもあった。

親の愛情を貰えなかった事で妻に愚痴をこぼした時

「あなたの今している事は、お父さんと同じよ。」

と言われ、「そうなのか」と言う事しか出来なかった。

 

親と子、 人を愛すること。 人を信じること

そこに神様なんて必要ない。

目をみて話をしてあげよう。

いっしょに笑って

いっしょに泣く事ができれば それだけで十分。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 


Bad Apple!!   白と黒の影の転換に陰中の陽の発動を観る。

2018年04月07日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

ここでのBad  Apple !! は  

ニコ動の東方幻想郷の原曲Bad Apple!!の二次または三次創作に当たる

影絵による有名な映像作品を指している。

(youtubeにもあるのでBad Apple ‼ 影絵で検索すればすぐに見つかる)

 

以下にリンクを貼ってみました。音量に注意!!

 【東方】Bad Apple!! PV【影絵】

 

私は最近、エネルギーの転換がもたらす社会的な影響がどうなるのかを

考えて続けていて

ふと先だって思いだして、ニコ動のBad Apple !! の映像の中にタオ(太極図)が

入っていたような気がして確かめて見た。

すると映像の最後の方に太極図が現れ回転した。

 それを見ていて、改めて

この世界が物質文明の陰が満ち、陰中の陽を起点として

陽の世界に転換したのだと実感した。

 

今世界は私の解釈ではあの回転しているタオの世界で

白い勾玉のしっぽの部分から

陽中の陰のある頭に

急激に拡大し向かいはじめた段階にあると思っている。

 

Bad  Apple !! の

幻惑的で陰陽が目まぐるしく入れ替わる映像が

実は我々を取りまく三次元の変貌を象徴しているように思えてならない。

 

では私たちの世界は影絵であらわされている人型のシルエットが

黒なのか、白なのかどちらに転換したのだろう。

 

私は白を陽 黒を陰としたならば

人型のシルエットが白で回りの空間が黒の世界に転換したのだと思っている。

 

前述のタオの説明と矛盾しているようにも思えるかもしえないが、

これは人間に焦点を当てての考察だと思ってもらいたい。

宇宙全体に起きている事が、我々にも起きているという視点で観ると

 

陰の世界は感情が強くなる世界だ。そして陽は論理ロジックが強くなる世界を表している。

 

今は陰陽が逆転したばかりで感情の嵐いわゆる『ラルロの嵐』が吹き荒れている時代のまっただ中にある。

それは、最初は感情と感情、やがて感情と論理への衝突に発展し

最終的には論理的な思考による人類全体の意識の変容によって世界に平和がもたらされる。

 

勘違いして欲しくないのは

私は感情を悪玉に見たている訳ではなく

エネルギーの転換が具体的にどう表れ人類に影響を及ぼすかを

考察しいるに過ぎない。

 

今の私たちは白抜きの影の体を持っているとする。

そこに大きな感情(憎しみ、嫉妬、などの内側に向かう感情)が

黒い輪郭を持たない靄として生まれたとする。

 

健康な精神の持ち主ならそれを味わった後、体外(黒い回りの空間)に放出し

手放してゆく事で精神と肉体の健康を維持できるが

そうでない人間はその感情は物質化し輪郭を持った黒い明確な影として固着し

やがては精神にひずみをもたらしたり、病の原因になってゆく。

 

私が繰り返し、感情を味わっ後に手放す事に慣れてゆくように言っているのは

こういう理由からだ。

 

エネルギーの転換により我々の肉体は黒から白に転換した為、

前は同質で保持し溜め込みやすかった感情エネルギーは

常に外に出ようとして、手放さなければ今までよりも

早い速度で物質化し精神や肉体に影響を与えるようになってゆくだろう。

 

物質化しやすい感情エネルギーは

肉体への影響が陰の肉体を持っていた時よりも

より早く大きくなってゆくと思われる。

 

Bad  Apple !! の あの幻惑的な映像に衝撃を受けた時はこんな事は思わなかった。

わたしのデンパぶりもいよいよ筋金入りになったようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『Footprints』  『あしあと』 『砂の上の足跡』 『浜辺の足跡』 『神われらと共に』 と呼ばれている詩について

2018年03月22日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

 ご無沙汰しております。

そろそろまた広告が出そうなので、近況報告に変えてこの記事を書いております。

この記事を投稿と同時に

『ヘブンリー ブルー』 自己免疫疾患という経験  ⑰

に掲載した『あしあと』 マーガレット・F・パワーズ 松代 恵美 訳の詩を

『砂の上の足跡』 作者不詳 に変更します。

 

これは『ヘブンリーブルー』自己免疫疾患という経験の記事で

*****としている伏字の部分の開示に向けた作業の中で

『Footprints』と呼ばれる詩には多くのヴァージョンが有り

私が最初に目にし、感銘を受けたのが主語がheであった

『砂の上の足跡』であったことを確認したからです。

 

また、いままで掲載していたひらがなの『あしあと』という詩は

『あしあと』

多くの人々を感動させた詩の背後にある物語

マーガレット・F・パワーズ 著 松代 恵美 訳

               太平洋放送協会 刊 

に掲載(著者は詩の掲載に関して原作者の明記を求めている。)

されているもので、この本の中で

マーガレット・F・パワーズ氏は

1980年の引っ越しのおりにFootprintsと呼ばれる詩のオリジナル原稿を紛失したと

書いています。

私も今回この本を読み、マーガレット・F・パワーズ氏とその家族の

物語を読ませて頂きました。

氏は、敬虔なクリスチャンで

クリスチャンとしての信仰心と法的に『Footprints』の

原作者を主張するという問題で悩まれたという事にも共感できました。

そして、氏の『あしあと』の主語が「 I・わたし」で有る事や、

Lordの和訳も『主』となっており

よりクリスチャンの祈りに近い表現になっているように思います。

 

それ故にこの詩にははっきりとした著作権、翻訳権が有り

日本における管理者は太平洋放送協会というキリスト教の団体です。

異教徒の私がイエスとは違う神の説明の為に掲載するのは気が引けるのもありますし

元々私が最初に出会ったheやmanという主語や単語の入った、

より自由詩に近い作者不詳版が、

私の事実ですのでこちらを掲載する事とします。

 

この『Footprints』という詩は

数十年の長きにわたり作者不詳だった事により

各国に渡り、それぞれの国でもまた多くのヴァージョンを生んで広まったのだと思います。

日本では有名なところでは曽野綾子さんが

『現代に生きる聖書』2001年 日本放送出版協会刊 の中で

『神われらと共に』  アデマール・デ・バロス  というブラジルの詩人 版 を紹介しています。

私は最初、この詩を調べるにあたり、曽野綾子さんの聖書関連の本は読んでいたので

たぶんその中の一冊で読んだのだろうと思っていましたが、

この詩も主語がIであり、記憶に「クリスマスの夜」という言葉はなかったので、

この詩ではないとわかりました。

 

私は何度も書いてきたとおりFate theist・運命論者です。

ので、マーガレット・F・パワーズ氏が原本を紛失した事にももちろん意味があり

結果から言えば、作者不詳であった事が

私のようなクリスチャンでないものにも響く形のヴァージョンの『Footprints』を生み

宗教の枠にとらわれず、より多くの人々を癒してきたのではと思えます。

そして、それも運命(はからい)の意図の一つであり

その事でマーガレット・F・パワーズ氏は苦しめられたのでしょうが

氏も書かれているように

詩の中にある「試しの時」のように氏も磨かれ高められたのではと感じます。

 

これからも 『Footprins』とその変化したヴァージョンが 宗教の枠を超えて様々な人を

癒してゆくでしょう。

この詩に多くのヴァージョンが存在する事は

多くの人々に届いた事の証拠として

この詩の栄光に輝きを与えこそすれ影をさす問題ではないでしょう。

そして、この詩の真の作者が『Lord』と書かれている存在であるかどうかは

 

試練の時、孤独の時に

『あなたを背負って歩いていた』

という現臨に満たされた時

その言葉の真の力を感じるのだと思います。

 

それは、中々容易ではないでしょうが、

私はそう思える瞬間が痛みの中に持てた事を

生涯の中での数少ない輝きの一つだと感じています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

       

 


宇宙を貫く法則の数式による証明は、神の主観に盲目的に従う人々を論理的に開放する端緒になる。

2016年03月21日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

今回もデンパ野郎の本業の神や信仰に対する勝手な考察なので

興味のない方、頭が疲れたくない方はスルーでお願いします。

 

 

数年前NHKで『神の数式』という特集番組が放送された。

数学者と物理学者の悪戦苦闘と

宇宙を貫いている法則を数式で表すという困難さと魅力を十分理解できる番組だった。

 

私のように数学的な素養のない者にとっては憧れの世界の話で

言葉という情報や感情を伝達する記号でしか思考する事ができないのは、

なにより普遍的な客観性を考察し確認する手段がないのに等しい。

 

言語は主観の伝達と記録がその誕生理由の大いなる部分を占めるていると思え

その性質上誕生した時から客観的な証明のツールには成りにくい。

 

私がデンパ者と自身を定義し、そのイカガワシサを自戒を込めて繰り返し強調する理由は

宗教や信仰やもっと広義にスピリチュアルな世界というもの全てが

長い歴史を経て聖書やお経のような文献が残っているにせよ

聖書でさえ〇〇〇による福音書と所詮は

人間の個人的な主観によってしかその信憑性を訴える事ができないからだ。

 

新約聖書ヨハネによるエヴァンゲリオン(福音の意、アニオタとして書いてみたかった)では

究極の主観的な存在そのものである*Godが

*(在りてあるもの。大文字のGのGodは砂漠の三大宗教の創造神の固有名詞)

「はじめに言葉ありき。言葉は神と共にあり、言葉は神であった。
言葉は神と共にあった。
万物は言葉によって成り、言葉によらず成ったものはひとつもなかった。」と  

その主観的記号である言葉によって万物を創造、物質化したと述べている。

Godの言葉は元々創造神の主観を現象化する為の

ファンタジー世界の呪文と同義のツールであり

客観性とは対極にあるものとして生まれている。

 

神が一般的に存在の客観的な証明の証として提示しているのは

預言の完全成就や奇蹟と呼ばれる事象を現象化しいる事だが

それでもなお、それは人間の期待に沿った回答であって

客観的な証明と言うのは正確ではないだろう。

 

何より宗教や信仰によって得られる最大の効用である精神的な安定や

満ち足りた心持というものは他者に正確に説明出来ない主観そのもであるからだ。

「鰯の頭も信心から」という例えどうり本人が満足していて周りに

実害(テロなどの他者に暴力的実害のあるものは真の宗教心とは呼べない)がなければ

信仰はそれで十分成り立ち完結してしまう。

 

信仰を冷徹な視点で分析すると

宗教にしろスピリチュアルにしろ神やそれに類する主観的存在を

客観的な根拠や証明などなく人間の伝聞を疑わず

自己の主観を判断基準として信じるという非論理的な行為と言う事ができる。

 

長い間人類は砂漠の三大宗教の影響により

神の主観が科学的論理を封じ込めて来た。

 

ガリレオの時代では、神の主観に逆らう事は人生や命を天秤にかけるのと同義であったし

西暦の紀元の頃から繰り返されてきた砂漠の三大宗教の文化的社会的洗脳は

現在でさえイスラム諸国やISISの例を見れば明白なように、

神の主観が客観的論理を凌駕している。

 

砂漠の三大宗教の誕生する以前、

約五千年前にはじまる有史の冒頭に突然登場したシュメールと呼ばれた人々は

唐突に高度な文明を持って現れている。

そこでもたらされたさまざまな知識は時をへてギリシャにおいて

一通りの完成を見るほどまでに発展する。

 

だが砂漠の三大宗教の広まりは神の主観で長い間人類を縛る事となり

文化的停滞期である中世となった。

 

やがてバイブルランドではルネッサンスを始まりとする神の主観からの離脱が成功して

客観的な論理による科学が再び発展して現在に至っている。

しかしイスラム圏においては

現在でもなお神の主観から人間が自由に離脱する事が必ずしも出来ていない。

 

「神とは何か」という問いを中世ならする事さえできなかった。

絶対的な創造主に疑問を投げかける事など禁忌中の禁忌であったから。

 

ではこの21世紀の現在はどうかと言えば、イスラム諸国はもちろん

資本主義の最先端のアメリカでさえ聖書の創世記でなく進化論を

信じると答えた人が去年ようやく過半数を超えたばかりだ。

それくらいバイブルランドでは

今だそういう神の主観の刷り込みからは完全に脱却できてはいない。

 

いつになったら人類は

「神とは何か」という根源の命題に主観や感情の入らない、

論理的で明確な回答をする事ができるようになるのだろう。

 

宇宙の誕生や時空間の発生などの問題は

突き詰めてゆけば人間が『神』と呼んでいるエネルギー(神が人間を創ったと仮定して)の出発点と

現象的な類似性のある宇宙誕生の出発点を

感情の入らない数式によって客観的に示す事が出来る可能性を含んでいる。

 

現在の最先端の超弦理論によれば、

この世界を時間を含め11次元と捉える事で宇宙をその誕生のメカニズムから説明でき

論理的な矛盾はほぼ除去できている段階だと言われている。

 凡人には理解できない複雑な話だが、

数学者や物理学者が数式でその事を証明できてしまうとしたら

この先間違いなく誕生する量子コンピューターなどによって

宇宙の誕生や宇宙の構造、宇宙エネルギーの超ミクロから極大のマクロまで

その全体像は必ず解析されてゆくだろう。

 

 

旧時代の「神の主観」の洗脳から離れ

人間個人個人がより自由に神を問い直す事が出来るようになり

客観的かつ論理的認識が世界中に広まった時

感情や主観を超えた精神文明に人類はようやく入ってゆけるように私は思う。

 

 

『神を何故信じるのか?』と問われた時、

解明された宇宙の構造のその微塵も破綻のない完璧さであったり、

ミクロからマクロまで淀みなく法則に従って流れるエネルギーを実感できるからだと

答える日が未来に必ずやってくるだろう。

 

その時の人類は神をそれぞれの主観ではなく

論理をベースにして客観的に現臨するものとして体験できているだろう。

 

そしてその事実を踏み台にして人類は現時点では想像の及ばない

精神文明に足を踏み入れてゆく可能性があると

夢も希望もある言葉でこのデンパな話の終わりとする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 


Pietà ピエタ を  超えて

2016年03月17日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

今回はデンパ野郎の本分みたいな斜め上のさらに上の垂直方向の

死にまつわる問答なので読まれる方はご承知おき下さい。

前回みたいなノリのをご所望の方はスルーでお願いします。


  

ピエタとは

Pietà イタリア語 哀れみ・慈悲などの意

聖母子像のうち、

死んで十字架から降ろされたキリストを抱く母マリア(聖母マリア)の彫刻や絵の事を指す。

沢山の芸術家がピエタを製作しており、中でもミケランジェロが1499年に完成させた

現在のバチカンのサンピエトロ大聖堂にあるものが有名で

ミケランジェロが生涯唯一署名を入れたという逸話のある作品。     by wiki


人生において悲嘆は死と繋がっている。

そしてその中でも究極の悲嘆とも思えるものは最愛の人の死だろう。

特に人の親になった者にとって

最も耐え難い悪夢は愛する子供の死に遭遇することだろう。

 

私は十代の時に受験仲間に自殺された。

公立のセンター試験が終わり私立の受験が本番になる直前の一月末の朝

彼が死んだ事を聞かされて葬式に行った。

 

焼香を済ませ振り向いて顔を上げると

彼のお父さんと目が合った。

 

「人はこんなにも悲しい顔をするんだな。」

 

それまでの人生無数の顔を見てきたはずだった。

しかし、その時見た彼のお父さんの悲嘆に満ちた顔は

長い間忘れる事ができなかった。

 

死は、否応なく人を人生や運命という命題と対峙させる。

ましてそれが最愛の人や子供であった場合

その生と死の共振から来る感情の大きな渦から逃れる事は出来ない。

 

ミケランジェロのピエタは

母親が子を看取るという、有限の命の人間が受ける最も悲嘆に満ちた瞬間を切り取りながら

聖母マリアを若く彫る事で

母性の中心にある慈愛の神聖、純潔の永遠性を表しているように私は思う。

 

人が生命を知るとはどういうことなのだろう。

 

私の場合それは死の真実とは何かという事を知ろうとする事から始まったような気がする。

 

子供の頃夏休みに家族で万博を観に行って返ってきたら

よくかわいがってくれた親戚のお姉さんが亡くなっていた。

 

元々病弱な人だったが、出産の負担に耐えらず母子共に亡くなった。

斎場で骨を拾ったのはその時が初めてだった。

係りの人が骨を説明をし、

「これがお子さんの骨です」と言って箸で小さな骨を指し示すと

部屋中に嗚咽の声の連鎖が響いた。

 

私はまだ死というものがよくわからなかった。

それ故にとりたてて悲しみも湧かず、

その極めて不幸な出来事の一部始終をぼんやりと眺めていた。

 

「人は死ぬと焼かれていなくなってしまうのだな。」

その程度の思いが浮かんできた程度であった。

 

また私の通っていた田舎の小学校はマンモス校であったので

夏休み中に子供が交通事故や山や海の事故に巻き込まれ亡くなる事はごく普通の事だった。

二学期の始業式の最初が黙祷ではじまるような事は恒例行事のようであった。

 

知らない子が事故で亡くなっても

たいては死んだ子が運が悪かったとか、のろまであったのだろうと思い

同情したりする事はあまりなかった。

そして、朝礼で聞いた情報を元に死んだ子のクラスに行き

花の飾ってある机を見て

「死んだらあんな風にお花を飾ってもらえるのか」と

少し羨ましく思ったりした。

 

中一の時祖父が死んだ。

祖父は亡くなる三年ほど前から寝たきりで今でいう認知症であった。

聡明でなおかつ手堅い人柄だった祖父は、

大正時代二十代で潰れる直前であった家業を建て直し

身代を守り戦中戦後の混乱から今に至るまでの基礎を作った人だった。

 

そんな祖父も病に倒れた後は別人のようになってしまっていた。

危篤だからと登校前だった私は本家に呼ばれ

祖父の臨終に立ち会った。

部屋に行くと、医者と伯父と父がいた。

 

「よく持っただいねぇー」と掛かりつけの医者が言った。

その時は

「何がよく持っただ。」と怒りがこみ上げてきた。

特に祖父に可愛がられたわけではなく、むしろ会話した記憶の無いほど

祖父とは交流がなかったが、

その時の医者の言葉が不謹慎に思えたのだった。

 

そして十代最後の他者の死が冒頭に書いた受験仲間の死であった。

彼の死は私の人生に大きな影響を与えた。

 

 

こうして順を追って振り返ってみると、死に対する私の悲しみは

後天的な刷り込みであるようにも捉える事ができる。

 

もし文化や風習として、死全体の認識を哀しみや悲嘆ととらえず

魂の開放という視点に重点を置いた文化や文明の中で

コミュニティー全体の人々が育ったとしたら

身近な人の死に直面しても、ごく自然に死を受け入れる事ができ

いたずらに悲嘆にくれる事ばかりではないのではと思う。

 

死は

その与えられた時間や死に方に違いがあるだけで

命あるものの当たり前の終着点として全ての人間に平等に与えられている。

 

それは言葉を変えれば法則と言っても不都合のない

現象だけを客観的に眺めれば万物の生物たちの命の巡りと同じで

感情の入る余地のないものだ。

 

今も世界は感情の嵐を起因とする、紛争やテロで溢れている。

 

人間の現状は万物の霊長と言うにはふさわしくない程

自分たちが作り出した宗教やイデオロギーなどの概念や思考の産物を

なんら科学的、客観的な精査もしないで

あやふやな感情をよりどころにして人間同士で批難し殺し合いを続けている。

 

私たち人間は大人になるまでは

親を筆頭に先人たちの思考や概念の刷り込みから逃れる事ができない。

しかし大人になる前の思春期での反抗期や成人し社会に出た後でも

かならず先人たちの価値感との相違にぶつかる瞬間がある。

 

だがその刷り込みを解くチャンスと呼べる若い時点での判断の基準の多くは

ホルモンや本能に支配された感情と呼ばれる不安定なものである事がほとんどだ。

 

多くの人は自我の感情こそがアイディンティーの中心だと認識しているだろう。

しかし感情という移り変わりが激しく、

身体の体調や普段の回りの環境によっても大きく変化してしまうものを

自己のアイディンティーの中心だと誤認する事は、

人間同士の衝突を生む確率をいたずらに増やすだけだという事を

過去5000年の人類の歴史が証明している。

 

この21世紀をはじまりとする人間の物質文明から精神文明への転換は

多くの人が自己のアイディンティーの中心にある感情に支配された自我を

その玉座から降ろす事から始まると私は思っている。

 

最初のきっかけは人類の悲嘆の根源であった

肉体的な「死」という現象の隠されていた部分のベールが取り除かれて

肉体の死後の自我意識との具体的な交流が

霊媒のような特別な人たちだけでなく

普通の人々まで徐々に広がってゆくことで始まると感じている。

そしてその事は

人類にとって生命という存在の認識を次元を超えたもっと大きなスパンのものだという

理解する出発点となってゆく。

 

人類にとって肉体的な死が永遠の別れを意味しなくなる時、

物質文明の象徴であった肉体の死という悲嘆と

その救済として必要であったピエタと呼ばれる哀れみと慈悲は

消え去ってゆく運命にある。

 

 

我々がこれからの五千年という単位で築いていく精神文明の出発点は

肉体的な死が 生命と自我の終わりではないという事を

客観的な事実として人類全体が受け取ることから始まってゆく。

 

そして我々人間が物質文明の時に救済の象徴とされたピエタを超えてゆく方向は

インターネットやsnsで感情の衝突を招いている横のベクトルによるものではなく

客観的法則のベクトルである縦(ヴァーチカル垂直)の方向にある。

 

意識を 縦の方向にプラズマ化するとき、意識に付随する感情の渦がほどかれ

自我を縛っていたそれを手放しやすくなってゆく。

 

エネルギー転換は人類全体の意識が縦(ヴァーチカル垂直)方向に向かうように転換した。

後は我々一人一人が自我を縛り、争いの苗床となっている感情の渦を

手放すほんの少しの勇気があれば

この世界からテロや紛争の種は育たず必ず消えてゆく。

 

私たち人類はそういう真の平和を実現するために

生命というものの認識を次元をこえた先にまでのばす時代に

すでに入っているのです。

 

これから千年、二千年と進んでゆく精神文明の

本当の最初の一歩の時代に我々は今生きている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『保育園落ちた。日本〇ね!!!』感情的な言葉が国民の意識全体に影響を与えた時代はすでに終わっている

2016年03月10日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

「保育園落ちた 日本〇ね!!!」

 

なんとも扇情的なタイトルである

〇のところにどんな字が入るかはみなさんご存知だろう。

ここのところ話題になり、国会にまで取り上げられた匿名のブログのタイトルだ。

そして今日は安倍総理の「匿名なので信憑性がない」という答弁にたいして

実名で28000名の「保育園を落ちたのは私だ」という署名が提出されたそうだ。

 

元ブログの文章を読んでみたが、政治活動が人生の中心のような

プロ市民がプロパガンダの為に書いたのか

(あまりにも、素早く左翼の方々(共産党や民主党)が

デモや署名などに動いたのでついぞ勘ぐりたくなる)

本当の生活者の方が書いたのかわからないが、

形としては本音の発露をウェブ上に匿名として書くのは

別に言論の自由の国なのだからとやかく言われる事もないだろうし

これほど話題になったのだから、書いた本人はしてやったりという気持ちであろう。

 

私もネットの匿名性を大いに利用して自分の意見を勝手きままに無責任に載せている

タイトルが『日の本の下で』のとおり日本が好きなので

「日本〇ね!!」などと伏字でかくしかない。

 

私は仮にもスピ系などと名乗っているので言霊や言葉の力を信じている。

デンパな解釈で眺めた時

あのような「日本〇ね!!!」という言葉を発した本人やそれに乗っかる人たちに

どういうふうにその言葉や言霊のエネルギーが返ってゆくのかを想像すると

他人事ながら鳥肌が立つ感じがする。

 

ごく普通の保育園の抽選に縁のない人達が

あの『保育園落ちた 日本〇ね!!!』という言葉に触れた時

どんな事を想像したり、どんな感情が湧いたりするかを

その言葉を発した本人やそれに連なる行動を起こしたした人々は

想像して行動を起こしているのだろうか。

 

ネガティブで扇情的や感情的に強いインパクトのある言葉に反応するのは

たいていは現状でネガティウな感情を抱いている人々だ。

そういう若い感情的な反射をしてしまう層に向けてのなら

確かに効果があっただろうが

 

大多数の一般の国民はああいう短絡的で扇情的な言葉のスローガンを

品位のない気持ちの悪いものと感じるのではないだろうか。

 

時の政権や政治を批判する為に

軽々しく自分の生まれた国に対して『〇ね!!」などと書いてしまえたりする人格は

ヒステリックに見え当たり前だが理性的とは思えない。

 

仮に自分が小学生六年生くらいのものの道理がわかる年頃の子供であったとして

自分の母親や父親が

『日本〇ね!!!』という言葉をブログに綴っているのを知ったら

どんな気持ちになるだろうか。

 

そしてそれが、保育園の抽選に落ちたという事象への感情的な捌け口であるとわかったとしたら

自分の親ながら子供ぽくって付き合いにくい人だなと思うのではないだろうか。

 

私が今回の『保育園落ちた。日本〇ね!!!』ブログの件で真っ先に感じた事は

保育園に入れる事ができない事が行政側の努力不足で実現できず

経済的にも労力的にも負担が増す事にに対する共感ではなく

このブログの主の子供は

ヒステリックな親を持ってこれからの人生大変そうだなという思いだ。

 

世の中この程度のアンラッキーは昔から掃いて捨てる程ある。

その事に対して自分が生まれ育ち多くの第三者の人と共に住む国を、

平気で〇ねと書けてしまう無神経さで育てられる子供はたまったものではないなと

ヒステリックな傾向の母親を持ち

幼少の頃から思春期まで親子関係に悩んだ経験のある私の素直な感想だ。

 

 

 

私は両親を金属バットで殺害した犯人とタメ(同じ齢)だ。

 

事件は1980年に起きたが私も当時彼と同じように浪人生であった。

それ故エリートの家族に生まれ受験に失敗し

父親のキャッシュカードを盗み酒を飲んで憂さを晴らすのを

父親に叱責された後の犯行に当時は共感し

殺されたご両親に対しては同情できなかった。

 

当時の私は今の若者たちと同じで切れやすく激しやすかった。

それ故金属バットで両親を殺害した犯人の事を他人事とは思えなかった。

 

「何か一つボタンを掛け違えていたら、両親を彼のように殺していただろうか?」

という問いかけを当時自身にして、

「彼と同じように両親を殺した可能性があったな。」

とその時認めた。

 

私はこのブログの中で書いてきたとおり

思春期の最初中二の時に自身の闇に気づきそれを見つめて生きていた。

それ故、何度となく自分の中にある

激しやすく制御できない怒りが全身を満たしている時の高揚感と

それが過ぎ去った後の自身への嫌悪感を味わった。

 

私の前半生はその波の絶え間ない繰り返しのようであった。

 

そんな私も歳を重ねると

感情的に激しい言葉を浴びせられた時に

大きく二つに分かれる反応をするようになった

 

①若い頃と同じで金属バットで両親を殺害した犯人のように

 プライドやメンツや自身のアイディンティティーを傷つけられて

 それによって生まれた憎しみの帰結として言葉を吐いた本人やそれに連なる人や社会に対する

 報復や復讐のような反射的行動言動にでる。

 

②もう一つは、感情的な言葉で自身の感情の憂さ晴らしをしたり

 他者を言葉で傷つける事を平気でする人を

 客観的に事象を観る事ができず理性的な話し合いのできない幼稚な人だと判断し

 人物評価の一般対象から最初からはずしてしまう。

 

私は若い頃は100%①のような対応をしていたと思うが

齢を重ねるごとにほぼ②のような対応をするようになっていった。

 

「若さは馬鹿さだ」

は金八先生の言葉だったと思うが、

自身の思春期を思い出してもらえば理解してもらえると思うが

若い時ほど人間は本能やホルモンによって感情が支配されいる。

それ故に感情的な言葉や事象に対して、本能的に感情反射のような態度や

言動を隠せない。

 

子供の頃から長い時間かけてさまざまな勉強をする事によって

大抵の人間は大人になると感情だけでもの事を判断せず、

理性や論理的な思考を身に付けて、まずはそちらでの判断を優先するようになってゆく

何故なら社会的な生活を安定して継続してゆく為には

理性的な判断をして人とのコミニュケーションをしてゆくのが

前提条件である事はいうまでもない事だからだ。

 

剥き出しの感情的な振る舞いをして許されるのは、

オーナー社長とか、絶対的な地位や権力をもっている一部の人や

まだ大人として認めらていない年齢の子供であって

成熟した大人は会社とか、コミュニュティーで感情的な爆発を起こすようなヘマは

しないように日々を過すものだ。  

 

しかしそれもまた過去形となったようだ

エネルギーの転換の影響もあり

最近は若者はもちろん中年も老人もみな我慢できず切れやすい。

 

3.11の震災の時に電車が止まり、都下は陸の孤島になった場所がけっこうあった。

大半の人は諦めて静かに対応していたが、

ある駅で70歳くらいの老人が一人の駅員に食ってかかっていた。

 

駅員個人ではどうこうできる状況ではないのに

そのあまりの理不尽な言いがかりに

思わずわってはいり、老人を叱りつけようとした時

周りの人も同じように思ったのだろう、その老人に対して激しい野次が複数おこり

老人は捨て台詞を残して去っていった。

 

あの震災の数日間、東北から離れた東京でもそれなりの混乱はあった

しかしこれだけの大都市にも係わらず多くの人々が秩序を失わず

冷静に行動できたことは素晴らしい事だったと思う。

 

物質化とは感情化だとある視点からみれば言える。

故にこの三次元世界に肉体を持ち命を生きるという事と

感情的な体験をする事はきっても切れない。

 

その事とは逆に

意識がプラズマ化して日常的な感情から距離をおいてわずらわされないで生きる事が出来れば

それは仏教でいう悟りに近い状態だという事はご想像頂けると思う。

 

人間にとって地獄とは

感情にこだわり、誰かや自己の運命そのものを

憎んだり恨んだりしてその事から抜け出せない状態が持続したものだといえる。

そして、死ぬ直前もそのような意識の状態であったのなら、

時間のないあの世で

その憎しみなどの内向きの感情の渦から抜け出す事は

自身では中々できないのは想像できるのではないだろうか。

 

悪夢の夢に閉じ込められた時、肉体が目を覚ませばその世界から抜け出す事ができる。

しかし、目を覚ます肉体が既に無かったら

自身の意識が作った憎悪感情の世界から脱出する方法が

あなたはあると思えますか。

 

私が垣間見てきたスピ的世界の経験から言えば、

そういう感情の思い込みによって

この世の年数で数えれば何千年も閉じ込めらていた意識体は存在していた。

 

世界は物質文明から精神文明に人類全体が向かうようにエネルギーが転換した。

 

それは物質化のエネルギーを溜め込むような内向きの渦が、

プラズマ化し外側に放射するような外向きの渦に大きく転換した事を意味している。

 

そしてその影響を人類全体が受ける事により、

歪みを溜め込み、感情エネルギーを溜め込む事で物質化に向かった文明が

歪みを外側に排出し、意識がプラズマ化に向かう事で感情から離れやすくなり

人類全体の意識が感情の渦を常に手放さざるおえない状態に向かう事を示している。

 

それ故に扇情的や感情的な言葉やスローガンや思想に

人類全体として距離を置くように時間の経過と共になってゆく。

 

 

今日本のメディアをはじめ、世界中のネットでも常に見受けられる

感情的な齟齬による衝突は、このエネルギーの浸透と拡大と共に

今後100年以内に

客観的な論理の正論が感情的な正義正論派を駆逐する形で必ず決着をみるだろう。

そしてやがては激情的であったり扇情的な表現を

人々が受け入る事がむつかしくなり

音楽などの芸術からも段々とそういった表現は消えてゆく事になるだろう。

 

感情的扇情的な主張やプロパガンダ、イデオロギーや宗教は

日本はもちろん地球人類全体の意識において

共感を呼ぶ力を必ず失ってゆく。

 

日本国民の意識はこれからも加速度的にプラズマ化に向かい、

マスコミやメディアの意図とは違い、

年を追うごとに多くの人々が感情的な反射行動に賛同せず

より客観的で論理的な行動が過半数に支持され世論を形成してゆく事になるだろう。

 

 『日本〇ね!!!』などという言葉を書くという感覚自体が

日本国民全体の意識の方向性にそぐわない時代はこれから必ずやってくる。

それは日常のありふれた生活の中に

すでに兆しを現している。

 

まずは、感情をたやすく手放したり客観視できる

ネオゆとり世代のさとり世代が

未来の日本精神文明の姿を

目に見える形で表現してくれる事になってゆくだろう。

みなさん楽しみにしていてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ヒジャブとキックスケーター

2016年02月21日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

東京のはずれにある私の街は

国際化というほどではないが、それなりに外国人の方を見かける事も多い。

 

何日か前に駅前を歩いていると

小学校の低学年くらいの少女がキックスケーターで私の前を走りぬけっていった。

 

この事だけをとればよくある日常的な風景ではあるが、

私の目をひいたのは、少女が被っていた色鮮やかなピンク色のヒジャブであった。

 

ヒジャブはイスラムの女性が髪を覆う為に被るベールのような布の事だ。

後ろ姿しか見えなかった私が少女と書いたのもそういう理由からだ。

 

近年ヒジャブを着けている女性を見る機会は多くなった。

統計的な数字は調べてはいないがそれは中東からというよりは

インドネシアなど東南アジアから来日される方が多くなったのが主な理由のように思える。

 

いずれにせよ、ヒジャブを着けるのは

イスラムの信仰告白を無言の形で明確に表現していると言える。

 

少女の顔は見えなかったが、私にはそのスケーターを踏み進む様子から

彼女が子供らしい笑顔を浮かべているように思えた。

 

少女はこの街に住んでいるのだろうか。

公立小学校に通っているのだろうか

給食はハラール(イスラム法上食べること許されている食材)ではないので

お母さんは毎日お弁当を作っているのか

学校での毎日のお祈りはどうしているのだろう。

ラマダン(断食の月)の時は学校ではどうしているのだろうか

などとふと現実的な事が脳裏によぎった。

 

しかし、ピンクのヒジャブを着けてキックスケーターで走り抜けてゆく後姿からは

そんな日常的な不自由さを跳ね返すような子供らしい元気が感じられた。

 

 

ISISやイスラムについても何度も書いてきましたが、

この男性原理の戒律宗教はエネルギー転換によりこれから消え去る運命にあります。

そしてそれは、イスラム女性の意識開放が進みイスラムの男性に対してNOを宣言する

マララユスフザイさんのような女性が増え

やがてはイスラム圏の過半数になった時にそれは達成されると思います。

 

これまでの男性原理世界の象徴であった砂漠の一神教の三大宗教が瓦解してゆく理由のひとつは

 

過去の時代は預言者といわれる特別な者が神と呼ばれる次元のものから

一方的に言葉を賜ってそれを伝える事しかできませんでしたが

エネルギーの転換によってこれからは特別な誰かを通さなくても

望めば誰もが平等に神と呼ばれる次元からの波動を受け取り

実感出来る時代に変化した事によります。

 

ダイレクトな神次元との交流によって

何故過去の時代は戒律で縛られる必要があったのかを

理解する人々はこれから徐々に増えてゆきます。

そしてその戒律社会を維持する事はエネルギー転換した流れに逆らう事になり、

その事に頼る国家も文明も袋小路に入り込み

やがては崩壊するしかなくなるでしょう。

 

ピンクのヒジャブを被り

キックスケーターで元気に走ってゆく少女たちが大人になり次の世代を産む頃には

あいまいな形ではなくはっきりとした実感と実態をもった

人間個々の神次元との交流による意識開放が進み

男性原理の三大宗教は終焉を迎えることになるでしょう。

 

一方的に誰かを通して与えられた戒律を守る事で精神の安定を得られた時代のエネルギーは転換し

人間は個々で一方的ではない神次元とのSNS的な交流が出来る時代にすでに突入しているのです。

 

 

おせっかいなデンパ者の虚言として聞き流してもらい

頭の隅っこに怪情報として知ってもらうことが私の目的のひとつです。

頑なに感情的な判断をせずネットの海の情報の一つとしてご自身のハートで分析してくださいませ。

 

預言者の時代は終わり

真剣に望めば思わぬ形でそれは

全ての人類に平等に開かれていることを知る事ができる時代になったのです。

 

鍵は 『感情を玉座から降ろす』 です。