日の本の下で  究極の一点 Ⓢ への縦の道

『究極の一点』Ⓢ 
神のエネルギーの実在を『フライウェイ』の体験を通して知り、
伝えるデンパ(伝波)者

忍耐と反省と努力が美徳であった時代はエネルギーの転換と共に消え去ってゆく。

2016年02月04日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

ピーピー ガーガー デンパの時間です。

 

一昨日だったか漫画家 故水木しげる氏のお別れの会に黒いハコフグの帽子を被って

参列しているさかなクンが話題になっていました。

 

黒のハコフグは喪服用というのではなく、TVの撮影時のクロマキー用に予め持っておられたようだと

記事には出ていました。

 

さかなクンは凄いなぁとその記事の写真をみてあらためて思いました。

 

一般的な儀礼としておふざけとも受け取られかねない姿で

自分なりのスタイルで故人とのお別れする事は勇気がいる事だと私は思います。

 

弔いというのは、亡くなった故人に弔う側の各々の人それぞれが真心をこめるものなので、

縁もゆかりもない他人がとやかく言う必要はなく、

また故人や親族もお弔いに来てくれただけで普通は有り難く思うものだと私は思います。

 

さかなクンはさかなクンになっていなければ、妖怪クンになっていたかもしれないほど

子供の頃から水木先生の漫画が好きだったそうです。

 

その記事を読んで改めてさかなクンの描いた魚の絵を見ると

どことなく、水木先生の絵の持つ愛情のこもったリアリティーに似たものを感じます。

 

さかなクンは現在は東京海洋大学の名誉博士であり、2010年に

絶滅種のクニマスの再発見に大きな貢献をした事でも知られています。

 

「好きこそ物の上手なれ」という諺がありますが、

さまざまな苦労もあったであろう、さかなクンの人生を思う時に

きっと御本人はたいして苦労とは思っておらず、

好奇心の思うがまま魚たちと夢中で生きてこられたのだろうなあと

TVの向こう側でいつもハイテンションに楽しそうに話をしているさかなクンを見ると

どこか羨望のまなざしになっている自分に気がつきます。

 

人はみんながみんな、自分が好きな事を職業にできるわけではありません。

そして、好きである事とその事に才能がある事はまた別な話です。

 

得に芸術や芸事は、いくら好きだからといっても職業としてお金を稼ぐには

それなりの先天的な才能に恵まれていないと無理な事は紛れもない事実だと思います。

 

水木しげる先生が著書の中で書かれている『幸福の為の七か条』の中に

 

『才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ!』」というのがあります。

 

93歳まで小手先の才能や努力だけでは生き残れない漫画の世界で

長く生きられた方の金言だと思います。

 

 

ここからがデンパ話。

これからは益々努力が人を裏切るように感じる時代になってゆくでしょう。

別の言い方をすれば、持って生まれた才能の有る無しがより明確に作用する時代になったとも言えます。

 

時間をかけ、我慢や忍耐をして努力しても得られる成果は、

才能のある人が行った行為には到底かなわないのがより明白になってゆきます。

そしてそれは、芸術や芸事スポーツはもちろんの事、

一般の人々の職業選択でも今まで以上に顕著に現れるでしょう。

 

我々くらいまでの世代にとって忍耐や我慢する事は美徳であり、

『石の上にも三年』の諺のとおり社会生活を送る事が目標達成や自己実現には必須の事でした。

 

しかしエネルギーが転換した現在は、

精神的に我慢や忍耐をして努力をしても大きな成果を得る可能性は

好奇心のおもむくままや、才能に溢れた仕事の成果に比べれば

低い結果しか得られない実感をより多くの人が感じるようになってゆくでしょう

そしてその流れは止めようもなく益々強くなってゆくのです。

 

我慢や忍耐をして努力をした行為が成果を生んだ時代は終わりをつげて、

いかに自分の才能を早く見極めて、自分の才能にあった仕事や行為をするかによって

得られる成果がシビアに決まってしまう世界がやってきたのです。

 

人が努力を努力と思わないで熱中できるのは、その行為が好きであったり

好奇心を最大限満たしてくれている時だと思います。

 

さかなクンのように稀にその好奇心と才能が合致した人というのは確かに存在します。

しかし多くの人がそのような人生を歩めるわけではありません。

ですが、これからの時代、忍耐や我慢が成果に結びつきにくくなってゆく以上、

自身の好奇心を満たして努力を努力と思わないですむような仕事を選び、

その事が才能と結びついている事が

人生をより豊かに過すキーポイントになってゆくのは間違いありません。

 

どんな人にも必ず他者より秀でた才能といえる資質はあります。

それを見極める事を放棄しないで、少年少女の頃から真剣に向き合って生きてゆけば、

人生がより豊かで思いもよらない可能性に満ちたものになる事を

より確実に実感できその事がシビアに結果として現る時代になったのです。

 

繰り返し言いますが、忍耐や我慢してエネルギーを為て事をなす時代は終わったのです。

これからは益々エネルギーが淀みなくながれる事が強く働く世界になってゆきます。

それは感情面ではより強く現れ、感情の渦に飲み込まれると良い成果を生む事はむつかしいでしょう。

 

インターネットやsnsでの感情のやりとりは、

衝突や対立を生む原因を増やす負の要素が大きいので、

仕事や人生をスムースに導きたいのであれば、

インターネットやsnsの使用は感情を抜いた、情報のやりとりに

徹底するのが、その本来の力をプラスとして十分に活用できると忠告しておきます。

 

時代は、スポ根も怒りのサイヤ人も通用しないエネルギーに明確に転換したのです。

 

時間をかけて何かを為す事より、最初に何に意識や焦点をより正確に合わせるかによって

事象の成果や結果が大きく決まってしまうのです。

言葉を変えれば

あいまいな才能の上に長い時間をかけて地道に努力した成果が、

より正確に才能を使う事に一瞬で凌駕されてしまう事が明らかにされる時代になったのです。

 

旧時代の道徳や美徳に縛られた世代には納得がゆかないかもしれませんが、

エネルギー転換によって

個人が時間をかけてエネルギーを蓄え物質的に豊かな成果を上げてきた時代は

いかに正確に焦点を合わせて、エネルギーを淀みなく流す事によって

より物質的にも精神的にも多くの成果をなす世界へと変容しました。

 

その事は我慢や忍耐、反省や努力が現実の成果を得る手段として

限りなく無力化した世界に突入したんだという厳しい認識を多くの人々が実感として得る事となり

今までのように外の物質的な事柄へのアプローチだけでは思うような成果も

精神的な満足も得ること出来ないという

人類全体の体験の積み重ねとなって証明されてゆくでしょう。

 

人類はお金や外の物質によらず、

個々の内的世界にいやがおうでも向き合う事なくして人生で満足を得ることが難しい精神文明に突入しました。

そしてその最先端に日本があるのだと言う事を伝え

今日のデンパ話を終わります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今世紀  自我の意識構造の科学的な解明が、宗教やイデオロギーの呪縛からの開放を加速させる。

2016年01月30日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

デンパ者の時間です。

 

人間にとって意識は『我思う故に我有り』ではないですが、

自我と同義と言っていいほど、存在の根幹に係わるものでしょう。

 

現代の科学は脳の神経細胞の電気的な信号のやりとりで

情報の伝達をしている事を解明してはいますが

だからと言って意識の在りかがわかっている訳ではありません。

 

複数の報告事例として脳死と心停止が同時に起きた患者が

蘇生後見てきた風景や体験を話す臨死体験があります。

 

世界のランダムな場所で医者が計器で測定し脳死と心停止を確認した患者の

蘇生と臨死体験を認めているという事実は

自我意識が脳に依存しているとは限らない重要な根拠の一つになると思います。

 

この事は、[spirit]   日本語では主に霊、霊魂、魂、心霊、亡霊、と訳されいる

一般的な概念の自我を作っている意識体は

臨死体験時、物質的な肉体が機能してなくても存在しているという

科学的な証明の一つと言えると思います。

 

脳波も、脳の微細な電気信号も検出できず、また心停止も同時に起きている状態での

時系列的に肉体が死んでいた時間での客観的整合性のあるライブ記憶の追加が

(簡単に言えば肉体が死んでいた時に、その時の情景を天井から見ていたという証言が、蘇生後その風景や情景が客観的に事実と合致している事)

いかにして起きているのかを実証できれば、

人間の自我意識の解明も大きく前進するでしょう。

 

二十一世紀は科学的な実証実験や量子的なミクロ世界の観測事実によって、

宗教的な視点では奇蹟と呼ばれた事象や体験の、物理的な証明がされる可能性のある時代になると思います。

 

私は過去五千年人間の文明がスピリットや霊や魂などと呼んできたものが

量子によって構成された情報エネルギー生命体である事が

量子論の観測実験によって実証されると推測しています。

今現在、科学者による「量子もつれ」と人間の意識を結びつける試みと研究はすでに始まっています。

 

19世紀の最後の12月に産声をあげた量子論は、古典物理学では説明できない光やミクロ世界の観測現象を説明する為に発展し、

その現象の物理的な解明によって半導体など二十世紀の文明の発展に多大な貢献をしてきました。

 

今世紀は計測機器の発達によって、今までニュートリノが限界であった観測が

さらなる微細またはダークエネルギーなどの存在は予測はされても観測する事ができなかった未知の量子の存在を

実証できるようになるでしょう。

 

そしてその事ははからずも、時間と空間と人間の意識や自我との客観的、物理的なかかわりを解明する手がかりとなってゆくと思われます。

 

量子宇宙論やビッグバン理論は今世紀

神というもっとも宗教的な概念を

エネルギー法則の観点で物理的に説明する事で

文化的や感情的なタブーの呪縛を解く重要な役割を果たしてゆく事になるでしょう。

 

たとえば幽霊が最新の機器で計測できる物質存在のエネルギー意識体として証明され、

ネイチャーに発表されれるようなことが起きれば、

一晩で世界の既存宗教の呪縛は瓦解してしまうであろう事を想像するのは容易です。

 

そしてそれは、人間の意識が本来は時間的、空間的な制約を受けない物質で構成される

情報とエネルギーによって自我を形成している事の証明につながってゆくと思われます。

 

 

エネルギー転換により人類全体の意識はプラズマ化にむかっています。

その事は現象化として量子論の発展に強く結びついています。

そしてそれは、実際の生活上において時間と空間の超越をさらに加速してゆく事になると推測できます。

 

情報の転写、転送に距離は制約でも障害でもならない事は「量子もつれ」が情報伝達手段として実用化される

近未来(10~20年以内)に必ず実現されます。

そして、その未来に「意識」は「量子もつれ」によって転写する事が可能なり、

人類は肉体を持ったまま

自我が時間の枠から開放されるのを認識する日を迎える事になると思われます。

 

 

だがその未来を誰もが得る事ができるわけではありません。

大切な事は自我を縛っている固定観念や刷り込まれてきたさまざまな思考を捨てる柔軟さと、

客観的な視点を失わない分析力で感情に流されず、

自我をたえず見つめ振り返る姿勢を持ち続けられるかにかかっていると私は思います。

 

過去の宗教のように盲目的に神を信じる事で自我が開放される時代は終わりました。

 

論理的な検証と物理的な検証実験の結果と数学的理論の証明の上に

これからは神と呼ばれるエネルギーの源の証明がなされる事になってゆきます。

 

それと共にその現実を知っている者が

実際の生活の中でその計測できなかった人間にとって無尽蔵のエネルギーを

安全に使い役立ててゆく事実の積み重ねによって過去の観念的な呪縛を解いてゆく事になるでしょう。

 

今世界中で荒れ狂っている宗教やイデオロギーの呪縛は

量子論的な観測事実と、現実生活でそのエネルギーを実際に活用して実証してゆく人々の増加によって

消えてゆく事になるでしょう。

 

人類の想念のプラズマ化は

呪縛に縛られて感情論の渦から抜けられない人々の想念をほどき

精神の真の自由へと導く手助けになってゆくと告げて

今日のデンパな話を終わりとします

 

 

 

 

* 「量子論」「量子もつれ」について概要をお知りになりたい方は参考文献として

「量子論」を楽しむ本  佐藤勝彦 監修  PHP文庫をお薦めします。

難しい公式の出てこない読みやすい御本です。

 

あと、もうひとつ東京大学の立花ゼミの見聞伝web上に

生きておられれば梶田教授と共にノーベル賞を受賞されたであろう

故戸塚洋二氏の著作『戸塚教授の科学入門』の記事が今現在掲載されています。

ご興味がある方は検索をしてお読みください。

素晴らしい科学者の精神の一旦に触れる事ができる貴重な記事だと思います。

 

 

 


宗教とイデオロギーの呪縛は、エネルギー転換によって解かれてゆく (ダライ・ラマ14世の言葉によせて)

2015年11月20日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

ダライ・ラマ14世がパリの同時多発テロに対して

ドイツの国営放送局のインタビューに答えた記事が載っていた。

 

 

『人々は平和を欲しているが、テロリストは近視眼的であり、

それ故に彼らは自爆テロを行う。我々は、祈るだけではこの問題は解決できない。

私は仏教徒であり、信仰を信じている。

問題を作り出したのは人間なのにも関わらず、問題の解決を神に委ねることは論理的なこととは言えない。

神ならばこういうかもしれない「問題を作り出したのは人間なのだから、自分たちで解決しなさい」と。

我々は、人間性と協調心を育て上げるためにシステマチックなアプローチを取る必要がある。

今からこれらを始めるならば今世紀は前の世紀とは異なるものとなるだろう。それを始めるかどうかは、

全ての人々、一人一人の考え方にかかっている。それを成すためには、

神や政府に頼るのではなく家族や社会のなかから平和のために働くことを行うべきである。』

                                            引用おわり

 

ダライ・ラマ14世の言葉は

過去人間が築いてきた文明の根幹にある宗教というものの捉え方と

祈るという宗教の本質的行為に対する覚者からの素晴らしい直言です。

 

 

人間は自身ではどうしようもない絶望的な場面にたたされると

藁をもつかむ気持ちで祈りの言葉が出てしまうものだと思います。

 

精神的、肉体的な大きな苦痛で叫び声をあげたくなる状態のような時や、

家族や親しい人たちの命が病気や事故、戦争などで危うくなったりした時など

自然と祈りは心から溢れ出るものでしょう。

 

人生において行き場のない想いに駆られた時に、

祈りが心を落ち着かせ、

前に踏み出す最初の一歩への勇気を与えてくれる事は、

絶望にかられ心の底から祈った経験のある人には

共感してもらえるのではないでしょうか。

 

しかしだからと言って、祈る事で神が全てを解決してくれる事を期待するのは

人間としてただの幼稚な思考停止にすぎません。

真剣な祈りは、人にその困難な状況や

耐えられない苦痛から一歩踏み出す愛と勇気を与えてはくれます

だが現実の多くはその状況が安易な奇蹟で魔法のようになくなる事はけっしてありません。

その状況に立ち向かい、人間それぞれが愛と勇気を持って生きてこそ

はじめて神や仏のロジックの片鱗に触れる事ができるからです。

 

深い宗教的な態度とはそういう愛とか勇気とか目に見えないが

実態として現臨しているエネルギーに

人間が行為の中で触れ、いかに表現して生きてゆくかにかかっていると私は思います。

 

ダライ・ラマ14世は今始めればこの100年の終わり頃、2100年を迎える頃には

今とは違う、人類が協調性をえて人種と宗教を超克した地球文明を築く可能性を得る事を

期待しているのでしょう。

 

 

 

神や神の預言という概念は

何千年という人類の歴史の手垢にまみれています。

先進国の教育を受けた者であるなら、鵜呑みなどせずに理性でまずは考える作業を

成人になるまでのどこかでしていなければならないと私は思います。

 

ダライ・ラマ14世の言葉は、チベット仏教の教えと共に

長い波乱の人生を生きてきた人の見事な見識と人間としての矜持をあらわしています。

 

いつの世も人間は神の名を騙って戦争をしてきました。

神が戦争を命じたという大義名分をかざすのは、

人間だという事を忘れてはならないでしょう。

 

神が言ったと言って、異教徒や、異教徒の家族、女子供を殺す事を選んできたのは

間違いなく人間なのです。

 

 

 キリスト教徒であるなら、イエスが自身を十字架にかけた人々を赦したように

「右頬を打たれたら、左頬を差し出しなさい」という言葉で自らを律するべきでしょう。

 

仏教徒であるなら、ダライ・ラマ14世のように

浮き世の事に感情的にとらわれず、客観的に事象を俯瞰分析して

冷静に対処するのが仏の悟道に通じると私は思います。

 

イスラム教徒なら、コーランに書いてあるように

同じ啓典の民であるユダヤ教徒やキリスト教徒にこそ

その慈悲深さは発揮されるべきでしょう。

 

 

いつの世も、過去の神や預言者がこう言ったからという事を根拠に

権威をかさに権力や暴力をふるってきたのは人間です。

 

同じGodを唯一絶対神とあがめる宗教もその創始者の言葉を読めば

彼ら以後の人間がいかに都合よく解釈して

それを権力に利用してきたかを歴史が証明しています。

 

私はアメリカ大統領が就任式に聖書に手をついて宣誓をする事を

真の宗教心とは対極にある行為だといつも思います。

 

イエスの言葉と真剣に向き合った事が一度でもある大統領なら

聖書に手をついて宣誓などできないでしょう。

 

政治家は誓うのであれば、国民を代表して国家に忠誠を誓い

人間の所業の責任を自覚して戦争をすべきだと思います。

 

またイスラム原理主義者がテロを正当化するのもまた

同じように神の権威を利用して暴力を恣意的に使いたいからでしょう。

 

  

神や預言や、宗教という人間の根源的な命題に対して

自分自身の頭やハートで考え感じ取る事を放棄して

長いものには巻かれる事を選択する人間はいつも多数派だと思います。

 

貧しい環境や洗脳の激しい社会で生きなければならない場合は

なおの事その呪縛からのがれる事はむつかしいでしょう。

しかし今は21世紀です。

TVもラジオもインターネットも有る時代は、その呪縛を自分自身の手でほどく事は

それほどむつかしい作業ではなくなりました。

 

現代の人類は一人一人が自分自身で考えた事を発信する力が過去になく強くなっています。

それはエネルギー転換の後押しもあり、過去とは比べ物にならないくらい

たった一人の発信が世界を動かす可能性が無限大に大きくなってゆくのを現しています。

 

時間がかかっても

家族や身近な社会からの人間性、協調性を育てゆく事を

一人一人選び静かに実行してゆけば、

前世紀とは違い、人類の宗教とイデオロギーよる呪縛は必ず解かれてゆきます。

 

エネルギー転換によって人類全体の想念で起きている

「一つの思考にこだわる事が出来なくなる」という現象化は

2100年に向かってダライ・ラマ14世が示してくれた世界の実現を

力強く後押ししてくれる事でしょう。

 

祈りがいらなくなる世界になるようにすでにエネルギー転換は起きました。

そしてそのエネルギーは人類が存在に気づき

使えば使うほど無限大にパワーを増してゆきます。

 

陽の時代の幕は静かに、でも確実に上がりました。

 

転換したエネルギーを最大限生かして使う事で

人類が武力ではなく想念と精神で

戦争の連鎖を終わらせる証明をする時代は既に始まっています。

 

私の最大の楽しみはその目撃者である人生を送る事です。

エネルギー転換は必ず人類の想念、精神、思考を変えてゆきます。

その事を確信しているから私はデンパ者なのです。

 

 

 

 

 

 

 


祈りと宗教

2015年01月25日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

とりとめのない話です。

お時間の無い方はスルーしてください。

またこれと言って内容もありせん。

デンパが好きな方は読んでみてください。

 

 

祈りと宗教はきっても切れないものだ。

 

信仰の中に祈りを持たない宗教的なものなど

ほとんどないであろう。

神や何がしか超自然的なものに祈る瞬間は

人生に最低一回くらいあるだろう。

 

それとも死の瞬間まで何ものにも祈らないという

そんな人もいるのだろうか。

 

ISISに人質とされた湯川さんが殺害された可能性が高いと

安倍総理はTVで語っていた。

 

湯川さんのご家族に謹んでお悔やみを申し上げます。

湯川さんの魂が安らかに天上に導かれる事を

祈らせて頂きます。

 

私は過去に何度も神と呼ばれるものに祈りを捧げてはきた

それは自身が弱かったからだとは思う。

 

為すべがなくなってしまったと思えた時に

その祈りは、困った時の神だのみの典型だった

 

私は兄を癌で亡くしたが、

その働き盛りの死を何とか回避できないかと

科学的な事から超自然的な奇蹟を願う事まで

さまざまな事を試してみたが、

現代科学は白旗を早々と上げ、

超自然的な奇蹟も起きなかった。

 

私はイエスキリストのような聖者ではないのだから

死者を甦れさせたり、他者の命の運命を改変などできないのだということを

当たり前だが思い知らされた。 

 

基本砂漠の一神教は現世での天国を保障していない

死んだら天国に行けるのだ。

 

生きている間に神に祈るのは

死んだら天国に行く為なのだろうか。

 

少なくとも私が真剣に祈るのは

現状のどうしようもない危機に対して

現実の手段がなくなってしまったと思えた時が多かった。

 

それは理性的な行為ではないだろう。

思考停止と言っても良いだろう。

それでもなお、やはり祈らざるおえなかったのだ。

 

主の祈り (イエスが弟子たちに祈る時はこのようにして祈りなさいと伝えた祈祷文)

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。
御国〔みくに〕を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

                     wike プロテスタント訳より

 

私はキリスト教徒ではないが、

主の祈りの中にある悪の拒絶、罪の赦しの深さは

人間の精神が努力で到達する愛の極点だと思う。

 

イエスは自らを殺す相手を赦し

十字架に掛かることを拒否せず

自分の説く愛とは何かを自ら証明された。

 

 

愛を教えてください  

 

主よ、騒がしいどらや

やかましいシンバルのようにではなく

愛をもって語るすべを

私に教えてください。

 

忍耐強く

情け深い愛を

妬まず、高ぶらず

自分の利益を求めず

いらだつことを知らない愛を。

 

真実を喜び

すべてを忍び、すべてを信じ

望み、耐えるあの愛を

主よ、私にお与えください。

 

万物が滅び

すべてが明らかになる終末の日に

私が確信できますように。

弱かったにもかかわらずこの私が

主の完全な愛を

絶えずわが身に映し続け得たということを。

                            マザーテレサの祈り

       

私にとってマザーテレサは信仰者としてのお手本であった。

主の祈りは神の子の祈りとして

マザーテレサは信仰者が神を深く誠実に信仰する態度とは

どういうものであるかを、その祈りの言葉の中に表現されていた。

 

それは激しく、深く、峻烈な祈りの言葉であり、

凡人が努力しても到達できないと思える聖性であった。

 

しかしそんなマザーテレサでも

ほんのひと時ではあるが、

神を疑い呪う手紙を残している。

 

マザーほどの聖者でも神を疑い現世の運命を呪うのだ。

いわんや私のような凡人が現世の無常や残酷さを嘆いて良いであろう。

でもだからと言って、この三千世界に神がいないとは私は思わない。

 

神は見えないが実在している。

肉体は滅びるが魂は滅びない。

宗教や信仰の前に

愛は実在する。

 

テロで奪う事ができるのは人の肉体だけだ。

 

愛は実在する

祈りは必ずその愛の極点と共振する。

 

空を見上げ愛を祈ろう

闇を見つめ愛を祈ろう

 

祈りが無意味でない事を信じて

私は今日も祈る。

 

 

 

 


台風が来る日本

2014年10月12日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

また台風が来ている。

今回の19号は速度が遅く、沖縄や奄美諸島は

大変な雨風の直撃を長い時間受けている。

厳重に身の安全に気をつけて過して頂きたい。

 

ここから先は暇つぶし程度の根拠のないデンパな話です

興味のない方はご退出ください。

 

台風は神道的に言えば、水の祓い、風の祓いである。

ようは大地に溜まる穢れを定期的に祓って清めてくれいる

大いなる荒神様である。

人間の暮らしにとっては影響は大きいし、運が悪ければ

大きな災害となって命を落とす事も少なからずある。

しかし台風はそんな人間の都合に関係なく

日本に定期的にやってきて、雨風で清め、時に人間の傲慢を諌めながら

南方の活力あるエネルギーを運んできて

日本の国土全体の気を活性化させてくれている。

 

日本という国とって毎年やって来る台風は

霊的な側面からみれば大いなる恵みと言えると思う。

 

北半球に出来る台風は時計の反対周りの回転となる。

霊的エネルギーは天に向かう縦の螺旋の動きが強くなるように転換した。

仏教で蜜と呼ばれる天に昇るエネルギーは左回転だ。

 

3次元の現象は上位界の現象の現れである。

左回転の渦が日本を包む事はより、天に昇る力が強まる事を示している。

それは迷える意識がすこしでも上に上昇する手助けになるだろう。

 

何故、中国や韓国にはあまり上陸せず、

右折して日本ばかり来ると思うかもしれない

確かに偏西風が吹いているからと説明すれば唯物論的には済んでしまうが、

日本はそれゆえ霊的に恵まれているとも言えるのだ。

 

これからも日本は多くの台風が飛来するだろう。

そして、風と水の祓いを受け、運気の補給をしてゆく。

それは日本全体の意識が次元上昇をしてゆくのに、

必要な現象的なあらわれのひとつだと私は感じている。

 

台風を恐れながらも敬い、その恵みを享受してきた日本人は

太古の昔から霊的な感受性が豊かであった。

そして其の恵みは今も引き続き日本にもたらされている。

 

デンパな側面から見ると、

台風も大いなる恵みの神に思えるものである。

19号による人的な被害が少ない事を願っている。

 

 

 

 


山は山の神のおわす場所。

2014年09月29日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

御嶽山の噴火で多くの方が亡くなられた。

謹んでお悔やみ申し上げます。

 

日本は死者に鞭打つことは良しとしない民族ではあるが、

自然災害ならその恐ろしさを伝えるべきであるし、

私は死者と思える姿が現場に倒れているのなら、

其の映像を流して、後の警告や抑止、教育に使用すべきだと考える。

 

死者をあえて映さないないなら、

それに変わる、大きな警告や教訓を学べる映像とは何なのかを

もっと模索すべきだと思う。

 

一瞬で何十人も命を失う火山の噴火の恐ろしさを

どうやって伝えるのかをTVマスコミはもっと真剣に考えなければ、

映像を報道してる意味もないし、TVは益々衰退してゆくだけだろう。

 

 

登山こそ究極の自己責任のスポーツだ。

掛ける対価は間違いなく命なのだから。

 

登山ガイドを職業としていて、

ヒマラヤの登山の経験の有る方と話をした事があるが、

山に一度魅せられた人と、そうでない者との深い溝を感じて、

私は共感できなかった。

プロの彼らは山で死ぬ事を覚悟して山に登っている。

 

その人は、山では自分の命は自分で守るのが鉄則だといっていた。

天候の異変やら今回のような突然の噴火にせよ、

自分の命は自分で守るのが最優先という事だ。

自身で命を守る事ができない子供を連れてゆくのはそれだけで、

プロの目から見たら間違った判断だと言えるのだろう。

 

いつもと同じ事が続かないのがこの世界の唯一の真理だ。

どんな山に登るのもそれなりの覚悟をして登ろう。

 

後デンパ者のとしての根拠のない話をひとつ。

 

 

基本山の神は女神である。 

家内の事を山の神と呼ぶのもそういう謂れがあるからだ。

女神は女性が山に入る事を心良く思わない。

トンネル工事や修験道の山の多くが女人禁制であったのもそういう事だからだ。

富士山も幕末まで女人禁制であった。

 

山ガールと言ってブームでもてはやされているが、

パワースポットとかと言って、

神々の力をわけて頂く事を期待するのはよしておいたほうが良い。

山の神はタブーには厳しいと昔から言い伝えられている。

それが穢れを嫌う神道の神々の姿であり、

不浄とされた女性が入山できなかった理由でもある。

私は別に女性差別のつもりではなく、パワースポットとかという事を信じて山に登るなら

女性には生まれながらに山に疎まれる資質があるので、身じたくに気をつけて覚悟して

入られよという事です。)

 

まして古くから信仰の対象になるような山々には必ず神様がおられるので、

神聖さへの敬意を絶対に忘れてはならない。

 

山は元々神々の住まう場所であり、御嶽山などその最たるものだろう。

多くの方が亡くなったのは悲しい事ではあるが、

聖地とは本来そういうものである。

人が無知、無神経に立ち入れば相応の事が起こる事を

昔の人は経験から知っていた。

 

科学でなんでも説明して済ますのも良いが、

山への敬意と恐れは、日本に住んでいるなら忘れてはならないと

今回の噴火での事を教訓にしてもらいたいものだ。

 

私は山は登るより、

丘くらいの高さから遠くの緑の山並みを眺めるのが一番好きだ。

そこに命はかけた快感はないが、のびやかな安らぎがあるから。

 


子供の時の親による宗教体験の強制は 愛を濁らせる。 

2014年09月06日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

 

私の家は両親が大本教の流れを組む新興宗教の信者であった。

特に父は戦争末期昭和19年の一時期出征する前に

その宗教団体の今は焼けて無くなってしまった学生寮に

入寮するほどの熱い信仰の持ち主であった。

 

しかし父は終戦後に地方公務員の教職に就いたので、

信徒である事を表立って公表せず、退職するまでは家で聖典を読んだり

お経を(神道系なのに祝詞ではなく聖経といっていた。)母とあげたりしていた。

母は父の影響を受けて、深く其の宗教に染まっていた。

故に我が家で子供への宗教の指導役は母であった。

 

私は四つ違いの兄と二人兄弟であったが、

兄と私はもの心つく前からそのお経を声を出して読むように育てられた。

 

まあたいがいは寝る前に読むのだが、どんなに速く読んでも

だいたい30分かかり、内容も子供がとても理解できるものではなかった。

当然子供には苦行でしかなく、飛ばし読みしたくても

二人で声をだして読むのでそれも中々出来なかった。

兄は真面目な人だったので飛ばし読みを弟に勧めるような事はしなかった。

 

兄も私も小学生の3^4年ぐらいまでは真面目に読んでいたように思うが、

段々と書いてある内容がわかってくると、それがいかに突拍子の無い内容で

非科学的な学校の勉強を否定するような意味である事に疑問がわいてきた。

 

当然母に質問をしたが、論理的な納得のゆくような返事はもらえない。

小学生の頃の父との関係は私たち兄弟は濃いものでなかったので、

兄はどうかは知らないが、私はその疑問を父にぶつける勇気はなかった。

 

まあ教祖が霊的な啓示をうけて書き留めた内容なので、

子供の思考ではついてゆける訳はなかった。

 

兄が小学6年の時に、其の宗教の合宿に泊りがけで行かされた。

兄は素直な人だったので、親に従い合宿に行ってきた。

帰ってきた兄に感想を聞くと

「あれほどまずいご飯を食べたのは初めてだった。」という食いしんぼの兄らしい感想であった。

 

私も小6になって合宿に行くはめになった。さんざん駄々をコネタが駄目であった。

印象が残っているのはやたらと広い場所で大人数で雑魚寝をした事と

兄と同じく物凄くまずいご飯であった。

 

不思議とお経を読んだり、宗教的な儀式をした記憶はない。

まあ小学生に無理やりそんな事をすればただの宗教嫌いにしかならないから

その辺は宗教団体の上の人も心得ていたのだろう。

合宿が終わって母が向かえにきてくれたのを見つけた時はうれしかった。

 

まあ兄弟とも中学に入り反抗期に突入にして当然その聖経を読む習慣はなくなった。

 

 

子供の頃に新興宗教の家庭で

親からの強制で私と同じような体験をした方はそれなりにいると思われる。

私の両親の入っていた宗教は神道系であり、仏教系の一部の宗教に比べれば

かなり緩いものであったと思う。

しかし、親の願いとは逆に私たち兄弟は神様嫌い、宗教嫌いに育っていった。

特に兄は死ぬまで理系のデーター主義者で

論理的でなかったり科学的でない事は、はなから信用しない人であった。

 

私は以前「メンドクセーと好奇心」記事に書いたとうり、

高校に入ってある事がきっかけで親の期待から外れる人生を歩む事となった。

 

その当時まともにコミニュケーションの出来なくなった息子に

両親はもう一度その宗教の教えを読むように言い実行をせまった。

当然それは火に油を注ぐような愚挙となった。

 

親子はもちろん、人間関係で自分で解決できそうも無い時に

霊的な跳躍理論に縋ろうとするのは

いつの世も人間の弱さの普遍的な一面だと思う。

 

しかしそれはたいてい失敗に終わる。

人間的な愛情交換がちゃんと出来ていない関係性以上には

愛の力は発動しないものだから。

霊だの神だのに縋って救われると思うのは、

たいていの場合、自分で考えるのを止めさせてもらえるからだ。

 

教祖が言った。神がいった。仏が言ったと

人間にとって一番大事な価値感を探求して掴み取る事を放棄して

よそからひっぱて来た権威をかさにいくら説得を試みても

子供は自然とその言葉を説く人の人格にある愛を直感で見抜くものだ。

 

日本は昔から素直である事が子供も大人も尊ばれる。

それは、言上げをしない事を良しとする神道、村社会の閉鎖性、

儒教的な年長者に従う武家社会の長きにわたる支配とあいまって

和の根底を流れている日本文化の核に近い要素だと私は思う。

 

「素直になりなさい。あの子は素直だから伸びた。」

しかし人間生まれも育ちも環境も親もちがう。

平気で子供を虐待したりネグレクトするような親の元に生まれた子供に

教師が素直になれと言ってもなんの意味もないであろう。

素直な子供や大人に育てたいのであるなら、

人を疑うような事や裏切るような事が少ない家庭や

社会環境で育てなければならない。

 

今の若いゆとり世代も、良い環境に恵まれた人たちは素直に育って、

才能を大いに発揮されていると思う。

 

しかし多かれ少なかれ親との関係性に問題をかかえ

人を素直に信じ愛する事を受け継ぐ事が出来ない者は

いつの時代でも多いのではないだろうか。

 

そしてそれは大人になる成長過程で

愛を疑うという作業をしながらも求めるという

泥臭く人間的な努力をしてゆく為の原因になっていると私は思う。

 

しかしそれは負担ではあるが、愛を知るという意味では地道な近道の一つだと思う。

 

私の場合は、親子という一番純粋な関係性の間に新興宗教という

子供とって理解し難いどころか邪魔でしかないものが介在した事が

愛を知る努力を生む原因になったと感じている。

 

しかしまたそれは私にとって宗教的な観念の呪縛が

親の愛を濁らせる恐ろしさを教えてくれた体験でもあった。

 

私はオウム信者を笑える立場にはない。

子供の頃にそういう体験をしながらもスピリチュアルな体験を求め

多くの歓喜と失意を繰りかえし味わった。

面白かったし楽しみもしたが、

地に足のついた人生を歩んできたとは今でも胸を張っては言えない。

 

私にとって宗教的な体験や神ごとは、

人生で得た経験による分別を壊し飛び越えるほど魅力的なものではあった。

 

これは私自身の人生からの一体験的な結論だ。

もしこのブログを読んでいる方がこれから親になる可能性があるなら

子供に宗教的な刷り込みをなるべくしない事をお勧めする。

 

それは親と子の純粋な愛情の交流のじゃまになるだけだ。

イデオロギーも宗教もこれから力を失ってゆき

言葉ではない波動によるダイレクトな体験が

精神に影響を与える時代に益々なっていくだろう。

 

親としての社会的な躾は当たり前だが、

親の宗教的な価値観を刷り込むのは、子が大人になった時に生きる道を狭めるだけだし

その事を理由に憎まれる可能性もある事も知っておくべきである。

子は親の所有物でもコワモテの神からの授かりものでもないのだから。

 

宗教の価値感の違いによって戦争がおきている世界を頭では理解できても

ハートでは理解できない日本人は、その洗脳力と強固な価値感を勉強して

対応の仕方を研究すべきだと思う。

それは、宗教的な洗脳やタブーの少ない文化に生まれた日本人には必要な

知識であり、交渉や外交で後れを取らない為の必須の教養だと私は思う。

 

 

私は何度も書いたとおり運命論者だ。

故に私が神道系の新興宗教の家に生まれたのも必然だと思っている。

そして人生で繰り返した行った宗教的な体験の意味を解く作業した事が

今の自分を形作る入り口であったと受けとめている。

 

まあ両親が望んだ形ではなかったが、

私は神とは何かを問う当ての無い人生を半世紀以上生きたのだから

父もあの世で満足してくれている事だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 2016  3  26  追記 

 

親と子の関係性について

子供の頃のもう一つの体験を連作として書いた。

私の偏った体験が

親子関係で悩んでいる方の何がしかの参考になればと思い記しておきます。

 

『すべての芸術は絶えず音楽の状態に憧れる』      ② 映画 『シャイン』 について

 

『すべての芸術は絶えず音楽の状態に憧れる』 ④ 続 映画 『シャイン』 親と子  命の合奏(アンサンブル) 

 

 2018   4   27  追記

先日改めて親子間での信教の自由について言及した。 ご参考になれば

 宗教 強制  親子 信教の自由 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


寿命まで健康に生き、エコに死ぬ事。 お金を使わないで健康を保ち死ぬ準備。

2014年08月12日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

残暑見舞いに変えてどうでも良いデンパ系の暇つぶし的なお話を。

 

私は老人医療を切り捨て賛成論者である。

今の医療は老人に金がかかりすぎる。

選挙の票になるからといって老人医療費に金を掛けすぎて若者の教育や

子育てにお金を回さないのは馬鹿のやる事だ。

そんなに今の政治家や人権平等論者は国を滅ぼしたいのだろうか。

 

別に経済弱者の老人を棄民しろと言っているのではなく、

たくさんお金を持っている老人にもっと負担してもらうか、

薬や検査を減らしなさいということだ。

 

 

 

老人の医療や介護の対策で一番お金を掛けなければならないのは認知症の予防である。

認知症の大変さは自分にとっても現実に進行形の話である。

症状が発症する前の予防薬の開発も進められて

今は予防にかなり効果が期待できる状態になってきた。

特に団塊の世代の認知症患者の激増は日本の社会構造を破壊しかねない。

これはなんとしても早急に対策を打たなければならない。

 

 

私は薬を飲まない事にしている。寿命派だから検診も検査もしない。

其の分、元来酒も自分からは飲まない。タバコもやらない。

実につまらない人間である。

その代わりヘンタイな民間の科学的根拠のない健康法を何十年もやっている。

効果は実感しているので私は堂々とあると言えるが。

 

まあ、結局は西洋の薬は確かに即効性もあるし、結核のような病気を根治させる事もできるが、

命に係わるような事でそれ以外方法がない以外は使う気はしない。

西洋の薬は毒をもって毒をせいしているにすぎない。

ようは効果が余り無い気休めなら毒をお金を払って体に溜め込んでいるだけである。

 

病気のほとんどは生活習慣と食べすぎと冷えすぎからくる体の解毒力の低下によるものだ。

ようはそれを普通に気していれば、極普通に健康に歳をとれるはずだ。

健康番組で自分の病名をさがすよりは、

長生きしたいなら、自分に合った睡眠と、適度な運動、腹八分目の食事を守れば十分だろう。

それが守れないならそれで、食い倒れようが、

アル中になろうがその人の人生なので好きにすれば良い。

人間に生まれてそれを楽しまない事もまたつまらない人生ではあるから。

だからと言って不摂生の人生を送って医療費を多く使うのは不公平だと思うので、

私は前に麻生さんが言ったような医療費を使わない老人にご褒美を上げるのが良いと思う。

 

これから健康で長生きが自慢できる時代になるのだから、だったらその証として

医療費を使わなかった人(特に介護保険)に特典をあげるようにすれば、

きっと税金の割合も少しは減ると思う。

団塊の世代は競争や表彰される事が好きだから、医療費を使わないで健康競争をしてもらえば、

若い世代も喜ぶし、国庫も無駄使いが減って一挙両得ではないか。

 

後、現在の高額医療の大半は死ぬ半年以内の額がかなりの割合を占めている。

若く重病な人は別として、いい老人が死ぬ事にお金がかけるのはもったいない話である。

昔のように家でぽっくり死ぬのが理想であるが、

とにかく寿命まで健康で五体満足生き、エコに死ぬ方法を

私を含めたこれからの世代が追求してゆく事になるだろう。

 

私はデンパという言葉が好きなのは、その妄想チックな意味合いともう一つの波動という意味からだ。

世界は波動で出来ている。

なんとデンパ的な表現だが、別に矛盾はない。

全ての物質は振動しているし、それぞれの物質には特有の周波数なるものもある。

インドでは『オーム』の音と共にこの宇宙が誕生したと言われている。

故に『オーム』は聖音である。

耳を澄ませば「オーム」という音が聞こえるらしい。

まあ「オウム真理教」は巧みに其のあたりを利用したのだが、

長いインドの歴史的な宗教音を日本のインチキ宗教テロ集団ごときに汚されたのは、

私としても悔しい限りである。

話がそれたが、何を言いたいかというと、

ようは今まで効果の現れにくかった波動によるエネルギー療法が

誰でも簡単に効果が出せる時代になり、なんら超能力でもなんでもなくて

普通に治療に使える時代になっているという事だ。

 

昔からある手当てなどをもっと信じて気軽に使えば、

効果は想像を超えたものになるだろう。

 

ただ、こういうのはインチキが多いので気をつけよう。

お金をたくさん取るところはまちがいなく商売だから、

趣味や好奇心以外で魔法のような奇蹟をそれに求めるのは

私の経験からいって人生のプラスにはならないと言っておく。

私はそれによって人生を楽しみはしたが、棒に振ったとも言えなくもないから。

 

私が伝えたいのは

エネルギーの転換により誰もが平等に

その力を無料で使えるようになったという事だけだ。

お金もマントラもいらない。

もちろん宗教的な制約もない。

今までのような荒い波動から、

より微細で細かい波動が効果を高める時代になっただけの事だ。

そういう力に感応できる人は自然と健康になってゆくし、

エコで無理をしないようになってゆく。

 

ゆとり世代のようだね。

何を言いたいかと言えば、彼らの無理をしないという全体的な気質はそういう

エネルギー的な影響があるからだ。

生まれながらの波動感受世代なのだ。

 

結論として、ようはキチンと摂生をしてエネルギーのとおりの良い体を維持できれば、

ちゃんと解毒ができて、死ぬまで健康でいられるという事だ。

 

女性で冷える人はそれだけでエネルギーのとおりと解毒力低下の現象化なので

まずは冷えを直す事。方法はいくらでもネットに出ているだろう。

たくさん試せば、どれか一つくらいは合うものがあるであろう。

逆に自分自身で冷えを直す努力を全力で出来ない人は

生命の危険のある病に鈍感という事になるので、

ちょときつめにご忠告しておく。

「冷えは万病の元ではなく、死病への入り口」だと私は勝手に思っている。

数字として平熱が35度代の人は36度代の人よりどれだけ癌のリスクが高くなるかは

ネットを調べれ出てくるので興味がある方はご自分で調べる事お勧めする。

 

まあ後は筋肉を衰えさせないのも重要だ。

特に女性は筋力低下が万病のの元なので、

40代以上は筋肉になる蛋白質をたくさん取って、

スクワットとかの意味のある運動を毎日することで、

エネルギー代謝も上がり、冷えとかも解消される。

頑張れば三浦洋一郎さんみたいになれるかもしれない。

 

夏も冷房の部屋ばかりいないで汗をかこう。

エアコンも熱中症予防程度にして、

新陳代謝を促進し解毒力を高める為にも汗をかく事が重要だ。

臭いは別の問題として、処理してください。

 

癌や各種の免疫性疾患、成人病などは、各臓器や体全体の

解毒力低下によりひきおこされる事が多く指摘されている。

中年以上の方は長生きしたいなら汗をきちんとかける体を維持する事が大事。

(異常に汗をかきすぎるのもなんらかの病の兆候もあるので、いつもと違う場合はお医者と相談を)

もちろん食べすぎ、アルコールやタバコが人によっては極端に解毒力を低下させるのは

みなさんご存知のとうりだと思う。

 

思いもよらず健康談義になってしまった。

ようはあたり前だが、摂生をしていけばエネルギーのとおりやすい体になって、

ちょっと体調がおかしくなっても

お金をかけないでも手当てや睡眠で回復するような体になれますよって事。

 

以前の記事「臨死体験」で紹介した本の中に、著者の木内鶴彦さんが

未来の治療装置はMRIのような波動装置のようなものだったと書いてられる。

ようは外科的治療ではなく、不調な人に治療の為に波動を照射する感じだそうだ。

まあスタートレックの治療のようになるらしい。

 

まあそこまでなるまでにはまだ時間がかかるだろうが、、

波動エネルギーの身体への影響は確実にこれから実用化されてゆくであろう。

それは別に今現在も使い方と意志を間違わなければ

それなりに効果を上げる力はあると私は確認しています。

 

最後に夏はやはりすっぱいものが良い。

酢はスに通じている。(神道的に宇宙の中心的な意味で)

 

夏ばてに気をつけならが皆様お元気にお過ごしください。

 

 


人生のつり合い  「メンドクセー」と好奇心。

2014年08月08日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

人によっては不快になる表現がありますので、

波長を感じて取って、やばいと思われたらそこでご退出願います。

 

 

私は飽きっぽい性格だ。

熱中しては冷めを繰り返し、もう半世紀以上も生きてしまった。

妻には

「あなたの葬式の時には、この人はやりたい事、好きな事は全部やってきた人です

と言ってあげるから。」と宣言されているので、

悔いのある人生でしたとは、口が裂けても言えない状況である。

 

自分は「メンドクセー」が口癖の漫画『鋼の錬金術師』に出てくるホムンクルスのスロウス(怠惰)を

地でゆく人間だと自認している。

私は彼程大男ではないが、彼が戦闘をする時の瞬速ぶりが、

自分が行動を起こすときの集中力やセッカチな感じに似ていて、

彼と自分は似たもの同士だと思っている。

 

怪力をたよりに地下に穴を掘らされている単純作業の繰り返しを求めらる感じや、

生きる事それ自体に疑問をもっているめんどくさがり屋の彼が好きだ。

 

物心つく前から音楽の習い事をさせられていた私は、

その永遠に続くと思えた、テクニックの習得がいやでいやで仕方なかった。

なんでこんな「メンドクセー』事を続けなければならないのか教えてもらえないまま、

母に和裁用の長い竹の物差しで叩かれながら続けるのは、奴隷の気分であった。

 

子供にとって大人が要求する事はたいていは「メンドクセー」ものではあるが、

理由がわからないまま続けさせられるのは、刑罰に等しい事である。

子供の頃にそういう体験があると、たいていは歪むものである。

 

私はその反動が高校を入学した後に出て、後の人生は親が期待したであろうものとは

違う人生を歩んできた。まあそれが、「三つ子の魂百までも」が成したものなのか、

親の後天的な教育の成果なのかは今となってはどうでも良い。

 

私は手の平で踊らされたにせよ、懸命に逃れようとしたにせよ、

自分の「メンドクセー」を好奇心が凌駕した場合は

集中して楽しんで生きてきたと思う。

 

長い「メンドクセー」時間と、楽しい好奇心を満たしてくれる短い時間の連綿と続く

どこにでもあるような人生であった。

 

STAP細胞問題で渦中の笹井氏が自殺された。

もったいない事である。再生医療の分野でも大きな損失だろう。

謹んでお悔やみ申し上げます。

 

 

残されたご家族やご本人には非常に不躾とは思うが、

ここは科学の発展の為、

生命を科学する事を専門としていた笹井氏の意識にインタビューができるなら

今の感想を聞いてみたいものだ。

 

胡散臭い大〇総裁あたりが本人を呼び出してやりそうだが、

其のレベルではない、本物の霊能者に今の笹井氏の意識とコンタクトをとってもらい

死後の意識と科学と命について語ってもらえたら、

残された小保方氏だけでなく

多くの生きてゆく事が「メンドクセー」になってしまった人々に

もっとも貢献が出来る、科学的検証ではないだろうか。

 

矢作直樹氏レベルの方が検証実験をしてくれたら、

頭の固い世間も今度は「とんでも」科学とは言わず、真摯に耳を傾けると思う。

命を科学する事を人生の使命とされた笹井氏こそもっとも相応しいと

一般論では失礼で不躾とは思うが、真の科学的な好奇心とはそういうものだと、

私は思っている。 

 

笹井氏の経歴を一目見れば、エリート中のエリートである事は誰もが認める事だろう。

人類への貢献という意味でも、凡人のなすべき仕事の何倍量もされていたであろう。

しかし、普通の人間にしてみれば長い栄光のキャリアのたかが一度の失敗で命を絶つのは、

それこそ命や科学に対する冒涜だろう。

「かっこつけるのもいいかげんにしろ。」と私が彼の友人だったなら遺影の前で思っただろう。

 

自殺をする前から会話が成立しない精神状態であったと伝えられている。

精神的な辛さから脳が正常に機能せずに

理性を凌駕して感情が死を選びたいと思う事は、十分理解できるが、

しかし現実に死んでしまえた氏の人生を考えると、

それで果たしてつり合いがとれるのかと疑問を感じる。

間違いなく死後彼の意識は後悔しているだろうと私は想像する。

 

人間失敗するのが当たり前、生きているだけで儲け物と思える人生なんて

掃いて捨てるほどある。

 

この世で多くを得すぎると、この世で何か失ったと感じた時に

大きな喪失感を感じてしまうものである。

私のような者から見上げれば、笹井氏は何も失っていない。

それこそ、ヨブなら、「あなたが失ったと思ったものはあなたの生命と

どれひとつとして繋がってはいないではないか。」と問いかけるように思う。

そしてそれは、たいていの自殺を考える者にも共通している事でもある。

 

大切な人生の伴侶や家族を失って、自らの死を悲嘆から願うのはわかるような気がする。

しかしそれ以外では他者を殺してしまったりしてしまった事を除いては、

人間が自ら死を選ぶのは、

自分自身が命を与えられた身分である事を忘れ、

「メンドクセー」が好奇心を完全に凌駕してしまったに過ぎないと私は思う。

 

科学者は因果な商売だと思う。

ノーベル賞なんかいくら若い間に素晴らしい理論を打ちたてても、

生きている間に誰かが証明してくれなければ貰えない。

半世紀待った受賞者はたくさんいるだろう。

逆を言えば研究できる場があれば、死ぬまではもちろん死後でさえキチンとした評価が

いずれされるのが科学というものだろう。

笹井氏はまだまだ後平均寿命でいうなら30才前後は生きれたはずだ。

其の時間を科学の為に使う事をどぶに捨てたという事実だけでも

科学者としてはもちろん、人間としてもったいない事であった。

 

私は死者の笹井氏を愚弄しているつもりは毛頭ない。

ただ、科学者として遣り残した事や悔いがあったのなら

今度は死後の意識の命の証明という、魅力的な命題がありますと

デンパ者の一人として呼びかけを鎮魂にかえているだけだ。

 

読まれてご不快に思われた方にはお詫び申し上げる。

人生50年を過ぎるとあの世にいる身近な人が多くなる。

死者に思いをはせるのは日本の良き風習だと思いながら

お盆の近い空を見上げている。

 

 

 


サクリファイス   (犠牲)

2014年07月29日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

 

この記事もまた、私見を述べているにすぎません。

不快に思える記述があるやもしれません。

タイトルから感じとって

波長があいそうもない方はここでご退出を願います。

 

 

人は人生を選んで生まれてくると、

いわゆるスピリチュアルな世界ではよく言われている。

私自身は運命論者である。

 

人生には大きな波があり、それに逆らってもうまくゆかないし、

そういう時は流れにまかせるしかないと思って生きてきた。

 

この世界には殺される運命というのがあるのだろうか。

もしあるのなら、魂なるものは殺される事を知ったうえで生まれてきた事になる。

命を捧げるという行為は、おそらく人間のなしうる行為の中で

最高に崇高な行いの一つであろう。

それは、そういう価値感に照らせば、たとえ人生の最後が他者に殺されたとしても

生きるにたる輝かしい人生である事は間違いない事であろう。

 

佐世保の被害者の少女は自分が殺されるとは微塵も思っていなかっただろう。

人間の視点からいくら考えても、

善悪の天秤と個々の人間の人生は、釣り合いなど決してとれない。

それは人間の預かり知れぬ神の領域として、諦める事しかできない。

 

神はこの3次元世界で、人間が悪と名づけた行為を止める事はしない。

そして、罰を直接与えるわけでもない。

多くの善良な人間は因果応報を信じようとしているが、それは願望のままであり

3次元の時系列の把握できる範囲では応報がなされていると確認は出来ない。

 

人は現世では人によって裁かれる。が悪事を犯してもなんらかの運命の巡り会わせで

人間の裁きを受けないで人生を全うするものも普通にいる。

何千万人も殺した毛沢東の墓が未だに暴かれず、尊厳が保たれているのは、

権力闘争の無意味なとばっちりで殺された人間たちの無念を思う時

余りに不公平ではないだろうかと

ヨブではないが、神にイヤミな言葉のひとつも掛けたくなるだろう。

 

私がもし殺された少女の親だったら、

事実を人生を狂わせず受け止める事ができるだろうか。

もし私があと20才若かったら、実行するかどうかはさておき間違いなく復讐を考えたと思う。

私はそういうタイプの人間であった。

 

15年前に光市母子殺害事件時が起き、

その後のご主人の取られた真摯な行動に、私は胸が打たれた。

子供がまだそれほど大きくなかった私にとって、その事件は他人毎ではなかった。

ご主人は、あくまでも法の公正な裁きを粘り強く訴え、

妻子の命の尊厳を長い裁判で勝ち取られた。

殺した側の権利ではなく、殺された側の死者の命の尊厳が守られたいう、

画期的な判決であったと私は思う。

 

私が同じように妻子があのような惨い殺され方をされたなら、

犯人の生い立ちがどうあれ、許す事ができないどこころか

魔と手を結んでも、犯人をこの手で息の根を止めることに情熱を傾けただろう。

しかし、犯人に死刑判決が下り、人間によって天秤がつりあう決定が下された。

その事を少なくとも死刑廃止論者のいうように非文明的だとは、私は思わない。

人間が与えられた理性によって、生きている者も、死んでしまった者も

同等の尊厳を願い適えるのは、

神が人間に与えた自由の行使の範囲であると私は思う。

 

人は聖人にも悪魔にもなる自由を与えられてこの世界に生まれている。

被害少女の生まれ出でる時の魂の運命がどうであったかは判らない。

が、残酷な死を迎えた事実だけに囚われて、

彼女の人生全体の尊厳を感傷的に傷つけてはならないと今の私は思う。

彼女の人生には輝かしい意味があり、

その痛ましい死によってもその輝きは失われないと、

被害に会われたご家族も実感される日がいつの日かくる事を

私は願ってやまない。

 

最悪の悲嘆を味わった者のみが、

最高の愛の高みに到達できる可能性を得ると私は信じている。

そしてそれは、「愛と赦し」によってもたらされると。

犠牲になる為に生まれてきた、イエスという2000年前の聖者の言うとおりであるなら、

松尾愛和さんの死はイエスの同じ犠牲(サクリファイス)の意味をもち

彼女の名前の意味どうり「愛による和」がどれほど人間が精神的な高みに

到達出来る可能性があるのかを指し示してくれていると私は思う。

 

しかし、ご家族の現実の悲嘆を思うと

こんな勝手な話をえらそうに今書くのは自分としても迷いました。

それでも少しでも魂の鎮魂になればと思いあえて書かせて頂きました。

もし読まれてご不快な気持ちなられた方がおられましたら

この場にてお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした。

 

松尾愛和さんの御霊のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。

 

 


臨死体験。 

2014年07月23日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

夏らしく前回に引き続き臨死体験のお話を。

もろデンパな話です、波長の合いそうもない方は

ここで退席されたほうがよろしいかと思います。

 

私の母には臨死体験があった。

最初にその話を聞かされた時は、

母にとっては「あの世は怖くなかった。」という話しであったが、

聞かされ子供の私には十二分に怖い話であった。

 

まず話始めがこうだ、

「お母さんは結婚する前に死に狩りにあった事がある。」

ようは生死の間をさ迷うような大病をしたのではあるが、

「死に狩り」なる方言(後になって方言とわかった。)が恐ろしくそれだけで、

聞きたくないと思ってしまう不気味さがあった。

母は結婚前に盲腸を悪化させて、危篤状態に陥った事があるという。

そして、自分の体を抜け出して、

ベットで寝ている自分を天井から眺めたと言っていた。

そして良く死後の世界の話に出て来る、

きれいなお花畑に居たというものであった。

 

それはとても言葉では言い表せないほど美しい場所で、

極楽浄土とはああいう所なのだと、私に良く聞かせてくれた。

そしてこれも良くある話だが、血筋にあたる誰かに帰れと手をふられて

戻ってきたというものだった。

そして、あんなきれいな所に行ける事がわかっているので、

自分は死ぬのは少しも怖くわないと言って話を終わるのだった。

 

その頃の私は小学校に上がる前で、ひじょうに怖がりであった。

雷が鳴ったと言って泣き、電車の天井の扇風機が怖いといって泣いていた。

何か不始末をすれば、真っ暗な納戸への押し込めの罰で大騒ぎをし、

我ながらひどい泣き虫であった。

そんな時に母の「死に狩り」の話を初めて聞いたのであった。

 

死そのものが良くわかっていなかったので、

その前の「死に狩り」の方が余程怖かった。

どうしても、西洋の死神が大きな鎌を持って

「死に狩り」にやってくる姿が目に浮かび、

その先にある「あの世はきれいなお花畑」はただの付けたしでしかなく

怖がりの私にはなんの魅力も感じなかった。

 

大きくなるつけ、母の話が臨死体験というものだと理解したが、

だからと言って、素直に母の言うとおり

あの世が素晴らしく美しい所とも思えなかった。

私にとって、「死に狩り」にやってくる死神は

美しい花園の前に立ちはだかる恐ろしい死の使いであった。

そして死神は私の成長と共に「運命」と名前を変えて、

人生のお馴染みのキャラクターになっていった。

 

私自身は臨死体験はない。

全身麻酔で15時間かかるような手術もしたが、別に命に係わるような手術でもなかったからか、

本人の意識では一瞬で手術は終わり、執刀医にビンタされて起こされた事があるくらいだ。

 

あれが唯物論者の言う死であるなら、10秒も数える事ができずに意識を失うあのわずか数秒が

死の瞬間にあたるのだろうか。

その後記憶はいっさいないので、起こされた時に時間が跳躍をした感じがした。

後で15時間たっていたと聞かされた時は驚いた。

あの時無に帰ったままなら死は苦痛はないと私は言える。

意識が消滅してもう何も無いのだから。まさに私という自我ともおさらばであった。 

 

この間、本に呼ばれて。という記事を書いたが、

ここで何の本に呼ばれたかを書いておこうと思う。

それは、木内鶴彦氏の「臨死体験」が教えてくれた宇宙の仕組という本であった。

この方は彗星検索家(コメットハンター)としてとても高名で、

ご自分の名前の彗星や、小惑星があるとの事。

また臨死体験者としても有名で、

立花隆氏のベストセラー「臨死体験」にも経験談が掲載されておられるとの事。

 

御本の内容はとても面白く、驚異的で、体験に基づいた臨死体験の説明が、

リアルに語られているものであった。

この手の本に触れないようにしていた私には、久振りのごちそうみたいな内容であった。 

信じる信じないは別として、死を別の視点で見、考える事はタブーでもなんでもない。

この生きにくい世を渡る上ではむしろ、選択肢の幅を広げてくれると私は考える。

 

良い時代になったものだ。

これからますますこういう話がオープンにできる社会になってゆくのだろう。

確かにオウムや霊感商法をはじめ、類似のありとあらゆるイカガワシイ宗教詐欺も増えるだろうが、

それらの中から身を持ち崩さないような全うなものを選択する事も

同じ位大切な人間としての資質だろう

 

あくまでも客観性を失わずに、論理的な思考を持ち続け判断する事が

人間に与えられたすぐれた能力だと思う。

 

何が真実や真理に近いのか、

誰かを妄信して自身の判断を放棄してはならないと

私は思う。

 

生に悩んでいる方

死を今までとは違う観点から味わう事を一度想像してみてはいかがだろう。

デンパ者の助言として、それも一興だと思うのですが。

それはひょっとしたら、今まででのつまらない風景を

別の鮮やかな彩りにしてくれる、

ちょっとしたきっかけになる可能性を含んでいると

「箸にも棒にも引っかからないものに引っかかる達人」は

そう感じてここまでどうにか生きてきました。

 

 

 

 


死後の世界の可能性を証明する科学。

2014年07月22日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

矢作直樹氏という死後の世界を肯定しているお医者さまの本が、

たくさん本屋さんに並んでいた。


東京大学医学部附属病院救急部・集中治療部部長で、

東京大学大学院医学系研究科・医学部救急医学分野教授。

これ以上の肩書きはないと思われるくらい有能で現役のお医者さんが、

非常に霊的でスピリチュアルな発言や著作を書かれている。

つくづく時代は変わったなあと思う。

 

私のような海のものとも山のものとも知れない者が、

あの世はありますよ的な発言をしても、

眉唾にしか聞こえないが、流石にこれほどのエリート医師が、

はっきりと死後の世界の実在を信じていると堂々と宣言されているのを知ると、

一般の人も驚いて本を手にして見るのではないだろうか。

何冊かを読ませて頂いたが、真摯な人格が滲み出ている内容であった。

 

現役の東大病院の医師がそんな事を公言したら、

異端児として相手にされなくなってしまうのではないかと心配してしまうが、

流石にここまでレベルの高い超エリートの方で医師としての実力が凄い方が発言すると、

批判をする方もそれ相当の科学的見識と実績がないと相手にならないであろうから、

私のように黄泉の国のアリ派には、こころ強い味方である。

 

死後の世界とか、霊的な世界は現状では証明がむつかしいので、

お互い、水掛け論で終わってしまう事にたいていはなる。

ようは、霊的世界を信じる側が、

信じない側が信じるにたる証明をしなければならない。

それには、霊的な能力者が信じない人の秘密の暴露する

TV番組のパターンが一番多いのではないだろうか。

 

次に多いのは臨死体験を話す方々だ。だがそれも医学的な脳死を確認できていない状態では

科学的なデーターとしては、弱いと思う。

脳死状態で脳波が検出できない事が証明されたうえでの、臨死体験記憶なら、

まだ死後の世界証明のデータとしては信用できるだろうが、

そこまでデーターがあってもなお、まだ科学者ならいくらでも否定の証明はできるであろう。

 

現在計測できる数字の単位での計測ではなく、もっともっと小さい単位の計測が

正確に出来るようになると、

近未来の科学者の中で、死後の世界をデーターで証明する人が出てくると私は予想する。

 

ちょっと前までは、理論だけだったニュートリノが検出され測定できる今、

人間の意識が、科学的なエネルギーに変換されて計測出来る事が証明される日が

近い将来やってくると私は想像している。

 

ある日、ネイチャーに死後の世界の証明が掲載されるとしたら、

きっと人類全体の人生観は、180度変わる事だろう。

 

しかし今しばらくは、死は審判の門の威厳を失わないで、

それぞれの人の前に静かにたっているのだろう。

しかしそれは、多くの人間にとっては良い事だと私は思う。

わからない事があった方が人生は恐ろしく、

そして面白いに違いないだろうから。

 

 


永遠のヨブの叫び。

2014年07月20日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

あらかじめお断り、

死に纏わる問答なので、気分を害したくない方は

読まない事をお勧めします。

 

 

 

飛行機に乗るには、それなりに覚悟がいる。

飛行機嫌いな人の気持ちはわからないでもない。

もし空の上で何か起きたらと考えたら、

死を覚悟して、

運命に身をまかすしか選択支が無いから。

 

今回の悲惨な撃墜事件も、

もし神様がいて感情がおありなら

どういう心情で眺めておられるのだろう。

 

①人は空を飛ぶようには創っていないから、私の責任ではない。

②人間どうし殺しあうのは、人間の自由な選択支の一つ。人間が理性でそれを選んだのなら、       私の責任ではない。

③元々私が全てを与えた。命を与えのは私、故に奪うのも私。命は個々の人間のものではない。    私の全責任おいてなされた事。

④私に似せて人間を創ったのだから、人間が悲しむ時は私もまた悲しんでいる。

⑤私に似せて人間を創った。命は物質的なものだけでなく永遠の命を元々与えているのだから、

 肉体を失い見えなくなっても命がなくなったのではない。悲しむ必要はない。

⑥全ては肉体という衣装を着て演じているゲームである。肉体がなくなったら本来の命の状態に戻って、

 人生の振り返りをするのだ。今回は何点取れたと思っているのだね。

⑦肉体死は意識の消滅を意味しない。人間をその程度に創っては私はいない。お楽しみはこれからだ。

⑧肉体はなくなり、意識も無に帰り消滅したのだ。誰の為に悲嘆にくれるのだ。悲嘆にくれる相手は   その存在すべてが無に帰ったのだ。

 肉体死と意識の消滅を悲しむのは論理的に無意味だ。無に変えるのは全てからの開放ではないか。

⑨全ての生命、全ての魂、全ての意識は私を分割した私の一部である。

 故に全ての生命は永遠に生き通しであり、私は全ての生命を体験している。

 肉体死は人間としての体験にすぎない。それは生命の領域の一部にすぎない。どの生命も私である。 例外はない。

 

 

あなたなら、神にどう答えて欲しいだろうか。

人は誰でも神を呪うような気持ちになる可能性があると私は思う。

特に愛する人との死による別れは、運命や神を呪いたくなる。

尊い人の死を無意味だと思いたくない。

だが、それは人間側からの生からの視点に過ぎない。

死は死の視点から見たら、全く逆に見えるかもしれない。

 

私は少なくとも今はそう思えるようなった。

人より死を見てきたせいもあるが、私が自分をデンパだと言うのはそういうところからだ。

私は自分の死を楽しみに生きているネジの外れたナルシストだと思っている。

確かに兄の死のように死の間際の肉体的な痛みは難関だとは思うが、

それ以外の事を考える時、

生まれ変わりの宗教がいうように、魂なるものが今と同じ自我を認識して

肉体がないだけで、後は夢の中のようなベタな死後の世界に移るなら、

それはそれで楽しみだ。

また、唯物論のように全てが無に帰すなら、

肉体死の段階で意識も消えるので苦痛とは元々無縁である。

まあ、私は前者を信じているので寿命まで生きて死に出会うのを

答え合わせを待つ心境で楽しみにしている。

 

しかし家族や愛する人を失った時の悲しみは、

人間はそれを体験するために生まれたと思えるほど、

その人の人生を試される。

それは神代の時代から変わらぬ、

人間から神への切なる問いかけを生む衝動の母体なのだ。

 

ヨブは過酷な運命を与えた神にこう叫んだ。

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。」

 

それを信仰の証ととるのは、神の視点だろう。

私には、ヨブの人間としての誇りが言わせた

神への皮肉を込めた血の叫びに聞こえる。

 

ヨブは、悲嘆に暮れ、神を呪う人々と共に、

聖書の中で神に叫び続けてくれている。

私にはそう思える。

 

メメントモリ。  死をオモエ!

そして、今生有るものは   生きよ !

 

若い魂たちへ

鎮魂と慰めの代わりとして。

 

 

 


他人の空似と、魂の兄弟(ソウルメイト)

2014年07月17日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

どうでも良い話をひとつ。

デンパ系(死語と思いつつマイブーム(これもほぼ死語)なのでまだ使います。)の話です。

忙しい方、波長的に無理な方は読まない事をお勧めします。

 

誰でも有る程度生きてくると、他人のそら似的な場面に

出会った事があるとおもいます。

 

人から「誰それさんに似ている」と言われたり、

そこには行ってないのに「昨日どこそこで見た。」と言われたり、

自分とは違う誰かと似ていると言われる事はままあることです。

 

私は社会に出てから、自分があまり人の顔を覚えるのが

得意でないことに気づきました。

最近は歳のせいも有り、なおの事ひどくなってきている気がします。

意識をして見ているつもりでも、顔を覚えていなかったりして、

けっこう不快な思いをさせてきたと思っています。

 

ある時、ブラットピットが同じような事を告白していましたが、

相貌失認というらしいです。

ひどい場合は自分の顔もわからなくなるそうです。

彼の場合は完全に病気で辛かったでしょうが、

私の場合は本人の興味のない人は覚える気がないというのが、

ただ単にはっきり出てしまうという、自業自得パターンだと思っています。

 

そんな私が、顔を意識的に覚えようとして思うのは、

人間の顔のバリエーションは以外に少ないのではないかという事です。

私が区別できるのは、日本人的な東洋人だけですが、

人の顔はそれほど無限のバリエーションでできているわけではないと

最近は感じています。

(最近ネットで画像を並べてそっくりさんを見つけるのがありますが、

マッカーサーとブルースウィルスとか結構似ています。)

 

外国人が日本人を見て同じに見えるというのもわかる気がします。

せいぜい10の大きな雛形があって、後はパーツがランダムに組み合わさっている感じがします。

若いうちは違いは目立ちます。すべてのパーツがはっきりしてますから。

でも歳を取ると、当然輪郭がぼやけてきますからなおの事、

パーツの違いなどは老化の影響に比べたら大した事はありません。

みんなまとめて、おじさん、おばさん、お爺さん、お婆さんになるわけです。

 

話がそれました。

まあそんな風で他人の空似と言っても自分としては、

別に不思議な事ではないなと勝手に分析しておりました。

 

ある時新聞の本の紹介欄を読んで気になったので、

ある本を購入しました。

その本の著者は既に亡くなっていたのですが、

裏の著者紹介に載っていた写真を見て、

自分とあまりに似ていたのでびっくりしました。

 

その方と私は歳はひとつ違いで、誕生月は同じでした。

病気で亡くなられたのですが、大病をされていた部位が

私も子供の頃から弱い部位でした。

 

他人のそら似というにはあまりに似ていて、

その後に本を読むと

とても奇妙で言葉では中々言い表せない

神妙な気持ちになりました。

 

写真の角度のせいもあったかもしれませんが、

自分自身が写っていると思える他人の空似は初めてでした。

 

世間には自分と似た人は3人いると言われますが、

私は間違いなくその一人を見つけたと思いました。

そしてふと思ったのは、その方がもう亡くなってしまったのに

私の人生はまだ続いているという不思議な感じでした。

 

別にその方が生きて、私が死んでいたとしても

この世界では対して違いのない事なのだろうに。

 

そして、そんな風な事を考え続けているうちに

自分は世界に一人だけの個性で生まれてきたわけではなく、

似たような風貌、似たような声(骨格が似ていると声は似るので。)

そして似たような好奇心(本の内容から)を抱く精神をもった

兄弟みたいな存在が

まだこの広い世界にはいるんだなと、思えるようになりました。

 

そしてそう考えると、

自分自身は特別なオンリーワンでもないが、

自分一人だけが個性の可能性を試されているわけでもないと

力の抜けた気楽な気持ちになれるのでした。

 

この変な文章を読んで下さったあなたにも、

あなたと同じ顔と、同じ声と、同じ好奇心をもった方がいて、

あなたの知らないどこかで、

今日も泣いたり笑ったりしていると

私はおもいますよ。

 

そう想像する事で、

人生の視点をちょとずらして見る遊びのきっかけになれば

面白いのではないかと、

デンパな話が好きな私は思ったのでした。

 

 

 

 

 

 


本に呼ばれて。

2014年07月14日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

本屋さんの前を通る時に

たまに、何か本に呼ばれている気がする時があった。

 

そんな時に立ち寄って中に入り、しばらく店内をぶらぶらすると、

自然と目につくくタイトルとか、帯とかの本があり、

手に取って立ち読みをしてしまう。

 

手に取った本に、何か気になっていた事のアドバイスなり、

物凄く興味をそそられる事が書いてあったりすると、

「この本が呼んだのだな。」と思うのであった。

 

ある時新宿の紀伊国屋の前を歩いていたら、

例によって呼ばれた気がした。

しかしその時は特別で有る歴史的人物の名前が

胸の奥から聞こえた気がしたのだ。

まあ、おかしな事は疑わないで乗ってしまうたちなので、

そのまま店に入り、いつものように店内をブラブラした。

するとフロアーのすみのコーナーに平積みしてある本の一つが、

いつものように呼んでいる気がして、手に取ってみた。

 

タイトルだけでは何の本か今いち解らないので、

開いてみると、さっき聞こえた気がした人物の自伝であった。

流石に自分自身もびっくりしたが、これは読むしかないと思い

即座に高かったが買ってしまった。

 

この本はスピリチャル系に嵌っていた私を

散々振り回してくれたが、

今思えばそれもまた、人生の教材の一つの思い出として、

今も本棚で自慢げに背表紙を見せている。

 

良い本との出会いは、

人生を豊かにしてくれる。

しかし、私のように本に振り回されて、

今思えばさして重要でもない事にこだわり、

偏った考えに自分を縛ってしまう事もある。

 

本、インターネットはもちろんそうだが、

全ての情報はまず疑ってかかる客観性を持つ事は、

人生を踏み外さない為には大切な素養だと思う。

 

例としてオウム真理教がある。

あのインターネットのない時代、

麻原の宙に浮いている写真の載っている本を手に取ったが為に、

何人の優秀な人物の人生が狂っただろうか。

 

私も当時手に取って見たが、その時は胡散臭さが先にたって、

とても全部読む気にはならなかった。

でも私自身の人生を省みると、ほんのちょっとした違いで

オウム信者になっていた可能性を否定する事はできない。

 

私は若い頃は何事も熱中するタイプで、すぐに騙される人であった。

ある人から、「あなたは箸にも棒にもかからないものに、ひっかかる才能がある人」

と指摘されたが、人生を振り返ってみてまさにその通りだと実感している。

 

ありとあらゆるものに引っかかり生きてきた結果

私はいろいろな事がめんどくさくなってしまった。

そしてその一つの結果として

ある時から本屋に行くのを意識的にやめてしまった。

 

馬鹿は極端に走るものである。

でも人生そんなふうに思えるような経験もまた運命なのだろう。

前向きに生きるだけが人生なら

それは味わいの薄いものになってしまうだろうから。

 

この間久しぶりにまた本に呼ばれたような気がした。

少しだけ頭に記憶がよぎったが、

自然と店内に入っていた。

 

長らく忘れていた

若々しい森の雰囲気が心地よく

本を手にするまでもなく元気がもらえた気がした。

 

私みたいな人間には、

やはり本屋さんは生きる糧なのかなと、

呼び掛けてきた艶やかな表紙の新刊本を手にとって

「こんにちわ」と目で一人挨拶をした。