日の本の下で  究極の一点 Ⓢ への縦の道

『究極の一点』Ⓢ 
神のエネルギーの実在を『フライウェイ』の体験を通して知り、
伝えるデンパ(伝波)者

『保育園落ちた。日本〇ね!!!』感情的な言葉が国民の意識全体に影響を与えた時代はすでに終わっている

2016年03月10日 | フライウェイ スピリチュアル  宗教  運命 病 生と死

「保育園落ちた 日本〇ね!!!」

 

なんとも扇情的なタイトルである

〇のところにどんな字が入るかはみなさんご存知だろう。

ここのところ話題になり、国会にまで取り上げられた匿名のブログのタイトルだ。

そして今日は安倍総理の「匿名なので信憑性がない」という答弁にたいして

実名で28000名の「保育園を落ちたのは私だ」という署名が提出されたそうだ。

 

元ブログの文章を読んでみたが、政治活動が人生の中心のような

プロ市民がプロパガンダの為に書いたのか

(あまりにも、素早く左翼の方々(共産党や民主党)が

デモや署名などに動いたのでついぞ勘ぐりたくなる)

本当の生活者の方が書いたのかわからないが、

形としては本音の発露をウェブ上に匿名として書くのは

別に言論の自由の国なのだからとやかく言われる事もないだろうし

これほど話題になったのだから、書いた本人はしてやったりという気持ちであろう。

 

私もネットの匿名性を大いに利用して自分の意見を勝手きままに無責任に載せている

タイトルが『日の本の下で』のとおり日本が好きなので

「日本〇ね!!」などと伏字でかくしかない。

 

私は仮にもスピ系などと名乗っているので言霊や言葉の力を信じている。

デンパな解釈で眺めた時

あのような「日本〇ね!!!」という言葉を発した本人やそれに乗っかる人たちに

どういうふうにその言葉や言霊のエネルギーが返ってゆくのかを想像すると

他人事ながら鳥肌が立つ感じがする。

 

ごく普通の保育園の抽選に縁のない人達が

あの『保育園落ちた 日本〇ね!!!』という言葉に触れた時

どんな事を想像したり、どんな感情が湧いたりするかを

その言葉を発した本人やそれに連なる行動を起こしたした人々は

想像して行動を起こしているのだろうか。

 

ネガティブで扇情的や感情的に強いインパクトのある言葉に反応するのは

たいていは現状でネガティウな感情を抱いている人々だ。

そういう若い感情的な反射をしてしまう層に向けてのなら

確かに効果があっただろうが

 

大多数の一般の国民はああいう短絡的で扇情的な言葉のスローガンを

品位のない気持ちの悪いものと感じるのではないだろうか。

 

時の政権や政治を批判する為に

軽々しく自分の生まれた国に対して『〇ね!!」などと書いてしまえたりする人格は

ヒステリックに見え当たり前だが理性的とは思えない。

 

仮に自分が小学生六年生くらいのものの道理がわかる年頃の子供であったとして

自分の母親や父親が

『日本〇ね!!!』という言葉をブログに綴っているのを知ったら

どんな気持ちになるだろうか。

 

そしてそれが、保育園の抽選に落ちたという事象への感情的な捌け口であるとわかったとしたら

自分の親ながら子供ぽくって付き合いにくい人だなと思うのではないだろうか。

 

私が今回の『保育園落ちた。日本〇ね!!!』ブログの件で真っ先に感じた事は

保育園に入れる事ができない事が行政側の努力不足で実現できず

経済的にも労力的にも負担が増す事にに対する共感ではなく

このブログの主の子供は

ヒステリックな親を持ってこれからの人生大変そうだなという思いだ。

 

世の中この程度のアンラッキーは昔から掃いて捨てる程ある。

その事に対して自分が生まれ育ち多くの第三者の人と共に住む国を、

平気で〇ねと書けてしまう無神経さで育てられる子供はたまったものではないなと

ヒステリックな傾向の母親を持ち

幼少の頃から思春期まで親子関係に悩んだ経験のある私の素直な感想だ。

 

 

 

私は両親を金属バットで殺害した犯人とタメ(同じ齢)だ。

 

事件は1980年に起きたが私も当時彼と同じように浪人生であった。

それ故エリートの家族に生まれ受験に失敗し

父親のキャッシュカードを盗み酒を飲んで憂さを晴らすのを

父親に叱責された後の犯行に当時は共感し

殺されたご両親に対しては同情できなかった。

 

当時の私は今の若者たちと同じで切れやすく激しやすかった。

それ故金属バットで両親を殺害した犯人の事を他人事とは思えなかった。

 

「何か一つボタンを掛け違えていたら、両親を彼のように殺していただろうか?」

という問いかけを当時自身にして、

「彼と同じように両親を殺した可能性があったな。」

とその時認めた。

 

私はこのブログの中で書いてきたとおり

思春期の最初中二の時に自身の闇に気づきそれを見つめて生きていた。

それ故、何度となく自分の中にある

激しやすく制御できない怒りが全身を満たしている時の高揚感と

それが過ぎ去った後の自身への嫌悪感を味わった。

 

私の前半生はその波の絶え間ない繰り返しのようであった。

 

そんな私も歳を重ねると

感情的に激しい言葉を浴びせられた時に

大きく二つに分かれる反応をするようになった

 

①若い頃と同じで金属バットで両親を殺害した犯人のように

 プライドやメンツや自身のアイディンティティーを傷つけられて

 それによって生まれた憎しみの帰結として言葉を吐いた本人やそれに連なる人や社会に対する

 報復や復讐のような反射的行動言動にでる。

 

②もう一つは、感情的な言葉で自身の感情の憂さ晴らしをしたり

 他者を言葉で傷つける事を平気でする人を

 客観的に事象を観る事ができず理性的な話し合いのできない幼稚な人だと判断し

 人物評価の一般対象から最初からはずしてしまう。

 

私は若い頃は100%①のような対応をしていたと思うが

齢を重ねるごとにほぼ②のような対応をするようになっていった。

 

「若さは馬鹿さだ」

は金八先生の言葉だったと思うが、

自身の思春期を思い出してもらえば理解してもらえると思うが

若い時ほど人間は本能やホルモンによって感情が支配されいる。

それ故に感情的な言葉や事象に対して、本能的に感情反射のような態度や

言動を隠せない。

 

子供の頃から長い時間かけてさまざまな勉強をする事によって

大抵の人間は大人になると感情だけでもの事を判断せず、

理性や論理的な思考を身に付けて、まずはそちらでの判断を優先するようになってゆく

何故なら社会的な生活を安定して継続してゆく為には

理性的な判断をして人とのコミニュケーションをしてゆくのが

前提条件である事はいうまでもない事だからだ。

 

剥き出しの感情的な振る舞いをして許されるのは、

オーナー社長とか、絶対的な地位や権力をもっている一部の人や

まだ大人として認めらていない年齢の子供であって

成熟した大人は会社とか、コミュニュティーで感情的な爆発を起こすようなヘマは

しないように日々を過すものだ。  

 

しかしそれもまた過去形となったようだ

エネルギーの転換の影響もあり

最近は若者はもちろん中年も老人もみな我慢できず切れやすい。

 

3.11の震災の時に電車が止まり、都下は陸の孤島になった場所がけっこうあった。

大半の人は諦めて静かに対応していたが、

ある駅で70歳くらいの老人が一人の駅員に食ってかかっていた。

 

駅員個人ではどうこうできる状況ではないのに

そのあまりの理不尽な言いがかりに

思わずわってはいり、老人を叱りつけようとした時

周りの人も同じように思ったのだろう、その老人に対して激しい野次が複数おこり

老人は捨て台詞を残して去っていった。

 

あの震災の数日間、東北から離れた東京でもそれなりの混乱はあった

しかしこれだけの大都市にも係わらず多くの人々が秩序を失わず

冷静に行動できたことは素晴らしい事だったと思う。

 

物質化とは感情化だとある視点からみれば言える。

故にこの三次元世界に肉体を持ち命を生きるという事と

感情的な体験をする事はきっても切れない。

 

その事とは逆に

意識がプラズマ化して日常的な感情から距離をおいてわずらわされないで生きる事が出来れば

それは仏教でいう悟りに近い状態だという事はご想像頂けると思う。

 

人間にとって地獄とは

感情にこだわり、誰かや自己の運命そのものを

憎んだり恨んだりしてその事から抜け出せない状態が持続したものだといえる。

そして、死ぬ直前もそのような意識の状態であったのなら、

時間のないあの世で

その憎しみなどの内向きの感情の渦から抜け出す事は

自身では中々できないのは想像できるのではないだろうか。

 

悪夢の夢に閉じ込められた時、肉体が目を覚ませばその世界から抜け出す事ができる。

しかし、目を覚ます肉体が既に無かったら

自身の意識が作った憎悪感情の世界から脱出する方法が

あなたはあると思えますか。

 

私が垣間見てきたスピ的世界の経験から言えば、

そういう感情の思い込みによって

この世の年数で数えれば何千年も閉じ込めらていた意識体は存在していた。

 

世界は物質文明から精神文明に人類全体が向かうようにエネルギーが転換した。

 

それは物質化のエネルギーを溜め込むような内向きの渦が、

プラズマ化し外側に放射するような外向きの渦に大きく転換した事を意味している。

 

そしてその影響を人類全体が受ける事により、

歪みを溜め込み、感情エネルギーを溜め込む事で物質化に向かった文明が

歪みを外側に排出し、意識がプラズマ化に向かう事で感情から離れやすくなり

人類全体の意識が感情の渦を常に手放さざるおえない状態に向かう事を示している。

 

それ故に扇情的や感情的な言葉やスローガンや思想に

人類全体として距離を置くように時間の経過と共になってゆく。

 

 

今日本のメディアをはじめ、世界中のネットでも常に見受けられる

感情的な齟齬による衝突は、このエネルギーの浸透と拡大と共に

今後100年以内に

客観的な論理の正論が感情的な正義正論派を駆逐する形で必ず決着をみるだろう。

そしてやがては激情的であったり扇情的な表現を

人々が受け入る事がむつかしくなり

音楽などの芸術からも段々とそういった表現は消えてゆく事になるだろう。

 

感情的扇情的な主張やプロパガンダ、イデオロギーや宗教は

日本はもちろん地球人類全体の意識において

共感を呼ぶ力を必ず失ってゆく。

 

日本国民の意識はこれからも加速度的にプラズマ化に向かい、

マスコミやメディアの意図とは違い、

年を追うごとに多くの人々が感情的な反射行動に賛同せず

より客観的で論理的な行動が過半数に支持され世論を形成してゆく事になるだろう。

 

 『日本〇ね!!!』などという言葉を書くという感覚自体が

日本国民全体の意識の方向性にそぐわない時代はこれから必ずやってくる。

それは日常のありふれた生活の中に

すでに兆しを現している。

 

まずは、感情をたやすく手放したり客観視できる

ネオゆとり世代のさとり世代が

未来の日本精神文明の姿を

目に見える形で表現してくれる事になってゆくだろう。

みなさん楽しみにしていてください。