皇居の落書き

乱臣賊子の戯言

朝日選書「女性天皇論 象徴天皇制とニッポンの未来」について(再読)

2005-08-17 01:55:56 | 皇室の話
平成16年11月27日付けで、「朝日選書「女性天皇論 象徴天皇制とニッポンの未来」について」という記事を書いたのだが、その時点の筆者の視野はかなり狭いものであり、十分な感想となっていなかったので、今回、改めて再読し、感想を書くことにする。
この本の特徴としては、皇室に関する様々な論点について、非常に網羅的であるということがある。
著者自身の価値観を前面に出すのではなく、様々な議論を、一見、女性天皇とは直接関係のないような議論についてまで、幅広く紹介するというスタイルになっている。
このことが、前回読んだときに、「つまらない」という感想を抱いてしまった原因であった。
ただ、その後、このブログにおけるコメント欄のやりとりにより、著者は、皇室というご存在について、非常に真っ正直に取り組もうとされている方であり、網羅的に議論を紹介するというのは、その正直さ故であるのだろうと、今にしてみれば、理解できるところである。
また、網羅的な議論の紹介においては、イデオロギー的な、固定観念に対する懐疑という視点があるように感じられたので、この点、筆者としては、伝統的な価値に対する相対主義であるというようにも、思い込んだ。
今にしてみれば、著者の真意は、おそらく、皇室の歴史というものをリアルに捉えようとする場合、固定観念というのは妨げになるということなのであろう。
固定観念にとらわれることなく、リアルに見つめ理解することが大切だという考えに立脚されているのだろう。
そして、その考えの背後には、非常に人間主義的な価値観があるように感じられた。
もっとも、このことは、著者によって、体系的、かつ、ストレートには語られていない。
それは、この本が、著者自身の謎解きの過程の記録であり、あるいは、正直なる弁明の書であって、読者を説得しようという意図によるものでないことに、由来しているのかもしれない。
そこで、何かを説得してもらうことを期待している受け身の読者にとって、物足りなさを感じるところがあるかもしれないが、既存の皇室をめぐる議論について何か欺瞞的なものを感じ、リアルに皇室というご存在を理解したいという積極的な読者にとっては、有益な書なのではないか。
以上が、筆者として、改めて再読した感想である。
なお、若干の指摘をさせていただくと、著者は、象徴天皇制とは何かということは、一種の神学論争であり、とりあえずは皇位継承の安定性に議論の的を絞るべきと主張する。
しかし、この本自体において、象徴天皇制について幅広く論じているところであり、内容紹介にても、「女性天皇を論じることは、パンドラの箱を開けることになる。天皇とは何か、天皇制とは何かという根元的な問題にぶつかる」とあり、読者もとまどってしまうのではないか。
この点については、象徴天皇制についての固定観念をめぐっての議論はあまり実益がないのだということが著者の真意であると推測しているが、そこまで読み取らなければいけないというのは、少々酷なのではなかろうか。
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5 コメント

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追伸。 (西田瓜太郎)
2005-08-18 07:56:23
戦争責任に関する中野さんの考え方には、私も共感いたします。

確かに、昭和天皇、今上天皇のなさってこられたお姿を見つめると、戦争責任が無いと言い切ったり、また、白黒論理による断罪というものは、表層的な、無意味な議論に感じられてきます。

ところで、宮内庁にてこのブログを見ている方がおられるというのは意外でした。

ただ、自分の意見を書くことができないというのは、お気の毒であり、また、宮内庁という役所が、いよいよ深刻な状態にあることを感じさせます。

といいますのも、さすがに、役所の人間であることを明示して何か書けば、それは問題があるでしょうが、匿名にても何も書くことができないというのは、どういうことなのか。

誰がどんな意見を述べたかが、すぐ分かってしまうことを、そこまで怖れるということは、何を意味しているのか。

それは、おそらく、宮内庁の内部においても、皇室の在り方について議論するという雰囲気が、まったく無いということなのでしょう。まったく無いどころか、許されない雰囲気であるのかもしれません。

* これは挑発です。
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上野氏の記事の感想。 (西田瓜太郎)
2005-08-17 23:46:00
上野千鶴子氏の記事について,さっそく読んでみました。

一読した感想としては,なかなか理路整然としており,すっきり感のようなものを味わいました。

一部保守の主張に見られるような,皇室を素晴らしいものだと讃えつつ,皇室の方々の苦境を無視し,さらには,皇室は「私」無しなのだからそれが当然だというような,欺瞞に満ちた態度がないからです。

そこで思ったのは,理屈として考えれば,やはり,上野氏のような主張もあり得るのだということ。皇室というご存在を大事に思うのであれば,なおさら,皇室というご存在があることを当たり前のことと考えないで,上野氏のような主張も念頭に置きつつ,皇室というご存在を意義をどのように見出していくかを自覚的に考えることが重要なのではないかということでした。

反論をご期待とのことですが,私としては,特段の反感も感じませんでしたし,世界観の違いであるなら,それも仕方がないのかなと思ってしまったというのが正直なところです。ただ,もちろん,上野氏の主張は私の考えとは異なりますし,せっかくですので,どこがどのように異なるかということを,述べてみようかと思います。

まず,世の中というものを考えるに際しては,理念や理屈から演繹的に考えて,より良い在り方を探求するという行き方と,現在あるがままの姿を踏まえて,そこからより良い在り方を探求するという行き方があるように思います。

上野氏の主張については,基本的には,前者の行き方に立脚しているのではないかと思われます。といいますのも,例えば,「象徴」「国の主権者」「主権在民」「天皇制」といった概念の問題から議論を説き起こしているように思われたからです。

二つの行き方については,それぞれ一長一短あると思いますが,私としては,後者の行き方を重視するべきではないかと考えています。

具体的には,第一段落後半にて,「そろそろ正真正銘の「主権在民」の世俗国家にして,「神の国」などと,だれにも言わせないようにしたほうがよくはないか。」という箇所があります。

この点については,確かに「主権在民」という理念は立派なものであるし,理念・理屈を重視する立場からは,それを徹底するべきという主張も分かります。そして,徹底する上では,天皇制は消滅させるべきということになるのかもしれません。

しかし,現実には,今の日本の社会は,もう十分すぎるほどに世俗的であると思いますし,これ以上世俗化させる必要性はないのではないか。むしろ,泥の中の蓮のごとく,世俗社会の中にあって,敢えて美しいものも必要なのではないか。競争社会の中で失われがちな,他人への思いやりなど,人間として本来必要な徳目を再認識させてくれるような存在が必要なのではないかと,考えます。

また,後半部分にて,「日本のナショナリズムが成熟しているとするなら,もはや天皇に依存する必要はなかろう。若者のあいだで,天皇および天皇制に対する無関心は半数を超える。サッカーで「ニッポン,チャチャチャ」をうたうぷちナショナリズムな風景のなかに,天皇の居場所はない」という箇所がありますが,この箇所は,文章として,矛盾しているように思われました。

これは少々揚げ足とりのような話ですが,成熟したナショナリズムと「ニッポン,チャチャチャ」とは,結び付かないように思いますが,はて。

揚げ足取りの指摘は置いておくとしましても,まず,今の日本に成熟したナショナリズムがあるのかについては疑問だと思いますし,また,私としては,そもそもナショナリズムと皇室というご存在の意義とはイコールではないと考えています。

「天皇制」ということでは,ナショナリズムと通ずるところがあるのかもしれませんが,本来の皇室というご存在の意義としては,むしろナショナリズムの行き過ぎを抑制するということがあるのではないかと考えております。

最近では,国旗国歌を強制するのはよくないという天皇陛下の御発言もあったところです。ただ,末尾の「天皇制という制度を守ることで,日本国民は,皇族という人間を犠牲にしてきたのだ。ほんとうを言えば,制度に安楽死をしてもらうことで,制度の中の人間に生き延びてほしい,わたしはそう思っている」という箇所には,グサリと来ました。

皇室というご存在の存続を願う立場の者としては,よくよく,皇室の方々の苦境ということを忘れてはならないのだと思います。

私としては,皇室の方々において,苦しい立場にありながらも,その立場に向き合い,全うされるお気持ちがある限りは,皇室制度の意義を積極的に考えるべきだと思っていますが,このことは忘れてはならないのだと,改めて思いました。
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再・追伸 (中野正志)
2005-08-17 18:14:38
 本日、十七日、朝日新聞夕刊文化面にフェミニストのリーダーである上野千鶴子さんが、天皇制不要論の一文を載せています。

 影の仕掛け人は私ですが、西田さんからの反論を期待しています。

 なぜ、このテーマについてはお節介役を立ち、朝日を通して読者を挑発しようとしているのか。それは天皇制というシステムをタブー抜きに自由に論じることがとても大切だと考えているからです。

 
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追伸 (中野正志)
2005-08-17 13:28:20
 なお、宮内庁の職員でたった一人ですが、このプログを読んでいる人を知っています。

 「ご自身の意見を書いてみたら」とけしかけたところ、「宮内庁という役所は、誰がどんな意見を述べたかが、すぐ分かってしまう職場だから」と二の足を踏んでいました。

 私と酒を飲むのですら、ためらい続けたくらいくらいですから、とても窮屈な役所だなあと同情してしまいました。

 
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お礼と戦争責任・宮内庁について (中野正志)
2005-08-17 11:53:34
まずは、無味乾燥の拙著を再読して頂き、お礼を申し上げます。

 ご指摘の部分はもっともです。肝心の「象徴天皇制」は今後、どうあるべきかとの視点は書き切れませんでした。ただ、皇位継承問題が行き詰まっており、もはや等閑視できない段階に入っているように思われましたので、とりあえず議論の素材となるガイドブックを提供しようというのが刊行を急いだ理由です。

 というわけで、刊行後、ただちに自己嫌悪に陥りました。価値中立的であろうとした点と不勉強のため、西田さんがご不満を感じた指摘の部分までは踏み込めなかったというのが真相です。これまで天皇論は、礼賛か糾弾かの視点が強すぎるように思い、それを回避しようとしたのですが、やはり個人の実感を抜いた単なるデータブックとしての天皇論には、別な意味での限界を抱える結果となりました。これが、私の最大の反省点です。

 ですから、素直な実感から今後の皇室の問題を考えていこうという西田さんの姿勢に共感し、西田さんとの対話を通して、再びこの問題を別な角度から考え直していこうというのがこのプログに乱入した私の動機です。

 さて、弁明はともかく、私の留守中に、西田さんは重要な問題提起をされましたので、私見を述べてみます。

 まず、昭和天皇の戦争責任から。昭和天皇は、これ以上望めないほど近代的な立憲君主として適切に行動したことは認めざるをえません。

 第一、に家庭について、局制度を廃止し、核家族の道を自覚的に選択しました。

 第二に、即位後すぐに起きた張作霖謀殺事件の際、軍紀違反を見抜いて、その真相を究明し、処罰するよう政府に求めました。

 第三に、二・二六事件の際、立憲法治国家の原則により、断固として反乱軍の鎮圧に当たりました。

 第四に、一般には誤解されていますが、開戦直前、開戦派の東条英機を首相に任じたのは、「虎穴にいらずんば虎児をえずだね」との発言に示されているように、戦争回避へのぎりぎりの努力をしたと理解するのが妥当だと思います。

 第五に、もっと早く終戦の決断をすべきだと進歩派の人たちは天皇を告発していますが、敗戦の決断をした八月の御前会議でも、三対三に割れ、陸軍を中心に「玉音放送」の録音を奪い返し、反乱を続けようとする動きがありました。ですから、昭和天皇は「国体護持」に確信がもてず、自らの身体についての危惧をおして、降伏を決断したというのが、フェアな理解だと思います。

 だが、ここから保守派の方々と私の意見は分かれます。私は、昭和天皇には戦争責任はあると考えるからです。

 私は、白か黒かの論理には与みしません。この白黒論理は戦後、国家と個人の関係を考える際、もっとも効果を発揮しました。国民の側は黒(戦争責任)を抽象的な存在である国家やに押し付けることによって、白(免責)を得ました。進歩派の人たちは、さらに天皇に戦争責任を転嫁することによって、自らの責任を不問に付しました。悪いのは国家や天皇であって自分は何も知らずに利用された被害者だ、なんの責任があるかという理屈です。

 私はこうした白黒の論理はとりませんが、

昭和天皇に戦争責任があると考えるのは、二つの理由があるからです。

 一つは、戦争責任がないとみるのは、昭和天皇を「ロボット」「捺印器」とみなし、人間的な苦悩を見落とすことになり、明仁天皇による慰霊の旅の意図を意味不明のものにしかねないからです。

 戦後の日本は、先に述べた加害者意識の薄い人間を量産してきましたが、なぜ、昭和天皇は死の直前まで沖縄訪問を願い続けました。明仁天皇は、生涯をかけて「贖罪」にこだわってきています。

 逆説的な言い方になりますが、天皇の戦争責任を認めないことは、帰納的にみて、戦後の人間天皇の努力を意味不明のものにしかねません。

 第二に、私は海外の研究者を引用するのは好きではありませんが、『敗北を抱きしめて』で、優れた知日派のジョン・ダワーが指摘する「国家の最高位にあった人物がつい最近の出来事に責任を負わないで、どうして普通の臣民が自らを省みるか」との指摘は正しいと思います。事実、昭和天皇も、敗戦直後、木戸幸一な内大臣に「戦争責任者を連合国に引き渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引き受けて退位でもして納める訳にはいかないだろうか」と述べています。

 ここらは、もっと説明しなければなりませんが、一口に言えば、昭和天皇は道義的な責任は感じていたが、国内、国際情勢のほか、退位規定のない皇室典範からみて、辞めるに辞められなかったように思われます。

 では、こうした立派な立憲君主を抱えていたのに、無謀な戦争に突入して、底なし沼にはまっていったのか。

 それは、西田さんが指摘されている通り、天皇に直属する統帥権という「魔法の杖」を盾にとり、軍部や臣下が勝手に利用したからです。国政については国務大臣の副書がなければ効力を発揮しないのに、ご承知のように統帥権については明治憲法では輔弼者が定められておらず、天皇の名目を使えば、勝手な暴走が許されてしまいました。

 つまり、明治憲法は、公布されてしばらくは元老たちが健在で微妙なバランスをとりえたのですが、昭和の初期になって以来、国家機関が二股に分かれるという構造的な矛盾がもろに露呈したとみるべきでしょう。

 ですから、昭和天皇には戦争責任はあるが、他方では構造的な欠陥を抱えた明治憲法の犠牲者であったというのが、目下の私の解釈です。私が男系男子論者に強い違和感を感じるのは、彼らが明治憲法とそれとセットになっている旧皇室典範への郷愁が透けて見えるからです。

 明治憲法と旧皇室典範は制定当時は、かなりうまくできていた産物だと思いますが、構造的な矛盾に目を閉ざしてはなりません。

 他方、進歩派は戦後の憲法第九条を守ろうとするため、第一章の天皇条項や皇室典範の改正には沈黙を続けてきました。

 私から言わせれば、両者とも欺瞞というしかありませんね。

 私が、著書で言いたかったのは、長い間、天皇制について礼賛か糾弾かの二項対立の中で見落とされてきた天皇家について、「個」を尊重すべきだとの一点にあります。ここらは、今後の象徴天皇制のありようにかかわるテーマですが、著書ではうまく書き表すことができませんでした。

 次に宮内庁のあり方について。拙著では政策立案の立場にはないとして多少宮内庁を弁護していますし、ほんの一握りでしかありませんが今後の皇室のあり方について真剣に考えている方も知ってはいますが、総体としては各官庁の寄り合い所帯であるため、旧慣墨守の姿勢は目に余りまる気がします。

 かつての侍従たちには見識を持った方々が何人もいましたが、知恵者がまるでいなくなったことも、皇族が孤立する一因となってしまったことは認めざるをえません。これは、政府や国民が皇室に対して無関心であることと表裏の関係にあります。ですから、美智子皇后の「いたずらに誹られるべき所では決してない」との理解も成り立ち得ますし、立場上、匿名でしか言い得ないと思いますが、なにも発言しないことについて、失望を禁じ得ません。この点については、西田さんと同感です。

 これは予測の範囲内でしたから、拙著で「天皇制を廃止したければ、ただ待っていればいい。天皇制が消滅する日もそう遠くはないからだ」と挑発したのは、受け身の宮内庁に対するある種の「果たし状」の意味を込めたつもりですが、全体からみると、なんと情けない役人集団たちかと情けなくなりますね。

 でも、有識者会議や政府関係者の幾人から、拙著が刊行されなければ、一度は立ち消えとなった有識者会議のこの一月からのスタートは難しかったろうとのお手紙をいただき、多少は初期の目的は果たし得たかなとは思ってはいます。一般の方々には、全く読まれてはいませんけれども。



 

 

 

 

  

 
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