六日町(新潟)の棚田
Kさんは都内に住む小中学校の同級生、
最も親しく付き合っている一人だ、
10年程前に地域の川柳の会に入会したと
メールをよこした、
在職時は会社一筋の人間で趣味とは無縁で
勤め上げた、
経済的な安定を得て会社を離れた時
これからの生活に趣味は欠かせないことに
思い至って
私に❝遊びの師匠❞になってくれと連絡してきた、
彼の意図する遊びとは
仕事を離れた自分の時間をどう過ごすのか
という程度の意味合いであろう、
そして彼が❝遊び❞に選んだのが川柳であった、
(どうして川柳だったのか聞いてないので
今もって不明、私には間違いは許されない
企業の経理担当重役を務めた彼には
むしろ俳句の方が相応しいと思ったが)
私のほうは中学生の頃から兄の影響で短歌をやっていた、
大会に応募したり雑誌を読んだりなどはしないで
思いついた時に何かに書きつけるだけの歌作りだ、
そして30数年前から「歌会始め」の召人(めしゅうど)役を
務めたこともある三枝昂之(さいぐさたかゆき)氏の
指導を10数年ほど受けた、
その事を知ってか知らずにか私に
川柳を教えてとの申し出、
私は川柳に関しては全くの初心者、
だが短歌も川柳も同じ短詩系文芸、
教えることなど出来ないけれど
付き合うことなら出来るので快く同意した、
当初 彼は文芸には縁遠いことを知っていたので
無理からぬこととは思っていたが
音痴に近いものを感じていた(失礼)、
半面 化ければ大化けすることも感じていた、
生真面目な人間ほど自分が持ち合わせていない
人間の❝ゆるみ❞と言うかルーズと言うか
緊張感から解き放されたいと言う願望を抱く、
当初は事務連絡的な作品とか
言葉を連ねただけの作品が多かった、
兎に角川柳の発祥過程を説き
❝ひねり❞の必要性を繰り返し説いた、
ある時は
寅さんの気分になって
物事を考えてみるようにと提案した、
何年か後に彼はNHK学園の通信講座も
合わせて受講し始めた、
積極的に様々な大会の作品募集にも応募し始めた、
そんなある時
都内近郊に在住する同級生が花見で集まった時
彼から紙と鉛筆が配られて
川柳を作るような遊びの提案もあった、
今では大会での入選作品を屡送ってくる、
それらはこちらの思いを遥かに超えた作品ばかりで
私には驚きでしかない。