1月29日(月曜日)
午後3時半ころ
ゴルフを終えて家に帰った、
郵便受けに幾つかの郵便物を見つけた、
なかに1通のはがきあり、
寒中見舞いであった、
差出人を見ると初めて見る名前、
通信面の印刷された文面の後に肉筆で
❝昨年11月夫 清吾 87才が永眠しました❞
と書いてある、
先輩の奥方からだ、
学生時代の先輩である、
私が唯一先輩と呼んで尊敬していた
学生時代の下宿を共にした恩人、
東京の北区王子にあった下宿屋で
散々お世話になった、
彼は当時私の通うH大学を卒業して
労働省(当時)に勤めていた、
そしてその下宿屋には同郷(熊本)の後輩たちを
呼び寄せて面倒を見ていた、
大学生もいたが高校を出て働き始めた人もいた、
大学生は昼間働いて夜大学に通うという
苦学生3名であった、
そしてその苦学生のなかに
空手4段で社会党(当時)委員長の
ボディーガードと言うツワモノもいた、
何の縁やらそんな下宿屋で
私は学生生活を始めることとなった、
ところがこの清吾先輩
九州から上京して不安いっぱいの同郷でもない
私になんの分け隔てなく接してくれた、
そればかりか
家庭教師のアルバイトを紹介してくれたり
労働省主催の衛生管理士の資格試験にも導いてくれた、
お陰で新しく始まったばかりの
第一回の衛生管理士資格試験に合格した、
記憶から離れないのは
私が九州の実家までの自転車旅を計画した時
二つ返事で最新の自転車を貸してくれたこと、
その旅は私にとっては生涯の金字塔となって
燦然と輝いている、
その他キリがないほどお世話になった、
彼は役所でも地域でも優れた人間関係を築き
その人望で得た恩恵を周りの人たちに
惜しみなく活用させていた、
苦しい家庭環境に育った影響か
正義感の強い反骨の人であった、
所沢に住んでいて
年1,2回は電話連絡していたので
大方の様子は分かっていた積りであった、
声が元気であったので死に至るほどの
病気を抱えていたなど夢にも思わなかった、
会いに行けばよかったと痛切に後悔している。
❝清吾先輩
安らかにお眠りください❞