結~つなぐ、ひらく、つむぐ~

身近な自然や社会との関わりを通して、マイペースで、新たな自分探しに挑戦しながら、セカンドライフ、スローライフを楽しむ。

首里散策…龍潭周辺を歩く!

2013-11-13 | 文化

 首里城公園、沖縄県教育委員会、那覇市教育委員会、NPO法人などが製作した案内板を読み、当時の人々が、さまざまな工夫をしながら暮らしている様子を想像しながら、龍潭周辺を散策しました。

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「龍潭(りゅうたん)及びその周辺…県指定史跡 昭和30年11月29日指定 龍潭は、尚巴志が冊封使(さっぽうし)一行を接待するために国相の懐機(かいき)に命じて1427年に造らせた池である。別名、魚小掘り(イユグムイ)ともいう。冊封使は、滞在中、龍潭で行われる龍舟(りゅうしゅう)宴に招かれるのが慣例であった。首里城の北方にある谷地形を利用して池を造り、池の周囲にはいろいろな花木が植えられたという記録がある。水面には首里城が映り、琉球随一の名勝地であったといわれている。首里城内にある龍樋(りゅうひ)から湧き出た清水が円鑑池(えんかんち)を経て、さらに龍淵橋(りゅうえんきょう)」の下をくぐり抜けて龍潭に注ぐようになっている。 沖縄県教育委員会」

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「龍潭池浚渫(しゅんせつ)の経緯…龍潭池は、周囲416メートル、面積7575平方メートルの池で魚が多くいたことから、魚小掘(いゆぐむい)とも呼ばれた。龍潭池が出来たのは、1427年(尚巴志6)で、時の国相懐機の作庭になるという。浚渫は、琉球王朝時代において冊封使来琉の2、3年前に御冠船接待の準備の一事業として行われたのが始まりである。以下に龍潭池の浚渫の経緯を説明する。
第1回目の浚渫 祭鐸(さいたく)の碑によると、尚寧(しょうねい)16年、万歴32年(中国)、西暦1604年に第2尚氏第7代尚寧王の冊封に備えて浚渫したといわれている。
第2回目の浚渫 尚寧王時代に浚渫してから74年の歳月を経て、尚貞(しょうてい)10年、康煕17年(中国)、西暦1678年に、第2尚氏11代尚貞王の冊封に備えて行われた。この時は、石工延べ2295名、夫役延べ4万4346名をもって172日を要したという。
第3回目の浚渫 尚穆(しょうぼく)3年、乾隆(けんりゅう)19年、西暦1754年に第2尚氏14代尚穆王の冊封に備えて行われた。この時は、世持橋(よもちばし)の水門を開けて水を流し浅くなった池底を掘った。
第4回目の浚渫 昭和11年(1936)に首里市及び青年奉仕隊の勤労奉仕により清浄された。この時は、池の全面を覆っていた蓮、浮草等が除去された。
第5回目の浚渫 昭和17年(1942)に約1カ年をかけて首里市長(仲吉良光)の率いる市民、学生、生徒の勤労奉仕約2万人を以って浚渫を行った。この時は太平洋戦争勃発以来の非常時体制下であったため、養魚地として活用することが目的であった。
第6回目の浚渫 平成4年(1992)11月3日の首里城公園の開園に向けて、戦後初の本格的な浚渫を行った。なお、浚渫工事は、同年2月中旬に始まり約5カ月の期間を要した。 沖縄県」

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「高所跡(タカジョアト)…琉球国内の新開田畑の石高や貢船の貨物などに関する事務を扱う首里王府の役所跡。高所は1669年創設。『算用座(さんようざ)』(王府の役所、1732年『勘定座』に改称)の事務の一部を引継ぎ、国内の田畑から上がる収穫量など石高にかかる事務や地方を廻って農民の労働状況などを視察した。さらに中国・日本への貢船の出入国の際の検査や貨物の点検などを行った。1766年高所の事務量が多いとの理由で、「田地方(でんちほう)」を新設して農事に関する事務を分離した。高所が置かれた一帯は、かつて「池上院(ちじょういん)と称する臨済宗(りんざいしゅう)の隠居寺(いんきょじ)があったといわれ、1669年に御用地とされた。その後一帯には王府の諸座・諸蔵(役所)が置かれ、貝摺奉行所(かいずりぶぎょうしょ、1745年)、龍潭側に国学(1801年)、孔子廟(こうしびょう、1837年)などが設置された。1879年(明治12)の琉球処分により高所は廃され、跡地には1886年(明治19)、那覇(なは)に置かれた沖縄県師範学校が新築移転した。1945年(昭和20)の沖縄戦により師範学校は消滅。1950年(昭和25)琉球大学男子学生寮が置かれ、琉大移転後の1986年(昭和61)に沖縄県立芸術大学が開学した。」

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「貝摺奉行所跡(カイズリブギョウショアト)…王家御用、献上・贈答用などの漆器製作にかかる事務及び職人を指導・監督する首里王府の役所跡。相国寺跡(所在地不明)から1745年この地に移設された。琉球王国では、15~16世紀には馬・硫黄(いおう)のほか献上品として漆塗りの腰刀(こしがたな)(鞘、さや)などを中国へもたらしており、早くから漆芸品を製作していた。1612年に毛氏(もううじ)保栄茂(びん)親雲上(ぺーちん)盛良(せいりょう)が貝摺り奉行に任じられ、貝摺師(かいずりし)・絵師(えし)・桧物師(ひものし)・磨物師(とぎものし)・木地引(きじびき)などの職人を監督したといわれ、この時期にはすでに貝摺奉行所が組織されていたと思われる。奉行所では中国皇帝や日本の将軍・諸大名への献上用の漆器の形態・図案が決められたほか、数量及び材料などにかかる金銭の出納など生産管理事務が行われた。1879年(明治12)の琉球処分により貝摺奉行所は廃され、跡地には1886年(明治19)沖縄県師範学校が置かれた。漆器製作は民間の手で続けられ、1912年(明治45)には漆器産業組合も結成されるなど、漆器は本土への移出品、記念品としてもてはやされた。沖縄戦(1945年)の後は米兵・本土観光客のお土産品として復興し、1980年(昭和55)通商産業大臣(当時)から伝統的工芸品として『琉球漆器』が指定を受けた。」

 

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「松崎馬場跡(マツザキババアト)…首里城から浦添(うらそえ)方面に至る街道の一部及び広場の名称。龍潭(りゅうたん)に突き出した一帯は松が植えられ、そこから松崎と名付けられた。1801年この地(現沖縄県立芸術大学敷地)に『国学』(琉球王国の最高学府)が置かれた際、松崎前の条路に木々か植えられ一帯が整備された中国からの冊使(さっぽうし)来琉の時にはこの地で『重陽宴(ちょうようえん)』が開かれ、爬龍船(はりゅうせん)」競漕見物のため桟敷席が設けられた。1889年(平成元)「国学」及び「首里孔子廟(こうしびょう)」(1837年設置)の石垣が確認され、県の文化財指定(史跡)となった。」

 

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「耳チリボーズ…沖縄の代表的な昔話から童謡『耳切り坊主』の舞台となった場所。耳無し坊主とは北谷王子に両耳を切られた妖僧黒金座主(クルカニジャーシ)のことである。その死霊の祟りで北谷家(童謡では大村家)の男児は早死にするため、男の子が生まれると大女が生まれたといってその難を逃れたという伝説がある。「耳切り坊主が鎌や小刀で泣く子の耳をゴソッと切っていくよ」と、泣く子供をあやす少し怖い昔話のひとつである。

……耳切り坊主……うふむらうどぅんぬ(大村御殿の)かどぅなかい(角中で)耳ちりぼーじぬ(耳無小僧が)立っちょんど~(立っているよ~)いくたいいくたい(幾人、何人)立っちょがや~(立っているの~)みっちゃいゆったい(三人、四人)立っちょんど~(立っているよ~)イラナンいしぐぅん(鎌と石も)むっちょんど~(持っているよ~)なちゅるわらべー(泣いている子供は)耳ぐすぐす(耳コチョッコチョ)ヘイヨーヘイヨーなーかんど~(ヘイヨーヘイヨー泣かないで)ヘイヨーヘイヨーなーかんど~(ヘイヨーヘイヨー泣かないで)ヘイヨーヘイヨーなーかんど~(ヘイヨーヘイヨー泣かないで)…NPO法人 首里まちづくり研究会」

 

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「安谷川嶽(アダニガーダキ)…□1977(昭和52)年6月27日 □那覇市指定有形民俗文化財 この御嶽は、一般に「アダニガーウタキ」と呼ばれ、『琉球国由来記』(1713年)によると、首里大阿母志良礼(しゅりおおあむしられ 王府時代の高級女神官の一人)の司(つかさど)る御嶽の一つとなっていますが、神名は記されていません。宝珠をのせたアーチ門が拝殿の役目をし、左右に連なる石垣によって境内を内と外に分けています。内側には神聖な岩と木を中心にした石囲いがあり、その背後にまわると洞穴があります。アーチ門の前には石の香炉があり、外側の庭は石畳になっており、左右に石碑があります。アーチ門に向かって右側の石碑には、1814年に当蔵村(とうのくらむら)の有志によって大修理が加えられ、それを機に当時の村にとっての大金「青銅二千びき」の基金をつくり、その利息を維持管理に当てることにしたと記しています。また、左側の石碑は、戦後修理した建てられたもので、御嶽の名前が記してあります。」

 

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「安谷川(アダニガー)…□那覇市指定文化財・史跡 □指定 1978(昭和53)年11月14日 王府時代は、首里城から島尻(しまじり)・中頭(なかがみ)・国頭(くにがみ)へ宿道(しゅくみち)(王府時代の国道)がそれぞれ通り、番所(バンジュ)(現在の市町村役所)から番所へと結んでいました。浦添への宿道は、龍潭(りゅうたん)の北側松崎馬場跡から安谷川嶽(アダニガーダキ)前を通り、儀保大道(ジーブウフミチ)に続き、浦添(うらそえ)番所へつうじていました。安谷川は、その坂の途中にあります。このカー(井戸)は、長方形に1mほど掘り下げられ、まわりの石積みはあいかた積みになっています。また、水汲みの広場は、石敷きになっていました。排水は、窪地のため西側の暗渠を通して、40mほど離れた川に流れるようにしてあります。石工のすぐれた技術を知るよい資料といえます。15世紀中ごろの古謡「屋良(やら)くわいにや(クェーナ)にも歌われているので、古い時代からこのカー(井戸)のあったことがわかります。地域住民の日常生活に関わりを持った井戸として大切な史跡です。 那覇市教育委員会 平成12年10月設置」

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