あれから20年経ったんですね。もうそんなに・・・
と思ってしまうくらい時の流れは速いです。
当時私は中学生に英語を教えていました。
その日の授業はきっと晩の6時半からだったと思います。
家の1室を教室にしていましたので、
6時半少し前にそちらの部屋に移動しようとした、その時です。
茶の間のテレビが「ジャンボ機がレーダーから消えました!」
とあわただしく速報を始めたのです。
昨日は事故から20年目ということで、テレビで
いくつかのドキュメンタリーやドラマを放送していましたね。
見ていて、事故を風化させてはならない!という
思いがひしひしと伝わってきました。
我が家では、あの年、祖母が体調を崩して入院し、
その心労からか、続いて、母が脚の関節炎になり、
しばらくは歩くのもままならない状態でした。
そう、ちょうどあの事故が起こった頃・・・あの暑い夏でした。
悪いことが重なり、私自身も暗い気持ちで
連日映し出される悲惨な事故現場の様子を眺めていたものです。
祖母は結局翌年の3月に亡くなりました。
母の脚は幸いにもなんとか回復しましたが、
事故の記憶とともに、我が家にとっても試練の年であったと
20年前のことが思い出されました。
航空機史上まれにみる大惨事となり、520人もの犠牲者が出ました。
2度と繰り返されてはいけないはずのことが、また今年の4月、
尼崎のJR脱線事故として起きてしまいましたね。
私たち人間が想像を絶する事故が、容赦なく襲いかかる現実・・・
私達はどうやって身を守っていけばいいのでしょうか?
と思ってしまうくらい時の流れは速いです。
当時私は中学生に英語を教えていました。
その日の授業はきっと晩の6時半からだったと思います。
家の1室を教室にしていましたので、
6時半少し前にそちらの部屋に移動しようとした、その時です。
茶の間のテレビが「ジャンボ機がレーダーから消えました!」
とあわただしく速報を始めたのです。
昨日は事故から20年目ということで、テレビで
いくつかのドキュメンタリーやドラマを放送していましたね。
見ていて、事故を風化させてはならない!という
思いがひしひしと伝わってきました。
我が家では、あの年、祖母が体調を崩して入院し、
その心労からか、続いて、母が脚の関節炎になり、
しばらくは歩くのもままならない状態でした。
そう、ちょうどあの事故が起こった頃・・・あの暑い夏でした。
悪いことが重なり、私自身も暗い気持ちで
連日映し出される悲惨な事故現場の様子を眺めていたものです。
祖母は結局翌年の3月に亡くなりました。
母の脚は幸いにもなんとか回復しましたが、
事故の記憶とともに、我が家にとっても試練の年であったと
20年前のことが思い出されました。
航空機史上まれにみる大惨事となり、520人もの犠牲者が出ました。
2度と繰り返されてはいけないはずのことが、また今年の4月、
尼崎のJR脱線事故として起きてしまいましたね。
私たち人間が想像を絶する事故が、容赦なく襲いかかる現実・・・
私達はどうやって身を守っていけばいいのでしょうか?