こんばんわ
昨日夜中に書き始めたんですがね、あまりにも眠たかったのでそのまま寝てしまったので更に1日遅くなってしまったのですよ。
睡魔に負けてスイマせんてことで今日も少しお付き合いくださいね。
1945年8月9日午前11時02分、アメリカは広島に続き長崎にも原爆を投下しました。
ご存知の方も多いと思いますが、2発目の当初の目標は小倉でした。広島同様入念に偵察をして、原爆の威力が最大限に発揮できる場所に投下目標を置いていました。
広島の場合は、旧太田川と元安川の合流点にある相生橋でした。この橋は、T字型をした特徴のある橋なので、上空から見てもすぐわかる建造物です。
そして小倉の場合は、小倉造兵廠(現在の小倉城付近一帯)でした。ですが、米軍の編隊は目標を捕捉していながら3回リトライするものの投下に失敗し、その後日本軍の高射砲による迎撃で被弾して、さらに築城基地の海軍機が緊急発進したことと天候の悪化により、投下目標を第2候補の長崎に変更したとされています。
戦争について詳しくなくても、小倉から長崎に変更になった理由の一つが、天候の影響だったと言うことはよく知られていることだと思います。
さて長崎の投下目標はと言うと、単に工業地帯だそうです。ですが、投下時刻からも考えられますが、実際のところかなり厚い雲に覆われていたそうです。
なので、飛行中にたまたま雲の切れ目から市街地が見えたから急いで落として、空域から緊急離脱した・・・、それが浦上付近だったと言うことです。
そしてつい最近知ったことがあるんですがね、長崎の原爆投下時に長崎本線(もちろん当時は新線はありません)の列車が長崎から3つぐらい手前の道ノ尾付近を走行中だったそうです。浦上から一山越えているので、山越しに原爆のきのこ雲を見て緊急停止したそうです。もちろん列車も爆風を受けたと思います。その後線路点検と車両点検をして、現場判断で被爆直後(実際には約2・3時間後)の長崎へ救護列車として向かい、ピストン輸送で救護者を諫早や大村などの病院へと運んだそうです。やはり昔の人というのはすごいですね、現場の判断だけでこれだけのことをしてしまうのですから。現場といっても機関士・助士・車掌の3名しかいないのに・・・、当然列車無線なんてありません。
自分は広島の原爆関連の地は数ヶ所行ったことがありますが、長崎の原爆関連の地は未だ未踏の地です。今年も行けるかどうかわかりません、でも早く行かなくてはいけない気がします。
さてさてみなさんは8月9日という日にどういうことを思い感じられたのでしょうか?
広島同様、長崎でも今も多くの人々が苦しんでいるはずです。
やはり体験した恐怖というのは一生消えないと思います。多分死んでも消えないのではないでしょうか?そんな死んでも消えにような恐ろしい体験はあとにも先にもヒロシマ・ナガサキだけで充分です。
書いていても記憶?が思い出されて重い気持ちになってしまうのでこの辺にしておきますね。
おっともうこんな時間だ…。ということで次にみなさんにお会いするのは終戦記念日の15日でしょうか?、その頃にまた戦争関連の記事を書きますのでね、気が向いたらまたお越しくださいね。その前に8日のことを書くかもしれませんね、ということでじゃあまた。
昨日夜中に書き始めたんですがね、あまりにも眠たかったのでそのまま寝てしまったので更に1日遅くなってしまったのですよ。
睡魔に負けてスイマせんてことで今日も少しお付き合いくださいね。
1945年8月9日午前11時02分、アメリカは広島に続き長崎にも原爆を投下しました。
ご存知の方も多いと思いますが、2発目の当初の目標は小倉でした。広島同様入念に偵察をして、原爆の威力が最大限に発揮できる場所に投下目標を置いていました。
広島の場合は、旧太田川と元安川の合流点にある相生橋でした。この橋は、T字型をした特徴のある橋なので、上空から見てもすぐわかる建造物です。
そして小倉の場合は、小倉造兵廠(現在の小倉城付近一帯)でした。ですが、米軍の編隊は目標を捕捉していながら3回リトライするものの投下に失敗し、その後日本軍の高射砲による迎撃で被弾して、さらに築城基地の海軍機が緊急発進したことと天候の悪化により、投下目標を第2候補の長崎に変更したとされています。
戦争について詳しくなくても、小倉から長崎に変更になった理由の一つが、天候の影響だったと言うことはよく知られていることだと思います。
さて長崎の投下目標はと言うと、単に工業地帯だそうです。ですが、投下時刻からも考えられますが、実際のところかなり厚い雲に覆われていたそうです。
なので、飛行中にたまたま雲の切れ目から市街地が見えたから急いで落として、空域から緊急離脱した・・・、それが浦上付近だったと言うことです。
そしてつい最近知ったことがあるんですがね、長崎の原爆投下時に長崎本線(もちろん当時は新線はありません)の列車が長崎から3つぐらい手前の道ノ尾付近を走行中だったそうです。浦上から一山越えているので、山越しに原爆のきのこ雲を見て緊急停止したそうです。もちろん列車も爆風を受けたと思います。その後線路点検と車両点検をして、現場判断で被爆直後(実際には約2・3時間後)の長崎へ救護列車として向かい、ピストン輸送で救護者を諫早や大村などの病院へと運んだそうです。やはり昔の人というのはすごいですね、現場の判断だけでこれだけのことをしてしまうのですから。現場といっても機関士・助士・車掌の3名しかいないのに・・・、当然列車無線なんてありません。
自分は広島の原爆関連の地は数ヶ所行ったことがありますが、長崎の原爆関連の地は未だ未踏の地です。今年も行けるかどうかわかりません、でも早く行かなくてはいけない気がします。
さてさてみなさんは8月9日という日にどういうことを思い感じられたのでしょうか?
広島同様、長崎でも今も多くの人々が苦しんでいるはずです。
やはり体験した恐怖というのは一生消えないと思います。多分死んでも消えないのではないでしょうか?そんな死んでも消えにような恐ろしい体験はあとにも先にもヒロシマ・ナガサキだけで充分です。
書いていても記憶?が思い出されて重い気持ちになってしまうのでこの辺にしておきますね。
おっともうこんな時間だ…。ということで次にみなさんにお会いするのは終戦記念日の15日でしょうか?、その頃にまた戦争関連の記事を書きますのでね、気が向いたらまたお越しくださいね。その前に8日のことを書くかもしれませんね、ということでじゃあまた。