こんばんわ
日付は15日ですが相変わらず忙しくてUPは18日付になってしまいました、さてさて今年もこの日がやってきましたね。
ですが、今年は終戦記念特番がどの局も編成されませんでしたね、何か先人の犠牲を蔑ろにしているような気がします・・・。
子供の頃は8月15日という日の大切さは全くわかりませんでした。ただ子供ながらに、毎年この日はいつもの番組と違って、どこを見ても戦争の番組しかやってなくてつまらない日だと思っていました。今思えば、極めて罰当たりな子ですね・・・。でも今は違いますね、8月15日だけでなく広島・長崎の原爆の日を含め、常に先の大戦について調べ、考えています。戦争責任などいろいろ言われますが、自分の生きているうちに先の大戦の真実を知りたいと思っています。
さてさて、それではちょっと長めですが少しお付き合いくださいね。
「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・」有名な言葉ですね。
1945年8月15日正午、昭和天皇の玉音放送により長い戦争の時代に終わりを告げました。玉音放送を巡っては一部の徹底抗戦派によるクーデターもあったそうですが、天皇には危害は及ばず、ほぼ未遂で制圧されたようです。
4年もの間多くの戦地で多くの人が戦い、多くの命が失われました。
最初から最後まで日本が好き勝手に起こした戦争だった気がします。
そもそも現代の戦争と言うのは、予め宣戦布告文書を相手国に通達してから始めるものです。しかし、先の大戦の開戦は日本側のありえないミスにより真珠湾を奇襲という形になってしまいました。実際アメリカ側は日本側が提出する前に、宣戦布告の情報をつかんでいたようですが・・・。
戦局の転換点の一つとなったミッドウェイ海戦では、上官の誤判断により多くの空母・戦艦・巡洋艦等を失い、戦死者も3,000人を超えました。また、当時無敵といわれた零戦(正式名称は零式艦上戦闘機:れいしきかんじょうせんとうき)ですが、大戦中期にとある島の沼地に不時着(搭乗者は死亡)した零戦がいました。その一機がアメリカの手に渡ったことにより、制空権はアメリカに握られたといっても過言ではありません。アメリカは零戦の性能や構造を徹底的に調べ、それに合った戦術を考えたのでしょう。最強と言われても調べ尽くされては身も蓋もないということですね。
みなさんは連合艦隊司令長官の海軍大将山本五十六という名前は知ってますよね?実は山本長官は一式に搭乗中にアメリカ軍の待ち伏せに遭い、撃墜され戦死したのですが、大本営はこの事実を一ヶ月以上公表しなかったのですが、日本に山本長官の遺骨が届いてから公表し、国葬にしたそうです。このほかにも大本営発表のほとんどが真実ではなかったそうで、勝ち戦は大々的に、負け戦もいかにも勝ち戦かのように発表していたそうです。実際大本営発表の嘘の戦果を信じた部隊もかなりいたようで、実際は全滅した部隊の後方支援を期待して、いざ作戦を実行して返り討ちに遭い全滅した部隊もありました。
後半戦局は悪化する一方で、資材調達も兵力増強も思うように行かず、徴兵免除だった大学生の学徒出陣や、戦闘機で敵艦に突撃する特攻や、特攻の魚雷版の人間魚雷などもうやけくそな状況ですね。
この頃になると政府や軍内部でも、戦争継続に疑問視する人が出始めたようです。近衛文麿内閣は、アメリカと開戦前に和平交渉を模索するもあえなく失敗し、A級戦犯とされている東條英機により内閣総辞職に追い込まれ、その後東條英機内閣が発足したのですが、それ以降まさに戦争一色になり、東條の暗殺計画まであったそうです。自分は今のところ東條英機は最後まで徹底抗戦派だったと思っています。
当時の日本国内(占領地は除く)で唯一地上戦を展開した沖縄ですが、これはあくまでもアメリカの日本侵攻の作戦の一過程に過ぎなかったようです。もしも時のアメリカ大統領ルーズベルトが原爆使用許可を出さなかったら、沖縄だけではなく本土にも侵攻し地上戦を展開する作戦もあったそうです。原爆使用の可否に拘らず、完膚なきまでに日本を叩き潰すつもりだったようですね。
ところで戦犯といえば、時々天皇陛下の戦争責任というものが問われますね。確かに大日本帝国憲法下に於いては、天皇は元帥とされていました。ですが、先の大戦を主導してきたのは日本政府だと思います。天皇陛下万歳、お国のため・・・、政府の教育指針に問題があったのではないでしょうかね?実際昭和天皇は戦争は望んではいなかったようです。
そして、先の大戦では多くの有能な人材も失いましたね、有名なところでは野球界で伝説の投手といわれている沢村栄治、ロサンゼルスオリンピック馬術競技金メダリスト西竹一(バロン西)ですが、他にもたくさんの人がいたと思います。また召集されなかった著名人の中にも空襲などで亡くなった方もいると思います。
終戦になって全ての人に平和が訪れたかというとそうでもありません、戦争には捕虜が付き物です。シベリアで抑留された人や太平洋や東南アジアの島々で連合軍の捕虜となった人の中には、生きて日本の土を踏むことなく亡くなった人もかなりいます。またその逆で、横井庄一さんのように終戦を知ることなく、ジャングルに潜み続けた人もいます。横井さんは運よく日本に帰ってこられました、「恥ずかしながら帰ってまいりました」という言葉は有名ですね。現在名古屋市に記念館があります。
小泉前首相は今年も終戦の日に靖国神社へ参拝されましたが、首相時代には知覧の特攻平和会館を訪れたことがあります。自分はその時報道の映像を見て、凄まじいほどの衝撃が走りました。その映像の中には、特攻隊員の人たちが残した手紙を見て、人目を憚らず大粒の涙を流す小泉さんがいました。心を打たれました。それを見て今まで以上に戦争について知りたいと思ったのは確かなことです。
自分は祖父母に戦争のことを詳しく聞いたことがありません、でももう聞くことはできません。祖父は5年前に、祖母は昨年末に亡くなりました。今までに戦争について聞かなかったことは、人生最大の後悔になってしまいました。あとにも先にもこれ以上の後悔は絶対にありません。
さてさてみなさんは終戦の日に何を思われたのでしょうか?
今回書いたことは、一部を除いて誰でも知っていることですが、ちょっと入り込むとまだ知らないことがたくさんあります。なのでいつになったら真実にたどり着くのかさっぱりわかりません。
この太平洋戦争については、写真で記録に残す以外は全て自分の頭の中でしか記録していません。忘れてしまえばそれまでですが、全てにおいて一度記憶したら死ぬまで忘れられないので、写真以外はデータ化して残すつもりはありません。別に出版物にするわけではなく自分が知りたくて調べているのでデータ化する必要はありませんしね。
あぁ沖縄・・・、モノレール走ってますねぇ。来週にはこの意味がわかりますからね。
ではまた。
日付は15日ですが相変わらず忙しくてUPは18日付になってしまいました、さてさて今年もこの日がやってきましたね。
ですが、今年は終戦記念特番がどの局も編成されませんでしたね、何か先人の犠牲を蔑ろにしているような気がします・・・。
子供の頃は8月15日という日の大切さは全くわかりませんでした。ただ子供ながらに、毎年この日はいつもの番組と違って、どこを見ても戦争の番組しかやってなくてつまらない日だと思っていました。今思えば、極めて罰当たりな子ですね・・・。でも今は違いますね、8月15日だけでなく広島・長崎の原爆の日を含め、常に先の大戦について調べ、考えています。戦争責任などいろいろ言われますが、自分の生きているうちに先の大戦の真実を知りたいと思っています。
さてさて、それではちょっと長めですが少しお付き合いくださいね。
「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・」有名な言葉ですね。
1945年8月15日正午、昭和天皇の玉音放送により長い戦争の時代に終わりを告げました。玉音放送を巡っては一部の徹底抗戦派によるクーデターもあったそうですが、天皇には危害は及ばず、ほぼ未遂で制圧されたようです。
4年もの間多くの戦地で多くの人が戦い、多くの命が失われました。
最初から最後まで日本が好き勝手に起こした戦争だった気がします。
そもそも現代の戦争と言うのは、予め宣戦布告文書を相手国に通達してから始めるものです。しかし、先の大戦の開戦は日本側のありえないミスにより真珠湾を奇襲という形になってしまいました。実際アメリカ側は日本側が提出する前に、宣戦布告の情報をつかんでいたようですが・・・。
戦局の転換点の一つとなったミッドウェイ海戦では、上官の誤判断により多くの空母・戦艦・巡洋艦等を失い、戦死者も3,000人を超えました。また、当時無敵といわれた零戦(正式名称は零式艦上戦闘機:れいしきかんじょうせんとうき)ですが、大戦中期にとある島の沼地に不時着(搭乗者は死亡)した零戦がいました。その一機がアメリカの手に渡ったことにより、制空権はアメリカに握られたといっても過言ではありません。アメリカは零戦の性能や構造を徹底的に調べ、それに合った戦術を考えたのでしょう。最強と言われても調べ尽くされては身も蓋もないということですね。
みなさんは連合艦隊司令長官の海軍大将山本五十六という名前は知ってますよね?実は山本長官は一式に搭乗中にアメリカ軍の待ち伏せに遭い、撃墜され戦死したのですが、大本営はこの事実を一ヶ月以上公表しなかったのですが、日本に山本長官の遺骨が届いてから公表し、国葬にしたそうです。このほかにも大本営発表のほとんどが真実ではなかったそうで、勝ち戦は大々的に、負け戦もいかにも勝ち戦かのように発表していたそうです。実際大本営発表の嘘の戦果を信じた部隊もかなりいたようで、実際は全滅した部隊の後方支援を期待して、いざ作戦を実行して返り討ちに遭い全滅した部隊もありました。
後半戦局は悪化する一方で、資材調達も兵力増強も思うように行かず、徴兵免除だった大学生の学徒出陣や、戦闘機で敵艦に突撃する特攻や、特攻の魚雷版の人間魚雷などもうやけくそな状況ですね。
この頃になると政府や軍内部でも、戦争継続に疑問視する人が出始めたようです。近衛文麿内閣は、アメリカと開戦前に和平交渉を模索するもあえなく失敗し、A級戦犯とされている東條英機により内閣総辞職に追い込まれ、その後東條英機内閣が発足したのですが、それ以降まさに戦争一色になり、東條の暗殺計画まであったそうです。自分は今のところ東條英機は最後まで徹底抗戦派だったと思っています。
当時の日本国内(占領地は除く)で唯一地上戦を展開した沖縄ですが、これはあくまでもアメリカの日本侵攻の作戦の一過程に過ぎなかったようです。もしも時のアメリカ大統領ルーズベルトが原爆使用許可を出さなかったら、沖縄だけではなく本土にも侵攻し地上戦を展開する作戦もあったそうです。原爆使用の可否に拘らず、完膚なきまでに日本を叩き潰すつもりだったようですね。
ところで戦犯といえば、時々天皇陛下の戦争責任というものが問われますね。確かに大日本帝国憲法下に於いては、天皇は元帥とされていました。ですが、先の大戦を主導してきたのは日本政府だと思います。天皇陛下万歳、お国のため・・・、政府の教育指針に問題があったのではないでしょうかね?実際昭和天皇は戦争は望んではいなかったようです。
そして、先の大戦では多くの有能な人材も失いましたね、有名なところでは野球界で伝説の投手といわれている沢村栄治、ロサンゼルスオリンピック馬術競技金メダリスト西竹一(バロン西)ですが、他にもたくさんの人がいたと思います。また召集されなかった著名人の中にも空襲などで亡くなった方もいると思います。
終戦になって全ての人に平和が訪れたかというとそうでもありません、戦争には捕虜が付き物です。シベリアで抑留された人や太平洋や東南アジアの島々で連合軍の捕虜となった人の中には、生きて日本の土を踏むことなく亡くなった人もかなりいます。またその逆で、横井庄一さんのように終戦を知ることなく、ジャングルに潜み続けた人もいます。横井さんは運よく日本に帰ってこられました、「恥ずかしながら帰ってまいりました」という言葉は有名ですね。現在名古屋市に記念館があります。
小泉前首相は今年も終戦の日に靖国神社へ参拝されましたが、首相時代には知覧の特攻平和会館を訪れたことがあります。自分はその時報道の映像を見て、凄まじいほどの衝撃が走りました。その映像の中には、特攻隊員の人たちが残した手紙を見て、人目を憚らず大粒の涙を流す小泉さんがいました。心を打たれました。それを見て今まで以上に戦争について知りたいと思ったのは確かなことです。
自分は祖父母に戦争のことを詳しく聞いたことがありません、でももう聞くことはできません。祖父は5年前に、祖母は昨年末に亡くなりました。今までに戦争について聞かなかったことは、人生最大の後悔になってしまいました。あとにも先にもこれ以上の後悔は絶対にありません。
さてさてみなさんは終戦の日に何を思われたのでしょうか?
今回書いたことは、一部を除いて誰でも知っていることですが、ちょっと入り込むとまだ知らないことがたくさんあります。なのでいつになったら真実にたどり着くのかさっぱりわかりません。
この太平洋戦争については、写真で記録に残す以外は全て自分の頭の中でしか記録していません。忘れてしまえばそれまでですが、全てにおいて一度記憶したら死ぬまで忘れられないので、写真以外はデータ化して残すつもりはありません。別に出版物にするわけではなく自分が知りたくて調べているのでデータ化する必要はありませんしね。
あぁ沖縄・・・、モノレール走ってますねぇ。来週にはこの意味がわかりますからね。
ではまた。