SH快特みやっち

旅する鉄ちゃんが気が向いた時に作品を上げるページ。

おはよぉございまぁす。

2007-08-25 09:37:22 | 戦争と戦争遺跡
はいどうも。
今ね↓ここにいるんですよ。


昨日の夕方沖縄から鹿児島へぶっ飛びましてね、空港のニッポンレンタカーさんで車借りて南薩までやって来たんですよ。
夜中は大雨でえらいこっちゃでしたけどね、太陽が昇り始めたらスカッと晴れましたよ。

ってことでぇ、ただいまセントレアにおりますぞぉ~

2007-08-23 07:25:16 | 戦争と戦争遺跡
はい、おはよぉございます。

今日から3日間沖縄・南薩へ行ってまいりますよ。
今回は寝坊しずに名古屋を6時半のμに乗りましたのでね、ちゃんと予定通りですよ。

でもって那覇まではJAL便を使いますのでね、機種は747-400なんですよ。だからね、2階席に乗るかクラスJにするか迷いましたけどね、2階席にしました。
ということで、那覇には11時の到着予定ですのでね、それまで茶王!(←このネタが分かる人はどうバカです)ってことでまた後ほど。

♪は~るばる~来たぜ会合~。

2007-08-18 00:28:37 | GTY
こんばんわ

戦争関連の記事も書き終わったので、ちょっと7・8日のお話をしますね。
あまり時間もないので、1話完結です。

8日の夜に某グループの某会合が某飯○橋界隈で行われたのでちょっと行ってきたのですよ、まぁ会合と言う名の飲み会なんですけどね。
最初はね、8日の法事の関係で8日の昼から新幹線で行く予定だったんですよ、でもね、東京で用事もあったので7日の夜から行くことにしましてね、ダッシュで準備して出かけたのですよ。そしたらねいつも首からぶら下げてる水どうのネックホルダーを忘れてきてしまったのですなぁ、でその中にSuicaも入ってたんですよ。でもSuicaは2枚持ってて1枚はいつも財布の中に入ってるから構いませんけどね、きっぷをしまっとく場所がないんですなぁ、いつもなんでもかんでもネックホルダーに突っ込んでますからね。
でね、最初はドリームで行くつもりだったけど、名古屋駅のMVでMの空席照会したらM92の方が空いてたので窓口で1Aを取ったのですよ。
1時間も時間が空いてしまいましてね、ホームで時間つぶししてからベルマートへビールを買いに行ったのですよ。そしたらね、黒ラベルのN700デビュー記念缶があったから鉄ちゃんとして当然買いましたよ。


そうしてM92に乗りましたらね、なんと車内温度が28℃なんですよ。でね、車掌が回ってきたときに言ってやりましたよ、空調はかかっとるのかね?と、そしたら彼は汗だくにもかかわらずこれが最強だとぬかしやがったのですよ。そしてあとで調整しますと決まり文句だけ言って去っていったのでね、こっそりデッキの配電盤を覗きましたらね、設定温度26℃・・・、設定温度と車内温度が近すぎて運転ランプが点いてないんですよ、だからね、まずは両車端の排気扇のスリットを開けて、設定温度を20℃にして一気に車内温度を25℃まで下げてから、設定温度を23℃にして25℃をキープするようにしたのですよ。前にあかつきのレガートに乗ったときも、設定温度が30℃だったから20℃に下げたことがあります。
今日乗った車両は8号車だったんですけどね、この車だけが空調の効きが悪かったんですよ。なぜかといいますとね、普通の189・183の空調機器はAU12型ですっごい効きがいいんですけどね、8号車だけはスリット型なのでとにかく効きが悪いんですよ。

ということで国鉄型に乗務する車掌さん、こまめに車内を回って温度の確認と調整をするように!ベテランの先輩から教えてもらえなかったなら、自分の体で感じて覚えましょう。国鉄型はJR型の集中管理のようにうまくはいきません。各デッキの配電盤でこまめな調節が必要です、ということは、車内改札を済ませたら乗務員交代する駅まで車掌室で座ってボケ~ッとしてるんじゃなくて、こまめに車内を回って空調管理をしましょう!国鉄型の空調管理がしっかりできないうちはいつまで経っても一人前とはいえないですね。

そうして静岡を出たら知らん間に寝てましてね、横浜のおはよう放送で起こされて、そのまま品川で降りたのですよ。
で、一旦改札を出て、スイカに切替えて大井町へ戻って東急に乗換えて下神明へ行ったのですよ。そこで3時間ほど新幹線を撮影してましてね、N初撮影でついでに500系も撮影しときましたよ。
そのあとはあまりにも眠たかったので山手線で寝ながら2週ぐらいして、遅めのお昼を食べがてら東京駅で201を撮影してましたけどね、15時頃になるとモロに影が落ちてしまいましてね微妙なとこですね。

今の赤レンガのドームと201の組み合わせも貴重になりますね。
そして201とE233の並びももうすぐ撮れなくなりますね。


ちょっと早めに飯田橋へ行って、ベックスでお茶しながら秋の予定を立てて時間つぶしてから集合場所の東口へ行って、結局いつもの居酒屋ビルで飲むことになったのですな。
そうして秋の合宿先を決めて22時半頃まで飲んで、帰りはドリームで帰ります。何せ次の日は朝から仕事ですからね・・・。
相変わらず爆睡して帰りましてね、三ケ日でも起きずに星が丘ぐらいで起きましたよ。
そいで名鉄に乗ったらクーラーガンガンで朝っぱらからやる気なくなりました。家へ帰っても仮眠する暇もなく仕事へ行ったのですよ・・・。

てことで会合編は終わりです、ちょっと端折って書きすぎましたね。
まあ次回をお楽しみにぃってな感じでまたお会いしましょう。


終戦

2007-08-15 04:55:44 | 戦争と戦争遺跡
こんばんわ

日付は15日ですが相変わらず忙しくてUPは18日付になってしまいました、さてさて今年もこの日がやってきましたね。
ですが、今年は終戦記念特番がどの局も編成されませんでしたね、何か先人の犠牲を蔑ろにしているような気がします・・・。
子供の頃は8月15日という日の大切さは全くわかりませんでした。ただ子供ながらに、毎年この日はいつもの番組と違って、どこを見ても戦争の番組しかやってなくてつまらない日だと思っていました。今思えば、極めて罰当たりな子ですね・・・。でも今は違いますね、8月15日だけでなく広島・長崎の原爆の日を含め、常に先の大戦について調べ、考えています。戦争責任などいろいろ言われますが、自分の生きているうちに先の大戦の真実を知りたいと思っています。
さてさて、それではちょっと長めですが少しお付き合いくださいね。


「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・」有名な言葉ですね。
1945年8月15日正午、昭和天皇の玉音放送により長い戦争の時代に終わりを告げました。玉音放送を巡っては一部の徹底抗戦派によるクーデターもあったそうですが、天皇には危害は及ばず、ほぼ未遂で制圧されたようです。
4年もの間多くの戦地で多くの人が戦い、多くの命が失われました。
最初から最後まで日本が好き勝手に起こした戦争だった気がします。
そもそも現代の戦争と言うのは、予め宣戦布告文書を相手国に通達してから始めるものです。しかし、先の大戦の開戦は日本側のありえないミスにより真珠湾を奇襲という形になってしまいました。実際アメリカ側は日本側が提出する前に、宣戦布告の情報をつかんでいたようですが・・・。
戦局の転換点の一つとなったミッドウェイ海戦では、上官の誤判断により多くの空母・戦艦・巡洋艦等を失い、戦死者も3,000人を超えました。また、当時無敵といわれた零戦(正式名称は零式艦上戦闘機:れいしきかんじょうせんとうき)ですが、大戦中期にとある島の沼地に不時着(搭乗者は死亡)した零戦がいました。その一機がアメリカの手に渡ったことにより、制空権はアメリカに握られたといっても過言ではありません。アメリカは零戦の性能や構造を徹底的に調べ、それに合った戦術を考えたのでしょう。最強と言われても調べ尽くされては身も蓋もないということですね。
みなさんは連合艦隊司令長官の海軍大将山本五十六という名前は知ってますよね?実は山本長官は一式に搭乗中にアメリカ軍の待ち伏せに遭い、撃墜され戦死したのですが、大本営はこの事実を一ヶ月以上公表しなかったのですが、日本に山本長官の遺骨が届いてから公表し、国葬にしたそうです。このほかにも大本営発表のほとんどが真実ではなかったそうで、勝ち戦は大々的に、負け戦もいかにも勝ち戦かのように発表していたそうです。実際大本営発表の嘘の戦果を信じた部隊もかなりいたようで、実際は全滅した部隊の後方支援を期待して、いざ作戦を実行して返り討ちに遭い全滅した部隊もありました。
後半戦局は悪化する一方で、資材調達も兵力増強も思うように行かず、徴兵免除だった大学生の学徒出陣や、戦闘機で敵艦に突撃する特攻や、特攻の魚雷版の人間魚雷などもうやけくそな状況ですね。
この頃になると政府や軍内部でも、戦争継続に疑問視する人が出始めたようです。近衛文麿内閣は、アメリカと開戦前に和平交渉を模索するもあえなく失敗し、A級戦犯とされている東條英機により内閣総辞職に追い込まれ、その後東條英機内閣が発足したのですが、それ以降まさに戦争一色になり、東條の暗殺計画まであったそうです。自分は今のところ東條英機は最後まで徹底抗戦派だったと思っています。
当時の日本国内(占領地は除く)で唯一地上戦を展開した沖縄ですが、これはあくまでもアメリカの日本侵攻の作戦の一過程に過ぎなかったようです。もしも時のアメリカ大統領ルーズベルトが原爆使用許可を出さなかったら、沖縄だけではなく本土にも侵攻し地上戦を展開する作戦もあったそうです。原爆使用の可否に拘らず、完膚なきまでに日本を叩き潰すつもりだったようですね。
ところで戦犯といえば、時々天皇陛下の戦争責任というものが問われますね。確かに大日本帝国憲法下に於いては、天皇は元帥とされていました。ですが、先の大戦を主導してきたのは日本政府だと思います。天皇陛下万歳、お国のため・・・、政府の教育指針に問題があったのではないでしょうかね?実際昭和天皇は戦争は望んではいなかったようです。
そして、先の大戦では多くの有能な人材も失いましたね、有名なところでは野球界で伝説の投手といわれている沢村栄治、ロサンゼルスオリンピック馬術競技金メダリスト西竹一(バロン西)ですが、他にもたくさんの人がいたと思います。また召集されなかった著名人の中にも空襲などで亡くなった方もいると思います。
終戦になって全ての人に平和が訪れたかというとそうでもありません、戦争には捕虜が付き物です。シベリアで抑留された人や太平洋や東南アジアの島々で連合軍の捕虜となった人の中には、生きて日本の土を踏むことなく亡くなった人もかなりいます。またその逆で、横井庄一さんのように終戦を知ることなく、ジャングルに潜み続けた人もいます。横井さんは運よく日本に帰ってこられました、「恥ずかしながら帰ってまいりました」という言葉は有名ですね。現在名古屋市に記念館があります。
小泉前首相は今年も終戦の日に靖国神社へ参拝されましたが、首相時代には知覧の特攻平和会館を訪れたことがあります。自分はその時報道の映像を見て、凄まじいほどの衝撃が走りました。その映像の中には、特攻隊員の人たちが残した手紙を見て、人目を憚らず大粒の涙を流す小泉さんがいました。心を打たれました。それを見て今まで以上に戦争について知りたいと思ったのは確かなことです。
自分は祖父母に戦争のことを詳しく聞いたことがありません、でももう聞くことはできません。祖父は5年前に、祖母は昨年末に亡くなりました。今までに戦争について聞かなかったことは、人生最大の後悔になってしまいました。あとにも先にもこれ以上の後悔は絶対にありません。


さてさてみなさんは終戦の日に何を思われたのでしょうか?
今回書いたことは、一部を除いて誰でも知っていることですが、ちょっと入り込むとまだ知らないことがたくさんあります。なのでいつになったら真実にたどり着くのかさっぱりわかりません。
この太平洋戦争については、写真で記録に残す以外は全て自分の頭の中でしか記録していません。忘れてしまえばそれまでですが、全てにおいて一度記憶したら死ぬまで忘れられないので、写真以外はデータ化して残すつもりはありません。別に出版物にするわけではなく自分が知りたくて調べているのでデータ化する必要はありませんしね。

あぁ沖縄・・・、モノレール走ってますねぇ。来週にはこの意味がわかりますからね。
ではまた。

62回目の長崎原爆の日

2007-08-11 04:29:35 | 戦争と戦争遺跡
こんばんわ

昨日夜中に書き始めたんですがね、あまりにも眠たかったのでそのまま寝てしまったので更に1日遅くなってしまったのですよ。
睡魔に負けてスイマせんてことで今日も少しお付き合いくださいね。


1945年8月9日午前11時02分、アメリカは広島に続き長崎にも原爆を投下しました。
ご存知の方も多いと思いますが、2発目の当初の目標は小倉でした。広島同様入念に偵察をして、原爆の威力が最大限に発揮できる場所に投下目標を置いていました。
広島の場合は、旧太田川と元安川の合流点にある相生橋でした。この橋は、T字型をした特徴のある橋なので、上空から見てもすぐわかる建造物です。
そして小倉の場合は、小倉造兵廠(現在の小倉城付近一帯)でした。ですが、米軍の編隊は目標を捕捉していながら3回リトライするものの投下に失敗し、その後日本軍の高射砲による迎撃で被弾して、さらに築城基地の海軍機が緊急発進したことと天候の悪化により、投下目標を第2候補の長崎に変更したとされています。
戦争について詳しくなくても、小倉から長崎に変更になった理由の一つが、天候の影響だったと言うことはよく知られていることだと思います。
さて長崎の投下目標はと言うと、単に工業地帯だそうです。ですが、投下時刻からも考えられますが、実際のところかなり厚い雲に覆われていたそうです。
なので、飛行中にたまたま雲の切れ目から市街地が見えたから急いで落として、空域から緊急離脱した・・・、それが浦上付近だったと言うことです。
そしてつい最近知ったことがあるんですがね、長崎の原爆投下時に長崎本線(もちろん当時は新線はありません)の列車が長崎から3つぐらい手前の道ノ尾付近を走行中だったそうです。浦上から一山越えているので、山越しに原爆のきのこ雲を見て緊急停止したそうです。もちろん列車も爆風を受けたと思います。その後線路点検と車両点検をして、現場判断で被爆直後(実際には約2・3時間後)の長崎へ救護列車として向かい、ピストン輸送で救護者を諫早や大村などの病院へと運んだそうです。やはり昔の人というのはすごいですね、現場の判断だけでこれだけのことをしてしまうのですから。現場といっても機関士・助士・車掌の3名しかいないのに・・・、当然列車無線なんてありません。
自分は広島の原爆関連の地は数ヶ所行ったことがありますが、長崎の原爆関連の地は未だ未踏の地です。今年も行けるかどうかわかりません、でも早く行かなくてはいけない気がします。

さてさてみなさんは8月9日という日にどういうことを思い感じられたのでしょうか?
広島同様、長崎でも今も多くの人々が苦しんでいるはずです。
やはり体験した恐怖というのは一生消えないと思います。多分死んでも消えないのではないでしょうか?そんな死んでも消えにような恐ろしい体験はあとにも先にもヒロシマ・ナガサキだけで充分です。

書いていても記憶?が思い出されて重い気持ちになってしまうのでこの辺にしておきますね。
おっともうこんな時間だ…。ということで次にみなさんにお会いするのは終戦記念日の15日でしょうか?、その頃にまた戦争関連の記事を書きますのでね、気が向いたらまたお越しくださいね。その前に8日のことを書くかもしれませんね、ということでじゃあまた。