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【滋賀・近江の先人第68回】初代南極探検隊越冬隊長・西堀栄三郎(東近江市)

 西堀 栄三郎(にしぼり えいざぶろう、1903年(明治36年)1月28日 - 1989年(平成元年)4月13日)は、登山家、無機化学者、技術者。第一次南極観測越冬隊長

西堀栄三郎の祖父は、滋賀県愛知郡横溝村(旧湖東町・現東近江市)出身の近江商人で、京都四条のちりめん問屋の末っ子。

祖父西堀清兵衛は丁稚から始め、西堀商店を起こし、チリメン製造販売を行い京都で大成した近江商人である。ちりめん(縮緬、クレープ織りは絹を平織りにして作った織物で京都丹後縮緬や長浜縮緬が有名で宮内庁に納める最高級品だったようだ。

西堀栄三郎本人は京都で生まれだが、祖父の郷里の東近江市には栄三郎の栄誉を称え、「西堀榮三郎記念探検の殿堂」が設けられている。

また、同じ横溝町に西堀栄三郎の祖父「西堀清兵衛」の発祥地である「西堀公園」もある。


↑西堀榮三郎記念探検の殿堂HPより

 西堀 栄三郎は、京都一中、三高を経て、京都帝国大学理学部化学科卒業。京大講師、助教授を歴任した後、東京電気(東芝)に移る。
 1936年、京都大学より理学博士。論文の題は「分子線による化學的研究 」。東芝技術本部長時代には海軍の要請を受けて真空管「ソラ」を開発し、技術院賞を受賞した。材料不足の状態でも大量生産できるように、微細な部分に至るまで製造マニュアルを完備し、"新橋の芸者を集めてでも製造可能"とされた。

 戦後は独立の技術コンサルタントとして統計的品質管理手法を日本の産業界に持ち込み、デミング賞や電電公社総裁賞を受賞。戦後日本の飛躍的な工業発展の礎の1つとなった。

 京大に助教授、教授として復帰してからも精力的に活動し、第一次南極観測隊の副隊長兼越冬隊長や日本山岳協会会長を務める。日本初の8000m級登山であるマナスル登山計画時にはネパール政府との交渉役として活躍。
日本原子力研究所理事や日本生産性本部理事も務めた。

エピソード
鹿沢温泉において、雪山讃歌」を作詞したことでも知られる(メロディはPercy Montross作曲の「いとしのクレメンタイン」)。
京大の学生時代から旧制中学以来の親友である桑原武夫(後にフランス文学の研究で文化勲章を受章)や今西錦司(後に生態学の研究で文化勲章を受章)と共に登山家として活躍した。
語学にも堪能であり、1922年、当時旧制第三高等学校の生徒だった西堀が、ノーベル賞受賞直後に日本滞在中のアインシュタインに3日間通訳として同行し、京都観光案内をした。

 南極横断を生涯の夢とした植村直己に六分儀等の天測装置とその使用法を教えるなど、植村の有力な支持者の一人でもあった。妻は今西錦司の妹。妻が「結婚してからも、西堀に聞いたことがあるんですよ。あなた今西の兄と私とどっちが好きなの」と問い詰めた、というほど今西と親しかった。1973年、70歳の時にネパールの未踏峰ヤルン・カン(カンチェンジュンガ西峰)登山隊長となり、3週間かけて5500mのベースキャンプまで行った。その時宇宙塵の収集をした。

経歴
昭和11年京都帝国大学理学部助教授、同年東京電気(現・東芝)入社、昭和24年退社。
戦前は真空管製造技術を研究、戦後は魔法びんの研究で特許をとる。東海大学教授、電電公社電気通信研究所特別研究室長を経て、昭和31年〜昭和33年京大教授。
昭和32年には第一次南極観測越冬隊長。
その後、昭和33年日本原子力研究所理事、昭和40年日本原子力船開発事業団理事、昭和

47年日本生産性本部理事、57年日本工業技術振興協会会長を歴任。

一方、京都府立一中、三高、京大を通じて山岳部で活躍。26年にはネパールを訪問してマナスル登山の端緒を開き、48年京大ヤルン・カン遠征隊長、昭和55年には日本山岳会のチョモランマ登山隊総隊長として登頂を成功に導いた。また日本山岳会第13代会長、日本ネパール協会第2代会長も務めた。

主著に「品質管理実施法」「南極越冬記」「石橋を叩くと渡れない」「出る杭をのばす」「品質管理心得帖」など。また「雪山賛歌」の作詞者でもある。

<Wikipedia引用>

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