子ども対象の戦争体験を聞く会がこのほど、滋賀県平和祈念館(東近江市下中野町)で開かれ、郷土史家の「中島伸男」さん(88)(東近江市昭和町)が講師を務めた。「中島少年」が、戦時下の八日市で何を見て、何を思ったのか語った。
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↑写真:滋賀報知新聞より
耳つんざく機銃掃射「一番怖かった」戦後もひっ迫、草を混ぜたご飯
太平洋戦争は、八日市国民学校に入学した年に勃発した。
「♪きょうもたのしく学校へ みんなでそろって行けるのは 兵隊さんのおかげです お国のために、お国のために戦った兵隊さんのおかげです」中島さんは「今もしっかり歌える」と、1年生で覚えた軍国童謡を口ずさんだ。
2年生の頃までは、新聞やラジオで「勝った、勝った」のニュースばかり。重苦しい雰囲気に少しずつ変わってきたのが、3年生に進級した1943年(昭和17年)ごろから。
ある日、先生に引率されて町中に行くと、石灰で描かれた米・英の国旗を大人たちが踏みつけていた。中島さんも足に力を込めて、敵意をむき出しにした。
戦争末期の1945年(昭和20年)、5年生になると、いよいよ食べ物がなくなり、縁側で泣いて「お母ちゃん、おなかがすいた」とねだった。その年の夏の早朝、突然、「バリバリバリ」と、耳をつんざくような大きな音がした。慌てて庭の防空壕に母と転げ込み、後から父も飛び込んできた。
7月24日朝6時頃、米軍10数機による陸軍飛行場への来襲だった。この朝は、「空襲警報」のサイレンは鳴らなかった。死を突きつけられ、「一番怖かった」。この日、爆弾や機銃掃射で2人が死亡した。
終戦後は食糧事情が更に悪化。少しのご飯に父が摘んできた草を混ぜて食べたが、どの草もまずかった。それでもまだマシだったかもしれない。
ある日、兄と京都へ出かけたとき、草を混ぜた米のおにぎりを食べていると、戦災孤児のようなひどい身なりをした同じ年ごろの男の子がじっと見つめてきた。兄がおにぎりをあげると、おいしそうにほおばっていた。「今でもその光景が忘れられない」。
「戦争はとんでもないことばかり起こる。私は父母が死んだり、焼け出されたりはしなかったが、本当に大変な時代だったと夏の草を見て思う。1人1人が『戦争はダメ』という気持ちで平和が守られている」と訴えていた。
<滋賀報知新聞より>