東近江市五個荘竜田町の近江商人の蔵屋敷跡で2月、旧日本陸軍の戦闘機「 飛燕(ひえん) 」のエンジン(長さ約150cm、高さと幅各約80cm)が見つかった。
「飛燕」は太平洋戦争中の特攻にも使われた液冷式エンジンの主力戦闘機で、約3000機が製造されたがほとんど現存していない。見つかったエンジンは軍によって隠されたものとみられ、地元の東近江市民グループが保存に動き出している。
↑写真:読売新聞より
「父の話は本当だった」
東近江市市宮荘町の諏訪一男さん(81)はエンジン発見の新聞記事を読んで、かつて父の諏訪栄太郎さんが語っていた話を思い返した。
飛燕は川崎航空機工業(現川崎重工業)が開発し、1943年に日本陸軍に採用された。当時主流だった空冷式に比べて空気抵抗を小さくできる液冷式の戦闘機で、戦争末期には米軍爆撃機B29に体当たりする攻撃にも使われたという。かつて東近江市内にあった旧陸軍の八日市飛行場にも本土決戦に備え、終戦間際に配備された。
在郷軍人だった諏訪栄太郎さんは、ある時、かつて所属していた陸軍の上司に頼まれ、在郷軍人の仲間と八日市飛行場から飛行機のエンジンを運び出し、穴を掘って隠したという。父は29年前に82歳で亡くなったが、終戦後も「(エンジンを)米軍が捜し出して見つけたら、(隠した)自分は捕まる」とおびえていた。
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土まみれのエンジンが見つかったのは、終戦から78年を迎える今年の2月。屋敷跡を工事中の業者が土の中から発見した。
修復した飛燕の実機を展示している「岐阜かかみがはら航空宇宙博物館」(岐阜県)と、日本航空協会(東京都)が写真を分析するなどし、特徴的なエンジンの形状などから飛燕のものだと判明。
↑写真:読売新聞より
話を聞きつけた市民グループ「東近江戦争遺跡の会」が屋敷跡の土地の所有者からエンジンを譲り受け、東近江青年会議所の協力も得て、石材をつり上げる車で保管場所に移動させた。
↑写真:読売新聞より
エンジンが発掘される様子を見守っていた近くの市田孝彦さん(84)は小学生の頃、終戦後に子どもの遊び場になっていた屋敷跡で、畳1枚分の大きさの穴に置かれたエンジンを見たことがある。ここに飛行機のエンジンがあることは当時、子どもたちの間で知られており、自身も赤、白、黄、黒色のコードを引き抜いて遊んだ覚えがある。
戦時中は幼く、戦争の怖さは覚えていなかったが、「エンジンが戦闘機だと知って、空襲警報で防空 壕(ごう) に逃げ込んだ当時の記憶が鮮明によみがえった」と市田さん。「出撃して命を失った人もいると思うと複雑な気持ちだ」と語った。
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「戦争遺跡の会」では、現在、エンジンの一般公開に向け、保管、展示場所を探している。
山本享志会長(55)は「戦争を知る人は減り、風化が進んでいる。エンジンの実物が見つかり、かつて地元にも軍の飛行場があったことを強く実感できる」とその意義を説明する。
父が隠したエンジンだと確信する諏訪さんは「多くの人が目にし、戦争について考えてくれたら、命がけで運んだ父の供養にもなる」と話す。70年以上の時を超えて姿を現したエンジンが、物言わぬ語り部となって戦争の記憶を次世代に伝えてくれることを願う。
<液冷式エンジン> 水を循環させて冷やすエンジンで、箱状の外形が特徴。旧日本軍の戦闘機で使っていた機種は飛燕などわずかで、当時は高速飛行が期待される一方、技術的に生産や整備の難しさが指摘された。零戦などほかの多くの戦闘機は機体が受ける空気で冷やす「空冷式」だった。
<読売新聞より>