久野 久(くの ひさ、1886年(明治29年) - 1925年(大正14年)は、滋賀県膳所町(現・大津市)馬場(ばんば)出身の日本初のピアニストである。「久子」と表記されることもある。
ヒストリー
少女時代に近所の神社の石段で転倒し、片足に障害を負う(後に、ピアノのペダルがうまく踏めないほどだったという)。母の死後に京都の叔父に引き取られ、叔父の勧めで自活のために邦楽を学ぶ。
しかし、邦楽の世界に限界を感じていた兄の勧めで15歳の時に東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に入学、そこで初めてピアノを学ぶ。当初は成績も良くなかったが、猛練習を行って上達し、研究科に進む。
1910年(明治43年)、東京音楽学校の助教授となる。このころ、建築家の中條精一郎家の娘、百合子にピアノを教えている。そののちに作家となった宮本百合子は、小説『道標』のなかで、久をモデルにした「川辺みさ子」を、回想の場面に登場させている。1915年(大正10年)、自動車事故で一時重体となるが翌年に復帰。1917年(大正12年)、東京音楽学校教授となる。1918年(大正13年)には上野の奏楽堂で「ベートーヴェンの午后」と題するリサイタルでソナタ5曲を演奏して大成功を収めた。
1923年(大正12年)、文部省の海外研究員としてベルリンに、そののちウィーンに移るが、ヨーロッパの生活習慣にまったく無頓着な行動(常に和服姿で過ごす、西洋式マナーを習得していない等)をとり、周囲の反発を買う。自身のピアノ演奏に関しても、エミール・フォン・ザウアーの教えを受けたとき、基礎からのやり直しを言い渡されたことに絶望し、1925年(大正14年)4月20日未明にバーデン・バイ・ウィーンのホテル屋上から投身自殺を図り、同日正午頃に搬送先の病院で死去。39歳。
久子の人生はピアノ、ベートーベン、芸術、練習しかなかった。ベートーベンの神髄に迫れない自分に絶望したのである。
渡欧の前(おそらく1922年(大正11年)か1923年(大正12年)に東京蓄音器株式会社でベートーヴェンの『ピアノソナタ第14番』の録音を残しており、これが彼女の唯一の録音となってしまった(死後の1926年(大正15年/昭和元年)に追悼盤としてリリースされた)。
1997年(平成9年)10月24日放送の『驚きももの木20世紀』「衝撃の自殺! 久野久の悲劇」において終楽章の一部が放送されている。現在では、日本音声保存の『ロームミュージックファンデーション SPレコード復刻CD集 第4集』に収録されている。
評価
久野の演奏がヨーロッパで受け入れられなかったことについては、当時の日本の演奏界の未熟さを示す例と一般では見なされている。これに対し、音楽学者の渡辺裕は、久の演奏について、当時のヨーロッパにおける演奏慣習にありがちなテンポの揺れがなく、「楽譜通り」のものである点に注目し、むしろその後の主流となる原典主義の演奏法を先取りするものであったという見解を述べている。
故中村紘子によれば、久の演奏法は指を大きく曲げ、手首を鍵盤の下まで下げるという独特のものだったという(『驚きももの木20世紀』より)。
<Wikipedia引用>