2代目中村治兵衛宗岸(貞亨2年-宝暦7年)(1685-1757年)
近江国神崎郡石馬寺村(現:滋賀県東近江市五個荘町石馬寺)出身の麻布商。
「売り手よし、買い手よし、世間よし」という近江商人の格言で有名な理念を説いた。
初代中村治兵衛宗無は、五個荘で年貢軽減のために冬期の農閑期の副業として麻布製織販売をしていた。
2代宗岸は元禄宝永の頃、信州に行商し、帰路、信州、上州で麻を買い入れ、糸の作り方、織り方まで品質向上に工夫し、改良を加え持ち下がり行商を行った。
やがて東北まで足を延ばした。この頃になると近江麻布は著名な国産品となっていた。
その後、商売は信用を得て成功し、中年を迎えて長男に3代目中村治兵衛宗壽の家督を譲った。
ところが、不幸なことに延亨4年(1747年)3代目宗壽は34歳で亡くなり、孫娘の妙寿に、近くの商家から宗次郎を婿養子に迎え4代目中村治兵衛宗哲を継がせた。
2代目宗岸の「書置」
妻と子に先立たれた2代目治兵衛宗岸が初めて幼主の宗次郎(4代目治兵衛宗哲)へ「書置」を記したのは、1754年(宝暦4年)11月のこと。この「書置」には、家と家業の存在を15歳の幼い養嗣子の教え諭さなければならない、70歳に達した宗岸家の事情があった。
この書き置き(遺言状)には、弱冠15歳で経験の浅い宗次郎を気遣い、日常生活から商いの心得まで細やかな指導が書かれている。
4代目治兵衛を継いだ宗次郎は2代目治兵衛宗岸の遺言を守り、麻布商の他、木綿、京織物等を北陸東山各地に行商し、一層事業を拡大したという。
「宗次郎幼主書置」:「売り手よし、買い手よし、世間よし」の原典
「三法よし理念を示す原典となったこの「書置」は、24カ条(「宗次郎幼主書置」11カ条、「追書宗次郎」13カ条)からなる遺言状「書置」文書は、3mにもおよぶ長文である。
「宗次郎幼主書置」の8番目の条文には次のように書かれていた。
例えへ他国へ行商に出かけても、自分の持参した衣類等の商品は、出向いて行ったその国の全ての顧客が気持ち良く着用できるように心がけ、自分のことばかり計算して高利を望むようなことをしてはならない。
先ず、お客様のためを思って計らうことを優先すること。行商の結果、利益を得れるかどうかは天の恵み次第であると謙虚な態度であること。ひたすら商品をお届けした地方の人々のことを大切に思って商売をしなければならない。
そうすれば、天道にかない、心身とも健康に暮らすことができる。自分の心に悪心の生じないように、神仏への信心を忘れないこと。持ち下り行商に出かける時は、以上のような心がけが一番大事なことである。
時は巡り、明治23年当時、中村家は12代治太郎(治徳)(治兵衛家8代)になっていたが麻布商人として盛大だった。
しかし、明治34年頃突然倒産した。倒産の理由は不詳だが絹、綿花の台頭による「麻布」の衰退が大きな要因になったのだろう。
また、この時期には同業で隆盛を誇っていた高宮の堤家や能登川の阿部家も衰退している。
しかし、三法よし理念を示す原典と言うべき、「売り手よし、買い手よし、世間よし」の精神は近江商人に引継がれ、今日の商売でも脈々と生き続いている。
中村家と中村治兵衛家の関係
中村家初代(多門法印)→2代中村刑部→3代角内(永徳)寛政年間→4代源右衛門(道仙)享保年間→5代源右衛門(宗無)(治兵衛家初代)享保年間→6代治兵衛(宗岸)(治兵衛家2代)宝暦年間→7代治兵衛(宗壽)(治兵衛家3代)延享年間→8代治兵衛(宗哲)(治兵衛家4代)文政年間→9代治兵衛(宗仙)(治兵衛家5代)江戸天保年間→10代治兵衛(宗器)(治兵衛家6代)江戸明治初め→11代治兵衛(宗誘)(治兵衛家7代)明治大正年間→12代治太郎(治徳)(治兵衛家8代)明治大正年間
初代中村治兵衛:享保年間、(法名:宗無)
2代目中村治兵衛:宝暦年間、(法名:宗岸)
3代目治兵衛:延享年間、宗岸の嫡男(法名:宗壽〈そうじゅ〉は、延享4年(1747年)9月26日に34歳で没した。
4代目治兵衛:文政年間、3代宗壽の遺児である娘(法名:妙壽)に養子・宗次郎を片山半兵衛家から迎えた。(法名:宗哲)
<Wikipedia、三方よし報等引用>