尼子経久(あまご つねひさ)(長禄2年(1458年)ー天文10年(1541年))は、戦国時代の武将・大名。京極氏の出雲守護代。「十一ヶ国太守」とも言われる。
室町時代になると、出雲、隠岐守護には「京極氏」、石見には大内氏が任じられたが、応仁の乱後、下剋上の風潮が一段と強まり、富田(とだ)城(広瀬町)を拠点とする京極氏の守護代「尼子(あまこ)氏」が急速に強大化し、奥出雲の砂鉄や石見銀山を手に入れて、16世紀初めの最盛期には山陰、山陽にまたがる大戦国大名に成長した。しかし、間もなく衰退の色を強め、永禄9年(1566)安芸(あき)の毛利元就によって滅ぼされた。
しかし、3代目「清定」の時代はいまだ守護京極氏の権威が背後にあったことは否めない。そして文明9年(1477年)、「清定」の子4代目「経久」が20歳の若さで尼子氏の家督を継ぐ。
ヒストリー
少年期
「尼子経久」は長禄2年(1458年)11月20日、京極氏の出雲守護代・「尼子清定」の嫡男として出雲国に生まれる。幼名は又四郎。
文明6年(1474年)、人質として出雲・飛騨・隠岐・近江守護を務める主君・「京極政経」の京都屋敷へ送られ、この後5年間、京都に滞在する。滞在中に元服し、京極政経の偏諱を賜り、「経久」と名乗る。5年目に京都の滞在生活を終え、出雲国に下向する。
文明9年(1477年)に20歳に父「清定」から家督を譲られた。
●経久の挫折と再起
文明14年(1482年)12月、室町幕府は京極政経と尼子経久に重大な指令を発した。すなわち、「出雲・隠岐両国の段銭を、京極持清のとき、その被官人の要求によって免除したのをよいことにして、公役以下を勤めなくなったのはけしからん。そこで免除を廃し、永亨年中の例のとおり、諸役を勤めるように京極政経に仰せつけたから、さよう心得よ」というものであった。
だが、25歳という若さの経久は、これを蹴って寺社本所領を押領し、段銭を納めず、公役を怠った。経久は父清定以来、出雲国内の諸豪族は尼子氏に従うものと思い、自分の行為は諸豪族に支持を得るものと予想していたようで、このことも、幕命違反の挙に出た背景にあったと考えられる。
幕府は、横着を決め込む経久に対して討伐の軍令を発した。文明16年3月のことであった。
これに対して、三沢・三刀屋・朝山・広田・桜井・塩冶・古志らの国侍は幕命を奉じて尼子経久を追放し、幕府は、「塩 冶掃部介」を守護代に定めた。これら、国人たちはすべて出雲中部から西部にわたり、経久に対する反感と幕命が一致したというわけであった。経久の予想は甘かったといわざるを得ない。
幕府と主家に追放された経久は野に隠れ、月山戸田富田城奪還を企てたことはいうまでもない。
文明17年(1485年)神無月の末、経久は旧臣の甲賀武士「山中入道」を訪れ、富田城奪回の陰謀を打ち明けた。入道はこれに賛成し、離散した一族被官の糾合に努め、亀井・山中・真木(経久の母の実家)・河副らが集まってきた。更に経久はの集団である賀麻党も味方につけた。
翌18年正月元日、賀麻党70人ばかりは、恒例によって新年を賀す千秋万歳を舞い富田城中に入った。一方、大晦日から城の裏手にひそんでいた経久ら56名は、表門の賀麻党としめし合わせて城中に切り込んだ。城将塩冶掃部介はさすがに落ち着き、防戦につとめたが、不意をくらったこともあって、ついに妻子を刺し、自ら火炎に包まれた。
戦いが済んで夜が明け、大勝利を得た経久は、敵方の首を富田河畔にさらした。そして、城下町に大賀宴を張り、山中・亀井・真木・河副を執事とし、賀麻の一党に莫大な恩賞を与えた。こうして、経久は富田城将に返り咲いたのである。時に29歳であった。
改めて富田城主となった経久は、月山西南部の三沢氏に眼を向け、長亨2年(1488年)3月機略をもって降伏させた。これをみて、飯石郡北部の三刀屋氏、同南部の赤穴氏をはじめ、他の国人、諸将らもまた風をのぞんで、経久の軍門に降り、国内統一戦はひとまず落着した。
かくて、有力国人を味方につけ、経久の前途は明るく洋々たるものとなり、戦国乱世の真只中に突き進んでいくことになる。
家督継承・尼子政権の成立
経久の富田城奪回は、守護京極氏の守護代塩冶氏を討ち取ったというものであれば、これは幕府や守護に対する反逆であり、尼子氏の戦国大名への途は下剋上ということになる。ところが、尼子氏の出雲国支配権は守護京極氏の一国支配権の継承とし、また尼子氏と京極氏は対立したのではなく、京極氏との連続面が強かったとする研究・論文が発表されている。これによれば、尼子氏の場合は下剋上ではなかったということになる。 確かに出雲国は神国であり、保守面が強かった。カタチとしては京極氏から尼子氏に穏やかに引き継がれたかもしれないが、実質は下剋上であったことに変わりはない。とはいえ、尼子経久の戦国大名へのスタートは、のちの毛利元就の場合と比べて、かなり有利な立場からその一歩を踏み出した、とはいえそうだ。当初は京極氏側の立場であったが、次第に国人衆と結びつきを強くし、室町幕府の命令を無視して主君「京極政経」の寺社領を押領し、美保関公用銭の段銭の徴収拒否などを続けて独自に権力基盤を築く。だが、その権力基盤の拡大途上で西出雲の塩冶氏と対立するなど、権力拡大には限界があった。
更に、これらの行動が原因となり幕府・守護・国人からも反発を受け、文明16年(1484年)に居城を包囲され、守護代の職を剥奪されて出雲から追放されたと後世の軍記物では書かれているが、守護代の職を追われたのみであり、出雲に在国したまま一定の権力は保有していたものと思われる。
実際に長享2年(1488年)、出雲の国人・三沢氏を攻撃し降伏させるなど、その権力が衰えてはいなかったことが確認出来る。
只、守護代の地位に返り咲き、完全復権を果たしたのは、
明応9年(1500年)であり、近江国でお家騒動(京極騒乱)に敗れて下向してきた「政経」との関係は修復した。そして「政経」の死後、出雲大社の造営を行ったうえで、「経久」は宍道氏との婚姻関係を進め、対立関係にあった塩冶氏を圧迫するなど、出雲の統治者としての地位を確立しはじめる。
永正5年(1508年)10月、京極政経は死去。孫の「吉童子丸」に家督を譲り、惣領職のこと、出雲・隠岐・飛騨三ケ国守護職のこと、諸国諸所領などを与えるという譲状をしたためた。そして、この吉童子丸への譲状と代々の証文を、尼子経久と多賀伊豆守に預けるというのである。
京極氏代々の文書は、尼子氏の子孫に伝えられ、いまに『佐々木文書』として残っている。これは政経の死後、尼子氏は京極氏の家督と守護職を引き継いだということを裏付けるものと考えられる。確かにカタチではそうみえるが、実際は経久は多賀伊豆守を押し退けて、吉童子丸へ相伝すべき文書を自己のものとし、吉童子丸へ渡さなかったばかりでなく、「経久」は「吉童子丸」の後見を託されたとされるが、「吉童子丸」のその後の行方不明となり、、「経久」が事実上出雲の主となって行った。
但し、その後も「経久」に抵抗する出雲国内の動きは続いており、「経久」が出雲国内を完全に掌握したのはそれから10年以上を経た、大永年間(1521年~1528年)に入ってからである。
尼子氏の勢力拡大
永正8年(1511年)、中国地方の大々名である大内氏当主・「大内義興」(周防(
永正9年(1512年)、備後国人の大場山城主・古志為信の大内氏への反乱を支援している。この時期に二男の「尼子国久」は細川高国から、三男の「塩冶興久」は大内義興から偏諱を受けており、両者との関係を親密にしようとしていたものと思われる。
永正10年(1513年)、経久は弟の「久幸」に伯耆国の南条宗勝を攻めさせる一方、嫡男・「尼子政久」を叛旗を翻した桜井入道宗的の籠もる阿用城へ差し向けた。しかしその最中、「政久」は矢に当たって命を落とした。
永正14年(1517年)、大内義興の石見守護就任に納得出来なかった前石見守護山名氏と手を結び、石見国内の大内方の城を攻めている。但し、この時の大内氏との戦いは小競り合い程度のものであり、永正15年(1518年)に本国・周防国に帰還する事になる大内義興の在京中より、経久が大内領の侵略を行っていたとする見方は正確なものではない。
また、同年に備中国北部に力を持つ新見氏と手を結び、三村氏を攻撃している。
永正17年(1520年)、「経久」は出雲国西部の支配をようやく確立することになる。だが、一方で備後国の山内氏や安芸国の宍戸氏など国境を接する国人領主達との対立を生み、特に山内氏の出雲国内への影響力は無視しえないものであった。そのため、備後・安芸への進出は出雲の国内支配の安定化の必要上欠かせないものであり、それは同地域に利害関係を持つ大内氏との軍事的衝突をも意味していた。
大永元年(1521年)以降、尼子氏は石見国に侵入した。安芸国へも手を伸ばし、
大永4年(1524年)、経久は軍勢を率い西伯耆に侵攻し、南条宗勝を破り更に守護・山名澄之を敗走させ、一晩にて西伯耆を手中に収めた。 敗北した伯耆国人の多くは因幡・但馬へと逃亡し、南条宗勝は但馬山名氏を頼った。
大永6年(1526年)、伯耆・備後守護職であった山名氏が反尼子方であることを鮮明とし、尼子氏は大内氏・山名氏に包囲される形で窮地に立たされる。翌大永7年(1527年)、経久は自ら備後国へと兵を出兵させるも細沢山の戦いにて陶興房に敗走し、尼子方であった備後国人の大半が大内氏へと寝返った。
塩冶興久の乱
正に尼子氏の反撃のときであった。しかし、ここに「経久」にとって一代痛恨事が出現した。「経久」の三男で塩冶氏を継いでいた「塩治興久」の反逆である。
享禄3年(1530年)、三男・「塩冶興久」が、反尼子派であることを鮮明にして内紛が勃発した。この時に興久は出雲大社・鰐淵寺・三沢氏・多賀氏・備後の山内氏等の諸勢力を味方に付けており、大規模な反乱であったことが伺える。また、同時期には興久は大内氏に援助を求めており、経久も同じ時期に文を持って伝えている。結局の所、消極的ながら大内氏は経久側を支援する立場になっている。当時の大内氏家臣・陶興房が享禄3年5月28日に記した書状を見るにしても、興久は経久と真っ向から対立しており、更には経久の攻撃を何度も退けていることが伺える。また、大内氏は両者から支援を求められるも、最終的には経久側を支援しており、尼子氏と和睦している。
だが、この反乱は天文3年(1534年)に鎮圧され、「塩治興久」は備後山内氏の甲立城に逃れた後、甥である「詮久」の攻撃等もあり自害した。その後に首検証の為、塩漬けにした興久の首を尼子側へ送っている。興久の遺領は経久の二男・「尼子国久」が継いだ。また、同時期には隠岐国の国人・隠岐為清が反乱を起こしているが、直ぐに鎮圧されている。同年には「経久」の孫「詮久(晴久)」は美作国へと侵攻し、これを尼子氏の影響下に置く。また、その後も備前へと侵攻するなど勢力を徐々に東へと拡大していった。この後、詮久は大友氏と共に反大内氏包囲網に参加している。
家督譲渡
天文6年(1537年)、「経久」は家督を嫡孫の「詮久」(後の尼子晴久)に譲っている。同年には大内氏が所有していた石見銀山を奪取している。
大友氏と大内氏の争いが続いていたこともあり(または大内氏とは表面上は和睦状態だった為)、東部への勢力を更に拡大すべく播磨守護の赤松政祐と戦い大勝する。これに政祐は一時、淡路国へと逃亡する。
これにより大内氏との和睦は完全に破綻し、
天文10年(1541年)11月13日、「経久」は月山富田城内で死去した。享年84(満82歳没)。
人物
「尼子経久」は「北条早雲」や「斉藤道三」らと並ぶ「下剋上の典型」であり、「毛利元就」や「宇喜多直家」と並ぶ「謀略の天才」とも云われ、大内義興と戦い、尼子氏の領地を広げ、全盛時代(実際の全盛期は彼の嫡孫にあたる、尼子晴久の代)を作ったことから、「謀聖(ぼうせい)」「謀将(ぼうしょう)」と称された。経久、元就、直家はよく中国の三大謀将と称される。多面に優れ、文武両道だったという。晩年に自画像を残している。
家臣に対しては非常に気を使う優しい人物であった。『塵塚物語』によれば、経久は家臣が経久の持ち物を褒めると、たいそう喜んでどんな高価なものでも、直ぐにその者に与えてしまうため、家臣たちは気を使って、経久の持ち物を褒めず眺めているだけにしたと伝えている。ある時、家臣が庭の松の木なら大丈夫だろう思い、松の枝ぶりをほめたところ、経久はその松を掘り起こして渡そうとしたため、周囲の者が慌てて止めたという。それでも経久は諦めず、とうとう切って薪にして渡したという。世人はもったいないことだ、と話したが、経久は全く気にもしなかったという。また、冬には着ている着物を脱いでは家臣に与えていたため、薄綿の小袖一枚で過ごしていたともいわれる。『塵塚物語』は経久のことを「天性無欲正直の人」と評している。
ケチとも言えるほどの倹約家であり、家臣が瓜の皮を厚く切ることを嫌がり自分で薄く切っていた。
政策
外交関係
尼子氏は本願寺光教と手を結んでいた。嫡孫・晴久の代にも本願寺と連絡を取っており、本願寺側の日記に尼子氏の名が度々登場している。
内政
「経久」配下の国人衆は尼子氏の直接配下とは言えず、非常に不安定なものであった。これらを統一し掌握するべく、「経久」は対外遠征による侵略により出雲国内の国人衆をまとめようと努力している。この様に配下国人衆に対して明確な目標を掲げ、それに従属させる例は同時代の大名にも見られ、甲斐武田氏などがある。
「11ヶ国の太守」と形容されるが、実質上支配下に置けた勢力は「出雲・石見・隠岐・伯耆・備後の山陰」であり、他地域は流動的であった。また勢力図も形式的な主従関係が含まれたものであり、多くの出雲国人の造反を招いている。その上、中国地方には長年の間、基盤を固めていた大内氏の存在は大きく、最終的には大内氏の侵攻に苦慮し、興久の乱により家中が泥沼状態に向かったというのも事実である。
尼子氏が拠点とした「出雲」は、明徳の乱以降に京極氏が守護代を派遣することで管理をしていたが、小守護代・郡奉行といった下部組織は存在せず、守護代のみが派遣されるといった政治統治が代々行われた。出雲はその歴史から他国とは異なった統治機構と支配機構で成り立っていた(出雲国造勢力・寺社勢力・在地国人・たたら製鉄場等)。この為、経久は国造勢力である千家氏・北島氏、国人勢力として最も権力のある宍道氏・塩冶氏との婚姻政策を推し進めたのは、それらを尼子氏の下部組織へと体制化しようとしたものであった。
尼子一族の造反
6代目「晴久」が第一次月山富田城の戦い以降、出雲から退転・追放するに至った者の中に、尼子清久・多賀氏・千家氏・宍道氏・佐波氏がいるが、これらは尼子氏と婚姻・縁戚関係を結ぶ一族であった。これらは経久時代の方針により婚姻関係が進められたところが多い。更に塩冶興久の乱の時にも一度これらの処分を受けた者は塩冶側に加担した。また、経久は「塩冶興久」の件を踏まえて晴久の正室に「尼子国久」の娘を嫁がせて、親族の不和を無くそうとした。しかし、この妻の死により「国久」との絆を断ち「晴久」を「新宮党」の粛清という手段へ踏み切らせることになった。
経久の挫折と再起
文明14年(1482年)12月、室町幕府は京極政経と尼子経久に重大な指令を発した。すなわち、「出雲・隠岐両国の段銭を、京極持清のとき、その被官人の要求によって免除したのをよいことにして、公役以下を勤めなくなったのはけしからん。そこで免除を廃し、永亨年中の例のとおり、諸役を勤めるように京極政経に仰せつけたから、さよう心得よ」というものであった。
だが、25歳という若さの経久は、これを蹴って寺社本所領を押領し、段銭を納めず、公役を怠った。経久は父清定以来、出雲国内の諸豪族は尼子氏に従うものと思い、自分の行為は諸豪族に支持を得るものと予想していたようで、このことも、幕命違反の挙に出た背景にあったと考えられる。
幕府は、横着を決め込む経久に対して討伐の軍令を発した。文明16年3月のことであった。
これに対して、三沢・三刀屋・朝山・広田・桜井・塩冶・古志らの国侍は幕命を奉じて尼子経久を追放し、幕府は、「塩 冶掃部介」を守護代に定めた。これら、国人たちはすべて出雲中部から西部にわたり、経久に対する反感と幕命が一致したというわけであった。経久の予想は甘かったといわざるを得ない。
幕府と主家に追放された経久は野に隠れ、月山戸田富田城奪還を企てたことはいうまでもない。
文明17年(1485年)神無月の末、経久は旧臣の甲賀武士「山中入道」を訪れ、富田城奪回の陰謀を打ち明けた。入道はこれに賛成し、離散した一族被官の糾合に努め、亀井・山中・真木(経久の母の実家)・河副らが集まってきた。更に経久はの集団である賀麻党も味方につけた。
翌18年正月元日、賀麻党70人ばかりは、恒例によって新年を賀す千秋万歳を舞い富田城中に入った。一方、大晦日から城の裏手にひそんでいた経久ら56名は、表門の賀麻党としめし合わせて城中に切り込んだ。城将塩冶掃部介はさすがに落ち着き、防戦につとめたが、不意をくらったこともあって、ついに妻子を刺し、自ら火炎に包まれた。
戦いが済んで夜が明け、大勝利を得た経久は、敵方の首を富田河畔にさらした。そして、城下町に大賀宴を張り、山中・亀井・真木・河副を執事とし、賀麻の一党に莫大な恩賞を与えた。こうして、経久は富田城将に返り咲いたのである。時に29歳であった。
改めて富田城主となった経久は、月山西南部の三沢氏に眼を向け、長亨2年(1488年)3月機略をもって降伏させた。これをみて、飯石郡北部の三刀屋氏、同南部の赤穴氏をはじめ、他の国人、諸将らもまた風をのぞんで、経久の軍門に降り、国内統一戦はひとまず落着した。
かくて、有力国人を味方につけ、経久の前途は明るく洋々たるものとなり、戦国乱世の真只中に突き進んでいくことになる。
尼子政権の成立
ところで、経久の富田城奪回は、守護京極氏の守護代塩冶氏を討ち取ったというものであれば、これは幕府や守護に対する反逆であり、尼子氏の戦国大名への途は下剋上ということになる。ところが、尼子氏の出雲国支配権は守護京極氏の一国支配権の継承とし、また尼子氏と京極氏は対立したのではなく、京極氏との連続面が強かったとする研究・論文が発表されている。これによれば、尼子氏の場合は下剋上ではなかったということになる。 確かに出雲国は神国であり、保守面が強かった。カタチとしては京極氏から尼子氏に穏やかに引き継がれたかもしれないが、実質は下剋上であったことに変わりはない。とはいえ、尼子経久の戦国大名へのスタートは、のちの毛利元就の場合と比べて、かなり有利な立場からその一歩を踏み出した、とはいえそうだ。
ところで、永正5年(1508年)10月、京極政経は「孫の吉童子丸」に、惣領職のこと、出雲・隠岐・飛騨三ケ国守護職のこと、諸国諸所領などを与えるという譲状をしたためた。そして、この吉童子丸への譲状と代々の証文を、尼子経久と多賀伊豆守に預けるというのである。
京極氏代々の文書は、尼子氏の子孫に伝えられ、いまに『佐々木文書』として残っている。これは政経の死後、尼子氏は京極氏の家督と守護職を引き継いだということを裏付けるものと考えられる。確かにカタチではそうみえるが、実際は経久は多賀伊豆守を押し退けて、吉童子丸へ相伝すべき文書を自己のものとし、吉童子丸へ渡さなかったばかりでなく、吉童子丸のその後の行方は知れなくなっているのである。
経久の版図拡大
永正9年(1512年)、経久は古志為信の大内氏への反乱を支援している。同15年弟尼子久幸は東隣伯耆国の南条宗勝を攻め、西部では出雲大原郡阿用城主桜井入道宗的を討った。しかし、この戦いで経久の長男政久が戦死した。政久は笛の名手で花も実もある武将として将来を嘱望されていた人物だけに経久と尼子氏にとっては痛恨事であった。
大永元年(1521年)から石見に侵入し、同三年には浜田に近い波志浦を攻略したと同時に南下して安芸へも進撃し、同じ3年6月、大内氏の安芸進出の拠点、西条の鏡山城を奪った。この戦は尼子氏の先鋒毛利元就の調略による勝利であった。
このように山陰地方に興った政治勢力が山陽側の瀬戸内海地域まで拡大したことは西中国では最初で最後のことである。中国地方山間部は、砂鉄を原料とするタタラ製鉄の生産地帯で、尼子氏の権力基盤に鉄の威力があったことはいうまでもない。経久はまた美保関の代官職をもち、船役を徴収し、宇竜浦の畝役徴収権も尼子氏の手に握られていた。さらに島根半島の東西の良港の問屋支配権を握り、朝鮮との交易があったことも見逃せない。
明けて大永4年5月、経久の伯耆経略は「大永の五月崩れ」とか「伯耆の総崩れ」といわれるように、伯耆の国人は因幡や但馬に流浪した。しかしまた大内氏の反撃が開始されるのもこの年のことで、大内義興・義隆父子は陶興房らの重臣を率いて安芸に進軍し、南下する尼子軍と戦いを交えた。翌大永5年、吉田郡山城主の毛利元就は、尼子と断って大内氏の陣営に入った。
亨禄元年(1528年)7月、、義興が没し義隆が家督を継ぎ大内氏の当主となった。こうして安芸・備後の山川は、尼子と毛利の決戦場に移行することになる。天文元年(1532)大内軍は九州動乱によって渡海し、大友・少弐の連合軍と対した。
まさに尼子氏の反撃のときであった。しかし、ここに経久にとって一代痛恨事が出現した。三男で塩冶氏を継いでいた興久の反逆である。
人間経久の逸話 経久は天性無欲正直の人で、訪れた人が経久所持の物をほめると、墨跡・衣服・太刀・馬そのほか何でも与えた。それで、再び訪れる人は、誉めないことにしたという。ところがあるとき、人が庭の大きい松を誉めた。翌日経久は家来にこの松を掘らせ、その人に贈ろうとした。しかし、松が大き過ぎるため城内より出すことができない。そこで経久は「その松を細かく切って遣わせ」と命じた。世人は惜しいことをと言い交したが、経久は頓着しなかった。
没後、10年ほど経った天文21年(1552年)もおろか(形容できないの意)なる人なりとぞ」と記している。足利尊氏も無欲で有名だったが、これは武将としての一つの資質であって、経久が「11州の大守」と仰がれた原動力でもあっただろう。
また、相国寺鹿苑陰塔主であり経久とも縁が深かった惟高妙安は、『玉塵抄』のなかで、経久は瓜の皮を厚く剥くことを嫌い、自分で剥いて喰ったほどの「シワイ人」つまりけちな人で、不必要なものを嫌ったが、これは「王に似た心もち」の人であったからと述べている。
晩年の失意と引退
「経久」の三男「塩治興久」は、経久から3000貫を与えられ、上塩冶の要害山城主として西の守りを務めていた。しかし、興久は300貫が不足で、尼子氏の宿老亀井安綱(秀綱か)を通して「原手郡七百貫を賜りたい」と要望した。これに対して経久は備後の地1000貫を与えたが、興久は大原の地700貫を貰えなかったのは亀井の讒言によるとし、その身柄引き渡しを要求し反乱となった。
興久は宍道湖東端の佐陀城・末次城の戦いに敗れ、妻の実家、備後甲山城の山内直通を頼って落ち延びたが、結局自刃して果てた。首は尼子氏へ送り返され、わが子ながら憎き興久の首を見て老後の鬱憤を晴らそうとした経久であったが、余りに変わり果てたその姿をみて腰を抜かし「有れども無きが如く」になったと『陰徳太平記』は伝えている。
生涯を戦陣のなかに過ごし、長男・三男を失い、自分が築いた尼子王国にもようやく落日の兆しが見えはじめるころであった。経久は領土拡大に力を尽くしたが、内政面と一族の融合に成功したとは言えそうにない。このことは、後に中国地方の覇者となる毛利元就の場合と比較すると、そのことがよく見て取れる。とはいえ、経久と元就の人物に対する好悪となると、経久の方に好漢を感じる人も多いのではないだろうか。
「京極高氏(佐々木導誉)」の三男で京極家の家督を継いだ「京極高秀」の嫡男が京極高詮(たかのり)で、二男が尼子氏初代の「京極(尼子)高久」である。