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【滋賀・近江の先人第158回】六角家両藤の一人、観音寺騒動で殺害された・後藤賢豊(東近江市)

 後藤 賢豊(ごとう かたとよ)、? ~ 1563年)、戦国時代の武将。近江国の戦国大名佐々木・六角氏の家臣で六角家六家老の一人。
後藤但馬守の子として誕生。本拠地は近江国蒲生郡羽田村で居館は後藤館(現東近江市中羽田町)。

ヒストリー
 近江国の戦国守護・大名「六角氏」の家臣で後藤但馬守の子として誕生。主君・六角義賢の偏諱(「賢」の字)を受け、「賢豊」と名乗った。六角氏の家臣。
 佐々木・六角氏の居城「観音寺城」に近い佐生山(東近江市佐生町、旧能登川町)に居城「佐生城」を構え、居館(本願地)は東近江市中羽田町の「後藤氏館」であった。


東近江市の「後藤氏館」跡
https://blog.goo.ne.jp/ntt00012/e/37c488641a6846250552a363ae5c8ab1

 後藤賢豊の後藤氏と進藤貞治・進藤賢盛の進藤氏は「六角家の両藤」と評された戦国大名佐々木・六角氏の宿老であり、人望が高すぎるからと主君から暗殺されてしまうと言う悲劇に定評のある武将。智勇に優れた賢豊は義賢に従って浅井攻めなどに活躍した。

永禄2年(1559年)、蒲生氏と共に恩賞条奉行を務め、永禄5年(1562年)には義賢の上洛に従い、大徳寺警護を務める。
永禄6年(1563年)、義賢の子・六角義治の起こした「観音寺騒動により」観音寺城内で子の壱岐守(名は不詳)らとともに殺害された。家督は次男・高治が継いだ。

 六角義賢の時代には、知勇兼備の将として近江・浅井久政との戦いに従軍し、恩賞決定に参与するなど内政面にも秀でた重臣として頭角を現し、六角義賢と六角義治親子が上洛した際は、大徳寺の警護を担当して六角親子を補佐した。
六角家中での重臣的立場や知勇兼備の将であったことから家中での人望が厚かったのだが、六角義治にその人望を疎ましく思われてしまい、六角義治の居城・観音寺城に長男と共に呼び出された際に暗殺された。
 後藤賢豊を罪無く殺してしまうという暴挙に、六角家の家臣達は憤慨して一斉に退去して六角義治と対立した事が、後藤賢豊の人望の厚さを物語っている。
この事件が元で、六角義治は六角氏のマグナカルタ(大憲章のこと)「六角氏式目」にサインせざるを得なくなり、権力を制限され、織田信長の侵攻と共に六角氏は滅びた。

 重臣殺害の一件で近江の国人衆と対立した六角義治は観音寺城から逃走した。

<以上、Wikipediaより引用>
 
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「今日は何の日?徒然日記」ブログに、後藤氏と六角氏に関する大変興味ある内容があったので以下に紹介する。

【「観音寺騒動」と六角氏の末路】
六角氏(ろっかくし)は、宇多源氏(うだげんじ)の流れを汲み、鎌倉時代に近江(滋賀県)六郡(犬山・愛智・神崎・蒲生・栗太・志賀)を与えられた佐々木氏(ささきし)の嫡流が、六角東洞院(京都市中京区)に館を構えた事から、六角氏と名乗るようになったと言う。
室町時代には同族の佐々木道誉(ささきどうよ=京極高氏)に代わって近江守護となり、大名として実力を存分に発揮し、応仁の乱後のいち時には、幕府との対立があったものの、戦国に入った六角定頼(ろっかくさだより)の時代には、細川家の管領職争奪戦に関与したり、その管領に味方して出陣したりと、何かと、中央政権から頼りにされる存在=それだけ力がある武将だった。

更に、定頼の息子=六角承禎(じょうてい=義賢)は、三好長慶と対立する第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)を援助する事もしばしば・・・
そんな、三好と将軍の抗争も、永禄元年(1558年)6月の白川口(北白川)の戦いを最後に和睦となって後、義輝が京都に戻った事で、一応の落ち着きを見せるが、一方で、この三好の京都完全掌握状態に不満をつのらせる者もいた。
大徳寺(=京都府京都市北区)や竜安寺(=京都市右京区)といった宗教勢力に公卿や町人・・・勝者であるが故に、時に横暴な態度に出る三好勢に眉をひそめる彼らは、もはや京都の治安維持さえままならない幕府に代わって、六角氏の力に都の平穏を望んだのである。

永禄五年(1562年)3月、承禎は、自らの息子=義治(よしはる)&義定(よしさだ)とともに、近江武士や伊賀武士の軍勢を率いて入洛して清水坂に布陣・・・三好や、その配下の松永久秀(まつながひさひで)の軍勢を蹴散らして、彼らを山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)へと追いやった。
・・・と言っても、これは、あくまで京都市内の治安維持を要求するのための出陣・・・3か月後の6月に三好義興(みよしよしおき=長慶の嫡男で嗣子)との和睦が成立した事で、承禎父子はアッサリと近江に戻った。
この後、すでに出家していた承禎は、箕作城=滋賀県東近江市五個荘山本町)に入って隠居し、六角氏内の政権と、本城の観音寺城=滋賀県近江八幡市安土町)を嫡男の義治に譲った。
 しかし、これがケチのつき始め・・・そう、実は、この義治は、未だ18歳。かの応仁の乱以来、同族で江北(=滋賀県北部・湖北、現在の彦根あたりより北)を統治する京極氏(きょうごくし)との抗争や、その京極氏に取って代わろうとする浅井氏(あざいし)との争いなど、数あるゴタゴタを何とか治めて、江南(こうなん=滋賀県南部・現在の近江八幡とか安土とかのあたり)地方を制圧して、六角氏を絶頂期に導いたのは、ほぼほぼ、先の六角定頼&承禎の力によるもの・・・

それらを支えて来た重臣たちにとっては、若き義治は実績の無い青二才・・・もちろん、誰だって当主に成り立ての時は、実績も信用も無い若者なわけだが、そこを、古くからの重臣たちの意見を踏まえつつ、人心を掌握して、うまくまとめあげるのが信任当主の腕の見せ所。
しかし、義治の場合は、それがウマくいかなかった・・・。
義治のやる事なす事にことごとく批判し、何でもかんでも口出しする家臣の筆頭=執権である後藤賢豊(ごとうかたとよ)をうっとぉしく思い、「このままでは、京極氏に取って代わる浅井のようになってしまうのではないか?」との不安を抱いていった。

そんなこんなの永禄6年(1563年)10月1日、観音寺城へ賢豊&壱岐守(賢豊の長男・実名は不明)父子を呼び出した義治は、配下の者に命じて老蘇の森(おいそのもり=滋賀県近江八幡市安土町東老蘇)付近で殺害してしまったのだ。
なんと、この時の配下の者は武装兵500を引き連れて完全包囲のうえでの殺害という事なので、いわゆる暗殺ではなく、完全に、その威勢を見せつけるための殺害・・・義治にとっては、「俺こそが当主」と、その上下関係を知らしめるための行為だったのかも知れない。

なんせ、この直後、他の重臣たち全員に、今すぐ観音寺城に集まるよう緊急命令を出しているのだから・・・
しかし、彼ら重臣が集まったのは呼び出された観音寺城ではなく、かの後藤とともに『六角氏の両藤』と称された、もう一人の大物家臣=進藤賢盛(しんどうかたもり)の屋敷だったのである。

未だ強固な信頼関係が構築されていない中での主君の暴挙に、彼らは次々と不満を噴出・・・進藤をはじめ、目賀田(めかた)・馬淵(まぶち)・伊庭(いば)・平井(ひらい)・三雲(みくも)などなどの主要家臣たちは、ここに反旗をひるがえす決意を固めたのである。
まずは、後藤と縁続きで最も親しかった永田景弘(ながたかげひろ)や三上恒安(みかみつねやす)らが、観音寺城本丸の周囲にあった自邸に火を放ち、一族を本領に戻させた後、進藤賢盛らと共に、六角氏と敵対する浅井の支援を求めるべく浅井長政の小谷城=滋賀県長浜市湖北町)へと使者を走らせる。

かくして永禄6年(1563年)10月7日、進藤をはじめとする永田・平井・三上などなど・・・勿論、後藤一族も、そして、支援を快諾した浅井もが一斉に反旗をひるがえし、観音寺城の建つ繖山(きぬがさやま)を、約1万の軍勢で包囲して、攻め上っていった。
迎え撃つ義治の手勢は、わずかに300・・・またたく間に観音寺城は炎に包まれ、さらに、愛知川(えちがわ=湖東(愛知郡周辺)を流れる)周辺に陣を張った浅井軍が、これを応援する。

さすがに、ここまでの多勢に無勢では何ともならず・・・やむなく義治は、搦手(からめて)から尾根伝いに安土へと脱出し、反旗に加わっていなかった重臣=蒲生賢秀(がもうかたひで=氏郷の父)を頼って日野城=滋賀県蒲生郡日野町:中野城とも)へと落ちて行った。
また、箕作城に隠居していた承禎も、息子の暴挙には怒りつつも身の安全のために甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)方面へと逃れて行った。
知らせを聞いた賢秀は1000余騎で以って出陣して主君の義治を出迎えた後、城に籠城するが、当然、これを追って来た反旗の六角家臣たちと浅井勢との攻防へと突入・・・と、これがなかなかの奮戦ぶりで、六角家臣&浅井勢は苦戦&苦戦、なかなか城を落とせずにいたところ、10月も下旬になって、この賢秀が間に入り、和睦を提案する。

その条件は・・・
・浅井は愛知川を境とし、それより南には兵を出さない事
・殺された後藤賢豊の次男=後藤高治(たかはる)に後藤の家督を相続させて、所領も安堵し、今後も六角氏の家臣として以前と変わらぬ待遇をする事
・義治は隠居して政務から離れ、弟の義定が六角家督を相続する事

この3つの条件を提示したことで、六角家臣は納得し、10月21日に和睦が成立した。
お陰で、何とか観音寺城に戻る事ができた義治ではあったが、もはや覆水(ふくすい)盆に返らず・・・主君と家臣の間に入った亀裂が元通りに修復される事は無く、六角氏の勢いは、これを以って減速の一途をたどる事になる。

そして、この数年後に、やって来るのが、あの織田信長・・・
永禄11年(1568年)、第15代将軍=足利義昭を奉じての信長の上洛に、道を譲った浅井は生き残り、「通さない!」と阻んだ六角=【信長の上洛を阻む六角承禎】&三好三人衆=【信長の登場で崩壊する三好三人衆】は、畿内を追われる事に・・・

勿論、その後も、信長最大のピンチである金ヶ崎の退き口の時には、野洲川の戦いで信長配下の柴田勝家を攻めもしたが、もはや以前のような勢いが無くなっていた事は否めない。
まさに・・・
この観音寺騒動が、六角氏のその後の運命を変えた騒動だったのである。

<以上、「今日は何の日?徒然日記」ブログより引用>
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2017/10/107-c9a2.html
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