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中日新聞 <戦争を語り継ぐ>(1)軍用機偽装し敵に戦力誇示 中島伸男さん

 77年前、太平洋戦争末期の1945年春、旧八日市町(現在の東近江市)の国民学校の講堂に、教師と児童が集められた。授業を犠牲にして組み立てたのは、木肌が目立つ実物大の軍用機の「模型」だった。「子ども心に立派なものだと思った」。当時は初等科5年生。何に使われるのか、よく分からなかった。
 八日市町には前身が日本初の民間飛行場で、当時は旧陸軍の八日市飛行場があった
 偽装の機体は、敵に戦力を誇示するためとみられる。「日本にまだ飛行機が沢山あるんだ、と並べたんだろう。そんなバカなことまでして、戦争を続けようとしたのか」。本物の機体は米軍の爆撃を避けるため、飛行場周辺に築いた掩体壕(えんたいごう)に隠していた

 「模型」の材料は、取り壊された兵舎の廃材。教師を中心に組み立て、5、6年生が手伝った。木材を運んだり、くぎを打ちつけたり。作業中に突き出たくぎをうっかり右足で踏み、教師に抜いてもらった。八日市では他の学校でも、教師や児童が組み立てに駆り出された。

 戦時中、飛行場に続く道には米、英の国旗が石灰で大きく描かれた。級友と一緒に力いっぱい踏んづけて歩いた。海軍大将の山本五十六が戦死すると、学校で追悼の詩を作った。「米英憎いと大空にらみ、とうとう自分も大空へ」。書き出しを今も覚えている。開戦当初は日本の勝利を信じたが、B29爆撃機の編隊がきれいな飛行機雲を引くのを見て、不安が込み上げた。「日本はどうなるのか。心の底から怖くなった」

 終戦が近づく7月25日午前六時ごろ。晴れた空にごう音が響き、母と自宅近くの防空壕(ごう)に逃げた。「大きな雷がいくつも落ちたようだった」。便所にいた父が着物の帯も結ばずに転がり込んできた。「一体、何が起きているのか分からなかった」。ごう音は1時間近く続いた。
 その日、八日市では飛行場が空襲され、米国のグラマン戦闘機と日本の五式戦闘機が空中戦を繰り広げた。「柿の木に登って戦闘を見た人もいたらしい」。子どもや大人ら民間人を含め、少なくとも7人が犠牲になったとされる。

 終戦の日は、大人の輪の外でラジオの玉音放送に耳を傾けた。「心にとんでもない空洞ができた。日本がどうなるのか、父も教えてくれない」。戦後の食糧不足は特に苦しかった。わずかなコメに混ぜる野草を探した。空腹に耐えかねて泣いたこともある。
 終戦で無用になった飛行場は、サツマイモ畑になった。野々宮神社の宮司をしながら郷土史を長年研究してきたが、飛行場の実態については分からないことが多い。日本軍が敗戦直後に、資料を燃やしたからだ
 今は掩体壕などのわずかな遺跡を残すのみだが、見学会で町の歴史を子どもたちに語ってきた。「飛行場があったことを知らない人も多い。何もしなければ、忘れられてしまう。命ある限り、次の世代に伝えていきたい」

↑写真:滋賀報知新聞より
*中島伸男さんは「陸軍八日市飛行場」の著者でもある。

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◇中島伸男さんコメント 
 今年も8月15日(終戦の日)を迎える。半年ほど前にはロシアがウクライナに侵攻。戦禍はまたも命を奪い、世界情勢に波を立てた。エネルギー価格が高騰して私たちの暮らしに影響し、滋賀県内に身を寄せる人もいる。平和への思いが募る夏。太平洋戦争の終戦から長い時が経ち、体験した世代が減っている。過ちを繰り返さぬよう、戦争の実態を語り継ぎたい。

中日新聞記者:取材後記 
 「知らないこと、本当のことを言えないのは怖い」。取材で中島さんが口にした言葉が印象的だった。少年の頃は「日本がリーダーになって、米英から植民地を解放する」という大義の戦争に勝つと信じていたという。ウクライナ侵攻を正しいと信じるロシア人と、当時を重ねた中島さんは「日本がどんな風に歩んできたのか。今の子どもに知って欲しい」と言った。今起きていることは、過去に通じている。

<中日新聞より>
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