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【滋賀・近江の先人第267回】戦国期苦渋の反逆を乗り越え家名存続した・朽木元綱(高島市)

朽木 元綱(くつき もとつな)(1549-1632)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名、寄合旗本。近江の名家・守護佐々木家の嫡流。
父は朽木晴綱、母は飛鳥井雅綱の娘。子に宣綱、友綱、稙綱、娘(堀直政室)。近江国朽木村出身(高島市)

ヒストリー

近江の守護佐々木信綱を初祖とし、その二男が高島朽木の祖となり、信綱の孫義綱が、鎌倉時代の弘安10年(1287年)、地名を取って「朽木」と名乗った。名家として常に室町幕府と深い関係にあった。

朽木家が歴史の表舞台に登場するのは元綱の祖父「植綱」の時代からで足利義晴将軍を朽木の館で匿ったとある。

天文19年(1550年)に父・晴綱が33歳で戦死したため、わずか2歳で家督を継承した。
天文22年(1553年)より三好長慶に京都を追われた13代将軍・足利義輝を父に引き続き朽木谷に匿った。
永禄9年(1566年)の浅井長政による近江国高島郡侵攻に際しては人質を差し出し、
永禄11年(1568年)12月には浅井久政・長政父子と起請文を交わしたが、まもなくこれを破棄している。

元亀元年(1570年)の朝倉攻めにおいては松永久秀の説得を受けて織田信長の京都撤退(朽木越え)を助け、後に信長に仕え信長麾下として磯野員昌、その追放後は津田信澄に配されているが、
天正7年(1579年)には代官を罷免されているので、信長からは厚遇されていなかったようである。
信長の死後は豊臣秀吉に仕え、伊勢安濃郡・高島郡内の蔵入地の代官に任ぜられ、小田原征伐にも参加、朽木谷2万石を安堵されている。

天正18年(1590年)、秀吉より豊臣姓を下賜された。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、当初は大谷吉継に従って西軍に属したものの、小早川秀秋に呼応して脇坂安治や小川祐忠、赤座直保らと共に東軍に寝返った
戦後、通款を明らかにしなかったとの理由により減封(9,590石)された。なお元綱は関ヶ原の戦いには参戦していなかったのではないかとする指摘もある。

元和2年(1616年)に剃髪し、牧斎と号した。寛永9年(1632年)、朽木谷において死去。享年84。

死後、遺領は3人の息子に分割されたために、朽木宗家は6,300余石となった。

後に元綱の三男「稙綱」が江戸幕府3代将軍・徳川家光の信頼を受けて常陸国土浦藩の大名として取り立てられ、植昌の時代には「福知山藩」の大名に転封したが明治まで生き延びた。また、福知山藩大名となった子孫は文化人大名でもあった。

朽木家は嫡流よりも庶流のほうが所領が上回るという現象が起きている。 

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