今年は聖徳太子の没後千四百年。その節目に合わせ、東近江市、近江八幡市、竜王町、日野町などは「聖徳太子1400年悠久の近江魅力再発見委員会」をつくり、各地の寺社でイベントを開催している。
というのも、この地域には全国で最も多くの聖徳太子の伝承が残るからだという。しかし、なぜ奈良ではなくこの地域なのか。信ぴょう性はどれほどなのだろうか。
同委員会が発行しているパンフレット「聖徳太子の足跡巡り」では、聖徳太子の伝承を色濃く残す11の寺社を紹介。その中でも、最初に紹介されている近江八幡市の「観音正寺」では創建に関する伝承がある。
いわく、昔、儲けようとした漁師が余った魚を処分する無益な殺生を繰り返すうち、いつしか人魚の姿に変わってしまい、苦しんでいた。その男に成仏させてほしいと頼まれた聖徳太子が、仏像を彫って観音正寺を開いたという。
聖徳太子の創建伝承について岡村遍導住職は、証拠は出せないとしつつも「火の無いところに煙は立たない。地域には古墳もあり、奈良とのつながりがあったのではないか。来たかもしれないという思いで、寺を守っている」という。
このような伝承の残る文化遺産の数は、同2市2町でつくる「東近江観光振興協議会」が依頼した2020年9月の調査報告書によると、旧近江国内だけでも206件あり、中でも東近江市に多いという。
同委員会が発行しているパンフレット「聖徳太子の足跡巡り」では、聖徳太子の伝承を色濃く残す11の寺社を紹介。その中でも、最初に紹介されている近江八幡市の「観音正寺」では創建に関する伝承がある。
いわく、昔、儲けようとした漁師が余った魚を処分する無益な殺生を繰り返すうち、いつしか人魚の姿に変わってしまい、苦しんでいた。その男に成仏させてほしいと頼まれた聖徳太子が、仏像を彫って観音正寺を開いたという。
聖徳太子の創建伝承について岡村遍導住職は、証拠は出せないとしつつも「火の無いところに煙は立たない。地域には古墳もあり、奈良とのつながりがあったのではないか。来たかもしれないという思いで、寺を守っている」という。
このような伝承の残る文化遺産の数は、同2市2町でつくる「東近江観光振興協議会」が依頼した2020年9月の調査報告書によると、旧近江国内だけでも206件あり、中でも東近江市に多いという。
↑写真:中日新聞より(石馬寺が所有する「太子駒繋ぎの松」。聖徳太子が馬をこのマツにつないだとされる)
例えば、東近江市の「石馬寺」では、聖徳太子の馬が石になって池に沈んだことから寺を造って名付けられた。東近江市内の「百済寺」では、聖徳太子が聖木で仏像を彫ったことが寺の起源だとされる。
しかし、実際に聖徳太子が来てそれら全てに関わったことなどあり得るのか。東近江市歴史文化振興課担当者は「伝承の真偽について申し上げるつもりはない。ただ、地域で伝承を大切に守り伝えていることは事実」と回答した。一方、東近江市周辺の地域史を研究している丁野永正さんは伝承を尊重しつつ、個人的意見として「当時の交通状況では、皇族本人が危険を冒して来ることは難しいのでは」と疑問も示す。
結局、史料が無い1400年前のことについて真偽は断定できない。ただ、仮に聖徳太子が来ていなかったとしたら、なぜこれだけ多くの伝承が残るのか。
調査報告書を担当したNPO法人歴史資源開発機構の主任研究員大沼芳幸さんは「寺が天台宗を広め、守るときに聖徳太子を持ち出した」という説を紹介した。
大沼さんによると、旧近江国には延暦寺の影響で天台宗系の寺が多い。それらの寺社が、鎌倉時代の新仏教や戦国時代の武士などの影響で信者を減らした際、寺の格を高めようと聖徳太子縁起を掲げたのだ。
縁起に聖徳太子が選ばれたのは、聖徳太子が神仏として広く強く信仰され、仏教を広める人物に生まれ変わるとされたから。聖徳太子は天台宗の宗祖最澄にも生まれ変わったと考えられたという。
取材の終わりに、大沼さんは「史実という視点で、近江の聖徳太子は語れない。今を生きる人も、聖徳太子の物語を作っても良いのでは。100年後には地域の物語になっているかもしれない。そうやって、縁起伝承は作られた。そんな自由な存在が近江の聖徳太子」だと締めくくった。
<中日新聞より>
しかし、実際に聖徳太子が来てそれら全てに関わったことなどあり得るのか。東近江市歴史文化振興課担当者は「伝承の真偽について申し上げるつもりはない。ただ、地域で伝承を大切に守り伝えていることは事実」と回答した。一方、東近江市周辺の地域史を研究している丁野永正さんは伝承を尊重しつつ、個人的意見として「当時の交通状況では、皇族本人が危険を冒して来ることは難しいのでは」と疑問も示す。
結局、史料が無い1400年前のことについて真偽は断定できない。ただ、仮に聖徳太子が来ていなかったとしたら、なぜこれだけ多くの伝承が残るのか。
調査報告書を担当したNPO法人歴史資源開発機構の主任研究員大沼芳幸さんは「寺が天台宗を広め、守るときに聖徳太子を持ち出した」という説を紹介した。
大沼さんによると、旧近江国には延暦寺の影響で天台宗系の寺が多い。それらの寺社が、鎌倉時代の新仏教や戦国時代の武士などの影響で信者を減らした際、寺の格を高めようと聖徳太子縁起を掲げたのだ。
縁起に聖徳太子が選ばれたのは、聖徳太子が神仏として広く強く信仰され、仏教を広める人物に生まれ変わるとされたから。聖徳太子は天台宗の宗祖最澄にも生まれ変わったと考えられたという。
取材の終わりに、大沼さんは「史実という視点で、近江の聖徳太子は語れない。今を生きる人も、聖徳太子の物語を作っても良いのでは。100年後には地域の物語になっているかもしれない。そうやって、縁起伝承は作られた。そんな自由な存在が近江の聖徳太子」だと締めくくった。
<中日新聞より>