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【滋賀・近江の先人127回】公選制による初代滋賀県人知事・服部岩吉(栗東市)

2代服部 岩吉(はっとり いわきち、1885年(明治18年) - 1965年(昭和40年)は、大正・昭和期の日本の政治家、滋賀県知事。

滋賀県栗太郡金勝村(現栗東市)の酒造業の家に生まれる。初名は清太郎。「岩吉」は服部家の世襲の名乗りで、滋賀県知事となった岩吉は2代目に当たる。膳所中学校(現滋賀県立膳所高校)卒業後は家業に従事していた。

1903年(明治36年)28歳の時に、金勝村の依頼で同村の助役となり、その後村会議員を経て金勝村村長に就任して5期務める。更に県会議員を2期務めた後に
1932年(昭和7年)の第18回衆議院議員総選挙滋賀県全県区に立憲政友会から立候補して当選、
1942年(昭和17年)の第21回総選挙には立候補しなかったものの、次の第22回総選挙では日本自由党から当選を果たし、通算4期務めた。
1947年(昭和22年)、滋賀県知事が公選となると、服部は厚生政務次官であったが衆議院議員を辞任して立候補して当選を果たした。

当選後の服部は要職に側近を登用したことで非難を受けたが、その一方で“ガン吉”と呼ばれるほどの一徹ぶりと優れた政治力によって支持を受けた。
特に農林省が滋賀県に対して過大な食糧供出を迫っていると主張して独自の統計調査を実施して正確なデータを提示して農林省に方針修正を認めさせた「服部調査」は良く知られている。
また、滋賀県立農業短期大学の創立にも尽くした。

だが、服部が3期目を目指していた1954年(昭和29年)の県知事選挙において、政権与党であった自由党の分裂によってかつての同僚であった森幸太郎元農林大臣が日本民主党の支援を受けて立候補、選挙戦の結果、森が当選して服部の3選は阻まれた。
1965年(昭和40年)、大津市の自宅で死去した。

<Wikipedia引用>

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