2023・03・10
遥かなるレーの思い出 by スケッチ
「石山観音の摩崖仏」からの続話を放り投げるわけにもいかず、さりとてネット検索では味気ないしそこで思案六法、
本箱からスケッチブックを引っ張り出して回顧することにした。
1988年7月、高校生によるインドヒマラヤ遠征隊に記録と救護隊員として参加する幸運を得たのだ。
①
ニューデリーから北部の高原都市スリナガルへ ✈ 空港から湖の畔まで🚍
総勢11名が小舟(シカラ)に分乗しハウスボート(宿)に向かう。
蓮が咲く湖上で、我々を発見した少女が一人乗りの小舟で近寄り物売りを始める。
リエゾンオフィサー(監視役の公務員?)のラトゥールが無視するようにと言って追い払う。
デリーの喧騒から脱出し、風光明媚な地上の楽園での些細な出来事にいささか興冷めしたもんだ。
~左下に4分で仕上げた絵とあるが、すべて時間との勝負で走り描きとなってしまった~
② ボートハウスが至る所で係留されている。
外見とは裏腹で船内は見事な彫刻が施され見違えるようだった。
③ 翌朝バスで出発し1回目の休憩地・ダラス
④
⑤ ハイウェイの随所にチェックポイントが設置され警官がいる。
ここはポールが挙げられていたが・・・
右のページ;海抜4千mを越えるフォト・ラ(峠)に向かう。
⑥ 初めての4千m越えに隊員たちも歓声をあげる。
ハイウェイとは、高地の道のことで、舗装なんかない。
従って乗客はみなほこりにまみれ、敏感派はタオルで口をふさいでいる。
インダス川に沿って空の青さと渇いた砂漠の世界にげんなりとなりかけた時、
眼下にグリーンが眩いオアシスの街に着いた。
⑦ レイのホテル
⑧ ホテルの中庭
ここで荷造りしたり下山後荷を解いたりした。
⑨ ホテルの周辺風景
ホテルの敷地から一歩踏み出すと牧草地だ。
インダス川から水を引き込んでいるようだった。
⑩ 山襞のわりに影のない山
数日間、ポーターの手配や食料調達などで逗留することとなったが、一番の目的は高所順応だ。
事前に富士山での雪洞づくりや、名古屋大学で高度順応室などで訓練してあったが、当地では行動を急ぐとすぐさま息が切れた。
⑪ カングラチャという山 6~7千mはあるんだろうな?
⑫ ホテル周辺の風景の4枚目
時間はたっぷりあったので、ホテルの四方を描き留めた。草原とは言え、石がゴロゴロありその間を美しい水が急な流れとなっていた。
所々で見かける女性たちはその水で炊事、洗濯を済ませていた。ただし、早朝には点々と用を足している人影が認められた。
牧草地の周辺にはチベット民たちの土で塗り固められた家がポツリぽつりとあった。
日本の男子高校生が珍しいと見え、ホテルを取り囲む塀から顔をのぞかせる女の子たちが後を絶たなかった。
一人の隊員が、姿を見せるとはにかみ乍らもジッと視線を送る美少女がいたが、その少女からその他員と私が招待を受けた。
隊員は極度のはにかみ屋だったが私の激励に意を決し二人で少女の案内で土で作られた家に行った。
窓も電気もないので薄暗かったが、軒の低さの割には意外と広い空間があった。
地面に敷かれた布の上に座り、囲炉裏からお茶の接待を受けた。
その少女はチョロルという名で、英語が少し話せるのだが極度なはにかみ屋同士で全く話が弾まない。
それでも若い二人にはときめく時間を満喫したようだ。ペンをお礼に残してきた。
⑬みんな思い思いに過ごしているが、若い隊員たちはホテルの敷地内から外に出ようとはしない。
少なからずのカルチャーショックが影響しているようだ。それも無理はないと思う。
好奇心旺盛で多少高所ハイな私は、朝に夕に、暇さえあればレイの街の中心部を歩き回っていた。
⑭
日干し煉瓦で作られた家屋は極彩色のペンキで彩られていて、路上の牛やリヤカーと相まって不思議な空間を形成していた。
鎖国状態から解放されて約10年、地球上で唯一残された秘境中の秘境として欧米からのバックパッカーが押し寄せていた。
中でもドイツからのツーリストが圧倒的に多かった。
カフェ?の石段に腰かけスケッチする私の隣では、数人のドイツ人青年がビールを飲み交わしていた。
聞けば、ドイツから陸路をナナハンでやって来たというでないか。”凄いわw”と思ったが、彼らの方が私たちの登山に感嘆してくれた。
⑮
丘に聳えるレーパレス(王宮)
ココが最大の観光スポットである。
⑯受け付けはなかったので屋上に登るとレイの街が一望できた。
下のメモ書きを見るとカルチェゴンパとなっているが、チベット語とヒンズー語の違いなのだろうか?
⓱
左上;チョロル自書
右下;リエゾンオフィサーのラトゥールから私の娘あてのメッセージ
次回は、登山編の予定
韓国戦、日本逆転なったが、まだ後半どうなることやら・・・?
了