2023・03・09 晴れ
馬が草をはむ背中に似ているということから「馬の背」と呼ばれていて、
愛知県の宇連山や三ツ瀬明神山の馬の背はトレッカーにはよく知られている。
で、石山観音の尾根上の「馬の背」の中央まで慎重に降りる。
これ以上は傾斜がきつくて無理だ。
下から這い上ったこともあるが、若い頃の話だ。
馬の背の右胴の部分にも仏様が・・・
スリル満点!
スリップでもしたもんなら数十メートル真っ逆さま\(◎o◎)/
行き止まりに掘られた仏様
昨日はムルベクの摩崖仏について述べたが、もう少し書き加えてみよう。
30代の頃、インドヒマラヤ遠征に加わる機会を得た。日本人10名と通訳(ムスリム)とリエゾンオフィサー(ヒンズー)が各1名で、ニューデリーからスリナガル、そこから印パ戦争のバリバリの緊張状態が解けない最中、双方の兵士たちの検問や、がけ崩れやエンジンの故障など、様々な障害を克服しながらのバスで434キロのロングドライブだった。私は未知の世界に放り出された少年の様に、見るもの聞くものすべてが初物づくしで、眼を白黒させるばかり。中でも標高3千m越の地に広大な砂漠が展開していたり、草木一本見当たらない山肌を縫うハイウェイの遥か下方にインダス川の激流が渦巻いていたり、突然に出現するオアシスの街の緑に途方もなく癒されたり、道中、岩に掘られた10m越えの件の立像など、さほど驚くこともなくなっていた。度々1~2時間バスが動かなかったり、茶店の土間で寝泊まりしたり、月の砂漠のような隠れ場所ない所に停車してトイレ休憩だとか、勿論男女別に時間差をつけて、女性10人程がバスから降りて緩やかに波打つ地面の窪みを探したかと思うとその場で小用を足すことになる。初めての時は知らなかったので驚いたが、その後はバスの反対側の窓を見るエチケットを身に着けていた。ヨーロッパの若い女性は場所を決めたが速いか、サッとズボンを脱ぎしゃがみ込む大胆さを身に着けていた。とても日本人にはまねのできない芸当だった。さらに、インド人男性は、ヒンズーもムスリムもなくしゃがんで小用をする習慣があるようだった。私たちはその横で立ち◎◎することになるのだがナンかカルチャーショックでもあった。さらにさらに、いつの間にか現地の少年が忍び寄り私の腰に手を当て、「ワンダラー!ペン⁉」とかねだり始める。民家など全く途絶えた地であるのに・・・その少年は島根県の小学校の名前入りのジャージを身に着けていた。
話を戻して、私たちの目的地はジャムカシミール州のラダック地方では最大の町Leh(レー)。荒涼とした山と砂漠の中に灯ったオアシスの街だ。標高3650mのチベット民族が多数を占めていることから「インドのチベット」と呼ばれているそうだ。チベットから迫害を受けたラマ教徒たちが集まった難民の町だった。早朝には、お決まりの「アラーは唯一、絶対であ~る」が大音響で流れているのにである。
街は水利があり緑が四方を褐色の禿げ山と対照的なオアシスの街だ。山の中腹のレーパレス(王宮)付近が最も栄えていた。その街が登山基地なので、高度順応のために5日間ほど滞在した。ゆっくりと歩くことを心掛けあいさつはた。町の学校との交流も事前に計画していたのでノートやペンなど学用品とバレーボールを段ボール2箱をプレゼントした。全校集会でのあいさつは何とかこなしたが、日印対抗バレーボールは無茶苦茶しんどかった。高度順応がまだできていなかったからだ。子供たちにつられてつい走ってしまったり…(笑)
チベット難民事務所では、所長から延々と嘆願声明のような演説が続き閉口したり、・・・
(続く)WBC大谷見てたら遅くなってしまった。
馬の背の左胴体にも数体
隣り合うように
少し下って馬の背の下部から錫杖ヶ岳を望む。
林の中を少し下ると再び岩尾根が現れる。
ポッカリと穿たれた穴が・・・
これまでの仏さまとはかなり様相が異なりますね。
第32番だからいよいよ終わりに近いです。
大岩の裏面にも2メートルはあろうかと思える仏様がいらっしゃいました。
大岩の下には気持ちの良い空間があり、夏場は休憩地となるだろう。
阿弥陀如来立像
広場入口より
一段下って見上げる。
最後の下り道だ。妻はもう下で待っているはずだ。
入口の観音様
少しきりの悪い投稿となった。
インドでの登山はもう少し書き残しておきたい。
了