グラの気ままに徒然日記

日々の菜園アクティビティ、旅先での思い出コレクッションetc.

枝垂桜満開~お彼岸・里帰り

2023年03月20日 17時50分10秒 | 菜園

2023・03・20 晴れ

今日が最後の好天気! 明日からしばらく模様?

朝から、夫婦それぞれの実家へお墓参りに行ってきました。

 

津市→🚙妻実家<多気郡明和町>(約1時間)

多気郡明和町→🚙我が実家<度会郡多気町>(約1時間)

墓参後、地元の秘境でランチ(途中購入のかつ丼弁当だけど)

駐車地から満開の枝垂れ桜に\(◎o◎)/ 

・・・正面奥に落差40mの雄滝があります・・・

四方からパチリ

岩の上でランチ

それぞれの実家に直売所で購入してきたイチゴの残り

1,2月の頃に比べ少し大味ちゅーか甘みが・・・

妻はいかないというので一人で雄滝へ

流石にこの時期は水量が少なく迫力に欠けます。

その後、実家近くの旧役場前の枝垂れ桜見学

こちらも見頃にジャストミート

食後30分、妻のウォーキングにお付き合いして地元の神社へ

正面左のご神木の太さは私の両手を広げてちょうど4回分でした

雄滝もこの神社も私の幼少期の遊び場でした。

AM9:00スタート~PM16:30帰宅

大した事やってないのにあっという間に時は立ちました

 

 


菜園ライフ243〜菜園風景

2023年03月16日 14時14分31秒 | 菜園

2023.03.16

今年もモンシロチョウが飛びまわる季節となりました。

第3ファームの奥半分にはニンニクとトンネル内はブロッコリー

空いている所には、長芋を定植する予定です。

義兄からもらったブロッコリーを約40本、昨12月移植しました。

昨年、山裾を開拓した畑

赤いソラマメ、ニンニク、キャベツを育てています。

そのうちに、カボチャ🎃を5〜6株定植する予定で、

山麓一面カボチャが伸びて歩けなくなる筈です。

 

まだ10玉残ってます

帰宅後、玉ねぎとニンジンに水をやりました。

ホーレンソーに、草木灰を与えたら急に良くなってきています。

エンドウ豆🫘(3種)も日毎に成長

 

は野菜🥬スクスク

 

 

 

 

 

車庫横

アジサイ、目が出始めてる。

右奥2本はタラの芽、その右はカラ、その左は白い彼岸花・・・どれも妻が友人たちから入手

 

まもなく孫がやって来ます。

 


菜園ライフ242~新玉ねぎ、いただく(人''▽`)☆

2023年03月14日 12時06分20秒 | 菜園

2023・03・14 晴れ

昨日とはうって変わって温かい日、朝一番第3ファームへ。

隣の畑のOさんがタマネギを収穫していて、5個分けていただきました。

ついでにチンゲンサイとターサイの脇芽を摘んで帰りました。

茹でた後、おひたしや胡麻和えにして食しています。今回は冷凍にしておくそうです。

帰宅後、我が家の玉ねぎを見てみました。

超極早生(左)はピン球程度、極早生(中央)は根元がやや膨らんできたかなという感じですかね。

中生?(右)に至っては、まだまだツンとお澄まし状態です!(^^)!

先日、エンドウ類の杖を立てました。

長いこと置きっぱなしになっていたAさんに軽トラで運んでもらった竹杭を使用!

中心の杭に等間隔でビニールひもを張りましたが、もう少し丈が高く伸びてきたら支え杭にもはるつもり。

花も2~3輪

もう一張り、こちらは例年通り網仕立てです。

右のトンネル内は巨大化した小松菜ですが、ようやく一列になりました。

第3ファームの、リーフレタスとサラダ菜にかけてあったビニールを撤去しました。

奥は、左が種にする予定の里芋4種と右は成長が遅れているソラマメ(次の画像)

ソラマメ

寒い冬を越してもう少し大きくなってもいいはずですが?

Nさんのソラマメは私の腰を越え盛大に花を咲かせていますが、まだ足首程度 (;´д`)

ッジャガイモ植えました!

ついでに右畝はゴボウの予定デス。

購入した種の裏には、暖地では3月20日以降が適期のようです。

テラスに、こんな花が

ネフリで連ドラ見た後、菜園活動を再開します


レーの思い出~インドヒマラヤ遠征

2023年03月11日 17時12分57秒 | 登山

2023・03・11

”暑いなあ”が挨拶代わりの今日この頃、

スケッチブックのせいもあってつい長話になってしまったけどこれが最終です。

SHS88  India Himaraya Expedition

1988年7月、ラダック連邦直轄領(旧ジャムカシミール州)の最大都市レーを拠点に、マシロカンリ峰に登った記録だ。

ジープ数台に分乗し盛大に砂埃をあげ、未知の世界へ進入すると誰もが無口となった。

乾燥しきった大地は白く、草木一本も見当たらない。

時折、インダス川の支流に出合うと、そこには柳の木が生えていたりする。

半日ばかり、川の浅瀬を横切ったり、凸凹道に胃が飛び出す寸前にその日の目的地であるチョクシ橋(Choksti Br.)に着いた。

橋の真ん中にテント(絵では7張)を設営し終えると自由時間となった。

所在無げに橋上から轟音轟く激流を見入る者、上流へとそぞろ歩く者、ひっそりテント内にとどまる者・・・

やがてヒマラヤの☀が対岸の山に隠れようとした頃、センチメンタルな空気を一掃する喧騒が下方から接近してきた。

5~6名のポーターたちが、7~8頭のヤクを率いてやってきた! ヤク達の背には、左右に大きな荷がぶら下げられていた。

中には、数頭の鶏が入った竹かごを背にしたヤクもいた。

そのニワトリたちは私たちのキャンプ地で放し飼いされていたが、数日で鳴き声は聞こえなくなっていた。

すっかり日が落ち、月明かりがチョクシ川からの峻険な山腹を驚くほど赤く染めていた。

ガリ版を日本から持参したので毎日発行し、隊員は勿論ポーターにも配った。

(スケッチブックにはさまれていた一枚)

ベースキャンプを設営し自由時間に印刷したようだ。記事内容に沿ってこの日の行動を思い出してみた。

「この日は、9時前にチョクシ橋を出発し、右岸高く作られた生活道を上流に向かった。まもなく、Choksti村に着き、1回目の休憩。

ポーター達は、食料やテント一式を背負ったヤクを追い立てながら先行している。その後、5回の休憩を採りながら午後2時過ぎベースキャ

ンプ予定地に到着。手分けしてテントを張るが、生徒達の動きは緩慢だ。高所順応がスムースに進むよう意識的な動きなのかもしれない。

スタート後、隊長は口酸っぱくなるほど「ビスタリ(ネパリー;ゆっくり)、ビスタリやぞ!」とことあるごとに呼び掛け、5人の高校生全

員を山頂に立たせたいとの思いが伝わってきていた。しかし誰もが4千mの高地は初体験だし、身体に及ぼす負担に個人差が出ることが後に

判明することになった。私たちとは少し離れた場所に、ポーターとキッチンボーイ達がテントを張り昼食の支度にかかり始めた。ヤクが1頭

崖から落ちたらしく、手間取っていたらしい。急斜面の道だからスリップすれば川まで滑り落ち、途中で止まっても重い荷が邪魔でまず助か

らないだろう。遅めのランチの後、自由時間だが何もすることがない。昼寝をするもの、右や左の斜面を昇り降りして高所に身体を慣らそう

とするもの、そんな時私はスケッチするのが常であった。その時の様子は、次のスケッチで・・・」

 

スケッチブック見開き2ページにBase Campと、その周辺で高所に身体を順応させようとする学生たち

隊長の全員集合を合図に夕食前の4,400mまで高所順応登山。

「歩く歩幅を狭くして、ゆっくりと、息は大きくシッカリ酸素を吸うんやぞ!」

しかし、残念ながら1名の生徒が明らかに高山病にかかり、テント内で寝込んでしまい呼びかけても反応が鈍い。

まずい状態だ!

モレーンと言って氷河の上に瓦礫が堆積した土地なので、多少草も生えていて少し離れた湿気の多そうな場所を掘り返すと

冷水(氷水)が湧き出してくる。

私は、タオルをその水に漬し彼の額に当てがってみたがピクリともしない!

危険な状態ということで緊急下山させることになった。

引率の2名の教師と通訳のマヘンダーで、チョクシ村まで連れ帰り、翌朝軍のヘリコプターでレーの病院まで無事搬送してもらった。

リエゾンオフィサーのラトゥール氏の存在が生かされた場面だった。

翌日は、高度4,730mまで登りABC Camp (アタック・ベースキャンプ)を設置した。

目的の山のすそ野になるのか、広いカールで富士山より1000mも高所なのに、牛が草を食んでいたり、

我々一行は、朝、病気の娘を背負った父親が病院にいく途中に遭遇しているが、この峠を越えてたのだと納得した。

夏場には麓から高地の牧草地まで家畜を移動させてカルカという石積みの家でひと夏を過ごすらしい。

私たちが登ってきた道は登山道ではなく村から村への生活道そのものであり、このキャンプ地は峠なのだと納得した。

 

私はこの日大変な失敗を犯していた。救護班というより薬屋さん役だったのにベースキャンプへ置きっぱなしにしてきていた。

折から、生徒の中には「頭、イタッー!」と声をあげるものが出始めている。高山病の症状だ。

まだ大丈夫と言っているが、今夜にも、又山頂アタック中に重症化でもしたら・・・

私は意を決し、BCキャンプまで薬を取りに戻ることにした。

体調すこぶる良くて、クライミングハイもあってか、飛ぶが如く駆け下りたもんだ。

途中、我々の遠征を取材に登ってきた新聞記者さんを驚かせてしまった。

しかしその記者さんの健脚ぶりには仰天する。一日でABCキャンプまで来て、その日のうちに麓に待たせたタクシーまで戻るという。

しかもその足で、近くの6千m級の山に挑戦中の中高年隊へ取材に向かうと言っていた\(◎o◎)/!

 

無事に、薬(利尿剤)を持ち帰り、頭痛の生徒たちに飲ませた。高山病に効果があるらしい。

隊長は1日か2日、高所順応を兼ねてBCキャンプまで往復してから山頂アッタックを考えていたようだが、天気も下り気味で、

隊員たちの体調も考慮して、明日アタックを決行することにした。

左ページ:雲に隠れたㇴン峰とクン峰  右ページ; ㇴン、クンの右の鋭鋒

ㇴン、クンは共に7000m越の鋭鋒というより太い杭が2本立っている感じの双耳峰だった? 

テント見えず? どこだったか記憶がない。

多分、ABCキャンプから少し登ったところだ。そして目の前が目的の山だ。

翌早朝、

隊長から、できる限り早く出発したいが、水分の準備をしている暇がないから後から追いかけ、届けてくれと言われていた。

私は二つ返事で了解したもんだ。

隊長を先頭に隊員たちは慌ただしくABCキャンプを後にして山頂アタックに出かけた。

私は彼らを見送り一人残って、近くに流れる雪解け水を煮沸してから冷えるのを待って隊員たち全員の水筒に詰めて、

両肩から左右にたすき掛けにかけ彼らの後を追った。とても重要な任務の遂行に私の胸は高鳴り、まるで空を駆ける気分であった。

どれだけの時間が経過していたものか、登頂を終えた彼らが下山してくる姿が見えた!

私は私で使命感に燃えていたが、できれば登頂も、という欲もあり全身から力が抜け落ちる瞬間だった。

それでも気持ちを切り替え、早く彼らに水分を補給させたいという思いがわいてきた。

再び私の背中に羽が生えたようでワッセワッセと下山してくる彼らに駆け寄った。

抱き合う彼らはみな涙目で、やり切った感が全身にあふれていた。

 

隊員たちが緩斜面を思い思いの進路を取って下山する姿を後方から眺めながら無事登頂の余韻に涙が止まらなかった。

隣のリエゾンも同じで共に止まらぬ涙をぬぐうことなく肩を組みながら隊員の雄姿を脳裏に焼き付けた。

私のクライミングハイも最高潮に達し、つい愛用していたミノルタのカメラを彼にプレゼントする約束をしたことが悔やまれる。

この遠征中、ことあるごとに私のミノルタへの興味が尋常ではないことが分かっていたから。

 

 

下山途中チョクシ村でゆっくりとくつろぐことができた。

石と日干し煉瓦で作られた家屋が4~5軒、周囲の畑では折から大麦の収穫が行われていた。

当地では一年に一作物しか育たなく、ほとんどが大麦を栽培し、おりしも収穫期真っ只中であった。

村人総出で、谷間に彼らの歌声が流れまさに牧歌的であった。

家屋の周りのたわわに実ったアプリコットを数個もぎ、少し離れた所からスケッチしながらいただいた。

物珍しいのだろう、子供たちがはにかみながら私を取り巻きスケッチをのぞき込んできた。

屋根のタルチョが谷間に吹く風にたなびいていた。

帰国後、朝日新聞の一面を飾っている登頂場面の写真にも何か非現実な気がした。

その後、2~3年に一度のペースで海外遠征をした。

カザフスタンからの天山山脈、韓国と続き、ネパールの植樹活動は他のメンバーで毎年実施したものだが現在はどうなっているか不明だ。

 

「レーの思い出」自己満足の記/最終話

 

WBC観戦後始めたらこんな時間になってしまった!ヤバイ 

 

(只今午前2時過ぎ)

 


レー(Leh)スケッチ ~ インド北部・ラダック連邦

2023年03月10日 16時03分05秒 | 菜園

2023・03・10 

遥かなるレーの思い出 by スケッチ

「石山観音の摩崖仏」からの続話を放り投げるわけにもいかず、さりとてネット検索では味気ないしそこで思案六法、

本箱からスケッチブックを引っ張り出して回顧することにした。

1988年7月、高校生によるインドヒマラヤ遠征隊に記録と救護隊員として参加する幸運を得たのだ。

ニューデリーから北部の高原都市スリナガルへ ✈ 空港から湖の畔まで🚍

総勢11名が小舟(シカラ)に分乗しハウスボート(宿)に向かう。

蓮が咲く湖上で、我々を発見した少女が一人乗りの小舟で近寄り物売りを始める。

リエゾンオフィサー(監視役の公務員?)のラトゥールが無視するようにと言って追い払う。

デリーの喧騒から脱出し、風光明媚な地上の楽園での些細な出来事にいささか興冷めしたもんだ。

~左下に4分で仕上げた絵とあるが、すべて時間との勝負で走り描きとなってしまった~

② ボートハウスが至る所で係留されている。

外見とは裏腹で船内は見事な彫刻が施され見違えるようだった。

③ 翌朝バスで出発し1回目の休憩地・ダラス

④ 

⑤ ハイウェイの随所にチェックポイントが設置され警官がいる。

ここはポールが挙げられていたが・・・

右のページ;海抜4千mを越えるフォト・ラ(峠)に向かう。

⑥ 初めての4千m越えに隊員たちも歓声をあげる。

ハイウェイとは、高地の道のことで、舗装なんかない。

従って乗客はみなほこりにまみれ、敏感派はタオルで口をふさいでいる。

インダス川に沿って空の青さと渇いた砂漠の世界にげんなりとなりかけた時、

眼下にグリーンが眩いオアシスの街に着いた。

 

⑦ レイのホテル

⑧ ホテルの中庭 

ここで荷造りしたり下山後荷を解いたりした。

⑨ ホテルの周辺風景

ホテルの敷地から一歩踏み出すと牧草地だ。

インダス川から水を引き込んでいるようだった。

⑩ 山襞のわりに影のない山

数日間、ポーターの手配や食料調達などで逗留することとなったが、一番の目的は高所順応だ。

事前に富士山での雪洞づくりや、名古屋大学で高度順応室などで訓練してあったが、当地では行動を急ぐとすぐさま息が切れた。

⑪ カングラチャという山 6~7千mはあるんだろうな?

⑫ ホテル周辺の風景の4枚目

時間はたっぷりあったので、ホテルの四方を描き留めた。草原とは言え、石がゴロゴロありその間を美しい水が急な流れとなっていた。

所々で見かける女性たちはその水で炊事、洗濯を済ませていた。ただし、早朝には点々と用を足している人影が認められた。

牧草地の周辺にはチベット民たちの土で塗り固められた家がポツリぽつりとあった。

日本の男子高校生が珍しいと見え、ホテルを取り囲む塀から顔をのぞかせる女の子たちが後を絶たなかった。

一人の隊員が、姿を見せるとはにかみ乍らもジッと視線を送る美少女がいたが、その少女からその他員と私が招待を受けた。

隊員は極度のはにかみ屋だったが私の激励に意を決し二人で少女の案内で土で作られた家に行った。

窓も電気もないので薄暗かったが、軒の低さの割には意外と広い空間があった。

地面に敷かれた布の上に座り、囲炉裏からお茶の接待を受けた。

その少女はチョロルという名で、英語が少し話せるのだが極度なはにかみ屋同士で全く話が弾まない。

それでも若い二人にはときめく時間を満喫したようだ。ペンをお礼に残してきた。

⑬みんな思い思いに過ごしているが、若い隊員たちはホテルの敷地内から外に出ようとはしない。

少なからずのカルチャーショックが影響しているようだ。それも無理はないと思う。

好奇心旺盛で多少高所ハイな私は、朝に夕に、暇さえあればレイの街の中心部を歩き回っていた。

日干し煉瓦で作られた家屋は極彩色のペンキで彩られていて、路上の牛やリヤカーと相まって不思議な空間を形成していた。

鎖国状態から解放されて約10年、地球上で唯一残された秘境中の秘境として欧米からのバックパッカーが押し寄せていた。

中でもドイツからのツーリストが圧倒的に多かった。

カフェ?の石段に腰かけスケッチする私の隣では、数人のドイツ人青年がビールを飲み交わしていた。

聞けば、ドイツから陸路をナナハンでやって来たというでないか。”凄いわw”と思ったが、彼らの方が私たちの登山に感嘆してくれた。

丘に聳えるレーパレス(王宮)

ココが最大の観光スポットである。

⑯受け付けはなかったので屋上に登るとレイの街が一望できた。

下のメモ書きを見るとカルチェゴンパとなっているが、チベット語とヒンズー語の違いなのだろうか?

左上;チョロル自書

右下;リエゾンオフィサーのラトゥールから私の娘あてのメッセージ

次回は、登山編の予定

 

韓国戦、日本逆転なったが、まだ後半どうなることやら・・・?