人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

実家帰省・年始のご挨拶について

2023-12-28 10:52:53 | 犬・猫関連
実家に帰省しました。
猫たちはゆきちゃんもももちゃんも避妊手術が済んで、すっかり仲良しになっています。
ゆきちゃん3.1㎏、ももちゃん3.2㎏だそう。ももちゃんのほうが2か月くらい幼いんですが。

 
ゆきちゃん。


ももちゃん。ビニール袋(猫トイレのお掃除してた)に顔を突っ込んで首に引っ掛けてパニックになったゆきちゃんを怖がって固まってます。

ももちゃん。

わんこたちは、みんなが猫可愛がるから、ゆめさちはちょっといじけてる感じ。猫には関わり合いになりたくないという感じで逃げていくらしい。
ししまる(一番大きい子。他の犬には傍通ったら文句言って吠えたりする)は意外と好き好きしてたりするらしいけど。

さち。


ゆめ。


ゆめとししまる。

年始のご挨拶ですが、紙の年賀状は今年でもう終わりにするというのを送っているのですが、
私ののすけちゃんが亡くなりましたので、来年は、メール等でもご遠慮することにいたします。

みなさま良いお年をお迎えください。

実家の新入り猫

2023-09-24 21:37:00 | 犬・猫関連
9月8日から実家に新入り猫ももちゃんが来ているそうです。

両前足骨折、左耳の先が欠損している子で、ちょっと前のメールだと1キロの小さい子。
    

ゆきちゃんが活発すぎて(悪気はないけど)ももちゃんをすぐに押さえ込むから、ももちゃんが可哀想だとのこと。
ゆきちゃんは活発すぎて遊ぶのがたいへんだ、夜寝られないと母がぼやいていましたが、猫同士の相性も難しいです。
何だか猫のおもちゃが増えています。
  

実家に猫が来ました。

2023-08-26 12:41:52 | 犬・猫関連
お盆の前後で10日間弱くらい実家に帰省していたのですが、8月20日に、猫が来ました。
甥っ子たちが来たり、猫をお迎えしたりと、のすけちゃんのいない実家に帰るのは淋しい、とか言っているような余裕のない、何だか慌ただしい帰省でした。

猫は、母の犬友達の人が、別の保護者から預かってミルクから育てていたうちの1匹で、4か月くらい、まだ譲渡会とかには行っているので、いちおう預かりです。
   
最初はちょっと隠れたりしていましたが…

     
ネズミのおもちゃで遊んでやると、あっちから狙ってみたり、こっちから構えたり、間でついでに甘えてみたり…
めちゃくちゃ動きが早いです(動画も撮ったのですが、動画アップするにはいったんYouTubeなどにあげないといけないのかな…)。
ほんとに狩りのまねごとをやっているんだな…、と思います。

うちに来る前は、きょうだい猫たちと一緒にいたせいか、寂しいらしく、すぐに懐いたし、甘えたれで、遊びたれで、しばらく実家に慣れるまでは大変そうでした。
他の犬が来たときは逃げてたのに、ゆめちゃん  が扉の間から覗いてた時は寄ってきたの、ゆめが猫だと思ったのかな…(顔が小さくて目が大きいので。香箱つくったり手で顔洗うみたいな動きしたり、動きも何か猫っぽい)。 

21日~23日までは、東京で研究会だったので、猫の「ゆきちゃん」が来た翌日には、朝のうちに実家を発ちました。
そして研究会が無事終わり、仙台まで戻ってほっとしたところで、仙台駅から自宅まで戻る間のバスで、フェリシモ猫部のバングルウォッチ(白)を紛失してしまいました。荷物が重かったので、腕に引っ掛けてた荷物の持ち手に押されて落ちちゃったんですね…ショックです。市バス・地下鉄の忘れ物センターに電話したんだけど、ないみたい…。警察の落とし物サイトで検索かけてもないし。市バスの落とし物の場合は、分かりにくいところに落ちていたものが掃除した際などに見つかって遅れて届くことはある、と言われたので、少し間をあけてまた電話するつもりですが…。

のすけちゃんのこと

2023-05-20 12:40:20 | 犬・猫関連
 うちに来てからずっと、私の子供でいてくれたのすけちゃんが、5月13日(土)に亡くなりました。13歳半でした。
 他の子に対しては私は「姉」という感じなのに、なぜだかのすに対してだけは一人称が「ママ」になって、のすがいなければ、妊娠や出産に違和感があって人間の子供は嫌いな私が、誰かの「ママ」になることはなかったと思います。


遺影の写真は、里親探しをしていた頃のものらしいのでまだ子犬のはずですが、もうちゃんと今の顔になっていますね。

 シロリンとの不仲が決定的になって以来、ずっと実家の私の部屋で、私が実家にいる間は一緒にいて、私が東京や仙台にいる間はずっと会いたいと思っていた子でした。
 東京に上京するときに、本当は連れていきたかった子なのですが、いろいろ難しくて、結局最期まで一緒に暮らすことはできませんでした。



 ずっと元気で、4月18日までは血液検査の結果も良好だったのですが(血液検査だと症状が出るまで分からないことも多いですが)、4月25日に急に調子が悪くなり、ご飯も食べないしじっとしていて様子がおかしいということで26日に往診の先生に診てもらったところ、脾臓に何かあり、おそらくそのどこかが裂けて体の中で出血しているとのことでした。また、いろいろな検査結果から、おそらく悪性のもので転移もありそうだということで、脾臓の癌は進行が早いから、治療は難しいものとなると言われました。

 でもまだ13歳半でしたし、それまで元気だった分あきらめきれないのと、たまたま連休前で(車の運転の出来る)弟が帰省するタイミングでもあったので、もし連れていけるだけの体力がのすにあるなら、父が生きていた頃はよく行っていた三木町の獣医さんにも診ていただくことにしました。往診の先生にほぼ毎日点滴と注射をしてもらったので、少し状態はよくなって、5月1日には恒例の河原散歩にも行き(連れていっていいのかな、と思っていたのですが、第一弾と第二弾に分けているうちの第一弾の子たちを連れていっている間行きたがって遠吠えするくらいだったので)、往診の先生に状態を診てもらったら連れていっても大丈夫、ということだったので、5月2日の朝一で受診しました。


 結果、そちらでは手術ができるということになり、5月6日に手術しました。腫瘍は摘出してみるまで悪性のものか良性のものか分からないのですが、脾臓の腫瘍は良性のものでも、破裂すると急に体調が悪化したり最悪突然死してしまうこともあるので、摘出する必要がある、逆に悪性だったら再発が早いので、摘出してもそんなに寿命は延びないのだそうです。
 手術した時点で、のすくんの体力はかなり落ちていたため、のすにとっては大手術になる、死んでしまう可能性も…と言われてすごく不安だったのですが、手術自体は成功しました。悪性でした、と言われましたが(病理検査の結果はまだでしたが、見た感じでもう悪性だったみたいです)。
 5月7日に母と私と弟で見に行った時には、少しすっきりした顔をしていましたし、8日に母と弟で(私は午前中の電車で仙台に戻ったため)見に行った時にはちょっとよくなった、と言っていました。


 本当は7日に退院させてもよかったらしいのですが、貧血があるのと、手術痕が痛々しいと母が言うので、私がのすが心配だからもう一度帰省すると言った日程に合わせて12日(金)に退院ということにしました。金曜日は私の授業はないので、朝一で帰ることができますので…。ところが10日(水)に腎臓の値が悪くなり(もう転移があったのかもしれないと)、12日に退院できないと言われたため、私は仙台から帰る足でそのまま病院に面会に行きました。お昼の2時くらいから夜6時半くらいまでずっと一緒にいて、その日は少し腎臓の値がよくなったというので、(その前日見てなかったので何とも言えませんが)ちょっとよさそうに見えました。
 また、往診の先生と相談してくれて、そのまま回復せず病院で亡くなってしまったら可哀想だというので、ちょっと数値がよくなったのをめどに明日か明後日に退院してもよい、と言われたため、13日に退院させることに決めました。
 でも13日のお昼前に迎えに行くと、今度は貧血が進みすぎてしまって(腎臓のほうをよくするためには24時間点滴しないといけないが、そうすると貧血は進む)、見た感じでももうぐったりしている感じでした。14時頃に家に着き、少し落ち着くまでとお部屋に入れて、ちょっとトイレに行ったら疲れてしまったみたいでばたっと倒れ、でも母が療養食を持ってきたら嫌がって逃げる元気はある感じ。療養食を食べさせると、ちょっと頑張って食べさせ過ぎたみたいで疲れてしまい、息が上がって(獣医さんに聞いてみたら落ち着くのを待つしかないと)、そのままそれが落ち着かずに、17時40分ごろ亡くなりました。
 のすが心配なので毎週末に帰省しようかと思っていたのですが、そんな必要もなく、呆気なく亡くなりました。

 1日は家でいっしょにいて、(上京の時間を変更して)月曜日の午前中に火葬することにしましたが、火葬するまでずっと可愛くて眠っているみたいで、本当に燃やしてしまうんだろうか?と思ってしまいました。看取れて火葬までお見送りできたのはよかったのですが、思っていたよりずっと早く、茫然としています。
 

 実家に置く用の骨壺のほかに、小さい携帯用のお骨入れにお骨を入れてもらったので(爪と犬歯くらいしか入りませんが…、本当はしっぽの骨も入れたかったのだけど、入らなかった。のすの可愛いしっぽ)、一緒に連れてきました。こんなかたちでしか連れてこられなかったのが、悲しいです。


 3月末から4月初めに帰省して、その後仙台に戻ってから4月中ずっと、憂鬱で不安で自分がここにいる意味あるのかな?、帰りたい、帰りたい…と思っていたのですが、もしかしたら自分でも意識していない何かで予感があったのかもしれません(のす、やたらよく眠るようになってたし、年をとったからだと思っていたけれど、今思えば癌の何かの影響だったのかも)。


 本当に可愛くて、可愛くて、ずっと、早くのすに会いたい、と思いながら生活してきたので、今何を思えばよいのか分かりません。会いたいと思ったら夢でも見るしかないのですが、夢にはまだ出てきてくれません。ありがとうという気持ちと、後半一緒に暮らせなくてごめんなさいという気持ちでいます。もっと一緒にいたかったね…

若いころののすけちゃん。表情がちょっと幼い。

言葉と脚

2023-04-25 00:00:00 | 人形論(研究の話)
アップロードしていたCunugiのサービスが4月24日で終了しますので、
こちらに記事を移しました。

   *   *   *   *   *   *   *   *   * 

 私は去年(2021年)の春、初めてのお人形を迎えた。上半身はあばらが見えるほどに痩せて腕はないけれど、少し悲しげに見える顔立ちは整っていて可愛らしい。吸い込まれそうに大きな瞳は青のガラス、赤茶のまつげがきちんと生えていて、髪は白に近いブロンド、ビーズのついた白い衣装を着て、たくましい太ももから細くしまった足首まですっとのびた素晴らしい脚に、擦り切れた薔薇色のタイツと白いトゥシューズをはいている。手のひらに乗るほどの大きさの、お尻のかたちがとても良い。
 

 人形作家・中川多理さんの作品で、『夜想』山尾悠子特集特装版(1)のためにつくられたものだ。小説『夢の棲む街』(2)に登場する、「薔薇色の脚」と呼ばれる踊り子たちをモチーフとしている。

 山尾悠子は硬質華麗な文体と、言葉で完璧に構築された作品世界で知られる作家で、初期の代表作『夢の棲む街』は、架空の街を舞台とするカタストロフを描く小説である。
街は「浅い漏斗型」(10頁)で、底に当たる中心部分に「円形劇場」(9頁)がある円環構造をもつ。「街の噂を収集しそれを街中に広めること」を「仕事」とする「夢喰い虫」でありながら、「日暮れ時」に「街のうわさをささや」く(10頁)「〈夢喰い虫〉の儀式にもう数箇月間も参加できずにいた」「中途半端な存在」(11頁)である「バク」を語り手とする。

「薔薇色の脚」と呼ばれるのは、「太めの腰から伸びている適度に肉のついた腿とふくらはぎ、よく締まった足首」という「下半身とは対照的に上半身は全く無視され、筋肉は栄養失調と運動不足で萎えたように縮み」「骨格までもがひとまわり大きさが縮んでいるため、飢餓状態の子供ほどの大きさに干からびて」(13頁)いる、円形劇場の踊り子たちのこと。中川多理さんのお人形は、見事な下半身は小説のイメージそのままに、やせ細った上半身はそれでもぎりぎり美しいバランスに保たれている。

 彼女たちはもともと、「演出家たち」が「狩り集め」てきた「街の乞食や浮浪者または街娼」であるが、「街の噂」によれば、演出家たちが「彼女たちの脚にコトバを吹き込むことによって」「薔薇色の脚」に創りあげられるのだという(13頁)。

毎夜演出家たちは踊り子の足の裏に唇を押しあてて、薔薇色のコトバを吹き込む。ひとつのコトバが吹き込まれるたびに脚はその艶を増していくが、下半身が脂ののった魚の皮膚のような輝きを持つにつれて畸型の上半身は徐々に生気を失ってゆき(同)


 彼女たちは、「知覚がまだ残っているのかどうか」「いつでも一言も言葉を発しなかった」(同)のだが、ある日集団失踪して捕獲されたのちに、ひとりが次のように告白する。

 
コトバがひとつ吹き込まれるたびに、私たちの脚は重くなる。私たちとて踊り子の端くれ、コトバのない世界の縁を、爪先立って踊ってみたい気があったのだ、と。それを聞いた演出家たちは怒り狂い、踊り子たちの脚からコトバを抜き取ってしまった(中略)が、そのとたんに脚たちは力を失い、死んだように動かなくなってしまったのだという。(14頁)

 そして「踊り子を出せ」と叫ぶ観客たちへの対応を

 
 今こそ我々が踊る時だ、と一人が叫んだ。
 踊り子たちの〈脚〉はなくとも、我々のペン胼胝のある手や運動不足でむくんだ脚を、コトバは覆い隠してくれる筈だ!(12頁)


と議論していた演出家たちは、舞台に上がり演説を始めるものの…。怒り狂った観客に撲殺されてしまう。すると、「直立していた〈脚〉の群れ」が唐突に「身震いし」、舞台に駆け上がる。脚たちは「一夜かけて踊り狂」い(15頁)、死んでしまうが、その様子を見ると、「上半身は下半身によって完全に吸収され尽くし」ていた(16頁)。

(演出家たちの、引用者)撲殺屍体は、巨人の脚と化した踊り子たちの轟く足の裏に踏み潰され、血潮にまみれたわずかな肉片となって舞台の石造りの床にこびりついているだけなのだった。
 こうして、この夜を最後に劇場の踊り子は死に絶え、その製造方法を知っていた演出家たちも全員死亡したため、再び街に〈薔薇色の脚〉の姿が見られることはなかった。しかしその夜死に至るまで踊り続けた脚の群れはあらゆる言葉を飛び越えて美しく、それはまさに光り輝くようだったという。(16~17頁)


 ところが物語末尾のカタストロフの瞬間に、この「脚」は、再び現れる。
 異変が起こり、繰り返し「あのかた」の「顕現」が囁かれるある日、「あのかた」からの招待状が街の人々のもとに届く。街の人々や夢喰い虫たちが円形劇場に集まる中、「バク」は地下の楽屋が気になり、入り口の上蓋をこじ開けようとしながら、「あのかた」の名を大声で呼び、「中に、いるのか?」「本当は、いやしないんだろう!」(42頁)と言うが…。そのとき、大時計が深夜零時をさし、「機械仕掛の鐘の音」が鳴り終えると「同時にゼンマイの弾ける音がして、ぴたりと針が針が停止」する(同)。「地下で落盤が起きたらしく」(同)、円柱も硝子も崩壊し、座席は人々とともに中心に向かって雪崩落ちる。

 
巨大な裸足の脚が、一撃で大地を踏み割ったようなある〈音〉が中空に轟いて、がん、と反響した音がその瞬間凝結し、同時にすべてが静止した。(43頁)


   *   *   *   *   *   *   *   *   *   

「言葉と脚」の関係について考え始めたのは、いつのことだっただろうか。「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ」(9頁)という書き出しの印象的な須賀敦子の美しいエッセイ『ユルスナールの靴』(3)には高校生の頃に出会い、感銘を受けたはずだったけれども、「靴」が言葉の比喩であることに気づいたのはずっと後、自分が言葉によってしか生きられないことを悟った頃だっただろう。

 ポール・ヴァレリー(4)による比喩や、ヴィルヘルム・イェンゼンの『グラディーヴァ』(5)、ヴァルター・ベンヤミンの「遊歩者(フラヌール)」(6)まで…、ヨーロッパ文学においては、歩くことを文芸行為になぞらえる発想はなじみ深いものだろう。日本においても、例えば百人一首にも入っている有名な小式部内侍の歌「大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立 」のような、「文」と「踏み」の掛詞は、そういうものの一つと言えなくもない。

 とりわけ『夢の棲む街』における「薔薇色の脚」たちの舞踏、「コトバ」を吹き込まれたり、抜き取られたりする脚たちの舞踏が「言葉を超えて美しく」と言葉によって表現されることは、ヴァレリーによる、散文を歩行に、韻文を舞踏になぞらえる比喩を思わせる。

 
散文から詩への、言葉から歌への、歩行から舞踏への推移。――同時に行為であり夢であるこの瞬間。(7)


 
歩行は散文と同じく常に明確な一対象を有します。それはある対照に向って進められる一行為であり、われわれの目的はその対象に辿り着くに在ります。

      (中略)
 
舞踏と言えば全く別物です。それはいかにも一行為体系には違いないが、しかしそれらの行為自体のうちに己が窮極を有するものであります。舞踏はどこにも行きはしませぬ。(8)


 『夢の棲む街』は小説という散文でありながら、街のかたち、街の噂、そして語りの構造が漏斗状の底にある円形劇場にすべてなだれ込むような円環構造が強調されているから、おそらくかなり意識的に、散文=歩行、詩=舞踏という比喩が踏まえられ、「薔薇色の脚」の舞踏を、一回きりの詩的な瞬間として描いている。

 そしてもうひとつ考えたいのが、男性である演出家たちが、女性である街の女たちに、言葉を吹き込むという権力構造だ。それによって街の女たちは「薔薇色の脚」となり、自らの言葉も上半身も失ってしまう。小谷真理(9)は『夢の棲む街』を読んで、「かつてロートレックやドガが愛おしみつつ画布に描かずにはいられなかった」(9頁)「パリの踊り子たちの絵画」の「後ろ側」に「恐怖」を感じずにいられなくなった(10頁)ことを語っている。「特定の観客に奉仕されるべく生み出された被虐的な人工物」であり、「女とは観念的に描かれるとこういうかたちを採るのかもしれない」(9頁)と。今ではロートレックやドガの「踊り子」についても、(男性が)描き、(女性が)描かれる(ジェンダー不均衡な)権力構造を読み取ることは常識だろうけれど、その権力関係が、『夢の棲む街』のなかでは、「コトバ」をめぐる演出家たちと脚たちとの関係に描きこまれている。

 思い返せば、何かを言葉や絵筆で描く行為だけでなく、私たち研究者が常日頃行っている、作品に対する解釈や研究も、対象を言葉で切り取り、言葉をあてはめる、暴力的で権力的な行為である。

 須賀敦子『ユルスナールの靴』は、自分に「ぴったり」の言葉を探してさまよった著者の旅を、20世紀フランスの作家マルグリット・ユルスナールの人生と重ねつつ語るものだった。それは、まだ女性が学問をすることが珍しく、「言葉」が男性(だけ)のものであった時代に、自分のものとしての「言葉」を模索し、つくりだす行為でもある。

 私にとっては何かの作品を対象とし、論文やエッセイを書くこともまた、『ユルスナールの靴』と同様に、「ぴったり」の言葉を模索する行為だった。
 けれども、自分にとって「ぴったり」であることを求めるあまり、言葉を作品に無理やりあてはめてしまうと、それが研究でなくなってしまうばかりか、作品に対する暴力にもなる。シンデレラの義姉たちが、小さな靴に合わせて自分のかかとや足指を切り落としてしまったように、言葉に合わせて作品を切り落としてしまっては…。一方的に作品を切り刻み、作品の言葉を無視し、自分にとって都合のよいものに作り替え、作品を殺してしまったら、一方的に薔薇色の脚にコトバを吹き込んだ演出家たちが観客に撲殺され、脚たちに踏み潰されてしまったように、研究者としての死がもたらされる。
 私は作品の声に耳を傾け、声に言葉を与え、寄り添い、時には一緒に踊るような研究者でありたい。

 私は彼女と、いっしょに踊りたい。

*引用文は、『山尾悠子作品集成』(国書刊行会、1999年)、須賀敦子『ユルスナールの靴』(河出文庫、1998年)による。

1、ステュディオ・パラボリカ、2021年。
http://www.yaso-peyotl.com/archives/2021/03/yaso_yamao_tokusoban.html
2、初出、『SFマガジン』7(1976年)。現在最も入手しやすいのは、文庫版『増補 夢の遠近法 初期作品選』(ちくま文庫、2014年)、『新編 夢の棲む街』(ステュディオ・パラボリカ、2022年)
3、初出『文藝』1994年11月~1996年5月。
4、Paul Valéry[1871~1945]、「フランスの詩人・批評家。マラルメに師事し、純粋詩の理論を確立。詩「若きパルク」、評論「レオナルド=ダ=ビンチの方法序説」「バリエテ」など」("バレリー【Paul Valéry】", デジタル大辞泉, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2021-06-07))。
5、イエンゼン(Jensen, Wilhelm[1837~1911]は「ドイツの作家」。「ポンペイを舞台にした小説」『グラディーヴァ』(Gradiva, 1903)は、「フロイトによって取り上げられ,その成果は精神分析の文学理論のさきがけとなった」("イェンゼン(Jensen, Wilhelm)", 岩波 世界人名大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2021-06-07))。
「グラディーヴァ」とは、「歩み行く女」の意であり、右足のかかとをほとんど垂直に立てている特徴的な歩き方をする女を描いたレリーフが重要なモチーフとなり、そのレリーフにそっくりの容姿と歩き方をするヒロインが登場する。
6、ベンヤミン(Walter Benjamin[1892―1940])は「ドイツ・フランクフルト学派の批評家」。「フラヌールflâneur(遊歩者)」は、ベンヤミンが「19世紀の都市を考察するにあたって,重要なキーワードの一つとして」「注目した」、「現代の都市論に欠かせぬ基本的な概念」。「都市の生産的機能からへだてられ」ながら、「都市の自意識をもっとも鋭いかたちで表現する」存在であり、「娼婦や犯罪者など,都市のアンダーグラウンドに棲息する者たちのよき理解者でもあった」(前田愛、"遊民", 世界大百科事典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2021-06-07))。
7、「詩人の手帖」佐藤正彰訳(落合太郎、鈴木信太郎、渡辺一夫、佐藤正彰監修『ヴァレリー全集6 詩について』筑摩書房、1967年)。
8、同「詩話」
9、「脚と薔薇の日々」『山尾悠子作品集成』「栞」国書刊行会、1999年。